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日陰に咲くふたり  作者:


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4/6

嗤いは災いの元

 藤井臨は、クラスで一番「声がでかい」女の子だった。なんでもかんでも「面白そう!」で突っ走る。


思いつきで行動して、後先考えない。生き物係に立候補したのも、最初は「うさぎ触りたーい!」という単純な理由だった。


 生き物を玩具みたいに扱うところがあった。


 露悪的で、わざと人をからかうのが好きだった。


 誰かが恥ずかしい失敗をしたら、真っ先に大声で指摘して笑う。悪気はない、と言い張るけど、その笑いの裏には「自分が優位に立ってる」という優越感が透けて見える。


 先生の前では少し大人しくなるけど、友達同士の輪の中では遠慮がない。


 でも、根っからの悪人というわけではない。飽きっぽいだけだ。面白いと思ったことは全力で飛びつくけど、面倒くさくなったらすぐに投げ出す。


 だから、そんな藤井から、生き物の世話を受け取ったことについて、原賀は少しだけほっとしていた。




 餌がなくて共食いしている様子などを見るくらいならもう役目を変わった方がましだったのだ。





 生き物コーナーは、笑子と原賀、二人のための狭い領土だった。放課後、教室の隅でザリガニに餌をやり、植物に水をやる時間。


そこには他のクラスメイトがいない。藤井臨の大きな声も、門前小絵の甘ったるい笑い声も届かない。


笑子はいつもの調子で冗談を言い、自分で笑う。


 原賀は黙々と作業をし、時折小さく相槌を打つ。お互いの地雷に、決して踏み込まない。


 笑子は原賀の「笑わない理由」を聞かない。原賀は笑子の「自分の顔をネタにする理由」を責めない。


 そこでは、奇妙な均衡が保たれていた。だが、教室に戻れば話は別だった。休み時間、誰かが原賀に絡む。


「おい原賀、笑子みたいにさあ、もっと笑ったら? もうちょっとマシな顔になるんじゃね?」


 藤井臨がいつもの調子で言った。まわりがどっと笑う。原賀の指が、ぴくりと震えた。笑子の名前を出されるのが、一番嫌だった。




ー笑えばマシになる?安島さんみたいに、自分を笑いの道具にすればいいって言うの?




 原賀は唇を固く結んだまま、視線を落とす。笑子は少し離れたところで、それを見ていた。


 笑子自身も、似たような場面で苛立っていた。自分がクラスを笑わせているとき、みんながゲラゲラ笑っている中、ただ一人、原賀だけが無表情で、どこか痛々しそうな目でこちらを見ている。




ーあの子、私のこと可哀想だと思ってるんだ。




 笑子はそれが苦手だった。


 自分は可哀想じゃない。強いんだ。笑われる前に笑わせることで、誰も自分を傷つけられないようにしている。


 それが自分の選んだ道だ。なのに、原賀の視線は、笑子の仮面を剥がそうとするようだった。


 二人とも、相手を「悪人」だとは思っていない。原賀は思う。




ー安島さんは、悪い子じゃない。ただ、違う生き方を選んだだけ。




 笑子も思う。




ー原賀さんも、きっと辛いんだ。私と同じように、笑うことに何か、思うところがある。





 二人とも、お互い、生きづらい世界をなんとか生き抜こうとしている。それがわかるからこそ、余計に気まずい。


 生き物係の時間以外では、ほとんど目を合わせない。目を合わせたら、相手の痛みが伝わってきそうで。


 相手の選んだ道を、自分が否定しているように感じてしまうから。だから、教室では距離を置く。


 でも、放課後の生き物コーナーでは、黙々と並んで作業をする。言葉は少ない。


 ただ、ジョウロを渡すとき、指が少し触れる。ザリガニの餌を分けるとき、目が合う。


 その瞬間だけ、ほんの少しだけ、空気が柔らかくなる。お互いの地雷原に、踏み込まないように。


 慎重に、慎重に。それが、二人の間の、脆い均衡だった。







 その週、雨は夜通し降り続いて、ようやく明けた頃には校庭のあちこちに水たまりができていた。


 藤井臨は、朝のホームルームが始まる十分前に教室に飛び込んできた。両手をビニール袋で覆い、ずっしりと重そうに抱えている。


 顔は興奮で赤く、目はぎらぎら光っていた。


「ねぇみんな見てー! すげえの拾ってきた!」袋を開けると、中からぬるぬるとした大きな蝦蟇蛙が何匹も顔を出した。昨夜の雨で流れ出たのか、校門近くの側溝にわんさといたらしい。


