遠いの面倒
白根草の依頼を終えてから数日、杏々はまた王都近郊の仕事をいくつかこなしていた。
緑ランクになったからといって、毎回遠くへ行くわけではない。王都の近くにも中級向けの依頼はあり、危険な場所へ入り込む採集、素材の状態まで指定された討伐、下位ランクの冒険者を含む護衛など、内容は少しずつ違っている。
その日、杏々が選んだのは街道沿いの林で行う樹脂採集だった。
「木の汁?」
「だいたい合ってます」
受付嬢は杏々が持ってきた依頼書を机へ置いた。
「正確には青香樹の樹脂ですね。乾燥させると香油や薬の材料になります。今回はすでに採取口が作られている木を回って、壺に溜まった分を回収する仕事です」
「木切らない?」
「切りません。新しく傷を付けるのも禁止です。依頼人が管理している木だけを回ってください」
「壺取るだけ?」
「そう聞くと簡単そうですが、場所が少し広いんです」
地図を見ると、対象になる林は街道から外れた丘の斜面に沿って広がっていた。管理されている青香樹は全部で十二本あり、それぞれ少しずつ離れている。
「それと、この辺りには羽爪鳥がいます」
「鳥」
「食べる方の反応をしないでください」
「食べない?」
「食べられなくはないでしょうけど、肉が少ないので普通は狙いません」
「そっか」
杏々の興味が少し下がった。
羽爪鳥は人の腕ほどの大きさしかない鳥型の魔物で、林の上部に巣を作る。単体なら大した脅威ではないが、光るものや動く荷物へ興味を持ち、低空から何度も飛び込んでくることがあるらしい。
「樹脂の壺を割られることがありますから、近づいてきたら追い払ってください。ただし巣を探して討伐する必要はありません」
「壺守る」
「はい。あとは樹脂をこぼさず持ち帰れば完了です」
「分かった」
杏々は十二本の位置を一つずつ確認した。
森の奥へ行く仕事ではない。
泊まりもない。
ただ、採集場所が点々としている。
「今日は歩く仕事」
「そうですね」
「終わったらご飯」
「それはいつもです」
◆
青香樹の林までは、王都から二刻ほどだった。
街道を外れて小さな丘を越えると、細い幹の木がまばらに生えた林へ入る。青香樹は名前の通り、樹皮にわずかに青みがあり、近づくと草と柑橘を混ぜたような香りがした。
「いい匂い」
杏々は最初の木を見つけた。
幹には浅い切れ込みがあり、その下に小さな陶器の壺が括り付けられている。
中を覗く。
半透明の粘り気のある液体が溜まっていた。
「これ」
持ってきた栓をし、壺を外す。
代わりの空壺を取り付ける。
木に新しい傷を作ってはいけないので、切れ込みには触らない。
一本目はそれで終わった。
「簡単」
次へ行く。
二本目。
三本目。
四本目。
樹脂の量には多少差があるが、作業自体は難しくない。杏々は満杯になった壺がぶつからないよう背負い袋の中へ布を挟みながら入れていった。
六本目を回収した頃、頭上で羽音がした。
杏々が顔を上げる。
「鳥」
枝の上に一羽いる。
灰色の羽。
脚の先だけが妙に太く、鉤爪が目立つ。
羽爪鳥は杏々を見るというより、その横に置かれた陶器の壺を見ているらしかった。
「これだめ」
杏々は壺を持ち上げる。
羽爪鳥も首を動かす。
「自分のじゃないよ」
通じるとは思っていない。
案の定、鳥は枝を蹴った。
杏々の頭上を一度旋回し、そのまま壺へ向かって降りてくる。
杏々は横へ一歩動いた。
爪が空を切る。
鳥はまた上へ戻る。
「しつこい」
二度目。
杏々は壺を背中側へ回し、飛び込んできた鳥の身体を避けながら翼の横へ手を当てた。
方向だけをずらす。
羽爪鳥は地面近くまで落ちかけ、慌てて羽ばたいて上昇した。
「行って」
杏々は手を振る。
鳥は行かなかった。
「……」
今度は少し高い枝へ止まる。
こちらを見ている。
「まだ来る?」
来た。
三度目の急降下。
杏々は同じように避ける。
今度は鳥が地面すれすれを抜け、少し離れた木へ逃げた。
