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杏々の異世界さんぽ~召喚されたのに勇者ではありませんでした。なので冒険者になって、ご飯を食べます~  作者: わかめ
地方遠征と中級冒険者

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治ってない

投げ刃を買った翌日から、杏々は依頼の合間に訓練場へ顔を出すようになった。


最初のうちは前日にやったのと同じように、距離を変えながら動かない的へ投げ続けた。四本投げては拾い、刃先や柄に傷がないかを確かめ、また元の位置へ戻る。距離が近ければかなり安定して刺さるようになったものの、少し離れると回転が合わず、刃ではなく柄の方から的へ当たることもある。


それでも、止まっている相手なら問題はだいぶ減った。


問題は、動く方だった。


訓練場には弓の練習にも使われる、縄で吊るされた小さな木板がある。係員に借りていいか確認すると、杏々は木板を軽く押して揺らし、少し離れた場所から投げ刃を構えた。


一枚目。


木板が左へ振れたところへ投げる。


刃はその後ろを通り抜けた。


「……遅い」


拾う。


もう一度揺らす。


今度は少し先を狙ったが、木板の端へ当たって弾かれた。


「……早い」


また拾う。


杏々はしばらくそれを繰り返した。


止まっている標的なら、距離と身体の向きを決めればいい。だが動く相手の場合、投げ刃が届くまでの時間と、相手がその間にどこまで動くかまで考える必要がある。しかも投げ刃は石より形が細く、刺すなら回転した刃がちょうどいい向きで届かなければならない。


昨日、武器屋の主人が言っていた意味がよく分かった。


動くものは違う。


四本目が木板の中央近くへ刺さったところで、杏々は少しだけ満足そうに頷いた。


ただし、その次は外した。


「まだ」


なので実戦ではまだ使わないことにした。


それから数日は、普通の依頼を一つ二つこなしながら、空いた時間に投げ刃を練習した。固定された的ならある程度の距離まで安定し、揺れる板も近距離なら少しずつ当たるようになったが、杏々自身が歩きながら投げると精度はまた落ちた。


杏々はそれを面白がっていた。


できないことがあるのは珍しくない。できないなら、できるまで身体に覚えさせればいい。


そうして投げ刃を買ってから一週間ほど経った頃、杏々は冒険者ギルドの緑ランク向け掲示板の前で一枚の依頼票を見つけた。


「痺れ苔」


依頼票には、王都から半日ほど離れた湿地に生える薬草の採取と書かれている。名前の通り、その苔が生える場所には軽い麻痺毒を持つ小さな虫が多く、採取には厚手の手袋と足首まで覆う靴、それから解毒薬の携行が必須になっていた。


目標量は十二束。


杏々が依頼票を持って受付へ行くと、受付嬢は内容を確認してから、いつもより少し真面目な声になった。


「痺れ苔そのものには強い毒はありません。ただ、湿地にいる泥針虫に刺されることがあります」


「どのくらい痺れる?」


「普通なら刺された場所から徐々に広がります。手足なら、指先や足先の感覚が鈍くなるところからですね。急に全身が動かなくなるような毒ではありませんが、放置すると危険です」


杏々は頷いた。


「解毒薬は?」


「ギルドで一本支給します。刺された場合はその場で無理をせず、湿地を出てください。痺れが膝や肘を越えて広がるようなら、その時点で依頼は中止です」


「十二束集まってなくても?」


「集まってなくてもです」


「分かった」


受付嬢は少し杏々を見てから念を押した。


「杏々さんなら動けるかどうかだけで判断しそうなので先に言っておきますけど、動けても帰ってくださいね」


「分かったって」


「本当に?」


「うん」


少しだけ信用されていない気がしたが、杏々にも思い当たるところはあったので、それ以上は何も言わなかった。


翌朝、杏々は必要な装備を揃えて湿地へ向かった。


左腰には、買ったばかりの四本の投げ刃もある。


使うつもりはない。ただ、携帯した状態で歩いたり、しゃがんだり、採取したものを背負ったりした時に邪魔にならないかは、実際の依頼で確かめておきたかった。


湿地へ着くと、杏々はまず依頼票に描かれていた目印を確認した。痺れ苔は水辺ならどこにでも生えるわけではなく、浅い泥の上に倒れた古い木や、半分水へ沈んだ石の側面にまとまって生える。