どれもザリガニと同じくらい、いやそれ以上に大きかった。臨は有無を言わさず、教室の水槽の蓋を開けて、蛙を次々と放り込んだ。どぼん、どぼん、どぼん。


 水槽の中は一瞬で地獄絵図になった。ザリガニが一匹残らずハサミを振り上げ、蛙に襲いかかる。


 蛙は跳ねて逃げ、ザリガニを蹴散らし、水しぶきを上げて暴れ回る。


 戦争が始まった。


 男子たちは水槽の前に群がった。「おおお! ザリガニ勝てるか!?」「蛙強すぎだろ!」「いっけえ!」邪悪な好奇心に満ちた声が飛び交う。


 誰かが椅子を持ってきて、後列の上から覗き込む。女子たちは少し離れたところで、「きゃー!」「気持ち悪い!」「やだぁ!」と悲鳴を上げながらも、指を少し開けて、隙間からその惨劇を覗いていた。


 目を離せないのだ。


 男子も女子も、ただ、残酷なものに引き寄せられていた。


 その喧騒の真ん中で、生き物係の二人だけが、ぽつんと取り残されたように立っていた。


 安島笑子は震える口元を手で押さえていて、原賀暦は両手を強く握りしめていた。




 歓声の隙間に、呻き声と飛沫。無理矢理戦わされた者達の苦鳴。


 生き物を傷つけ合う様子を見て、みんなが興奮して笑っている。


 でも、止められない。




 笑子は、目線をさ迷わせながら、縋るように原賀を見た。


 原賀の横顔は、いつもの強さをまといながらも、唇が微かに震えていた。怒り。そして、深い悲しみがそこにはあった。




 二人は無力だった。




 育ててきた命を、見ず知らずの命とともに、弄ばれている。


 でも、どうすることもできない。


 止めようとしたら、臨に「つまんねー!」と笑われる。


 いや、それどころか。下手すると翌日からいじめの標的にされる。




 二人とも、ただ立ち尽くすしかなかった。水槽の中では、まだ戦争が続いていた。


 教室は歓声に満ちていた。


 その中で、二人はただ黙ってそれを見ていた。


 それ以外にはなにもできなかった。




 教室の喧騒が去ったあと、二人は黙って掃除を始めた。笑子が網で死体を掬い、原賀が水を替え、新しい水草を入れる。


 誰も手伝わない。誰も謝らない。藤井臨はもう次の遊びを探して、教室の反対側で笑っていた。


 生き残ったのは、ザリガニが二匹、蛙が三匹だけだった。


 ザリガニは水槽の片隅でハサミを震わせ、蛙は反対側で体を縮こまらせている。


 互いに睨み合いながらも、もう戦う気力はない様子だった。




「……ごめんね」




 助けてあげられなくて。


 笑子が肩を落としていると、原賀が言う。




「ちょっといい?」




 原賀は下じきをハサミで切り、細長いプラスチックの板を作った。それを水槽の真ん中に立てて、簡易的な仕切りとした。


 ザリガニと蛙が、もう戦わなくていいように。




「…ありがとう、原賀さん」


「別に」




 原賀は素っ気なく返す。当たり前のことだとでも言うように。


 次に、二人は黙々と墓を作った。教室の裏の土手に、小さな穴を二つ掘る。


 一つはザリガニの亡骸用、もう一つは蛙用。死んだ蛙の体は柔らかく、土に触れると崩れそうだった。


 笑子は目を伏せ、原賀は無表情のまま土をかぶせた。墓標代わりに、折れた枝を刺した。それから、原賀がぽつりと言った。




「……安島さんさあ」




 笑子は手を止めた。




「さっき、生き残りの蛙の顔が似てるって言われたじゃん。なんで受け入れるの」




 笑子の肩が、びくりと震えた。




「……いや~~~~~…そうするしかないじゃん」




 声が少し上ずっていた。今その話する?という気持ちである。


 いつものおどけた調子で言うが、原賀には通じないようだった。


 原賀は目を伏せたまま、続けた。




「……そういうことするから余計に笑われるんじゃないの」




 笑子の顔が、初めて曇った。




「…あははっ、なんか喧嘩みたいになるからやめてよ~」




 笑子は笑おうとした。でも、笑顔が引き攣れている。原賀は、小さく、でもはっきりと言った。




「……喧嘩になる方がましだし」




 それ以上、何も言わなかった。沈黙が落ちた。蝉の声が、みーんみーんと響いている。


 初夏の陽射しが、墓の上に降り注いでいた。笑子が、話題を変えた。




「……ってかさあ、蛙どうする?飼う?逃がす?」




 原賀は少し考えて、答えた。




「取り敢えず先生に相談しよう」




 二人は立ち上がり、教室に戻った。水槽の中では、仕切りを挟んで、ザリガニと蛙がまだ震えていた。


 もう戦わない。ただ、生き残っただけ。それが、二人の姿と重なって見えた。中休みのチャイムが鳴った。蝉の声が、少しだけ大きくなる。


 二人は並んで歩き、先生のいる職員室に向かった。背中合わせではなく、肩を並べて。それが、今日の小さな変化だった。




 昼休み。職員室は、いつものように少し埃っぽくて、コーヒーの匂いがした。安堂先生は机に足を乗せ、スマホをいじりながら二人の話を聞いていた。放任主義で有名な先生だ。クラスの問題が起きても「まあ中学生だしな」で済ませるタイプ。


