第2話 老人の記憶
翌日の昼、列車は長い坂を下りながら鉄橋を渡っていた。下方には川が流れ、白い泡を立てて岩にぶつかっている。窓から覗き込む子供が歓声を上げ、母親に肩を引かれてしぶしぶ座席に戻る。
人々は川の清らかさに目を奪われながらも、すぐに視線を逸らす。――自分たちには関係のないものだ、と心の中で線を引くように。
アランは工具袋を肩に下げ、食堂車へと足を運んだ。昨夜の眠れぬ時間がまだ尾を引いている。頭の奥で歯車が空回りし、落ち着きが戻らない。温かいスープを胃に入れれば少しは整うかもしれない、と考えた。
食堂車の窓際には、昨日と同じ老人の姿があった。煤けた外套、白く濁った瞳、そして膝に抱えた革張りの本。アランは迷った末、向かいの席に腰を下ろした。
「また会いましたね」
声をかけると、老人は視線を上げ、皺だらけの口元を緩めた。
「おや、整備士の若造か。昨日は顔色が悪かったが、眠れたのか?」
「……正直、ほとんど眠れませんでした」
アランの苦笑に、老人はうんうんと頷いた。
蒸気が管を走る低い音が、車内の床下から響いている。ウェイトレスが金属の器を運んできて、スープと硬いパンをテーブルに置いた。アランはスプーンを手に取りながら、老人の本に目を向ける。
「それは……昨日の」
「そうだ。お前さん、まだ気になっているだろう?」
老人はゆっくりと本を開いた。厚い紙には、色あせた絵が描かれていた。噴水のある広場、屋台を並べる市場、石畳の道を駆ける子供たち。
どの絵にも、線路は描かれていなかった。
「これは……」
「わしの祖父が見た光景を、そのまた父から聞いて写したらしい。写しを重ねてここまで擦り切れた。だが、確かに人は大地に住んでいたんだ」
老人は指で広場の絵をなぞった。
「昼には市場で声を張り上げ、夕方には家に火を灯し、家族が同じ食卓を囲んだ。夜には歌や祈りがあった。汽車は旅の道具でしかなかった」
アランはスープを忘れ、食い入るように絵を見つめた。
「信じられません……評議会は、土地は毒されていて、長く居れば死ぬと」
老人は窓の外を顎で指し示した。外には、川沿いに伸びる緑の帯が見えている。
「若いの、あれを見てみろ。水は澄み、草は青く、鳥が群れを成している。毒された土地に、あんな律義な四季があるものか」
アランは息を詰めた。心の奥で、何かが音を立てて崩れていくのを感じる。
「じゃあ……なぜ評議会は嘘を?」
老人はスープを一口すすると、低く笑った。
「嘘は便利だからだ。人々を動かすには恐怖が一番手っ取り早い。『大地は死んだ』と教えておけば、人は汽車に縛られる。汽車が動く限り、労働力も物資も掌にある。評議会は、秩序を保つために嘘を選んだのさ」
「秩序……」
アランは呟く。昨日、監察官が口にした言葉と重なる。
老人は彼をまっすぐに見た。
「だが、若いの。秩序のために真実をねじ曲げるのは、人を殺すのと同じだ。人は大地に根を下ろすことでしか、生き物として生きられない」
老人の声はかすれていたが、その瞳は燃えるように鋭かった。
アランは器を見下ろし、冷めたスープをひと口だけ口に含む。塩気が喉を焼いた。
「……もし本当に、大地が生きているなら」
アランは慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「人々は、また地に住めるんでしょうか」
老人は深く笑った。
「もちろんだ。人は土に触れるために指を持ち、火を囲むために声を持ち、空を仰ぐために首を持っている。汽車は牢獄じゃない、本来は翼だったのさ」
窓の外を、群れを成した鳥が横切っていった。
アランは拳を握りしめ、老人の言葉を胸に刻んだ。
――もし評議会が嘘をついているなら。
――自分が見てきた緑が真実なら。
答えを確かめたい。
その思いが、アランの中で確かな形を取り始めていた。




