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界渡りとは――世界が球形だと分かるより前にすでに記録がある。
エルサンビリアという国名はここ600年程の治世だが、その前身であるガリエル国歴からぽつぽつとした痕跡が見える。おそらく、残っているよりも本来は数が多いだろう。界渡りは大規模な雷雲を伴うことがほとんどで、被害に対処することに精いっぱいの時期などは、異界人の訪れが混乱に紛れて消えてしまったようだ。
おおよそ、100年に一度程度の頻度で起こる。分かっているのは、その程度だ。なぜ天候が荒れるのか、なぜ人間が界を渡るのか、ほとんど分かっていない。
ただ、分かっていることもあった。
異界人が現れれば、国が荒れる。
記録には残されるが、記憶に残す人間がいることのほとんどない100年余という間隔で現れる異界人は、それゆえ凶事の前触れとして人口に膾炙していた。
流言として笑うことは出来ない。事実、マツリが現れるのと前後して、辺境の森でたびたび魔物の姿が目撃されるようになったのだ。見間違いもないとはいえないが、明らかに燐光を放っていたという証言もあり、それは歴史に記録された魔物の特徴と一致している。森の動物は、皮膚や毛が光っていたりはしないものだ。
「へぇ、つまり私は、呪いの人形か何かと同じなわけ?」
ベッドの端に腰かけ、腕を組んで足も組み、その態度でマツリは鼻を鳴らした。本当はあぐらでもかいてやろうかと思っていたが、生憎とその経験がないのでやり方が分からなかったのだ。
ただ、クラスメイトの口調は簡単に真似出来た。滅多に口を利かない休み時間も、耳だけはよくアンテナをはっていたおかげだ。咎める母はおらず、威嚇するにも都合がいい。
「とてもそうは見えない。ああ、人形が好きかい? 持ってこようか?」
しかし、にこにこと笑う目の前の男は、どうやら威嚇されているとは思っていないようだ。淑女のベッドルームに朝早く押しかけるような不躾さが、まるでなかったかのように椅子に座って身を乗り出している。
「……私を何歳だと思っているの? もう成人しているのよ。
レディの寝室にずかずか入り込んできたのは、私を子どもだと思っていたからなのね?
野蛮なだけかと思っていたけど、輪をかけて失礼な男ね、あなた」
「私の名前は、エルアンベールだ。エル、と気軽に呼ぶがいい」
マツリは、本来であれば人前ですべきではない寝間着すがたでいる恥ずかしさを必死で押し隠しつつも、気付いた事実に目を眇めた。
「始まりは国名と同じね。エル。エルサンビリア国。エルアンベール」
エルと名乗った男は、一瞬だけ口元を引き締めた。が、すぐにそれを緩め。
「王族だから。そうでなければ、異界人の君にこんなに気軽には近寄れないよ。
賢いね、マツリ。尤も、異界人のほとんどは賢人であったという話だけれど」
異界人がもたらすのは、雷雲や異常事態ばかりではない。大概がその時代の先を行く知識をもった人間が現れ、それを基にこの世界は発展を繰り返してきた。時には技術そのものを持つものもいて、理論から構築する必要のないその時代は飛躍的な進歩を遂げたと言う。
王子様のよう、という印象にたがわず、本当に王太子だったらしいエルは、いくつかの例を挙げて説明した。
「進歩があった、ということは、いずれ成し遂げられた、ということよ。異界人とやらがいなくてもね」
「そうかもしれない。だが、そうして少しだけ時代を早めて得られた知識は、多分たくさんの人間を救ったよ。後世でなければ助からなかった者たちは、そのちょっとした早さを必要としていた。
それが武器や戦略という形で戦争に貢献したものだとしても、ね。
私は彼らの上に立つ者として、感謝している。この感謝は前時代の彼らには届かないが、君を保護することでお返しをしよう。
だから安心して。全てまかせてくれていい」
不意に、エルは声に甘やかさを滲ませた。
ほんの二度目の邂逅で、手を握らんばかりの距離感でいるエルに、マツリは少したじろいだが、それよりも気になることがあった。
急激な不安が襲う。
「……ちょっと待ってよ。悪いけど、私は何も持っていないわ。あなたたちの欲しがるようなものは何も。
大学にも行っていないし、知識は高校で止まっているの。分かるかしら、高校。義務教育に毛の生えた程度ってことよ。