 原賀が水槽のことを説明すると、先生は蛙を一瞥して、のんびり言った。




「学校の近くで放すと、結局また誰かに捕まるんじゃねえか?ちゃんと飼った方がいいかもな」




 原賀は眉を寄せた。




「……かもな、じゃなくて~~~~…っ!……先生も藤井さん止めてくれればいいのに……。それが無理なら、同じ所では飼いたくないです。絶対また戦争ごっこさせられるし」




 先生は手を振って笑う。




「分かった分かった、じゃあ蛙は生き物全滅した隣のクラスにやるんでいいか?」


「また死なされますよねそれ!? ……うちで一旦引き取ります」




 原賀の声に、珍しく苛立ちが混じっていた。


 先生は「助かる~」と軽く手を叩いた。




「じゃあそれで頼むわ。原賀、世話よろしく」




 それで決着がついた。




 昼休みの終わり、笑子と原賀は蛙を小さなプラスチックケースに移した。隣のクラスで生き物が全滅して空になったもの。水槽の匂いが少しだけ湿った土の匂いを残してる。


 生き残りの三匹は、まだ体を震わせている。校門を出て、別れ際。笑子は少し離れたところで立ち止まり、こっそり声をかけた。




「……たまに見に行ってもいい?」




 原賀はケースを抱えたまま、ちらりと笑子を見た。




「いいけど……別に面白くないと思うよ。あと、今度の土日、田んぼのあるおじいちゃんち行くから、その時にそっちに放してくるし」 




 笑子は小さく頷いた。




「分かった! ……原賀さんって、ほんと色々考えてるんだね。すごい」




 原賀は少し目を逸らして、ぼそっと言った。




「……別に。こんなの普通でしょ」




 拗ねたような、照れたような声だった。笑子は、自然と笑った。それはいつもの芸人の仮面じゃない。


 自分を笑わせるためのものじゃなくて、ただ素直にこぼれた笑みだった。共感と、安心と、少しの温かさが混じった笑顔。


 原賀はそれを見て、ふと——頬が緩みそうになった。




ーあ……。




 この子の前なら……笑えるかも……。




 でも、原賀は慌てて頬の内側の肉を噛んだ。痛みが走って、笑みを押し殺す。堪えた。笑子はそれを見て、また笑うの我慢してる……なんで……?とだけ思った。


 理由はわからない。でも、原賀が必死に何かを守っていることだけは、はっきりわかった。


 二人は少しの間、夕暮れの道に立っていた。蝉の声はもう弱くなっていて、代わりに遠くで子供たちの声が聞こえる。


 笑子はケースの中の蛙を見下ろした。




「じゃあ、また月曜日」


「……うん」




 原賀は小さく頷いて、歩き出した。


 笑子はそれを少し見送ってから、自分も反対方向に歩き始める。背中が遠ざかっていく。


 でも、今日は少しだけ、距離が縮まった気がした。蛙が土を求めて前脚で壁を掻き、かすかに水音を立てる。


 二人の間に、初めて生まれた、小さな共通の秘密のように。








 その日から数日、笑子は放課後ごとに原賀の家を訪ねるようになった。


 原賀の家は、駅から二つ目の住宅街にあった。


