昨日の足跡
翌朝、杏々は王宮魔術院の机に置かれた地図を見ていた。
「今日こっち?」
「はい」
リネットが地図の南側を指す。
「一昨日まで調べていた北部ではなく、今日は南側です」
「岩鳥?」
「違います」
「昨日行った」
「知っています」
「肉おいしかった」
「それも昨日聞きました」
◆
北部では、農業用魔力設備の負荷を上げると森側の魔力密度が下がり、さらに一定以上の負荷で森から農地方向への横方向流動が起きることまで確認できた。しかし、それだけでは分からないことがある。
「北だけ?」
杏々が尋ねる。
「それを確かめます」
リネットは地図上の別の線を指した。
「以前測った南側の森林支脈と、その近くにある農地です」
「前は普通だった」
「はい。少なくとも、その時の測定では北ほど低くありませんでした」
「今日いっぱい使った時も見る?」
「そうです」
南東寄りの農地でも、決まった時間に魔力利用量が上がる。今日は設備をこちらから操作せず、その通常運用の山に合わせて森林側を同時測定する予定だった。
「北と同じように下がるか」
「はい」
「横に行くか」
「それも見ます」
「南も引っ張ってたら?」
「問題が北だけではない可能性が出ます」
「引っ張ってなかったら?」
「北側に何か違う条件があることになります」
「なるほど」
◆
「あと」
リネットが地図から目を上げる。
「今日はギルドの護衛が二人つきます」
「二人?」
「はい」
「セリア?」
「セリアさんとレオルさんです」
「いっぱい」
「昨日、杏々さんとレオルさんが南街道で見つけた足跡の件がありますから」
「あ」
杏々は思い出した。王都へ戻る途中、街道脇の草むらへ続いていた人の足跡だ。
「盗賊?」
「まだ決まっていません」
「まだ」
「その言い方、完全に定着しましたね……」
◆
「巡回の人、何か見つけた?」
「縄です」
「縄?」
「道に低く張れるくらいの長さだったそうです」
「荷車止める?」
「可能性があります」
「馬とか転ぶ?」
「荷蜥蜴でも危ないですね」
「危ない」
「なので今日は、調査そのものは予定通り行いますが、護衛を増やしました」
「行かない方がいい?」
「そこまでの危険情報ではありません」
「でも気をつける」
「はい」
「分かった」
◆
南門へ着くと、セリアとレオルがすでに待っていた。
「おはよ」
「おう」
「昨日ぶりだな」
レオルが言う。
「足跡どうだった?」
「いきなりそこか」
「気になる」
セリアが腕を組む。
「巡回が見た限りじゃ、人が何度か茂みを出入りした痕跡がある。縄も一本見つかった」
「盗賊?」
「可能性は高くなった」
「まだ?」
「まだだ」
「みんな言う」
「断定できないものは断定しないんだよ」
◆
「今日はどう行く?」
杏々が尋ねる。
「普通に街道を使う」
セリアが答えた。
「ただし昨日の場所では止まらない。周辺を見る必要があれば、俺たちがやる」
「私は?」
「調査班から離れるな」
「追いかけない?」
「追いかけない」
「分かった」
「ずいぶん素直だな」
「前もやった」
「護衛依頼の時か」
「うん」
◆
今日の機材は二組だった。農地側と森側を同時に測るためのもので、一昨日使った三組よりは少ない。
「今日は高いやつ二個」
杏々が箱を見て言う。
「数えなくていいです」
「一昨日三個だった」
「覚えてるんですね」
「高いから」
「数字を値段で覚える人ですもんね……」
◆
荷車には測定器のほか、記録用具、予備の固定具、水、それから昼食も積まれていた。
「お弁当ある」
「当然あります」
「何?」
「まだ見ないでください」
「なんで?」
「出発前から食べようとするでしょう?」
「食べないよ」
「本当に?」
「たぶん」
「信用できない」
◆
南街道を進む。昨日も通った道だ。岩丘へ向かう分かれ道を過ぎ、さらに先へ進んでいく。
「昨日ここ」
杏々が街道脇を見る。
「足跡を見つけた場所はもう少し先だ」
レオルが答える。
「見る?」
「歩きながらだけな」
◆