正直言って、普通の子より出来ることは少ないと思うわ。箱入り、ですもの。身の回りのことも人に任せていたくらいよ」
全てがこの世界に役立つ人間だった、というわけではないだろうが、もたらしたものが強調されて遺されている世界で、マツリに対する期待は多分大きい。王に目通り出来るのも、それが理由だろう。
マツリは初めて、母に不満を抱いた。大学へ行きたいというマツリを笑っていなしたのは、これ以上外で汚れてきてほしくなかったからだろうが、思えばその一度の交渉で諦めてしまった自分にも非はあるのだろう。
医師になりたい、という希望は、今考えるとなんだか皮肉だ。姉を治したい、という思いだったが、結局マツリは姉を捨てて飛んだ。自分の命を捨てるのは、結局、姉の安寧を捨てるのと同じなのだから。
期待されても困る。
そんな思いを読みとったのか、エルは安心させるようにマツリに微笑みかけた。
「君の様子から、そうだろうなとは思っていたよ。問題ない、貴族の子女は自分で自分のことはしないものだ。
君の身分は、異界人、というだけで王族の次に高い」
「だから、そんなふうに扱われても、見合うものなんか持ってないの!」
見当外れのことを言うエルに焦れて、少し大きな声を出した。
それに応えるように、ノックがあった。
「そろそろお支度を。陛下のお呼びに間に合いませぬ」
ドアの向こうから聞こえてきたのは、中年と思しき女性の声だった。
エルが了承を告げると、40前後のふくよかなメイドが入ってくる。
「私の乳母だった、アステルだ。彼女と、それから同年代の二人の侍従をつけよう。君が家でふるまっていたのと同じようにするがいい。私が許可する」
エルは、3人のメイドの前で事実上、マツリのふるまいが王太子の意思だと示してから、軽く笑って出て行った。
マツリは緊張を解くため息をひとつついて、それから、座ったまま足だけを解き女性たちに向き合った。
「マツリといいます。
世話をかけますが、こちらのマナーに沿うように支度を。化粧はしたことがないのですが、アレルギーがないことは調べて分かっていますので、任せます」
エルの言うとおり、自宅と同じような調子でそう言うと、アステルと紹介された乳母はにこりと笑った。厳しそうな口元が笑うと、思いがけなく温かい印象だった。
「お子たちがあのように立派になられてから、お世話のし甲斐がなく手を持て余していたところです。ご希望は出来うる限り叶えさせていただきますので、遠慮なくお申しつけくださいませね」
いわゆる母、というイメージの彼女は、そう言うと、手早くマツリの支度を整え始めた。
「ちょ、あの、顔は自分で洗えます!」
「あら……」
この国でいうところの貴族よりは、出来ることが多いようだとマツリは思った。
「陛下の入室である!」
前触れのローブの男の一言で、卓に控えていた男たちは一斉に立ち上がった。マツリも同じように立ったのを見届けてから、扉が開かれる。会議室にしては分厚く立派なドアは、しかし滑らかに動いて王を招き入れた。
さほど威厳を示すでもなく、王と呼ばれた男が上座に着く。指先ひとつで、男たちは再び腰を下ろした。マツリだけが立っている。
「マツリ、と言ったか」
頭に、今日も冠はない。もしかして普段はつけないのかもしれない。マツリにはそのような知識はなかったが、考えてみれば、とてつもない価値のある冠を日常で使ってるはずもないような気がする。
どうでもいいようなマツリの思考を断ち切るように、
「ここへ流れた前後の経緯と、そちについて、簡潔に述べよ」
短く命じられ、マツリは口を開いた。
そして話す。
故郷について。
時代について。
生活について。
榊家について。
その間に魔がさした。
大勢の前で、自分が姉の部品だと言いたくない、そんな気持ちが言葉に乗った。
「榊家の一人娘が私です。私はあの家の、跡取りです」
100年に一度の界渡りなら、自分以外に事実を知るものなどいない。言ったもの勝ち、というのはこのことだ。
口に出すと、その言葉は存外心地が良かった。姉にはなれない自分が、現実を失ったこの世界でだけその役目を負える。実際には何も請け負わない、形ばかりの跡取りという役割は、痺れるような快さを生んだ。
この世界にもたらせるものは何もない。
けれど、跡取りと名乗ったいまこの瞬間だけ、マツリは世界の唯一になれた。