 古い一軒家で、玄関を開けると少し埃っぽい空気と、猫の毛の匂いがした。リビングは物が散らかり、ソファには洗濯物が山積み。


 母親はパートで遅くまで帰ってこないらしく、父親の姿も見えない。猫が二匹、のそのそと歩き回っていた。黒猫の宵と、茶虎の暮。笑子は撫でたかったが人見知りされてしまったので、自分を制した。


 蛙たちは風呂場に隔離されていた。




「猫が食べちゃうかもしれないからこっちに置いてるの」




 原賀はそう説明して、浴槽に小さな水槽を置いていた。水は毎日替えて、釣り用の赤虫を冷蔵庫から取り出しては与えている。笑子は初めて赤虫を見たとき、顔をしかめた。




「うわ……生きてる……」




 細長い虫が容器の中でうごめいている。




「やってみる?」




 原賀が淡々と聞いた。


 笑子は頑張って箸でつまもうとしたが、手が震えて落としてしまう。虫が床に落ちて這い出す。




「うわっ、ごめん!」




 慌てて拾おうとするが、指先が触れるだけでぞわっと鳥肌が立った。


 原賀は無言で虫を拾い上げ、蛙の水槽にぽとりと落とした。蛙がぱくっと咥える。




「無理にやらなくていいよ」




 原賀の声はいつも通り平坦だったが、どこか優しかった。笑子は風呂場の縁に腰掛けて、蛙たちを眺めた。三匹とも傷は癒えつつあって、元気に水の中を泳いでいる。しばらく沈黙が続いたあと、笑子がつい口を滑らせた。




「原賀さんって……なんていうか……無人島でも生きていけそうだよね」




 原賀の手が、ぴたりと止まった。一瞬、目を見張る。


 笑子は慌てて手を振った。




「いや、変な意味じゃなくて!ほんと、すごいなって思って!私なんか、虫触るだけで震えちゃうのに……」




 笑子の目は真剣だった。馬鹿にした色は微塵もなかった。ただ、純粋な感嘆だけ。原賀は少しの間、笑子を見つめていた。そして、小さく息を吐いた。




「は……」




 その吐息が、かすかに笑いに似ていた。




「何それ……誉め言葉なの?」




 口角が、ほんの少しだけ上がった。


 笑みだった。


 本物の、控えめな、でも確かにそこにある笑み。笑子は心の中で快哉を叫んだ。




ー見た! 今、笑った!!




 初めて見た原賀の笑顔は、想像していたよりずっと柔らかかった。無理に作ったものじゃなく、自然にこぼれたもの。 猫が一匹、風呂場のドアの隙間から顔を覗かせて、にゃあと鳴いた。黒猫の宵ちゃんだ。原賀はすぐに表情を戻したが、頬が少しだけ赤かった。




「……もう帰る時間だよ」


「うん! また明日ね!」




 笑子は立ち上がって、玄関に向かった。ドアを開ける前に、振り返った。




「原賀さん」


「なに?」


「明日も来ていい?」




 原賀は少し目を逸らして、小さく頷いた。




「……別に、いいけど」




 笑子は満面の笑みで手を振った。その日、原賀は風呂場の蛙たちに餌をやりながら、ふと鏡を見た。自分の顔が、少しだけ緩んでいることに気づいて、慌てて頬を押さえた。でも、嫌な気分ではなかった。土日はもうすぐだ。田んぼで蛙を放す日。


