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スズメの鳴き声が響き渡り、優しい日差しが爽やかな彩りを添える朝の通学路。
そこに、のそのそとゆったりした動作で足を繰り出し、うつむき加減で地面に視線を落としながら学校へと向かう蜜愛の姿があった。
淡い水色の大きなリボンを使い、長くて分量の多い髪の毛を束ねている。
蜜愛の通う学校――県立板ヶ谷高等学校は、校則が緩いことでも有名だったりする。
生徒の自主性を重んじる校風、といったところか。
制服の着用は義務づけられているが、スカートの丈や靴下の色や長さなんかはもとより、リボンや髪飾りなどの装飾品でさえ規制されていない。
あまりにも常軌を逸しているような場合には、さすがに注意されてしまうだろうが、常識の範囲内であれば許容されるのが普通なのだ。
地味な印象の蜜愛ではあっても、リボンにだけは少々こだわりを持っている。
毎日違う色の大きなリボンを使って髪の毛を束ねるのが楽しみでもあるようだ。
そんな蜜愛の背後に、激しい足音が迫る。
「ミッツ、おっぱ~!」
「あっ、ゆゆちー、おは……きゃうっ!?」
背後から駆け寄ってきた同じ制服姿の女の子が、飛びついてきた勢いそのままに、腕を前に回して蜜愛の胸を揉み始めた。
蜜愛が思わず悲鳴を上げてしまったのも、当然の反応だったと言えるだろう。
「ちょっと、やめてよ~! あんっ!」
「おっぱ~、って挨拶には、おっぱいって意味も含まれてるんだよ!」
「そんなの、含めないで~~~!」
懸命に身をよじって逃れようとするも、背後からしっかり組みつかれていては、肘打ちをぶちかますこともできない。
「相変わらず、ミッツのおっぱいは控えめだの~!」
「ゆゆちーのは、背中越しでも自己主張が激しすぎだよ~!」
ぷにょん。
蜜愛の背中に押しつけられた、背後から組みついてきている女の子の胸は、そんな音がしそうなほどに柔らかく弾力のあるシロモノだった。
彼女は蜜愛のクラスメイトで、中学時代からの友人でもある、凛々原ゆゆ。
蜜愛はゆゆちーと呼んでいる。
元気いっぱい、猪突猛進、人の言うことには耳を貸さず、我が道を一直線、それが凛々原ゆゆという女の子だ。
ショートカットがよく似合っていて、背は平均より低め。
頭の左右にピンッと跳ねた髪の毛の束があるのも特徴だろうか。
本人はオシャレのためにわざとそうしていると言い張っているが、実際には単なる癖っ毛で直らないだけなのだろう。
なお、ゆゆは蜜愛のことをミッツと呼ぶ。
名前からつけたあだ名なので、他意はないと思われるが。
「にゅふふっ! さてと、おっぱいは揉み飽きたし、そろそろやめてあげようか!」
「やめてくれるのは嬉しいけど、飽きたとか言われるのは、ちょっと不満かも~……」
「大丈夫! これからも毎朝揉むから!」
「よかった~。……って、全然よくないよ~!」
などと不満を漏らしながらも笑顔をこぼす。
友人ゆゆの底抜けな明るさに、蜜愛は随分と助けられているフシがある。
蜜愛は少々地味でおとなしい性格のため、クラスに馴染むのも苦手だった。
それでも、ゆゆが有無を言わさず引っ張り回すことで、いつの間にやら他の生徒たちとも会話を交わせるようになっていた。
ゆゆはクラスの人気者と言ってもいい。
若干の呆れもまじっているかもしれないが、マスコット的な立場でもあり、周囲にはいつでも誰かしら人が集まっている。
対する蜜愛は、ゆゆがいなかったら絶対に、ひとりで孤独に過ごしているはずだ。
