~雨と自転車と帰り道~ 【前編】
気の毒なくらい雨に打たれるその華奢な背中は、骨がグニャリと折れ
使い物にならない傘を片手に、なかなか青に変わらない横断歩道の信号を
待って少し猫背で佇んでいた。
サカキはその日、いつも通り自転車で登校していた。
少しくらいの雨なら然程気にすることなく、自転車で強行突破するのだが
今日の放課後の雨はそれをするには威力がありすぎる。
むせ返るような雨の湿ったにおいが立ち込める外気。
昇降口脇の花壇の小さい花々が、強めの雨に頭をもたげている。
駐輪場に自転車を置いて帰るか、学校に置いてある破れかけたビニール傘を
さしながら”傘チャリ”をするか考えあぐねる。
『置いてったら、明日ん朝、ダリぃよなぁ・・・』
学校の昇降口の屋根下で、雨を見上げながら苦い顔でポツリひとりごちた。
手を伸ばして雨の粒を確かめる。
サカキの大きな手の平を、それは結構な強さと存在感を示し叩き付けてくる。
アスファルトに落ちる粒が屋根下のサカキに跳ね返りズボンの裾に跡を付けた。
無意識に小さい溜息をひとつ落とし、駐輪場へ向かった。
片手にはビニール傘。
どうせ多少濡れるなら、傘をさしながら自転車で帰ることを選んだのだった。
校舎横の通学路に、傘の花が咲く。
どんよりと薄暗いねずみ色の空と相対するように、負けじと咲き乱れる
そのカラフルな花たちは皆一様に、気怠そうに家路へ向かい進む。
自転車でその横を通り過ぎるサカキは、傘の群れに水の跳ね返りを
飛ばさないよう気にしながら不安定な片手走行で雨の中ペダルを漕いだ。
駅前をすぎた辺りにある、中々信号が変わらないことで有名な横断歩道前に
サカキが自転車を停車させると、すぐ斜め前に制服姿の女子高生が立っていた。
骨がグニャリと折れ使い物にならない傘を片手に、ずぶ濡れになり佇んでいる。
背中に垂れる髪の毛先からは雫が滴りおち、ブレザーの肩はすっかり濡れて
その色を濃くしている。
細い赤とキャメルラインが入ったグリーンのチェック柄プリーツスカートは
雨に濡れすぎて少しひだがよれてしまっている。
チラリ見えた襟元のリボンの色で、同じ高校の1年生だと分かった。
斜め後方で自転車に跨り片手に傘をさすサカキは、その心細げな華奢な
背中を見つめつつ考えていた。
こういう時は、普通、どうするものなのか。
どうしたらいいのか。
筋肉で凝り固まった脳内で、必死に考えあぐねた。
(傘を差しかけたとして、俺、チャリだし・・・
かと言って、
チャリ押して一緒に帰るってのは、
相手が、やっぱ、ちょっとイヤかもしんねーし・・・
ぁ。そっか・・・
貸せばいーのか・・・)
その時、やっとの事で横断歩道の信号が赤から青に変わった。
『ちょ。コレ ・・・貸す。』
ずぶ濡れの背中の肩口を後ろからコツリ小さく拳で叩き、ビニール傘を
差しだすと驚き振り返り、パチパチとせわしなく瞬きをしてサカキを見ている
彼女に無理矢理『ん。』 と傘を押し付けて、自転車のペダルを踏み込んだ。
彼女は後方でなにか言っていた気がするが、雨音と自転車のタイヤが
飛沫をあげ回転する音に消され、サカキの耳には入らなかった。
少し破れたビニール傘を差し、いまだ横断歩道を渡らず佇む、ミズキ。
だんだん小さくなる自転車の背中をまっすぐ見ていた。
強まる雨脚に、冷えてゆくすっかり濡れた肩。
しかし、その頬は微かに赤く染まって。
『ハタ先輩・・・』
ミズキが自分の名前を呟いたことなど気付かず、サカキは自転車でひとり
濡れながら走り去ってしまった。
『サカキー。1年が呼んでんぞー。』
クラスメイトの声に、『んぁ?』 と振り返ると、そこには昨日傘を貸した
ミズキがビニール傘を片手に所在無さ気に教室入口で佇んでいた。
3年A組の教室。
午後の授業が始まる前の昼休みの気怠い雰囲気の中、1年の証である緑色
リボンを襟元にたずさえる彼女は、居心地悪そうに視線を落とし片手の
それを差し出した。
『昨日は、ほんとに・・・ありがとうございました・・・。』
そう小さく呟くミズキに、サカキは少し戸惑い口を開く。
『え・・・つか、なんで・・・?