少し進んだところで、レオルが茂みへ視線を向けた。
「あそこだ」
「どこ?」
「倒木の横」
昨日と同じ場所では、草が一部倒れていた。ただし今日は、細い杭が一本、街道脇に打たれている。
「これ何?」
「巡回が調べた印だ」
セリアが答えた。
「中に入るなってことでもある」
「危険?」
「少なくとも、勝手に入る場所じゃない」
「分かった」
杏々は立ち止まらなかった。
◆
「気にならないんですか?」
リネットが尋ねる。
「気になる」
「でも行かない?」
「仕事違うから」
「…………」
「何?」
「成長したなと思って」
「昨日も言われた」
「誰に?」
「レオル」
「今日何回目です?」
「褒められたの?」
「今のは褒めました」
「じゃあ一回」
「また数えるんですか……」
◆
南側の比較地点は、王都から半日もかからない場所にあった。北部より土地の起伏は少なく、森林もやや明るい。
「葉っぱ多い」
杏々が言う。
「北と比べると?」
「うん」
林床にも草が生え、赤露実ではない小さな実や虫の姿もある。遠くからは鳥の声が聞こえていた。
「ご飯いっぱいありそう」
「森としては、その表現も間違ってません」
リネットが答える。
◆
「魔物いる?」
「小型種はいます」
セリアが周囲を見る。
「ただ、この辺は定期巡回されてる。今日は調査班が入るって連絡も出してある」
「岩鳥?」
「もう少し南東だな」
レオルが言う。
「昨日の場所とは別」
「そっか」
◆
農地班と森側班に分かれることになった。農地側には管理局の技師とレオル、森側にはリネット、杏々、セリアが向かう。
「またこっち」
「杏々さん、最近完全に観測補助員ですね」
「冒険者」
「もちろんそうなんですけど」
「お弁当係もできる」
「今日は運ばなくていいです」
「そっか」
◆
最初は低負荷時間の測定だった。杏々が測定器を設置する。
「ここ?」
「はい。その位置で」
杏々が固定具を押し込むと、すぐに作業を終えた。
「終わり」
「早いですね」
「いっぱいやった」
「もう私より設置慣れてません?」
「置くだけ」
「角度調整も覚えてるじゃないですか」
「線ここ」
「……本当に覚えてる」
◆
鐘に合わせて同時測定を始める。森側の数値は安定していた。
「北より高い」
杏々が探査板を見る。
「はい」
リネットも頷いた。
「前回測った時とほぼ同じ範囲です」
「普通」
「今のところは」
「また」
「まだ何も始まってません」
◆
農地側の記録が届く。そちらも低負荷の状態だった。
「基準できた」
杏々が言う。
「はい」
「次いっぱい使う?」
「もう少ししたらです」
「待つ」
「今日は寝ないんですか?」
「昨日寝た」
「昨日寝たから今日は寝ない?」
「うん」
「その理屈は分かりません」
◆
杏々は木の根元へ座り、周囲を見回した。
「リネットちゃん」
「はい?」
「南の森は実すっぱい?」
「食べないでくださいね」
「聞いただけ」
「調査用に採るなら許可が必要です」
「じゃあ食べない」
「本当に成長しましたね」
「二回目?」
「今のも数えるんですか?」
「うん」
◆
やがて、農地側の通常負荷が上がる時間になった。
「来ます」
リネットが立ち上がる。
遠くで合図の魔灯が光った。
「農地側、負荷上昇開始」
森側の測定器も同時に動く。
「…………」
リネットが探査板を見る。杏々も横から覗き込んだ。
「下がる?」
「今のところは」
数秒、十数秒と時間が過ぎる。
「…………変化なし」
「下がらない?」
「誤差程度ですね」
「横は?」
「出ていません」
◆
規定時間が終わる。
「農地の紙」
「レオルさんが持ってきます」
「走る?」
「行かなくていいです」
「そっか」
◆
ほどなくしてレオルが戻ってきた。
「農地側、予定通り上がってる」
「どのくらいです?」
「朝より一割弱」
リネットが記録を確認する。
「北で変化が出ていた範囲と近いですね」
「森は?」
「ほぼ変化なしです」
「横も?」
「ありません」
レオルが腕を組む。
「じゃあ南は平気なのか?」
