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光の繭の中で、マツリは少し、困っていた。
ここに浮かんで大分経っているが、眼下の様子はいまだ落ち着く気配は見せず、降りることが出来ない。
塔の方は、ようやく兵が上へたどり着いたらしく、部屋の中で交戦している。おかげでこちらに攻撃はなくなったが、当然戻ることは出来ない。エルの指示は塔へこもることだったが、それが果たせない今、どう動くべきかの判断を誰に尋ねればいいのか。
「困ったわ」
タカユキは辺りを警戒するように目を配っている。呟いたマツリにも反応しない。
が、応えたものがあった。
『何を困る。言うがいい』
耳元で聞こえた声に驚き、短く悲鳴をあげる。思わずタカユキにしがみついたが、当の彼はむしろほっとしたように表情を緩めた。
「遅いではないか」
『遅くはない。ずっといた』
「……まあいい。どうにかしてくれ、この状況を」
『焼き払うか?』
「駄目に決まっているだろう。もっと穏便な方向だ。イレニウス領に運ぶことは可能か?」
ふん、と鼻で笑う気配がした。
『誰に物を言っている』
ばさり、と羽音がした。巨大であることが一瞬で感じ取れるような、震えるような音だ。風を感じないのは、繭の中にいるからだろう。
眼下が静まりかえる。塔も動きを止めた。太陽が陰ったからだ。雲のせいではない。快晴の空に、一片の雲もないのだから。
「ひ……黒竜……!」
塔の兵の一言が引き金になったように、ざわめきがおこり、やがて喧騒となって広がっていく。
マツリは呆然としていた。
目の前にいたのは、竜だった。硬い鱗におおわれ、夜かと思われるほど光さえぎる巨大さの、翼を広げた竜。黒竜だ。
「陣を維持しろ、茉莉。このままイレニウス辺境伯の屋敷へ行く」
「……え? あの怖そうな伯爵? どうしてですの?
そもそも、陣を維持すると言われますけれど、解き方が分かりません。
貴之さんはどうしてそんなに落ち着いていらっしゃるの?
いえいえ、まずなぜここに?
セルジュメーラという名前はなんでしたの?
と言いますか、あれは何? 竜? 夢? 幻?」
「茉莉」
「え?」
「口を閉じないと、舌を噛むぞ」
溢れる疑問を思い出したかのようにぶつけるマツリに、タカユキは笑いながら言った。
ばさり、と再び羽音がして、黒竜が旋回する。そうして、通り過ぎざま、その鋭い鉤爪に光の繭をひっかけると、そのまま東を目指して飛び始めた。
ぐらぐらぶらぶらと揺れる繭の中で、マツリは悲鳴をあげる。
「こんな運び方、見たことありません!」
「竜自体、初めてではないか」
「映画でみたもの!」
笑うタカユキと、彼にしがみついて揺れに耐えるマツリを連れて、黒竜はぐんと速度を増した。
帰還の日、ヴィオレットは、庭先の強い発光に何事かと出てきた家族の前で、ふらりと立ちあがり、そして耐えきれず崩れ落ちた。騒ぎと涙に迎えられ、自分が神隠しに遭ったとされていたことを理解したのは、三日後のことだった。
二年の月日が経っていた。それは、あの世界での日々と同じだけの時間だった。
夢か、と思った。現実に帰り、見慣れた自室の布団の中から天井を見上げると、そうとしか思えなかった。魔術に呼ばれて異世界にいっていたなど、とうてい誰にも信じてもらえまい。
だが、ヴィオレットはあれが現実であったと知っている。妄想ではなかったという裏付けはふたつ。ひとつは、ドゥーガの印が入った絹のワンピース。そしてもうひとつは。
「かあさま!」
メルディーニの忘れ形見となった子は、やはり女子だった。腹に子がいる、と聞いた両親は、何も言わず急いで婿を探し祝言を挙げさせると、女中も含めて全てに緘口令を敷いた。
もしかしたら、母は、全てではないにしろ神隠しの事実の一端に気付いていたのではないかと思う。当主が母である以上、神とより強く繋がっているのは母だ。ヴィオレットの存在を取り戻そうとした神の御心を、母が知らぬはずはない。だから何も言わずに、金髪碧眼の婿を連れてきたのだとしか思えない。
