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十二の空白

轟実(二)

作者: 石村真知

梅雨が長引き肌に心地良く、硝子を打つ雨の音に目を閉じ、耳を澄ましました。疎外され何の不便も感じず、誰とも口をきかずに生きている形は、幼少の頃と何も変わらずに居ますが、母の冷ややかな目と御客様の足音はもう無く、全てに力を抜いているのは自由を感じているからなのでしょうか。

両親は半年程前に亡くなり、同時に旅館を閉めました。継ぐ継がないの話は勝手に独り歩きを始めましたが、おそらく一人として私が背負う事は出来ないと考えたのでしょう。轟屋の看板は下げられ、彼等の作り上げた物はあっという間に終りを告げました。そして門を引き合わせ、鍵を掛けました。今は庭が一番綺麗に観える椿の間という部屋で独り過ごしています。庭と言っても紫陽花という花があるちっぽけなものです。その周りにも幾つか花や木は植わっていますが、名前は知りません。此処が日の当たる場所だった頃は、少し手入れもされていましたが、今はもう影形も無くなっています。私は何時もの様に布団に潜り込み頭だけを外に出して、その様子を見ました。暫くそうしていると、少し離れた場所にある柱時計の音が小さく鳴りました。腹が減ったかと思いましたが、そこまでの不便を感じないので、どうにかしなくてはと考えません。

私は両親が生きている間、料理をこさえた事も、台所に立った事すら一度も無いのです。茶を湯飲みに淹れたことも有りません。家は旅館でしたから、そういったものに困った事も、こんな私の手伝いを必要とされた事もありませんでした。まあ、一般的な意見で言えば男が家事をやらないのは至極普通の事かも知れませんが、私の父は板前でしたので、調理器具、前掛け、服など、洗浄洗濯は全て自分で行っていました。母同様、御客様への愛情が尽きる事も無く、心の籠った料理と時には酌を喜んで提供していました。御客様からの評判は非常に良く、信頼もされていた様です。まるで仏様の様だと。確かに私は父に叱られた事が記憶を巡っても一度しか無いのです。私に興味関心が無かったのだと思いますが、推測でしかありません。ですがその一度は忘れもしません。父は生真面目な人物だったようで、仕事中は便所に行く事を嫌い、飯も食わず、飲み物を飲むことはしませんでした。通年朝一杯の茶と、晩酌で熱燗で一本呑んでいた様です。そんな父が調理場の片付けや仕込みの途中で居なくなることは珍しいのですが、夜中に起きて調理場の前を通ると、父が居ません。暖簾を分け中に入り父を呼びますが、返事はありませんでした。ふと目について見ると、木の生板と包丁が揃えて置いてありました。桶には屑と思われるものが入っていましたし、仕込みが終り便所に行ったのだと思いました。横を見れば、前掛けも向こうの椅子に掛かっていました。私は考えなしの子供でしたので、父の持ち物を見て興奮もしましたが、喜んでもらえるという幼い気持ちで父の手伝いをしたいと、包丁と生板を石鹸を付けた金束子で力任せに洗い始めました。水で流し終えた頃、額に汗を浮かべた父が物凄い形相で此方に近づいてきます。一瞬の間に私のところへ着き、口を開こうとした時には遅く、私は父に拳で殴られて居ました。訳が分からず、じんじんと頬が痛く、驚の余り涙も出ませんでした。父は荒い息で肩を上下させながら小さく言ったのです。「出ていけ。」と。父を見ている内に、股間が温い事に気が付きました。私は、便所に行きたくて部屋を出てきました。それを興奮によって忘れ、父に殴られ、最終的に小便漏らしをして仕舞ったのです。私は立ち上がって、急いでその場から逃げました。足跡が部屋まで続いてたとは思いますが、拭く事が出来ずに、私は服をさっさと脱ぎ捨て布団に潜りました。頬の痛みは余り気になりませんでしたが、自分の小便の温もりと感触がいつまでも残り、忘れられませんでした。その後、小便の始末は誰がしたのか分かりませんが、もう二度と調理場に爪先すら入れる事は有りませんでした。




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