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7 ダークエルフの闇

この日「ぴよぴよの森」には、ダークエルフ族の母エルザと幼い娘リリスが来ていた。彼らのいるエリアは、まるで冷たい霧が漂っているかのように空気が重く、他の親子も自然と距離を置いてしまうような雰囲気があった。


エルザは、リリスに対して絶えず命令と支配を繰り返していた。

「リリス、この遊びはしてはダメ。汚れるから」

「こっちの積み木で静かに遊びなさい」

「走らない。座りなさい。ママの言う通りにしていれば間違いないのだから」


その声は冷たく、命令のたびにリリスの小さな肩がぴくりと震えた。彼女は何をするときもまずエルザの顔を窺い、許可が出るまで動こうとしない。瞳には感情の光が消え、まるで死んだ魚のように濁った影だけが宿っていた。


時折、エルザはリリスの頭を軽く叩いた。その瞬間、リリスはびくりと身体を縮め、怯えた小動物のように息を詰める。彼女が親を恐れているのは、誰の目にも明らかだった。


それを見ていた亮介は、自分の幼少期の厳しい父親の記憶と重なり、胸の奥から怒りが込み上げてきた。怒鳴られ、否定され、自由を奪われたあの日の自分と、怯えるリリスの姿が重なって見えたのだ。


「ちょっと!子どもを叩いたらいけませんよ!」

亮介は、思わず声を荒げてしまった。広間に響いたその声に、周囲の親子たちが一瞬動きを止め、視線を集める。


エルザは、鋭い視線を亮介に向けた。漆黒の瞳が冷たく光り、まるで刃のような威圧感を放っている。 「あなたには関係ないでしょ!これは、この子の将来のためよ!」

その声は低く、しかし強烈な力を帯びていて、周囲の空気をさらに重苦しくした。


リリスは縮こまり、怯えた瞳で亮介とエルザを交互に見ていた。小さな手は震え、積み木を握る力も弱々しい。


緊張が高まる中、常子はすかさず二人の間に入り込んだ。両手を軽く広げ、落ち着いた声で言う。

「あらあら、亮介くん、ちょっと落ち着いて。エルザさん、ごめんなさいね」


その声は柔らかくも揺るぎなく、場の空気を少しずつ鎮めていった。亮介は眉根を寄せながらも常子の言葉に従い、拳を握りしめて沈黙する。エルザはなおも鋭い視線を向けていたが、常子の謝罪に押され、言葉を飲み込んだ。


しかし、リリスの親子を包む重い空気は消えなかった。周囲の親子たちは再び遊びに戻ったものの、ちらちらと不安げに視線を送っていた。笑い声が響く広間の中で、リリスの周囲だけは冷たい影が漂い続けていた。



その日、親子が帰った後も、広間には重苦しい余韻が残っていた。 亮介は胸の奥に渦巻く怒りを抑えきれず、拳を握りしめたまま常子に詰め寄った。


「常子さん、どうしてあの親に注意しないんですか?!あれって、虐待でしょ!子どもが可哀想すぎます!」

声は震え、怒りと悲しみが入り混じっていた。彼の脳裏には、怯えるリリスの瞳と、自分の幼少期に父から受けた厳しい言葉が重なっていた。


常子は、静かに茶器を手に取り、湯を注いだ。湯気がふわりと立ち上り、張り詰めた空気を少し和らげる。彼女は深く息を吐き、疲れたように溜息をついた。


「亮介くんの気持ちはよく分かるわ。あの子を守りたいと思うのは当然よ」

常子の声は穏やかだが、芯のある響きを持っていた。


「でもね、頭ごなしに否定してしまえば、エルザさんは心を閉ざしてしまう。二度とここへは来てくれなくなるわ。そうなれば、リリスちゃんは支援の場を失い、もっと孤立してしまう。孤立すれば、あの子が危険にさらされる可能性は、今よりずっと高くなるのよ」


亮介は言葉を失い、唇を噛んだ。怒りはまだ胸に残っていたが、常子の言葉が鋭く心に突き刺さる。 (確かに…ここに来なくなったら、リリスちゃんは誰にも見守られなくなる。親の支配の中で、もっと苦しむことになるかもしれない…。最悪、死ぬことだって…)