ぁ、いや。てか・・・
こんな壊れた傘、別に、いーのに・・・』
すると、ミズキは顔を上げて
『”貸す”って・・・、ハタ先輩・・・。』
サカキは眉根をひそめ、自分が発した言葉を思い返す。
こんな壊れかけの、しかも300円のビニール傘を”あげる”ではなく”貸す”
と言ったのだとしたら、ケチにも程がある。ダサすぎて泣けてくる。
『ぁ・・・。いや、あげたつもり・・・だったんだけど。
咄嗟に”貸す”って言ったんだわ、きっと。』
『・・・そうだったんですか・・・。』
ふたり、教室入口で二の句を継ぐことが出来ず不自然に留まっていた。
その時、昼休みの終わりを告げるチャイムが教室や廊下に鳴り響いた。
ミズキがその音に慌てて自分のクラスへ戻ってゆく。
最後にもう一度『ありがとうございました。』 と呟いて。
サカキはその背中をなんとなく見ていた。
数日後。
また午後になってから急に雨が降った。
『天気ヨホー、今日、雨っつってたかぁー?』
不機嫌そうに隣席のクラスメイトに嘆くサカキ。
イスの背もたれに重心をかけ、イス前脚を浮かせてユラユラ揺れながら。
教室の窓から見えるどんよりした空に、目をすがめて呟く。
『あー・・・、やべ。
あのビニ傘、とうとう壊れたから捨てたんだったー・・・
ツイてねぇー・・・』
踵を引き摺るように脱力感ただよわせ廊下を進み、靴箱で外履きに履き替える。
昇降口の屋根下に立ち、しかめっ面で鉛色空を見上げていた。
すぐ隣に誰か立つ気配を感じ、目を遣る。
すると、そこにはミズキが。
互いに『ぁ。』 と同時に呟き、ペコリと小さく同時に会釈して、同時に目線を
はずした。
ミズキがチラリ、隣に立つサカキを盗み見ると、片手にカバン。
もう片手はポケットに突っ込んでいる。
この雨なのに、今日は傘を持っていないという事のようだった。
サカキもまた、ミズキをこっそり盗み見ていた。
今日は赤い傘を白く細いその手に握り締めている。
少し安心するサカキ。女子があんなにずぶ濡れになっている姿は、
何とも言い難い物悲しさがあったのだ。
『傘・・・無いんですか・・・?』
ミズキがサカキの方を向き、少し見上げるように言った。
話し掛けられたことに少し驚き、サカキが返す。
『あー・・・こないだのアレ、
さすがにボロボロだから、捨てたんだよねー・・・』
そう返して、ふたりの間に沈黙の時間が流れる。
雨がアスファルトを打つ小さな音だけが響いている。
屋根下で、ふたり、強まる雨脚を見ながら黙っていた。
『あの・・・。
もし・・・嫌じゃなかったら、傘、入りませんか・・・?
途中まで、とかでも・・・
この間の、お礼、に・・・。』
サカキは耳を疑った。
内心、驚き動揺しまくっていたが涼しい顔をして何も気にしていない風を装う。
(マジか。
マジでか。
女子と、アレ、か。アレ、なのか・・・
”ふたり傘”ってやつじゃんか。
今までアホのサクラぐらいしか、ふたり傘したことねーし。
つか、サクラなんか女子じゃねーし。
つか・・・とにかく。断る理由、ねーし・・・。)
『ぇ。・・・いいの?』
まっすぐ前を見たまま、さり気なく言った。
瞬きの回数がやたら多くなっていたけれど、それはミズキにはバレて
いないようだった。
ミズキもまた、声を掛けたはいいが、迷惑だったかもしれないと落ち着かず
足元に目を落としソワソワしていたが、サカキの返答に小さく微笑んでいた。
(こうゆー場合。傘・・・俺が持つべきなのか・・・?)
(私が差してたら気使わせるかな・・・?)
