1 新米ママの火竜(フレイム・ドラゴン)
「なんで俺が異世界で…『子育て支援ひろば』で働くとか、マジで意味わかんねえ……」 ごくごく普通の大学生、亮介は、深いため息を漏らした。
ほんの一週間前まで、彼は日本の平凡な大学生だった。就職活動に追われ、面接に落ちては落胆し、アルバイトで小銭を稼ぎながら、友人と居酒屋で愚痴をこぼす――そんな、どこにでもいる青年。特別な才能もなければ、夢を語るほどの情熱もない。まさに「普通」という言葉が似合う男だった。
「異世界っつったら、普通はチート能力で無双するんだろ…?魔法が使えるとかさあ…」 ぼやきながら、亮介は目の前の光景を見渡す。
そこにあるのは、巨大なキノコの傘のような屋根を持つ建物――異世界の子育て支援施設、その名も「ぴよぴよの森」。壁は虹色に輝く鉱石でできていて、昼の光を受けると七色の模様が走り、まるで生きているかのようにきらめく。床にはふかふかの苔が敷き詰められ、歩くたびに柔らかな感触が足裏を包み込む。ほんのり甘い草の香りが漂い、どこか懐かしい安心感を呼び起こす。
外に出れば、果てしなく続く草原。風が吹き抜けるだけで、町も人も影もない。キャンプ経験すらない亮介が、そこで生き延びられる気がしない。だからこそ、この施設に留まるしかなかった。ここには眠る場所があり、食事も用意される。だが――なぜ自分が「子育て支援ひろば」で働くことになったのか、その理由はまるでわからない。
チート能力もない。魔法も使えない。剣を振るう勇者でもなければ、知恵を授ける賢者でもない。そんな自分に課せられた使命とは、一体何なのか。
亮介はもう一度、大きなため息をついた。 その吐息は、苔の上に溶けて消え、異世界の空気に吸い込まれていった。
*
「亮介くん、今日もよろしくね」
背中にズシリと重みのある声がかかった瞬間、亮介は肩をびくりと震わせた。
振り返ると、そこに立っていたのは異世界での上司――「ぴよぴよの森」のベテラン支援員、常子。年齢は五十代ほどだろうか、にこやかな笑顔は、どこか人を安心させる温かさを宿している。エプロンのポケットには木の実やら小さなおもちゃやらがぎっしり詰まっていた。まるで「異世界版・お母さん」そのものの風格だ。
常子は、元々は亮介と同じ日本にいた元子育て支援員だという。異世界に来てもなお、その経験と包容力を武器に、ここで働き続けているらしい。
「常子さん、ここって本当に『子育て支援ひろば』なんですか?モンスターばっかり来ますけど…」
亮介が半ば呆れ顔で尋ねると、常子は腹の底からケラケラと笑った。
「そうよ。だって、親の悩みは世界を越えても同じなの。種族が違っても、子どもは泣くし、言葉を覚えるのに時間がかかるし、夜中に起きて親を困らせるのよ。人間界で『うちの子が言葉を覚えてくれない』とか『夜泣きがひどくて』って相談を受けてきたでしょう?ここでも同じ。違うのは、泣き声がちょっと爆音だったり、夜泣きで炎が出たりするくらいね」
常子はそう言って、亮介の肩を「ドスン!」と叩いた。まるで岩が落ちてきたかのような衝撃に、亮介は思わず前につんのめる。だが、その一撃には妙な安心感があった。
*
「常子さん、なんか、外からすごい威圧感…いや、すごい熱気が近づいてきてますよ…」
開所してしばらく経った頃、亮介は身体の芯を震わせるような、灼熱の魔力の波を感じ取り、常子に囁いた。
常子は、コーヒー代わりの薬草茶を飲みながら、微笑んだ。
「大丈夫よ、亮介くん。あなたに危害を加える熱気じゃない。あれは…、ああ、いらっしゃったわ。今日の利用者さんよ」
「利用者さん…」
「ぴよぴよの森」の入口を覆う、巨大な苔のカーテンが、大きく震えた。そして、そこに現れたのは、息を呑むほどに荘厳な存在だった。
火竜。
紅蓮の鱗は炎のように輝き、巨大な翼はひろばの天井に届きそうだった。威厳に満ちたその姿は、まるで神話から抜け出てきたようだった。
だが、その火竜の、燃えるような金色の瞳は、不安と疲労で揺れていた。彼女は、首にぶら下げた、頑丈な麻袋を、そっと床に下ろした。その中には、規則正しい呼吸音と共に、小さな幼体の気配が二つ。幼体は、まだ人間の赤ちゃんくらいのサイズだ。
「あ、あの……こ、ここが、噂に聞く『子育て支援ひろば』ですか…?わ、私はフレアと言います…」
火竜は、その巨大な口を開き、意外にもか細い、女性の声で尋ねた。
常子さんは、優しく彼女を迎えた。
「ええ、そうです。よく来てくれましたね、フレアさん。今日はとっても良いお天気ですね」
フレアは、常子の気さくな挨拶に、少し戸惑いながら答えた。
「は、はい…。空気が澄んでいて、とても気持ちが良いです」