休み時間になってもトイレに立つ以外は席に座ったままで、紙のカバーをかけた小説なんかを読んで時間を浪費する。
そんな寂しい日々になっていたに違いない。
ゆゆに振り回され気味ではあるものの、楽しく高校生活を送れていることには、蜜愛も素直に感謝しているようだ。
「それにしても、これだけ中学時代から揉み続けてるのに、どうして大きくならないのかねぇ? なんとも頑固なおっぱいだ!」
「頑固とか言わないで~。硬そうで嫌だよ~」
「まぁ、あたしに任せておきなさい! いつかそのうち、大きくなるよ! ブイッ!」
ゆゆはビシッとブイサインを掲げ、笑顔をきらめかせる。
なお、ブイサインで「ブイッ!」と叫ぶのは、ゆゆの口癖にもなっている。
そんなゆゆを、蜜愛は冷めた視線で見つめていた。
「今までに何度同じセリフを聞いたことか。それなのに全然大きくなってないし……」
「あたしのは大きくなったよ!」
「少しは分けてほしいよ~」
「だったら、もっと揉ませなさい!」
「嫌だよぉ~。どうせ効果ないもん」
「それなら最後の手段だ!」
「どうするの……?」
「…………シリコン注入、とか?」
「ほんとに最後の手段だよ~。っていうか、そんなことしないし!」
はぁ~、と深いため息をつく蜜愛。
うつむき加減の視線の先には、膨らみの足りない自分の胸。
もっとも、悲観するほど小さいわけでもないのだが。
本人いわく、一応ギリギリどうにかBカップはあるという話なのだから。
「まぁ、大丈夫! ブイッ! ブイッ! ビリジアンッ!」
「なぜにビリジアン……」
口癖の「ブイッ!」を連発してくるゆゆに、蜜愛は呆れ顔。
ただ、この口癖は唯一、蜜愛がゆゆを攻撃できるネタともなる。
ゆゆはその短い「ブイッ!」の言葉を、クラスメイト全員が聞いている前で思いっきり噛んで、「ブヒッ!」と言ってしまったことがある。
当然のように、「ゆゆブタ」などと呼ばれ、からかわれる結果となった。
クラスの人気者であるゆゆだから、バカにされるというよりは、そんなところも可愛らしい、といった微笑ましい感じでしかなかったのだが。
ゆゆ本人は真っ赤になって、心底恥ずかしがっていた。
どうやら不測の事態にはめっぽう弱い、という意外な一面も持っているらしい。
そんなわけで、蜜愛はすかさず反撃に転じる。
「ゆゆちー、今日はブタにならないの~? ブヒブヒって!」
意地悪を多分に含んだいやらしい感じの口調で、ニタニタした笑みも添える。
一瞬にして、ゆゆの顔が赤く染まっていく。「ゆゆブタ」事件を克明に思い出したのか、ぷるぷると肩も震わせ始めた。
「ぶ……」
「ぶ……?」
ほんとに「ブヒッ!」って言うつもり~?
そんな意味を込めた蜜愛からのオウム返しの問いかけに、ゆゆは大きな叫び声を伴って叛旗を翻す。
「ブタになるのは、あんたのほうだ~!」
「ふがっ!?」
突然のことに、蜜愛はまともに声が返せなかった。
ブイサインのままだった右手が勢いよく伸ばされ、蜜愛の顔面を襲ったのだ!
伸ばされたゆゆの人差し指と中指は、第一関節部分までスポッと、蜜愛の鼻の穴にねじ込まれていた。
「ふがががががが……!」
「ブタだ、ブタがおる! みんな~! こっちを見て~! ここにブタがいるよ~!」
「ちょ……っ!? ゆゆちーやめて! 人を集めないで~! ふががががが!」
スズメの鳴き声が響き渡り、優しい日差しが爽やかな彩りを添える朝の通学路。
そんな清々しい風景の中、ブタ鼻女子高生の悲痛な叫び声が絶え間なく奏でられることになるのだった。