第3話 監察官の影
夕刻、列車は臨時停車のため速度を落とした。鉄の悲鳴のようなブレーキ音が車体を震わせ、人々は揺れる体を支え合う。汽笛が二度短く鳴り、やがて重い衝撃とともに停車した。
プラットホームは仮設の板で組まれていた。釘の頭が夕陽に鈍く光り、乾いた木の香りが漂う。降りていく人々の顔には安堵と不安が入り混じる。三十日の始まりと終わりが、このホームですれ違うのだ。
アランは工具袋を肩に掛けたまま、無意識にホームへ出ていた。整備士は停車ごとに点検をすることになっている。だが彼の足は、昨日の老人の言葉に突き動かされていた。外の空気を吸いたかった。大地の匂いを確かめたかった。
ホームの中央に、黒い外套の男が立っていた。
銀の徽章が夕陽を受けて冷たく光る。監察官だった。
人々は視線を向け、すぐに逸らした。関われば厄介事を招く。誰もが知っていて、誰もが知らないふりをする。
監察官の目がアランを射抜いた。足が止まる。胸の鼓動が急に早くなり、手に持ったレンチが重く感じられた。
「……整備士」
低い声が、喉奥を震わせるように響いた。
「は、はい」
アランは思わず背筋を伸ばす。
監察官はゆっくり歩み寄り、影を伸ばすように近づいてきた。
「昨夜、老人と話していたな」
冷や汗が背を伝う。
「……ただの世間話です」
監察官の目は笑っていなかった。
「世間話ならいい。だが“過ぎ去ったもの”を口にすれば、それは秩序を乱す」
アランは唾を飲み込んだ。
「……秩序、ですか」
監察官は顎をわずかに上げ、夕焼けに染まる空を見た。
「秩序は、よくできた嘘でできている」
その一言に、アランの心臓が強く跳ねた。
老人が語った言葉と重なる。だがこれは、権力の中心にいる者の口から吐き出されたのだ。
「嘘……だと、知っているんですか」
勇気を振り絞って問うと、監察官は一歩だけ近づいた。
「知っているとも。大地は死んでいない。川は流れ、草は育ち、鳥は飛ぶ。だが人々にそれを知られては困る。人は真実を知れば、制御を失う」
アランは拳を握った。
「それは支配だ。自由じゃない」
監察官の瞳が鋭く光る。
「支配こそが秩序だ。人が勝手に群れれば争いが生まれる。血が流れる。だから我々は嘘を選んだ。必要な嘘を」
沈黙が落ちた。ホームの喧騒が遠のき、風の音だけが二人の間を吹き抜けた。
アランは唇を噛んだ。言い返す言葉が出てこない。
監察官はその様子を見て、わずかに口角を動かした。笑みではない。挑発の影を帯びた表情だった。
「……若い整備士。お前は針を読む目を持っている。機械は嘘を吐かない。だが人は嘘を吐く。評議会も、人も、皆な」
監察官は背を向け、外套を翻した。
「壊す覚悟があるなら――やってみろ」
その言葉を残し、彼は兵士たちの影に紛れて去っていった。
アランは立ち尽くした。手の中のレンチが汗で滑る。
秩序は嘘で成り立つ。
老人の声と、監察官の声が頭の中で重なり合い、やがて一つの問いとなって胸を突き刺した。
――嘘を守るのか。
――それとも、嘘を壊すのか。