亮介は現世のテレビで見たことがある、虐待の報道を思い出してゾッとした。


常子は茶を差し出し、亮介の目を静かに見つめた。

「私たちの役割は、親を裁くことじゃないの。子どもを守るために、親の心を少しずつ開いていくこと。そうして初めて、リリスちゃんに安心できる居場所を作れるのよ」


亮介は茶を受け取り、湯気の向こうに常子の落ち着いた横顔を見つめていた。 その穏やかな姿からは、どんな困難も受け止めてしまうような包容力が感じられた。


しかし常子は、目を閉じて、重い口を開いた。

「それにね、亮介くん。実は…私も、過去に、虐待しそうになったことがあるのよ…」


その言葉に、亮介は絶句した。 いつも穏やかで、全てを包み込むような常子からは、想像もできない過去だった。


常子は、静かに自分の記憶を辿り始めた。

「子育てと仕事に追われて、心が折れそうになった夜があったの。仕事で失敗して、家に帰っても家事が山積み。子どもは泣き止まなくて、私の言うことなんて聞いてくれない。頭の中が真っ白になって、手を上げそうになったのよ」


彼女の声は震えていたが、どこか淡々としていた。まるで自分を責めるよりも、その事実を受け入れようとしているかのようだった。

「その瞬間、ものすごい自己嫌悪に襲われたわ。『私は母親失格だ』って。子どもを守るはずの私が、傷つけようとしている…。その恐怖と罪悪感で、涙が止まらなかった」


亮介は茶碗を持つ手に力が入り、湯気の向こうで常子の横顔を見つめた。彼女の瞳には、過去の痛みを思い出す影が宿っていた。


「常子さんが、虐待しそうになったなんて…そんな風に悩んでいたなんて、全く想像できません…」

亮介は、茶碗を持つ手を震わせながら呟いた。


常子は、遠い目をして微笑んだ。

「でもね、亮介くん。これはね、氷山の一角なのよ」


「氷山…?」

亮介は眉をひそめた。


常子は、目の前に広がる苔の床を指差した。

「そう。海に浮かぶ氷山って、水面に見えている部分はほんのわずかでしょう?テレビで報道されるような虐待は、ほんの一握りなの。でも、水面下には、『イライラして手を上げそうになった』『子どもを可愛いと思えなくなった』…そんな経験をした親は、それこそたくさんいるの」


その言葉に、亮介は息を呑んだ。彼の脳裏には、リリスの怯えた瞳が浮かび、同時に自分の幼少期の記憶もよみがえった。父の厳しい声、叩かれた痛み、そして「自分は愛されていないのでは」と感じた孤独。そんな親子が本当はたくさんいるのだ。


常子は静かに続けた。

「でもね、そんなときに、誰かに『辛い』という気持ちを聞いてもらえるだけで、一人で抱えこまずに済むの。『私もそうだったよ』『大丈夫、あなたは頑張ってるよ』って言ってもらえるだけで、心が少し軽くなる。それで、虐待が防げることがあるの。私たちがここにいる意義は、まさにそこにあるのよ」


常子の声は穏やかだったが、その奥には強い信念が宿っていた。彼女の言葉は、亮介の胸に深く響いた。


「私は、おこがましいかもしれないけれど…私と同じように、追い詰められ、手を上げそうになっている親を助けたいと思ったの」


それは、彼女が子育て支援員という職についた、最も深い理由だった。 自分自身がかつて抱えた苦しみと罪悪感――その痛みを知っているからこそ、同じように孤独の中で葛藤している親を見過ごすことはできなかった。常子にとって支援とは、ただの仕事ではなく「過去の自分への贖い」であり、「未来の子どもたちへの祈り」でもあった。


常子は静かに言った。

「エルザさんも、『助けを必要としている人』なのよ。厳しく躾をする裏には、きっと不安や恐れ、孤独が隠れている。子どもを思う気持ちが歪んで表れているだけで、本当は『どう育てればいいのか分からない』迷いの中にいるのかもしれない」


亮介は眉を寄せ、声を荒げた。

「じゃ、じゃあ、どうすればいいんですか?」


常子は落ち着いた口調で答えた。

「話を聞いて、受け止めるの」


亮介は思わず反論した。

「受け止めるなんてできませんよ!子どもを叩くことを、肯定していいんですか?」


常子は首を振り、静かに諭すように言った。

「いいえ。叩くことそのものを受け止めるんじゃないの。そこに『何があったのか』を聞くのよ。例えば――『どんなことがあったの?聞かせてくれない?』と聞けば、『毎日疲れていて、余裕がなくて、誰にも相談できなくて、つい…』という事情が見えてくるかもしれない」


