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エピローグ

「だ、大丈夫ですか?!」

 遠くで、誰かの焦った声が響いた。亮介は重い瞼をゆっくりと開いた。視界に飛び込んできたのは、見慣れたアスファルトの道路と、冷たいコンクリートの壁。雨に濡れた匂い、車の走行音――それは紛れもなく現世の風景だった。


「お兄ちゃん、大丈夫?!救急車、もうすぐ来るからね!」

 泣きそうな顔で駆け寄ってきたのは、助けたはずの女の子。彼女の顔は、ゴブリンでも、妖精でも、ましてや火竜でもない。どこにでもいる、現世の少女の顔だった。


「……俺、戻ったのか……?」

 かすれた声で呟いた亮介の頭に、つい昨日までの光景が鮮明に蘇る。泥遊びをして笑うダークエルフの娘リリスの瞳。ミノタウロスの父が「高い高い」と豪快に笑い、子どもを抱き上げる姿。常子の優しい声、フレアの誇らしげな背中――それらが、猛烈な頭痛と共に押し寄せ、現実と記憶の境界を揺さぶった。


 意識が遠のく中、亮介は必死にその記憶を手繰り寄せようとした。忘れてはいけない。あの笑顔、あの温もり、あの世界で見た希望。


「……常子さん……」

 その名をかすかに呟いた瞬間、瞼は再び重く閉じ、亮介の意識は闇に沈んでいった。


 道路に響く救急車のサイレンが近づいてくる。現世の喧騒と、異世界の記憶が交錯する中で、亮介の心はまだ、あの森の笑顔に縛られていた。


 *


 次に亮介が目を覚ますと、病院の白い天井が見えた。消毒液の匂い、機械の規則正しい電子音――それは紛れもなく現世の空間だった。


 入院している亮介の元へ、両親が駆けつけてきた。

「亮介!大丈夫なの?!」

 母が、心底心配そうな顔でベッドに駆け寄る。父も来ていた。その表情には、怒りも、失望も、一切なく、ただ心配そうに見守っていた。


「だ、大丈夫……」

 亮介はかすれた声で答えた。


「心配したのよ……!」

 母は、亮介の手を握りしめ、涙ぐんだ。あまり感情を表に出さない母の涙は、亮介にとって予想外だった。


(ああ、そうか……)

 亮介の胸に、静かな気づきが広がった。


 父も母も、不器用で、表現が下手なだけで、もしかしたら自分を大切に思ってくれていたのかもしれない。厳しい言葉やため息の裏には、心配や愛情が隠れているのかもしれない。彼らもまた、『ぴよぴよの森』に来る親のように、愛情の伝え方を知らないだけなのかもしれない…。


 その瞬間、異世界で見たリリスの笑顔や、常子の優しい声が重なった。


 父が、心配そうに自分を見つめているのを見て、亮介は意を決して、ずっと胸に抱えていた問いを口にした。

「あのさ、父さん、母さん……、俺の名前って、どんな気持ちでつけたの…?」


 病室に静かな沈黙が落ちた。時計の針の音だけが響く中、母は少し目を伏せ、やがてゆっくりと口を開いた。


「あなたの名前はね、お父さんが考えたのよ。ね、あなた」

「ああ…」父は短く頷いた。


 母は続けた。

「『亮』という字には、“明るい”“はっきり”“まこと”っていう意味があるの。光が闇を照らして、道を示すように。 それから『介』という字には、人と人をつなぐとか、間に立って支えるっていう意味があるの。だから『亮介』には、“明るく、人を助けられる人になってほしい”って願いを、お父さんが込めたのよ」


 その説明を聞いた瞬間、亮介の胸に温かな光が灯った。 今までずっと低かった自己肯定感の壁が、音を立てて崩れていくのを感じた。自分はただ生まれただけの存在ではなく、両親の願いと祈りを背負って生まれてきたのだ。


(俺は……最初から、愛されて生まれてきたんだ。父も母も、不器用で表現が下手だったけど……ちゃんと俺を思ってくれていたんだ)


 亮介は、涙をこらえながら微笑んだ。

「……ありがとう」


 父と母は黙って頷き、亮介の手を強く握り返した。


 *


 退院後、亮介は大学の勉強の傍ら、保育専門学校にも通い始めた。彼の目標は、幼稚園教諭と保育士の免許を取ること。 「ぴよぴよの森」での経験、特に常子さんが見せてくれた「親の支援」の姿は、彼の人生を方向づけた。誰かの孤独と不安に寄り添い、光を届ける存在になりたい――その思いが、彼を動かしていた。


 そして、亮介は、初めての実習先として決まった地元の地域子育て支援センターの門をくぐった。新しいエプロンに身を包み、胸の奥で緊張と期待が入り混じる。ドアを開けた瞬間、彼は信じられない光景を目にした。


 そこには、見慣れた支援員が、穏やかな笑みを浮かべて座っていた。机の上には、ハーブの香りが漂うお茶のカップ。まるで「ぴよぴよの森」の空気が、そのままここに再現されたかのようだった。


「つ、常子さん?!」

 亮介は驚きのあまり、声が裏返った。


 常子は、いつものように柔らかな笑顔で立ち上がり、亮介に向かって優しく手を差し出した。

「あらあら、亮介くん。お久しぶりねえ」


 その瞳は、「ぴよぴよの森」で会った時と同じように、暖かく、全てを包み込むような光を宿していた。


「きっと来てくれると思っていたわ。また一緒に、親子を支えましょう」


 亮介は、常子の手をしっかりと取り、深く頷いた。胸の奥に熱いものが込み上げる。異世界で培った知恵と、現世で得た確かな目標――その二つが、今ここでひとつに重なった。


「亮介」という名に込められた願い。 “明るく、人を助けられる人間になってほしい”――その言葉が、彼の心に力強く響いていた。


 窓から差し込む午後の光が、二人の手を優しく照らす。 亮介は今、過去の痛みも、異世界の記憶も、すべてを抱きしめながら、本当の人生を歩み始めるのだった。


 おわり

最後まで読んでくださり、ありがとうございました!

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