フレアは、麻袋から幼体の顔が少し見えるようにずらし、恐る恐る、他の利用者さんがいないかを確認するように、周囲を見回した。
「あらあらかわいいお子さんたち。今眠っているのね。その間にゆっくりお話ししましょう。私はスタッフの常子、そしてこちらは亮介くんです」
「はあ…」
フレアは、亮介のエプロンを見て、少し安心したように見えた。
常子と亮介は、火竜の大きさに合わせて用意された、巨大な切り株のテーブルを囲んで座った。最初は、この世界の気候や、幼体の一般的な成長速度などの、世間話が続いた。
「今日の『ぴよぴよの森』は、苔の匂いが特に良いですね。雨上がりだからでしょうか」と、フレアは穏やかに話していた。
しかし、話が子どものことに及び、「ぴよぴよの森」に響く他の親子の楽しそうな笑い声が聞こえてくると、フレアの表情が曇り始めた。
「この子たちは、本当に可愛いのです。この小さな鱗の輝きや、寝息を聞いているだけで、私は…満たされます。しかし…」
フレアは、言葉を詰まらせた。
常子は、何も言わず、ただ温かい目線でフレアを見つめ続けた。子育て支援員としての長年の経験が、ここで焦ってはいけないことを教えていた。必要なのは、安心して涙を流せる時間と空間だ。
そして、ついに緊張の糸が切れたように、フレアはポロポロと涙を流し始めた。その涙は、熱い体温のせいで、鱗の上で「ジュッ」という音を立てて蒸発した。
「私、実はこの子たちに…近づけないんです。私の炎が、勝手に、意図せず出てしまうのです。昨日も、少し熱いミルクをあげようとしたら、鼻先から炎の塊が出て、ミルクポットを溶かしてしまいました…!」
フレアは、巨大な翼で顔を覆い、しゃくりあげた。
「私が、この子たちを傷つけてしまうのではないかと、怖くて。抱き上げることも、ましてや暖めてあげることも、できないのです。私はもう、母親失格なのです…どうかわいがっていいのか、わからなくて…」
常子は、そっと立ち上がり、フレアの燃えるような前足に、自分の手をそっと触れようと手を伸ばした。
「い、いけません!」
フレアは、ビクリと身を引き、その瞬間に反射的に炎を吐いた。制御できない小さな炎の塊が、「ボッ」という音を立てて噴き出し、苔の床を焦がした。
「ごめんなさい!ほら、ご覧の通りです…!」
「大丈夫ですよ、フレアさん。私たちは、焦げたくらいでは驚きません」
常子は、落ち着いた声で言った。
「あなたは、火竜として当然の特性を持っているだけ。どうか、自分を責めないで」
常子は、炎を恐れるフレアの心に、そっと光を当てるように続けた。
「火は、悪いものではありません。むしろ、火竜であるあなたの、愛情を伝えるためのものだ、と私は思います」
フレアは、驚いたように常子を見た。
「愛情…?」
「はい。火竜のお子さんは、本来、他の種族と比べて、遥かに高い耐火性を持っていますよね?それは、親の炎から逃れるためではなく、親の炎に包まれ、『暖かさ』と『安心感』を得て成長するように、そうなっているはずです。あなたの体温と魔力が、この子たちにとって、一番の栄養なんです」
常子の言葉は、フレアの心に静かに響いた。
「でも、私は、今、その愛情を伝える火を、制御できない…」
「それなら、どうすればいいか一緒に考えましょう」
常子と亮介、そして近くで遊んでいたハーピー族のママとドリアード族のママも、心配そうに会話に加わった。
「私も最初は赤ちゃんに触るのが怖かったわあ。ハーピーの雛って羽根が薄くてデリケートでしょう?ちょっと強く掴んだだけで、羽が抜けちゃうんじゃないかって、夜も眠れなかった」
と、ハーピーのママが首を振る。
「そうそう、壊しちゃうんじゃないかって。うちのドリアードの子なんて、葉っぱの身体だから、乾燥させちゃうのが怖くて、ずっと魔法で湿らせてたわ。でも、そうすると今度はカビが生えちゃうって言われてねえ」
と、ドリアードのママが苦笑した。
他のママたちの「私も怖かった」という共感の言葉が、フレアの心を少しだけ和らげた。
「そうですよね。どのお母さんも、最初はみんな不安なのですね…」
常子は、この雰囲気を逃さず、具体的な解決策を話し合った。
「フレアさんの場合は、物理的な防御が必要です。炎が赤ちゃんに直接触れないように、何か…」
常子は、腕組みをして唸った。異世界には便利な魔法具が溢れているが、子育て支援員の経験上、道具はシンプルで、親が使いこなせるものが良いことを知っている。
その時、隅で話を聞いていた亮介が、ぽつりと口を開いた。
「常子さん、あの…、なんか、鍋つかみみたいなのがあれば抱っこできるんですかね…?料理の時、熱い鍋を持つのに使ってた、分厚い手袋みたいな…」