亮介は言葉を失った。常子の言葉は、怒りを否定するのではなく、その奥にある「親の苦しみ」を見ようとしていた。


常子は続けた。

「理由を聞けば、それは無理もないことだと分かる場合があるの。親だって余裕がなければ、子どもに優しくできないこともある。だからこそ、私たちが耳を傾けて、『あなたも辛いのね』と受け止めることが大切なのよ。そうすれば、親は少しずつ心を開いて、子どもを傷つけずに済む方法を探せるようになる」


常子は、茶碗を両手で包み込んだ。

「私たちは、エルザさんを一方的に責めるのではなく、その辛さに寄り添い、自力で変われるように支えていくのよ」


亮介は深く息を吐き、胸の奥で何かが揺らいだ。

森の広間には、薬草茶の香りが漂い、常子の言葉が静かな波紋のように広がっていった。亮介の怒りはまだ完全には消えなかったが、その奥に「支援とは何か」を考えさせられていた。



常子は、リリスの親子が「ぴよぴよの森」に来るたび、静かに、しかし根気強くアプローチを続けていた。 決してエルザの言動を頭ごなしに否定せず、まずは耳を傾ける。

エルザが「汚れるから遊ばせたくない」と言えば、「そうですよね、洗濯が増えると大変ですものね」と受け止める。


子育てワークショップにも、エルザをさりげなく誘った。

ワークショップでは、輪になった親たちがそれぞれの子育ての悩みや工夫を語り合う。

「夜泣きが続いて、眠れなくて大変だったけど、抱っこして歌を歌うと少し落ち着くの」

「うちの子はすぐに泥んこになるけど、楽しそうだから洗濯は諦めてるわ」

「兄弟げんかばかりだけど、仲直りする姿を見ると成長を感じるの」


笑い声や共感のため息が交じり合い、場は温かな空気に包まれていた。


エルザは輪の中に座っていたが、多くを語ることはなかった。腕を組み、表情は硬いまま。けれど、その瞳は確かに周囲の親たちの言葉に向けられていた。

「泥んこ遊びを許す」「夜泣きに寄り添う」「兄弟げんかも成長の一部」――そんな考え方は、彼女にとって新鮮で、これまでの「厳しく躾けることが正しい」という信念とは異なるものだった。


常子は、その様子を静かに見守っていた。エルザが言葉を発しなくても、耳を傾けていること自体が大きな一歩だった。周囲の親たちの笑顔や、子どもを抱きしめる仕草は、エルザの心に小さな波紋を広げていた。


リリスはその間、他の子どもたちと積み木を並べて遊んでいた。母の視線を気にしながらも、ほんの一瞬、隣の子と笑い合う姿を見せた。その笑顔を目にしたエルザの眉が、わずかに緩んだ。


――厳しさの奥にある孤独と不安。その氷を溶かすのは、否定ではなく、共感と交流の積み重ねなのだ。



ある日のこと。 その日は朝から雨が降り続き、「ぴよぴよの森」の窓ガラスには水滴がつたっていた。外の森はしっとりと濡れ、子どもたちの笑い声も少なく、広間はいつもより静かだった。利用者はほとんど来ず、そこに残ったのは、ダークエルフの母エルザと娘リリス、そして常子と亮介の四人だけ。


雨音が屋根を叩く中、広間には微かな薬草茶の香りが漂っていた。リリスは積み木を前にしても、母の顔を窺いながら小さく手を動かすだけ。亮介はその様子に胸を痛め、常子は静かに見守っていた。


やがて、重苦しい沈黙を破るように、エルザがゆっくりと口を開いた。 その声は低く、湿った空気に溶けるように重たかった。


「……どうして、私は、皆とは違うんでしょうか…?」


その言葉に、亮介は驚いて目を見開いた。いつも鋭い眼差しでリリスを支配していたエルザが、初めて弱さを吐露した瞬間だった。


常子はそっと頷き、エルザの言葉を遮らずに受け止めた。

「もしよかったら、エルザさんのこと、お話してくれる?」


エルザは唇を震わせ、視線を落としたまま、ぽつぽつと語り始めた。

「私が子どもの頃は……間違ったことをすれば、棒で叩かれました。親の気に入らないことをすれば、怒鳴られて、部屋に閉じ込められました。『汚すな』『うるさい』『言う通りにしろ』――それが毎日の言葉でした…」