 そのとき、笑子も一緒に来てくれるだろうか。原賀はそんなことを、ぼんやり考えていた。





 数日後、原賀は祖父の家の最寄り駅で、笑子を待っていた。




「安島さん、もう予定あるかもしれないけど……もしよければ、一緒に来ない?」




 それは、数日前に原賀の家で言った言葉だった。


 あのとき笑子は、迷わず「行く!」と答えた。原賀はそれが、初めて誰かを「外」に誘ったことだと、自分でも気づいていた。


 友達と呼べる存在なんて、今までいなかった。


 原賀はいつもの無表情に近い顔で、リュックを背負い、手には蛙の入った小さなケースを抱えていた。


 待ち合わせ時間より少し前、笑子は少し派手めなTシャツにデニム、という普段の学校とは違う格好で現れた。


「……来てくれたんだ」


 原賀が小さく呟く。

 笑子はにっと笑った。


「もちろん!楽しみにしてたんだから」



 本当は、笑子には先約があった。藤井臨と門前小絵から「どうして急にドタキャンなの?」とLINEが何通も来ていた。


 ショッピングモールの買い物。楽しみではあったが憂鬱でもあった。笑子は引き立て要員だった。


《家族で旅行行くことになったんだ~ごめんね!》そう返事して、既読スルーした。母親には事情を話したら、意外とあっさり協力してくれた。


「いいじゃない。あんた最近、ちょっと元気なかったし」


 父親も、兄も乗り気だった。


「たまには家族旅行もいいか」

「どんなとこなん?」


 結局近場の温泉旅館を予約して、本当に一家で出かけることになった。


 でも笑子だけは、昼過ぎに「友達と合流するから」と抜け出して、ここにいる。原賀はそれを知らない。知らなくていい、と思った笑子は、ただ明るく手を振った。


 バスでは、一番後ろの席に並んで座った。蛙のケースは原賀の膝の上。時々水音がして、蛙が動いているのがわかる。


「この子たち、もうだいぶ元気になったね」

「……うん。赤虫、よく食べるし」


少しの沈黙。でも、それはもう気まずいものじゃなかった。原賀が小さく息を吐いた。


「……ありがとう」

「え?」

「来てくれて」


 笑子は少し驚いた顔をして、それから優しく笑った。


「私も、誘ってくれてありがとね!」


 バスが田園風景の中を走っていく。緑の田んぼが広がり、遠くに山が見える。

 坂野介おじいちゃんの家は、古い農家だった。縁側に座ったおじいちゃんは、二人を見て目を細めた。


「おお、暦が友達連れてきたんか。珍しいのう」


 原賀は少し頬を赤くして、小さく呟く。


「……友達、じゃないけど」


 おじいちゃんは笑って、蛙のケースを見て頷いた。


「裏の田んぼに放してやり」


 二人はおじいちゃんに案内されて、田んぼのあぜ道を歩いた。水が張られた田んぼの向こうに、夕陽が映っている。


 原賀がケースの蓋を開けた。三匹の蛙が、ぴょんと跳ねて、水の中に飛び込んだ。一瞬水しぶきを上げて、それからゆっくりと泳ぎ出す。もう傷はほとんど癒えていた。自由になった蛙は、すぐに田んぼの奥へ消えていった。笑子はそれを見ながら、静かに言った。


「……よかったね」


 原賀は、小さく頷いた。風が吹いて、稲がざわめく。原賀が、ふと口を開いた。


「……安島さん」

「ん?」

「今日、楽しかった」


 笑子は目を丸くして、それから満面の笑みを浮かべた。


「私も!」


 その瞬間、原賀の口角が——ほんの少しだけ、上がった。笑いではない。でも、確かに、そこにあった。笑子はそれを見逃さなかった。


 口には出さない。だけどその分、胸の奥で、温かい気持ちを噛み締める。


 夕陽が二人の影を長く伸ばす。


 田んぼの向こうで蛙が一匹、けたたましく鳴き始める。


 まるで、ようやっと故郷に帰れたとでも言うかのように。




 二人は並んでそれを聞いていた。


 助けた誇りを小さく灯しながら。

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