「一回ではまだ」
「やっぱり言うと思った」
杏々が言う。
◆
二回目の測定では、昼前に農地側の負荷が少し落ちたが、森側には変化がなかった。三回目は午後、別区画への供給で再び農地側が上昇する。
「今度は?」
杏々が尋ねる。
「朝より少し高いです」
「北なら下がったくらい?」
「はい」
「見る」
◆
同時観測が始まる。農地側の負荷が上昇していく一方で、森側の数値はほとんど変わらなかった。
「下がった?」
「ほとんど変わりません」
「横?」
「なし」
リネットが探査板を何度も確認する。
「本当に?」
杏々が聞く。
「少なくとも、今の測定では」
「北と違う」
「はい」
◆
リネットは記録へ大きく線を引いた。
「これで、かなり重要な比較ができます」
「南いっぱい使っても」
「森側はほぼ変化しない」
「北いっぱい使うと」
「森側が下がる」
「もっといっぱい使うと」
「横方向流動が出る」
「南は出ない」
「はい」
「違う」
「そうです」
◆
「何が違う?」
杏々が尋ねる。
「それをこれから調べます」
「設備?」
「候補の一つです」
「地脈?」
「それも」
「農地の大きさ?」
「あります」
「いっぱい」
「いっぱいあります」
リネットは少し嬉しそうだった。
「でも」
「何?」
「分からないことが増えたのに嬉しそう」
「調べる場所が絞れたからです」
「変」
「研究者はだいたいこんなものです」
「そうなんだ」
◆
昼食は、森の外れにある小さな休憩所で取った。
「開ける」
「どうぞ」
杏々が包みを開くと、中には平たいパン、焼いた森猪、豆の煮込み、それから薄く切った白いチーズが入っていた。
「肉」
「昨日も肉を食べてましたよね」
「毎日食べれる」
「知っています」
◆
杏々はパンへ森猪とチーズを挟んだ。
「またやってる」
セリアが言う。
「一緒がおいしい」
「豆も入れるのか?」
「うん」
「落とすぞ」
「大丈夫」
豆を少し載せて一口かじる。
「おいしい」
「落ちてるぞ」
「一個だけ」
「大丈夫じゃなかったな」
◆
「北と南」
杏々が食べながら言う。
「農地はどっちもご飯作る」
「はい」
「でも北だけ森減る」
「今のところは」
「北の設備大きくしたの六年前」
「はい」
「南は?」
リネットが少し止まる。
「そこも比較します」
「大きくした?」
「北ほど大規模な増強はされていないはずです」
「じゃあそこ違う」
「候補になります」
「いっぱい使えるようにしたから、いっぱい引っ張る?」
「……かなり単純化すると、そういう仮説も立てられます」
「なるほど」
◆
「でも」
リネットは続けた。
「設備能力だけで決まるとは限りません」
「道」
「地脈の繋がり方ですね」
「北は森と近い?」
「そうかもしれません」
「南は別?」
「それも調べます」
「また測る?」
「今度は地図と昔の工事記録も必要ですね」
「紙いっぱい」
「いっぱいです」
「私は読めない」
「知ってます」
◆
午後の最後の測定でも、結果は変わらなかった。農地側の利用量は上がったが、森林支脈の魔力密度はほぼ安定している。横方向流動も確認されなかった。
「南は普通」
杏々が言う。
「少なくとも今日の範囲では」
「北がおかしい」
「その言い方なら、かなり近いです」
「分かった」
◆
機材を片付ける。
「帰る?」
「はい」
「今日早い」
「ここ数日の調査が長すぎたんです」
「夕ご飯間に合う」
「結局そこ」
◆
帰路では、荷車を真ん中にして歩いた。前をセリア、後ろをレオルが守り、リネットは荷車の横を歩く。杏々もその近くにいた。
「昨日のところ通る?」
「通る」
セリアが答える。
「ただし止まらない」
「分かった」
◆
道は静かだった。風が草を揺らし、荷車の車輪と荷蜥蜴の足音が一定の間隔で響いている。遠くからは鳥の声も聞こえた。
「何もいない」
杏々が言う。
「何もいないのが一番だ」
レオルが答える。
「盗賊いない方がいい?」
「当たり前だ」
「捕まえたらお金?」
「依頼じゃないから、その発想はやめろ」