言葉は途切れ、エルザの目から涙がこぼれ落ちた。彼女は声を殺し、必死に泣くまいとしたが、嗚咽は抑えきれなかった。肩が小刻みに震え、長い黒髪が涙で濡れていく。


「……怖くて、反抗なんてできなかった。遊ぶことも、笑うことも、許されなかった。親の顔色をうかがうことだけが、生き延びる方法だったんです」


その言葉は、長い間胸の奥に押し込めていた痛みそのものだった。エルザの瞳には、幼い日の恐怖と孤独が残っていた。


亮介は、その告白に胸を締め付けられた。自分の幼少期の記憶――厳しい父の怒鳴り声、叩かれた痛み、愛されていないのではと感じた孤独――が重なり、心の奥から熱いものが込み上げてきた。


「……わ、わかります」

亮介は、絞り出すように言った。声は震えていたが、そこには心底からの共感が込められていた。

「俺も……同じでした。いつも怒鳴られて、思い通りにならないとため息をつかれて、怖くて、反抗なんてできなかった。『自分にはいない方がいいんだ』って、ずっと思っていました…。この前はエルザさんの事情も知らず、すみませんでした…」


エルザは緩く首を振った。彼女自身もわかっていた。


常子は、そのやり取りを静かに見守っていた。彼女の眼差しは優しく、二人の心が少しずつ癒されていくのを感じ取っていた。


エルザは、震える声で続けた。

「私は……ずっと、自分の親の言う通りにすることが正しいんだと、信じてきました。それしか知らなかったから。だから、リリスにも同じようにするのが当然だと思っていたんです。でも……」


涙を拭うこともせず、エルザは言葉を絞り出した。

「ひろばに来て、他の親子とは違うと思いました。子どもが泣いても優しくして、叩いたりなんてしない。汚れる遊びもさせて、ケンカすればきちんと話して聞かせて、最後には子どもを抱きしめる……」


その声は震え、広間の静けさに溶けていった。雨音が屋根を叩く音だけが響き、空気は張り詰めていた。


常子は少し間を置き、柔らかな声で問いかけた。

「エルザさんは、子どもの頃、どうしてほしかった?」


その問いに、エルザは唇を噛み、やがて押し殺していた感情を吐き出すように語った。

「私は……とても寂しかった。夜になると、ママと一緒のベッドで眠りたかった。たくさんお話をして、笑って、安心したかった。抱きしめてほしかった……でも、そんなことは一度もなかった。いつも怒鳴られて、叩かれるのが怖くて、反抗なんてできなかった。だから……私は愛されていないんだって、ずっと思っていました」


エルザの声は次第にかすれ、涙がまた頬を伝ってぽたりと落ちた。彼女は両手を膝に置いたまま、必死に震えを抑えようとしていた。


「でも、……私はママと同じことをしている…!」


その告白に、広間の空気はさらに静まり返った。亮介も常子も言葉を失い、ただ雨音が一定のリズムで響いていた。まるで、エルザの心の奥底に溜まっていた孤独と痛みを映し出すかのように。


常子はゆっくりと頷き、エルザの涙を否定せずに受け止めた。彼女の眼差しは優しく、長い間凍りついていたエルザの心を包み込むようだった。リリスは積み木を指先でいじりながらも、時折母の方を心配そうに見つめていた。幼い瞳には「ママ、大丈夫?」という思いが宿っていた。


「話してくれて、ありがとう。とても辛く、寂しい思いをしたわね…。そうやって育てられてきたのだから、それしか知らなくて無理もないわ。よく今までがんばってきたわ。泣いてもいいの。笑ってもいいの。エルザさんの気持ちをもっと出していいのよ」


常子の声は柔らかく、責める響きは一切なかった。まるで、凍りついた心に温かな灯をともすように。


「これからは私たちと一緒に考えていきましょう。ここにはたくさんの親子さんも来るから、『こんな親になりたいな』と思えるお手本を見つけるのもいいわ。できそうなことから、少しずつやっていきましょう」


エルザは涙に濡れた瞳を上げ、かすれた声で問い返した。

「……私に、できますか……?」


常子は微笑み、力強く頷いた。

「大丈夫よ。私たちが支えるから。困ったときには相談して。やり方がわからなかったら聞けばいいの。どうしてもうまくいかないときには、リリスちゃんを預けて、少し一人の時間を作ってもいいの。一人で行きたいところに行って、食べたいものを食べて、少しずつ息抜きもしながら、やっていけばいいのよ。子育ては一人ではできないのだから」


その言葉に、エルザの胸の奥で固く閉ざされていた何かが、ほんの少し緩んだ。涙に濡れた頬を伝う雫は、悲しみだけでなく、わずかな希望の光を含んでいた。リリスは母の顔を見つめ、積み木を握る手を止めていた。母の心が変わろうとしていることを、幼いながらに感じ取っていたのかもしれない。