亮介の言葉は、専門的な知識でも魔法でもない、ただの現世の生活の知恵だった。しかし、常子のドワーフとしての技術と支援員の経験を、一瞬で結びつけた。
常子の顔が、パッと輝いた。
「亮介くん、それよ!それだわ!耐熱のレザーで、フレアさんの腕全体を覆うような、大きな鍋つかみ(手袋)を作ったらどうかしら!」
常子は、興奮気味に立ち上がった。
「それがあれば、赤ちゃんに直接炎が当たるのを防げる。そして、手袋は分厚いけれど、フレアさんの体温は赤ちゃんに伝わる。つまり、『安全な抱擁』が実現できるわ!」
その言葉に、周りの親たちも立ち上がって情報を提供し始めた。
「それなら、私たちのドワーフの里の工房に頼めば、すぐ作れるわよ!」と、ドワーフのママが興奮して言い放つ。
近くにいたハーピー族のママが、翼をパタパタさせながら付け加えた。
「材料さえあれば、三日もあればできるんじゃないかしら?うちの夫が、硬質ゴブリンの皮を鞣すのが得意なの。熱を遮断しつつ、体温だけは通すように加工できるわ!」
「あ、ありがとうございます…」
フレアは、目を見開いて皆を見ていた。
「特殊な…手袋を…?私が、この子たちを、安全に抱き上げられるように…?」
その言葉には、希望と、そして失っていた「母親としての役割」への期待が宿っていた。
常子は、フレアの手をそっと取り、力強く握った。
「誰でも、一人目の子は初めてだもの。わからないことだらけよ。私もね、最初は戸惑ったわ」
「そうそう、オムツの替え方なんて、みんな最初は知らないわよ!」と、ハーピーのママが笑った。
「うちは羽根のお手入れだから余計に大変で!」
「ミルクの作り方だって、種族ごとに違うから、私も最初は水草をすり潰す濃度がわからなかったの」と、ドリアードのママが優しく語りかける。
常子は、フレアの瞳をまっすぐに見つめ、強く語りかけた。
「わからないことがあれば、私たちスタッフや『ぴよぴよの森』の利用者さんと、一緒に考えていきましょう。大丈夫。あなたは、この子たちが生まれて、本当によく頑張っているわ」
*
それから数日後。
亮介が運搬と資材の加工補助を行い、常子が工房と密に連携して作り上げた、分厚く、しかし手触りの良い「特殊な皮手袋」が完成した。
再び「ぴよぴよの森」を訪れたフレアは、常子に迎えられ、その手袋を恐る恐る装着した。それは、彼女の巨大な前足をすっぽりと覆う、まさに「火竜用の鍋つかみ」だった。
「フレアさん、この手袋なら、万が一不意に炎を吐いても、お子さんたちは直接傷つきません。そして、この手袋を通して、あなたの体温、つまり『親の温かい愛情』だけが、お子さんに伝わりますよ」
フレアは、麻袋を開け、そのうちの一匹をそっと持ち上げた。それは、彼女が産後、初めて自分の子どもを、恐怖なく抱き上げた瞬間だった。
「ああ…、あったかい…」
子どもは、母親の温かい(そして安全な)抱擁に、気持ちよさそうに身をよじった。この安全なスキンシップが、フレアの心を静かに満たしていく。不安で揺れていたフレアの表情は、見違えるように穏やかになっていった。
「私、頑張ります」
フレアは、手袋を嵌めたまま、子どもをそっと胸に抱いた。
「この子たちを、私の手で、この温かさで、育ててみます」
常子は、満足そうに微笑んだ。
「でも無理はしなくていいからね。困ったら、困ってなくてもいつでも来てください。またゆっくりお話ししましょう。世間話でも、愚痴でも、何でもいい。話して一緒に考えましょう」
「ありがとうございます」
フレアは、感極まったように頷き、翼を広げ、支援ひろばを後にした。彼女の背中は、来た時よりも、どこか誇らしげに見えた。
フレアを見送った後、亮介は、ふと常子に問いかけた。
「常子さんて、本当にすごいですね」
「どうして?」常子は、薬草茶を淹れながら尋ねた。
「話しているだけで、あのフレアさんはだんだんと元気づけられていった。俺が思いついたのは、ただの『鍋つかみ』だけなのに。それを皆の力を借りて形にしていって…」
常子は、茶碗を差し出しながら、優しく微笑んだ。
「周りの親たちも、スタッフもみんな巻き込めばいいのよ。亮介くんみたいに良いアイデアを出してくれる人もいるのだから。特に初めての子育ては、一人で抱え込みがちで、真面目な親御さんほど、誰にも頼れずに、一人でどうしようもできなくなったりするの。そんなときは、育児書だけじゃなく、周りを頼ればいいの。一人で子育てなんて、絶対にできないのだから」
亮介は、その言葉の深さに納得した。
「というか、そもそも、子育て支援って何なんですか…?」
常子は、茶碗を静かに置き、遠くを見つめるように答えた。
「それはね…」
つづく