「そっか」
◆
昨日の場所へ近づくと、セリアが手を上げた。
「少し速度落とせ」
「何か?」
リネットが尋ねる。
「鳥がいない」
「鳥?」
「さっきまで鳴いてただろ」
杏々も周囲を見回した。
「静か」
「そういうことだ」
◆
杏々の目が道端へ向く。
「縄」
「どこ?」
「前」
街道の日陰に、土と同じ色をした細い紐が低い位置に張られていた。
「止まれ!」
セリアが叫ぶ。
荷車が止まり、荷蜥蜴もその場で足を止めた。
◆
「昨日と同じ?」
杏々が尋ねる。
「たぶんな」
レオルが後方を確認する。
「誰も触るな」
セリアが剣を抜いた。
「リネット、荷車の内側へ」
「はい」
「杏々」
「ここいる」
「勝手に追うな」
「分かってる」
◆
数秒の間、何も起きなかった。その後、茂みの右側で舌打ちが聞こえ、男が一人立ち上がった。顔には布を巻き、手には短剣を持っている。
「見つかったか」
「一人」
杏々が言う。
「一人で済むと思うな」
セリアが答えた。
◆
左側の木の陰に二人、さらに後ろにも一人がいた。
「四」
「まだいるかもしれん」
レオルが荷車の後ろへ回る。
「荷物置いて行け」
右側の男が言った。
「人は追わねえ」
セリアは答えない。
「機材?」
杏々が尋ねる。
「黙ってろ」
「高いよ」
「お前も黙れ!」
◆
「杏々さん」
リネットが小さな声で言う。
「前に出ないでくださいね」
「なんで?」
「私を守る側でしょう?」
「うん」
「なら、ここに」
「分かった」
杏々は荷車から離れなかった。
◆
男たちが少しずつ距離を詰める。
「最後だ」
「荷物置け」
「断る」
セリアが答えた。
その瞬間、後ろの男が何かを投げた。
「伏せろ!」
◆
小さな袋が地面に落ちて割れ、白い粉が広がった。
「煙?」
「目潰しだ!」
レオルの声が響く。
だが、杏々はすでに動いていた。
「こっち」
リネットの腕を掴み、荷車の反対側へ引く。
「わっ!」
「下」
「はい!」
◆
白い粉の向こうから足音が近づいてくる。
「来る」
杏々が剣を抜いた。
一人目が短剣を低く構え、杏々の頭へ振り上げる。
「遅い」
杏々は体を横へずらし、剣の柄で男の手首を叩いた。短剣が地面へ落ちる。
「ぐっ!」
◆
二人目が横から迫る。
「杏々!」
「見てる」
杏々は一人目の腕を押し、その体を二人目の進路へずらした。二人はぶつかり、もつれ合って倒れる。
「二人」
「数えなくていいです!」
リネットが荷車の陰から叫んだ。
◆
「逃げるな!」
別の男が後方からレオルへ向かっていく。レオルが受け止め、セリアも右側の男を押さえ込んだ。
「杏々!」
「うん」
「荷車から離れるな!」
「分かってる」
◆
一人目の男が再び立ち上がり、杏々へ向かってくる。杏々は剣を使わず、男の腹を軽く蹴った。男は数歩後ろへよろめく。
「強っ……」
「まだやる?」
「この……!」
杏々が一歩踏み出すと、男は動きを止めた。
◆
「杏々さん」
リネットが言う。
「左!」
「うん」
茂みから、さらに一人の男が現れた。弓を構えている。
「遠い」
矢の向きは杏々ではなく、荷蜥蜴へ向いていた。
「ダメ」
◆
杏々は足元の石を拾い、指で弾いた。石は弓兵の手元近くにある木へ当たり、狙いを逸らす。放たれた矢は荷車の横を通り過ぎた。
「外れた」
「今の何だ!?」
「指弾」
「意味分かんねえ!」
◆
「石ある」
杏々がもう一つ拾う。
だが、弓兵はすぐに木の後ろへ隠れた。
「隠れた」
「追うな!」
セリアが叫ぶ。
「分かってる」
◆
前の男たちは押されていた。セリア、レオル、杏々の三人が相手をしている限り、今いる盗賊だけなら問題はない。
「こいつら……聞いてたより強ぇぞ!」
「小さいの何なんだ!」
「冒険者」
「見りゃ分かる!」
◆
その時、茂みの奥から別の声が響いた。
「下がれ!」
今までより遠い声だった。杏々が顔を上げる。
「まだいる」
「どこだ?」
セリアも視線を巡らせた。
◆
少し高い斜面の木々の間に、男が一人立っていた。手には杖が握られている。
