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マツリ、と名乗った異界人は、明らかな育ちの良さを滲ませていた。
辺境伯イレニウスは、彼女の口が動く様をじっと見ながら観察を続ける。
よく手入れをされた、腰まである長いまっすぐな黒髪は、この世界では希有だった。全くないというわけではない。だが、それらは全て、過去の異界人の直系だ。つまり、エルサンビリアとその近隣において、黒髪は異質の証拠となっている。
もちろん、金髪の異界人も、赤毛の異界人もいた。だがそれらの色は、この国の者の色と大差ない。だから、はっきりとした区別がつくのは、ここに存在しないはずの黒髪だけだ。
特に排されている訳ではないが、魔族が増えることと技術がもたらされること、それらが相殺されて、無関心という形で国民の間に受け入れられていた。
前回の天変から百年余、記録によれば、直近の異界人はインゲランド国の軍人であった。世界規模の戦争中だったという男はすでにその時点で老人で、しかしそれゆえ、戦略に非常に通じていたと言う。
国家間の駆け引きや、植民地という概念、強い国家であるための条件、周辺国の抑え方――エルサンビリアがここ百年で飛躍的に領土を増やしているのは、かの老人のおかげだった。
だから期待をした。
次の百年を、さらなる国家拡大に導いてくれる異界人の訪れを、首を長くして待っていたのだ。
イレニウスは、小さな島国から来たと言う小さな少女が、小さな家の跡取りであると誇らしげに述べるのを聞きながら、ため息をこらえるのが精いっぱいだった。
伯の領地は今、異界人の訪れと前後して、魔族の目撃談が増えてきている。得るものは何もないのに、異界人と抱き合わせでやってくる凶事は解決しなければならないのだ。それは、益のない、むしろ人や資源や資金を食うだけの割に合わない仕事だった。
――と。
若々しさというより幼さを残した黒い目が、はっきりとイレニウスに向いた。
「自室で寝ていたのですが、気付いたらこの国の村におりました。ひと月ほど世話になったところで、騎士様が来て私を捕えたのです。
だから」
はかなげに彼女は微笑む。
「今申し述べました通り、私はただの市民の娘です。
この国に与えられるものは持ちません。
お許し下さいませね?」
その視線を追うように、卓の両側からいくつかの顔が咎めるように伯に向いた。どうやら、不機嫌は隠し切れていなかったらしい。昨日、盛大に舌打ちをした汚い成りの娘とは思えない表情と仕草に、どちらが彼女の本質か、と思わず苦笑する。
ゆるんだ伯の雰囲気に、王が軽く笑った。
ほだされたのか?
そんな声が聞こえる気がするが、伯は王にだけ分かるようにかすかに首を振った。
「当国の騎士の無礼、この辺境伯が詫びよう。
また、そちらが詫びられる必要はありませぬ。異界の女性に頼らずとも、変事は――そう、騎士達の丁度良い鍛錬になりましょう。
マツリ様は心患わせることなく、ゆるりと王宮で暮らされますよう」
いかつい顔に傷だらけの腕、会議でも脱がない簡単な戦装備をしながら、イレニウスは紳士のように声をかけた。
マツリはその言葉に一度微笑みかけた、が、すぐに顔を曇らせ、言った。
「あの……お役に立てないとご理解いただけたようではあるのですが」
その目がさまようように揺れ、
「どうした?」
意図して優しげに出された王太子の声を追って、その小奇麗な顔の上に止まった。
「だったら、家に帰してはいただけないの?」
当然と言えば当然の、しかし、界渡りを知る者にとってはそれへの回答が良く知られているものだからこそ浮かばなかった疑問に、全員が時を止めた。
長い沈黙がある。
伯ですら、言葉を失った。
ここで口を開けるのは、いや開くべきなのは、ただ一人、王だけだ。
「……そちは生涯、この国で暮らす。それしか道はない。
故郷へは――送ってやる術がない」
絶望か、悲しみか。
彼女の顔に浮かぶものを、伯は見るともなく見た。
しかしそこにあったのは、わずかな戸惑いのみ。
「そう。帰れないのね、私」
声には動揺もなく、それは、始めて彼女が現れた日に言い放った、命をあげるわという平坦な呟きにとても似ていた。