「追わない」
依頼は鳥の討伐ではない。
壺が無事ならそれでいい。
杏々は樹脂を袋へ収め、次の木へ向かった。
そこで終われば、本当に何でもない仕事だった。
◆
十本目を回収した時だった。
林の少し下、街道の方から大きな声が聞こえた。
「待て! そっちじゃない!」
杏々が振り返る。
木々の間を、小さな荷車が走っていた。
正確には、荷車を引く山駄獣が勝手に走っている。
手綱を持っていたらしい男が後ろから追っているが、追いついていない。
その上では二羽の羽爪鳥が飛び回っていた。
一羽が山駄獣の耳元へ爪を伸ばす。
獣がさらに怯えて走る。
「危ない」
杏々は背負い袋を木の根元へ置いた。
依頼とは関係ない。
けれど、あのまま丘を下れば街道へ飛び出す。
荷車も倒れるかもしれない。
杏々は走った。
山駄獣へ追いつくのは難しくない。
横から並び、手綱を掴む。
「止まって」
もちろん言葉では止まらない。
杏々は真後ろから引かなかった。
走る方向に合わせて斜めへ寄り、少しずつ進路を上り坂側へ向けていく。
急に止めれば荷車が獣へぶつかる。
だから走らせたまま曲げる。
「こっち」
山駄獣は抵抗したが、斜面へ入ると自然に速度が落ちた。
杏々はそこで手綱を短く持ち直し、ようやく止める。
「止まった」
追ってきた男が息を切らしながら近づいてきた。
「助かった……!」
「鳥いる」
「分かってる!」
二羽の羽爪鳥はまだ上にいた。
一羽がまた降りてくる。
杏々は山駄獣と鳥の間へ入った。
近くまで来ればどうにでもなる。
問題は、相手が近くまで来ない時だった。
一羽目は杏々の少し手前で急に上昇した。
もう一羽も高い位置を旋回している。
山駄獣が怯えたように頭を振る。
「遠い」
杏々は周囲を見る。
石が一つ落ちていた。
拾う。
鳥を見る。
近づいてきた方ではなく、少し高い位置を飛んでいる方へ投げる。
当てるつもりではない。
進行方向のすぐ前。
石が枝へぶつかり、大きな音を立てた。
羽爪鳥が驚いて方向を変える。
「そっち行って」
もう一羽にも石を投げる。
今度は少し近い。
鳥の横を石が通り過ぎる。
二羽は一度高く上がり、そのまま林の奥へ飛んでいった。
「行った」
杏々は石の落ちた方を見る。
追わない。
必要なのは、荷車を安全に戻すことだった。
「怪我ない?」
「ああ。俺は平気だ」
男は山駄獣を確認する。
耳の横に浅い引っ掻き傷があるが、大きな怪我ではない。
「こいつも大丈夫そうだ。急に鳥が来てな。荷に付けてた金具が光ったのかもしれん」
「鳥、光るの好きって言ってた」
「そうなのか?」
「ギルドで聞いた」
「なら隠した方がいいな……」
男は荷台から布を取り出し、金具の部分へ巻いた。
「本当に助かったよ。あのまま街道まで出てたら危なかった」
「うん」
「冒険者か?」
「緑」
「中級か。なるほどな」
男は納得したようだったが、杏々は別のことを考えていた。
さっきの鳥。
近くへ来た一羽なら触れた。
でも、上を飛び続ける相手は面倒だった。
成人体へ戻れば、届く範囲も広がる。
跳ぶ距離も変わる。
ただ、あの程度の鳥を追い払うたびに圧縮を解くのも面倒だ。
お腹も減る。
石でも追い払える。
けれど、追い払うだけでは済まない相手だったら。
「……遠いの面倒」
「何が?」
「鳥」
「まあ、空飛んでるからな」
「投げるのあると楽かも」
「石じゃ駄目なのか?」
杏々は少し考えた。
「追い払うならいい」
「倒すなら?」
「ちゃんとしたの欲しい」
男は杏々の腰の剣を見る。
「弓でも使うのか?」
「弓、荷物大きい」
「じゃあ投げ槍?」
「もっと小さいの」
そこで杏々は以前、武器屋で見たものを思い出した。
小さな刃物。
投げるための形をしたもの。
黄ランクの頃にも少し気になったが、その時は金が足りず、買わなかった。
「……あれ」
「何か思いついたのか?」
「たぶん」