「魔法使い!」
リネットが声を上げた。
「六人目!」
レオルが叫ぶ。
「隠れてやがった!」
◆
杖の先が光る。
「来る!」
リネットが言った。
杏々の前で地面が跳ね、尖った土の塊が足元から突き上がる。杏々は横へ跳んで避けた。
「当たらない」
◆
「魔法使いは任せろ!」
セリアが言う。
だが、斜面までは距離があり、その間にはまだ盗賊が二人いる。魔法使いは木の陰から杖を構えたまま、こちらの動きを見ていた。
「遠い」
杏々が呟く。
◆
杖がもう一度光る。今度は杏々の横を狙っていた。
「リネット!」
セリアの声に、リネットが振り返る。
「え?」
杏々の目が動いた。狙いは自分ではない。
◆
リネットの足元から、土壁が突然せり上がった。杏々とリネットの間に厚い壁ができる。
「きゃっ!」
「リネットちゃん」
「大丈夫です!」
壁の向こうから声が返ってくる。
「回る!」
杏々が走り出した。
◆
右側から盗賊が一人、行く手を塞ぐ。
「行かせるか!」
「どいて」
「っ!」
杏々の剣と男の短剣がぶつかる。杏々は相手の刃を弾いたが、その一瞬だけ足が止まった。
◆
土壁の向こうから、リネットを呼ぶセリアの声が聞こえる。セリアも別方向から回り込もうとしていたが、前の男が矢を放ったため、足を止めざるを得なかった。
「ちっ!」
◆
杏々は盗賊の手首を掴み、体を回して地面へ投げた。
「ぐあっ!」
一人を倒し、杏々は土壁の向こうへ走る。
◆
その時、向こう側からリネットの声が響いた。
「来ないで!」
杏々の足が一瞬止まる。
「何?」
「後ろに――!」
◆
土壁の向こうには、別の男がいた。七人目の盗賊だ。最初から壁の向こうに隠れていたらしく、短い剣をリネットのすぐ近くへ突きつけている。
「動くな」
リネットは両手を少し上げた。
「荷物と金だけだ」
「なら私を離してください」
「お前、魔術師だろ」
「…………」
「動いたら何するか分からねえぞ」
◆
「リネットちゃん」
杏々が呼ぶ。
「杏々さん、止まって!」
「でも」
「私は大丈夫です!」
「大丈夫じゃない」
杏々の声が少し低くなる。
◆
斜面の魔法使いが杖を構え直した。
「小さいのを止めろ!」
光が走り、杏々の前の土が爆ぜる。杏々はそれを避けた。
一歩進む。魔法を避ける。前にいる盗賊をかわし、もう一歩進む。
だが、リネットまではまだ遠い。
「杏々さん!」
「うん」
「来ないでください!」
「やだ」
「今近づいたら――」
リネットの首元へ、盗賊の剣が少し近づいた。
◆
杏々が止まる。
小さい手。短い腕。短い脚。いつもなら、それで十分だった。自分一人なら、この程度の相手に困ることはない。
魔法も避けられる。前の男も倒せる。斜面の魔法使いにも、時間をかければ届く。リネットの横にいる男も、近づけば倒せる。
しかし、全部を順番にやっていたら遅い。
◆
牙鼠の時、一匹を相手にしている間に、もう一匹が逃げた。岩鳥の時、一羽を相手にしている間に、もう一羽へ手が届かなかった。
今も同じだ。ただし、今度は逃げるのは獲物ではない。
◆
「杏々さん?」
リネットが杏々を見る。
杏々は剣を鞘へ戻した。
「……杏々さん?」
「大丈夫」
「何がですか?」
「間に合う」
◆
杏々は小さく息を吐いた。
いつもの身体。いつもの大きさ。長い間、当たり前にしてきた形。今の方が楽で、お腹も減りにくい。この世界の食事は少し軽いから、できれば使いたくない。
でも、今はそれより大事なものが目の前にある。
「リネットちゃん」
「……はい?」
「ちょっと離れてて」
「何からですか?」
「私」
「え?」
◆
杏々は肩をゆっくり回した。首、腕、背中。身体の奥でずっと縮めていたものへ意識を向ける。
「杏々さん……?」
リネットの声が震えた。
◆
「やっぱ」
杏々が言う。
「このままだと届かない」
斜面の魔法使いが杖を構える。リネットの横では盗賊が剣を握り直した。
杏々はその両方を見る。
そして、短く言った。
「戻る」