互いに、傘ひとつ差し掛けるだけの事で、内心いろいろ考えあぐねる。
小さいミズキが大きなサカキに傘を差しかける姿はやはりどう見たって滑稽で。
なにも言わず、サカキがミズキの手から傘を取り、それを差しかけた。
照れくさそうに、ふたり。
雨の中をゆっくり歩く。
今日もカラフルな傘の花が、通学路を彩っている。
『ぁ、そーいえば。
よく分かったな?俺ん教室。・・・つか、名前も。』
気になっていた事をサカキは口に出した。
すると、『ぁ、はい・・・』 と質問の答えにならない一言が返って来た。
『ハタ先輩、有名ですから・・・。』
そう呟くミズキの顔は、何かを思い出すように少し笑っていた。
サカキは横目でその顔を見ながら、少し耳が熱くなる感覚を覚えていた。
『キノシタぁぁああああ!!!』
3-Bの教室入口で、サカキがリンコの名を呼ぶ。
呼ぶというより、叫んでいる。
ギョッとして顔を上げたリンコは、自席から動かず『なんの教科?』 と訊く。
3年に進級してクラスが離れたサカキとリンコ。
サカキはたまに教科書やら宿題やらリンコに頼って3-Bに来ていたのだった。
『あ?』
『教科書忘れたんじゃないの?』
サカキが教科書を借りに来たんだと思ったリンコ。
しかし、サカキは『チーガウ、チガウ。』 と首を横に振る。
『ちょ。今日の帰り、時間ある?』
なんだか必死の形相に、リンコが少したじろいだ。
あまり頷きたくない気もするが、NOとは言えないその感じに顔を
しかめ渋々頷いた。
放課後。
サカキとリンコは自転車に二人乗りして、駅前のコーヒー屋へ向かっていた。
もうサクラとは以前の”友達”に戻っているサカキ。
サクラ絡みの話ではないような気がしていたリンコ。
自転車のペダルを漕ぐサカキの背中を、首を傾げて眺めていた。
コーヒー屋で向き合い座る。
そう言えば、サカキとふたりでお茶するなんて初めての事だった。
とは言え、互いに異性としての意識など皆無。
ただ単に普通の”お茶”に過ぎなかった。
『お前。名前、って。いつ知った?』
サカキが主語やら述語やらすっ飛ばして、身を乗り出し訊いてくる。
『・・・。
ごめん。意味わかんないから、ちゃんと言って?』
いつも通り冷静なリンコ。
両手に包むコーヒーカップは、最近お気に入りのチャイティーラテ。
甘い香りがそよぐそれは、ミルクをソイミルクにカスタマイズしている。
『俺の、俺の名前・・・。いつ知った?
2年で同じクラスになるまで、俺の名前・・・知ってた?』
少し慌てた感じでまくし立てるサカキに不審な目を向けながら、リンコは
カップに口をつけ一口飲んで、サカキの言う意味を推察する。
『ハタのことは1年から知ってたわよ。
サクラと二人乗りしてる人、ぐらいの感じだけど。
名前も・・・。うん。サクラから聞いてたから。
ってゆうか、それが何?
どうしたってゆうの?』
目線だけチラリ向けサカキを一瞬見て、またカップに戻す。
サカキはよく分からない表情をして、なにか考え込んでいる様子。
『じゃぁさ・・・
全然関わりないのに、名前って知ってたりする?
俺は、全っ然。向こうのこと知らない状態で・・・
向こうは、俺んこと知ってる・・・、的な。』
やっと話の趣旨が分かったリンコが、クスっと笑った。
『なに?知らない子に告白でもされたのー・・・?』
そのリンコの言葉に、あからさまに慌て
『ちがうちがうちがうちがう』 繰り返す。
サカキが事の成り行きを説明すると、『ん~』 とリンコは首を傾げた。
『名前だけなら、知ってることもあるんじゃない?
・・・良くも悪くも。
興味があって知ることもあれば、
逆に嫌いで目につくこともあるし・・・』
サカキの顔は、欲しかった答えと違ったようで軽く不満気に見えた。
自分に好意があってのことだと、勝手に決め付けていたのだろう。
リンコが俯いて少し笑った。
『でも。
少なくとも、嫌いな相手と”ふたり傘”しないでしょ?』
パッと表情を明るくしたサカキに、リンコが付け加えた。
『まぁ、それが。イコール”好き”かどうかは別問題だけど。』
帰り道。
リンコと別れひとり、サカキはブツブツ呟いていた。
”嫌いじゃない”は、”好き”とイコールな訳ではない。
”ノットイコール”だと、リンコは言った。
”嫌いじゃない”≠ ”好き”
『“ニアリーイコール”だといいわね』 と
リンコが帰り際に言ったのを思い出していた。
『あああああー・・・
数学ってムズいなぁー・・・
つか、ニアリーなんとかって、何・・・?』
どこぞの小柄なアホも言っていた様なセリフを、同じようにサカキも
呟いていた。