今すぐ買いに行くほどではない。
仕事がまだ残っている。
杏々は男と山駄獣が街道へ戻るのを見届けると、自分の背負い袋を置いた場所へ戻った。
樹脂の壺は無事だった。
「よかった」
残り二本。
まず仕事を終わらせる。
◆
十二本すべての青香樹を回り終えた頃には、昼を少し過ぎていた。
杏々は壺を一つずつ確認した。
割れていない。
漏れていない。
規定量もある。
「終わり」
帰り道では、さっきの羽爪鳥は現れなかった。
杏々は街道沿いで一度休み、パンと保存肉を食べた。
噛みながら、空を見る。
鳥が一羽飛んでいる。
ただの鳥だった。
「遠い」
手は届かない。
当たり前だ。
それが今まで大して困らなかっただけだった。
剣が届く距離なら、ほとんど困らない。
自分が近づける場所でも困らない。
崖なら登ればいい。
木なら登れる。
走る相手なら追える。
けれど、相手が空にいて、自分から下りてこないなら話が違う。
「投げるやつ」
杏々は一度だけ呟いた。
それから保存肉をもう一枚食べた。
考えるのは王都へ戻ってからでいい。
◆
ギルドへ戻ると、青香樹の樹脂は問題なく受理された。
「十二本、全部回収できてますね。壺も破損なしです」
「うん」
「羽爪鳥は?」
「来た」
「壺は狙われました?」
「一羽来た。追い払った」
「他には問題なしですか?」
杏々は少し考えた。
「荷車走ってた」
「荷車?」
受付嬢の顔が変わった。
「羽爪鳥に山駄獣が驚いて走った。止めた」
「それ、依頼とは別ですよね?」
「うん」
「怪我人は?」
「なかった。山駄獣ちょっと耳引っかかれた」
「その後は?」
「鳥追い払って、街道戻るの見た」
受付嬢は内容を書き留めた。
「杏々さん自身は?」
「平気」
「戦闘になりました?」
「ならなかった」
「どうやって追い払ったんです?」
「石」
「石?」
「前に投げた」
受付嬢が少しだけ止まった。
「当てたんですか?」
「当ててない。びっくりさせた」
「なるほど」
そこまで聞いてから、杏々が続けた。
「遠いの面倒」
「何の話です?」
「飛んでるやつ」
「ああ」
「来たら触れるけど、来なかったら届かない」
「まあ、それはそうですね」
「小さいまま使える、投げるやつ欲しい」
受付嬢が杏々を見る。
「前にも投擲武器を気にしてませんでした?」
「見た」
「買ってませんよね」
「高かった」
「覚えてたんですね」
「武器は覚えてる」
「人の名前より?」
杏々は返事をしなかった。
「……否定してくださいよ」
受付嬢はため息をついてから、少し考えた。
「投げる武器なら何種類かありますよ。小型の投げ刃もありますし、針に近いものもあります。ただ、選ぶならちゃんと武器屋で相談してください」
「重さ違う?」
「違います」
「形も?」
「違います。投げ方との相性もありますし、持ち歩く本数や鞘も考えないといけません」
「ふうん」
「今から買いに行くんですか?」
杏々は報酬袋を見る。
少し考える。
「今日はご飯」
「そっちが先なんですね」
「武器は逃げない」
「まあ、店がなくならなければ」
「明日見る」
「見るだけで済みます?」
「分かんない」
受付嬢は笑った。
杏々は報酬をしまい、ギルドを出た。
その日の仕事で困ったことは、ほとんどなかった。
樹脂も全部持ち帰った。
壺も割れなかった。
荷車も止めた。
羽爪鳥も追い払った。
それでも一つだけ、今まであまり気にしていなかった不便が残った。
自分から触れない場所にいる相手。
近づいてくれなければ、何もできない距離。
もちろん、工夫すればどうにかなる。
石でもいい。
成人体へ戻ってもいい。
けれど、もっと楽な方法があるなら覚えておいて損はない。
「投げるやつ」
杏々は市場へ向かいながら、もう一度だけ呟いた。
それから肉を焼く匂いに気づき、そちらへ進路を変えた。
武器のことは明日でもいい。
夕食は今日食べるものだった。