その言葉に、エルザの胸の奥で何かが揺らいだ。長い間固く閉ざされていた心の扉が、ほんの少しだけ開いたように感じられた。


亮介はその光景に胸を締め付けられた。強く見えていたエルザも、実は過去の傷に囚われていたのだ。リリスへの厳しさは、彼女自身が受けてきた「子育て」の再現にすぎなかった。


雨音が静かに広間を満たす中、エルザの涙は止まらず、常子の言葉だけが彼女の心に寄り添っていた。




翌日。支援ひろばの屋外エリアでは、雨上がりの地面が柔らかく、子どもたちが泥遊びに夢中になっていた。小さな手で泥をこね、笑い声を響かせるその光景は、まるで生命の輝きそのものだった。


リリスはいつものようにエルザのそばに座っていたが、泥の感触を確かめるように、じっと他の子どもたちの遊ぶ姿を見つめていた。その瞳には、かすかな好奇心と憧れが宿っていた。


エルザはその視線に気づいた。いつもなら「汚れるからダメよ」と一喝する場面だ。しかし、彼女は大きくため息をつき、諦めたように、けれどどこか優しさを込めて言った。

「……着替えるなら、いいわ」


バッグから汚れてもいい服を取り出し、リリスに着替えさせる。リリスはエルザが「ダメ」と言わなかったことに驚きながら、ゆっくりと泥に足を踏み入れた。冷たい泥の感触、足裏に広がる柔らかさ、そして自由。


その瞬間、リリスの瞳がキラキラと輝いた。声を弾ませて笑い、泥をすくって両手で形を作る。その姿は、まるで心の奥から解き放たれたようだった。


子どもが心から喜び、目を輝かせる姿に、亮介は胸が熱くなり、思わず涙が込み上げた。 かつてはどこか諦めたように、光を失った目をしていたリリス――その面影はもうなく、今そこにいるのは、生き生きとした表情を浮かべる、まるで別人のような少女だった。


常子はそっとエルザの隣に立ち、リリスの輝く顔を見つめながら微笑んだ。

「素敵なお顔ね」


その優しい一言に、エルザは涙ぐみながら言った。

「そう、ですね……。私、ずっとあの子の気持ちを無視していました。私の言うことが全て正しいって信じ込ませて、あの子の心を殺していた。……私は、なんてひどい親なんでしょう」


常子は、ママの肩にそっと手を置いた。

「ひどい親なんかじゃありません。あなたも、みんなも、一生懸命に子育てをしているのよ。ただ、子どもの気持ちも、親自身の気持ちも大切にして、歩み寄る方法を知らなかっただけ」


そして、優しく続けた。

「リリスちゃんの『気持ち』に少しずつ寄り添ってあげましょう。そうすれば、リリスちゃんも、そのように育っていくわ」


エルザは、初めて支援ひろばに来た時とは比べ物にならないほど、穏やかな顔でリリスの泥遊びを見つめていた。親子の関係は、固く閉ざされた支配の鎖から、愛情と理解という新しい絆へと、ゆっくりと変わり始めていた。



親子が帰り、支援ひろばには亮介と常子の二人だけが残った。空気は澄み、子どもたちの笑い声が消えた後の静けさが広がっていた。


亮介は興奮気味に声を上げた。

「俺、びっくりしました!エルザさんが泥遊びをしていいって言うなんて!それに、リリスちゃんの目、常子さん見ました?!もうキラッキラに輝いて……思い出すだけで涙が出そうになります!」


その言葉には、驚きと感動が入り混じっていた。かつては諦めたように曇っていたリリスの瞳が、あんなにも生き生きと輝く姿に変わるとは――亮介にとって、それは奇跡のように思えた。


常子は微笑み、静かに呟いた。

「親が変わると、子どもが変わるのよ。親が悲しくなると、子どもも悲しい。親が笑顔になれば、子どもも笑顔になる。不思議でしょう?でもね、私はこれを何度も見てきたの。だから、子育て支援って辞められないのよね」


その言葉は、柔らかくも確かな重みを持っていた。亮介は深く頷き、リリスの笑顔を思い出した。泥にまみれながらも楽しそうに笑う姿――それは、彼の胸に温かな光を灯す記憶となっていた。


「……いつからでも、変われるんですね」

亮介は小さく呟いた。

常子はその横顔を見つめ、静かに微笑んだ。支援の力とは、奇跡ではなく、親と子の心に寄り添うことで生まれる小さな変化の積み重ねなのだ。


広場に残る二人の間には、雨上がりの澄んだ空気と、未来への希望が静かに満ちていた。


つづく

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