生まれた子どもは黒髪黒目だった。ほっとすると同時に、そんな自分に罪悪感も抱く。榊家の特徴を産まれ継いだ娘を可愛がることで、それを消そうとした。
やがて年を経て、思い出は色を失いかけた。
母が引退し、当主を引き継ぐ頃になると、メルディーニの顔も声も、忘れることはないが、時々しか思いださないようになる。それが時間というものだ。悲しくもあり、嬉しくもある。もう二度と会えない人への思慕は、ヴィオレットに痛みしか与えないからだ。
しかし。
さらに年を経て、母が鬼籍に入り、娘が婿を取り、夫が先に母の元へゆき、このまま何もかも自分の中に仕舞って生を終えることを考え始めた頃に、唐突に思い出は現実を伴って揺り起こされた。
それは当主の引き継ぎの日だった。ヴィオレットの名をとって菫と名付けられた孫の面倒を見ながら、そろそろ身辺整理をしなければと考えた。
家中が慌ただしく動き、準備に大わらわで、箱膳を出し当主の儀式に使う衣装を出し、そのついでとばかりに、ヴィオレットは古い行李をひっくり返して処分すべきものを選り分けていたのだ。
「おばあちゃま、これ綺麗ね!」
菫が引っ張り出したのは、手触りの悪い、けれど絹と分かるワンピースだ。質の良くない布であるというのに、菫はそれを身体にあててくるりと回ると、止める間もなく部屋を飛び出して行った。
「お母様に見せる!」
「お待ちなさい菫、それは……!」
慌てて追いかけたが、幼子の足は速い。ようよう追いついたのは、客間の手前、すでに来客の声が表玄関からしているタイミングだった。
ワンピースを取り上げて、素早く自室へ戻ろうとしたが、追いかけるように声がした。
「ドゥーガの刻印……!」
懐かしい国名を現実の世界で耳にしたことに、驚愕した。振り向いた先で、やはり同じような表情を浮かべていたのは、映画の配給会社を営む、園城だった。うかつなことは言えなかった。だが、驚きを浮かべてしまったヴィオレットの顔を見て、知っていることを悟ったのか、彼は真剣な顔をして、時間を取って欲しいと言う。
危険ではないか、とも思った。榊の家の名に傷をつけることだけは、許されない。妄想を信じるおかしな一族ととられてしまえば、どんな有力者が出入りしていても、世間の口に戸は立てられない。
だが、園城は誠実なように見えた。何より、ヴィオレット自身が話を聞きたかった。あれが現実であったことが、数十年が経った今になって、証明されるかもしれない期待だった。
人払いをした屋敷の一室で、園城はヴィオレットも知らないような話を聞かせてくれた。彼は五歳くらいの孫を伴っており、彼は祖父の横でじっと同じ話を聞いていた。
「私は、イレニウス領の兵士でした」
曰く――。
異世界人の訪れは、エルサンビリア人との交換である、と。
園城の向こうでの名は、エンジュ・サニウェレ。剣山の西側、イレニウス領で兵士をしていたが、魔力持ちであることを見出され、領主の命で王都へ向かう途中で天変に巻き込まれた。
最初は夢を見ているのだと思ったが、どうやらそうではないと気付く。当時の日本は戦後の復興で全てが混乱と興奮の中にあった。見たことのない服と言葉も喋れないような状態で現れたエンジュだったが、混乱に乗じてなんとか戸籍を得た。
戦時中であれば生かせただろう兵士としての経験は役に立たず、しかし、外見は黒目黒髪であったことが幸いした。サニウェレ家は、先祖のどこかに異世界人がいたのだ。
生き抜く術を模索する中、エンジュは気付いた。こちらでも魔術が使える、と。あからさまに使えば、怪しがられてすぐさま牢にとらえられただろう。そういう時代だった。しかし、人心の動きを見るのにもともと長けていたエンジュは、魔術を人を惹き付けるほんのきっかけにだけ使った。
