13
その日は嵐だった。
海と山に挟まれたドゥーガの雨は激しい。土砂降りの雨が朝から続き、長く暮らした知恵によりかさ上げされた土地は、それでもひどくぬかるんでいた。
ただ、高地を選んでいるのは民家のある辺りだけだ。開墾に向いた土地を探してあちこちに点在する畑は、低地が多い。ゆえに、いつも豪雨の被害に遭うのは田畑だった。
この季節は、まもなく収穫を迎えようと言う頃で、費やした手間を無駄骨にしてしまうには惜しい時期だ。
メルディーニは、数人の供を連れて、最も収穫量の多い畑に向かっていた。せめて、採りきれる分は確保しておかねば、来年の種をまくにも困る。そう考えての行動だった。
弟は止めた。今日の雨はいつになく酷い、危険だ、と言い募った。だが、メルディーニはそれを笑って退けたのだ。心配性も大概にしろ、と。
雨は強く、暗雲が分厚く空を覆い、視界は悪い。過信していた、といえばそれまでだろう。まだ年若いと言う事実は言い訳になるだろうか。経験したことのない嵐は、若き領主の判断力を鈍らせたのだ。
鋭い雷鳴が轟く。躾けられた軍馬は、その程度では動じない。叩きつける雨も、分厚い馬の皮膚には何の痛痒も与えないだろう。
しかし、馬の弱点はその脚だ。しなやかに駆ける脚は、力強いが繊細だった。
ぬかるみに脚を取られた。半日近く降り続いた雨が、予想もしない流れとよどみを作っていたのだろう、深く沈む脚を抜ききれなかった馬はバランスを崩したのだ。
その背に乗っていたメルディーニは、信頼していた愛馬の突然の事態に対応しきれず、駆け足の勢いのまま前に投げ出された。とっさに手綱を離したのは、自分の落下の勢いが馬を引きずりその脚を痛めてしまわないように、という判断だった。
なにもかもが間違いだったのだろう。嵐の中出てきたことも、移動に馬を選んだことも、その手を離したことも。
落ちた先には、岩があった。畑に適した土であることを示す、ドゥーガの印が入った岩だ。その岩に叩きつけられたメルディーニの身体は、一目見て分かるほど酷い怪我と、見ただけでは分からない内臓の損傷を負った。
雨は体温を奪う。急いで医療院に運び込まれた身体は、限界まで体温を下げていた。医師も薬師も、呪術師も、尽くせる手は尽くした。
だが――命はまもなく、失われようとしている。
「兄さん、兄さん!」
弟の呼びかけに、かすかに唇が動く。ウォーレンはその意味を的確に受け取り、背後で真っ青な顔をしていたヴィオレットにその場を譲った。そして、部屋にいた全員を引きつれて外に出る。兄がきっとそう望むから。
ヴィオレットは、泣いていた。しかしその理由は、ウォーレンや、あるいはメルディーニが思っているものとは違う。
泣くな、とメルディーニの唇が動いた。
「違う……違うの」
「だいじょ……」
無理やりに押し出した声は、途中で遮られる。
「ごめんなさい、メル、私のせいですわ……!」
「ち、が……」
「いいえ。いいえ、聞いてメル。私の家、歴史のある大きな家だと言ったでしょう?
理由があります。榊は代々、神の声を聞く女が生まれる家なの。数十代も直系の女ばかり生まれるなんて、普通ではありえない。そのように神がなさったの」
流れる涙が、なぜか、微かに光を帯びていた。
「最初に生まれた女は全て、神の依り代。私たちは皆、神を敬愛し、そうして、神もまた私たちを愛する。長く、手放さないほどに。だから私たちは長寿で、そして滅多に病いも得ませんの」
「ああ……」
メルディーニは話の意図を悟り、小さく肯いて目を閉じた。
「神が呼んでいます。私がこの世界に奪われたことを、嘆いて、ずっと泣いている。
あの日、シュヴァルツに会った日、彼は声なき声で私に言いましたわ。向こうの世界がお前をずっと呼んでいる、と。
それはあの世界の意思よ。決して覆せない。
帰らなければならないと思った私は、その方法をシュヴァルツに聞きました。
ない、と彼は言った。帰す手段はない、が――」
『異界人がこの地にとどまれるのは、術者の存在があるゆえだ』
メルディーニはもう、目を開けても何も見えない。しかし、彼女の身体が解けるように光をこぼしているのが分かった。自分の命が消えゆくのと同じ速さで、掌に温かい肌も、髪も、彼女のために誂えた服も輪郭を失っていく。
「召喚した者が死ねば、ここへの定着を失い、向こうの世界に引きずり戻される。シュヴァルツはそう言いました。
ごめんなさい、メル。
私の世界の神が、あなたの死を呼んだ。私を取り返すために、世界の秩序が働いたの。
ごめん、ごめんね、メル、私のせいで、あなたは死ぬ。
私……」
ぽたり、と頬に温かいしずくが落ちた。
そのぬくもりもすぐに失われる。
耳も、もう聞こえない。
メルディーニの唇を馴染んだ感覚が塞ぐ。
最期の口づけは、彼女の国の言葉に動いた。
こちらの言葉には訳されない。
けれど、その五文字はきっと、どの国の言葉で言われても、伝わる意味はひとつなのだと知っている。
メルディーニは、残る全てを振り絞って、魔力を解放した。
せめて故郷へ帰る道が、彼女を温かく照らすよう。
今生の別れに、君にあげられる光。