薄い青緑色をした苔を見つけると、杏々は厚手の手袋をしたまま必要な部分だけを剥がした。


根元まで削らない。


一か所から全部取らない。


採取した場所が再び広がれる程度には残す。


緑ランクになってから、こういう条件の付いた採取依頼が増えた。


杏々は一か所で必要以上に取らず、湿地の中を少しずつ移動しながら袋へ詰めていった。


六束。


七束。


八束。


途中、泥の上を細長い影が走った。


杏々が足を止める。


小指ほどの大きさしかない黒い虫が、枯れた草の裏へ潜り込んだ。


「泥針虫?」


追わない。


今回の仕事は虫退治ではない。


杏々はそこから少し離れ、別の倒木を探した。


九束目を採ろうとしてしゃがんだ時だった。


右足首に、ほんの小さな痛みが走った。


「ん」


杏々はすぐに立ち上がらず、その場で足を動かさないまま視線だけを向けた。


靴と脚衣の境目。


わずかな隙間に黒い虫が一匹いた。


杏々が指で払うより先に、虫は泥の中へ逃げた。


足首に小さな赤い点が残っている。


杏々は採取袋を閉じた。


まず、呼吸を落とす。


心拍を急に上げない。


刺された周囲の血流を普段より少しだけ抑え、そこから上へ広がろうとする感覚を細かく追う。


ぴりぴりする。


痛いというより、感覚が遠くなる。


「来てる」


足の指は動く。


足首も動く。


だが、動くから大丈夫という話ではない。


受付で言われたことを思い出し、杏々はそのまま湿地の出口へ向かった。


歩幅を小さくする。


急がない。


走れば心拍が上がる。血の流れも速くなる。


杏々は身体の中を意識しながら、一歩ずつ泥の浅い場所を選んだ。


毒そのものを消しているわけではない。


身体の中へ広がる速度を落とし、今いる場所から安全なところまで移動する時間を作っているだけだ。


途中で一度足を止める。


痺れは足首から少し上まで来ていた。


膝までは遠い。


まだ歩ける。


それでも杏々は採取場所へ戻らなかった。


「あと四つだったのに」


少し惜しかった。


だが、戻らない。


湿地の入口近くには、この依頼を受ける冒険者のための小さな詰所がある。杏々がそこまで戻ると、詰所にいた男が採取袋より先に杏々の歩き方を見た。


「刺されたか?」


「うん。右足」


「どこまで来てる?」


「ここ」


杏々が脛の下の方を指すと、男はすぐ椅子を出した。


「座れ。解毒薬持ってるな?」


「ある」


ギルドから渡された小瓶を取り出す。


男は念のため封を確認してから、杏々に飲ませた。


苦かった。


杏々の顔が少しだけ歪んだ。


「まずい」


「薬に味を求めるな」


「苦い」


「効けばいいんだよ」


薬を飲んでも、すぐに足の痺れが消えるわけではなかった。


男は刺された場所を確認し、しばらく杏々の様子を見ていた。少しして、痺れの広がりが止まり、足先の感覚がゆっくり戻り始める。


「もう治ったか?」


「治ってない」


杏々は自分の足を触りながら答えた。


「遅くしてただけ」


男が顔を上げた。


「何を?」


「毒が広がるの」


「……そんなことできるのか?」


「ちょっとなら」


杏々は足の指を動かした。


さっきより感覚が戻っている。


「薬の方が効いてる」


「そりゃそうだ」


男は何とも言えない顔をしたあと、念のため今日はもう湿地へ戻るなと言った。


杏々も頷いた。


夕方、王都へ戻った杏々は、八束だけ入った採取袋を受付へ置いた。


受付嬢が中身を数える。


「八束ですね」


「刺された」


「えっ」


「薬飲んだ」


「痺れは?」


「もうほとんどない」


事情を話すと、受付嬢は一度息を吐いた。


「戻ったんですね」


「戻ったよ」


「残り四束なのに?」


「戻れって言ったじゃん」


「……そうなんですけど」


杏々が不思議そうに見る。


受付嬢は少し笑った。


「いえ。それで正解です」


依頼は目標量未達なので満額にはならなかった。ただ、採取した八束の状態は良く、危険が発生した時点で適切に撤退しているため、依頼失敗としての扱いにもならないらしい。


杏々は報酬を受け取りながら、少しだけ考えた。


「四束、もったいない」


「命より安いです」


「そこまでは危なくなかったよ」


「そういう判断を自分だけでしないための規則です」


「うん」


今度は素直に頷いた。


ギルドを出る頃には、右足の感覚もほぼ元通りになっていた。


ただ、朝から湿地を歩き、毒まで受けたせいか、いつもよりお腹が空いている。


杏々は少し考えてから、近くの食堂へ入った。


頼んだのは、鶏肉と根菜をたっぷり煮込んだ熱いスープと、焼きたてのパンだった。


一口飲む。


温かい。


「おいしい」


毒の話はもう杏々の頭の中から少しずつ遠ざかっていた。


ただし、今日のことを日記へ書く時には、


『毒は遅くできる。でも薬は飲む。八束。スープおいしい』


と、ちゃんと残しておいた。

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