そうやって人脈を広げ、生まれ故郷のイメージをもとにして、ようやく人々の余裕が娯楽に割かれるようになった時代に乗って活動写真を作成した。急激に入って来た西洋文化とミックスされて、時代を上手く先取りした事業はそこから順調に成長し、園城と名を改めたエンジュは大きな配給会社を経営するまでになったのだ。
「あなたは、私が呼ばれたのと交換でこの世界に来たのね……」
「おそらく。そうですか、山の向こうから魔術の気配は感じていたのですが、そんなに大きな陣が成功するとは」
「気配?」
「ええ。私は少し、特別なのです。魔力持ちでもあり、他人の魔力の気配が感じ取れる。その能力があったから、王都で何かの役に立て、と送り出されたところだったのですよ」
彼は微かに目を細め、
「……思い出話をするためだけならば、私は全てをなかったことにしたでしょう。家族と引き離され、見知らぬ土地に落とされて過ごした日々は、決して愉快なものではなかった」
「どういう意味ですの?」
「言ったでしょう、私は魔力が感じ取れる、と。あなたの中に、大きな魔力が眠っている。実は、その魔力の気配を確かめるべく、こちらの家に顔を繋いだのです。
ああ……警戒されずともよろしいのです、そういう意味ではない。何か利益をえようというのではない。
良いですか、ヴィオレット様。魔力は時に、引き継がれるのです。子や孫であることもあるし、他人であることもある」
ヴィオレットは、なるほど彼は事実を言っているのだと分かった。胸に手を当てる。そこに、メルディーニの気配がする何かがあることを、ずっと感じていたからだ。忘れたくとも忘れられない、時折思い出さざるを得ない理由がそれだった。
胸の奥で、小さく固く凝縮して存在している。
「引き継ぎの準備を感じます。ヴィオレット様、あなたの娘さんは、間もなく第二子を授かります。おそらく、魔力はその子に引き継がれる」
「……っ、なんてこと。このまま私とともに消えると思っていたのに」
「いいえ。願ったのはあなた様でしょう。ドゥーガ領当主の持つ巨大な魔力を、跡継ぎたる第一子には決して発現しないようにと、願ったでしょう」
息をのむと同時に、出どころの分からない憤りを覚えた。
「私を糾弾するつもりですの?」
青ざめた顔を昂然とあげて、ヴィオレットは園城を見た。彼は真っすぐにこちらを見ている。
いまいましいほど全てを把握しているらしい。
その通りだ。ヴィオレットは願った。長女には絶対にメルディーニの気配がしないようにと神に祈ったのだ。
メルディーニの魔力は、ドゥーガの救世主とも言って良かった。彼の魔力が、あの寂れた土地をなんとか維持していたのだ。それが異世界に持ち去られたとなれば、奪い返しにきてもおかしくはない。一度は成功させている召喚の陣は、再び誰かを呼ばないとも限らない。
もしそれが、榊家の当主となった娘であったら。またバランスが崩れる。向こうへ呼ばれた身体は、神の偏愛が働きこちらへ引き戻されるだろう。
また、誰かが死ぬ。召喚するのが誰になるかは分からない。だが、世界のバランスは保たれなければならない。その事実は、魔力を受け継いだ子孫の誰かを苦しめるだろう。
耐えられるはずがない。ヴィオレットの心はあの時に半分死んだ。メルディーニと一緒に持っていかれてしまった。自分の愛する人を自分が殺した、その事実にもうずっと長い間苦しんでいる。決して消えない罪だ。一生それを背負って生きる。
同じことが娘に起こったら? 孫に起こったら?
ヴィオレットは全ての始まりの責任をとって、彼らを守らねばならない。このまま全てを抱えて死にゆくならばそれでいい。もしそうでないなら――せめてバランスをとらずにすむ次女に。神に偏愛されない子どもに。
「分かっております。全て承知でございます」
園城は怒りと警戒をはらむヴィオレットの空気を慰めるように、ゆっくりと言った。
「お助けしたい、それだけなのです。いえ、そんな利他的な気持ちだけではないのです。だからこの子を連れてきた」
彼が傍らの孫の頭を撫でる。幼い子ながら、まっすぐにヴィオレットを見る眼差しは力強い。
「貴之といいます。私の――魔力を継ぐ子です」