第1話 線路の上の街
この国では、誰もが汽車で生まれ、汽車で暮らし、汽車で死ぬ。
窓の外に地平線が流れるのを見上げながら、アランは毎朝、同じようにレンチの重みを確かめる。油で黒ずんだ指先に金属の冷たさが移り、指の節々は固く、皮膚は薄い煤で常に灰を帯びていた。彼にとってそれは、顔を洗うより確かな「目覚め」だった。
機関室はいつだってうるさい。歯車の噛み合う音、蒸気弁のさやぐ音、ピストンが上下するたび金属が軋む咆哮。壁に打ち付けられた圧力計は赤と白の目盛りを震わせ、針先は小刻みに震え続ける。アランはその揺れを睨み、針が許容の範囲から外れぬよう、バルブの開閉を数ミリ単位で調整する。
「上出来だ、若いの。今日は機嫌がいいらしい」
隣でボイラーを見張っていた年長の整備士が笑った。煤で白くなった髭に汗が光る。
「機関がか?」
「いや、世界がさ」
軽口だった。だがアランは、冗談をそのまま笑い飛ばすほど器用ではない。彼は時折、機関室の狭い丸窓から外を見やる。線路の両脇に広がる草原は、朝になると薄い霧を纏い、日が高くなるにつれ、霧は千切れて透き通る空へ昇っていく。緑の色合いは季節で変わり、風の向きで寝返りを打つ。どう見ても、死んだ土地の振る舞いではなかった。
「地に降りることは許されている」――誰もがそう教わってきた。
ただし、最長三十日間だけ。
それを越えて留まる者は、監察官に連れ去られ、二度と戻らない。列車の中では常識であり、子どもの頃に聞かされる怪談の一部でもあった。三十という数字は、壁のスケジュール表にも、小さな卓上暦にも、擦り切れた歌の歌詞にも、しつこいほど刻み込まれている。
正午前、アランは工具袋を肩にかけ、中央通路へ出た。通路はいつも湿っていて、鉄板の床に敷かれたゴムは古い靴の釘に裂かれている。食堂車の方からは薄いスープの匂い、パンの焦げた匂い、そして人いきれが流れてきた。なだらかな揺れに合わせて、人々の肩が触れ合い、互いに「すみません」を告げる声はだんだん小さく、やがて無言の頷きへと変わっていく。
この列車に、親しい者は少ない。
誰かが降りれば、三十日後には別れが来る。誰かが乗れば、三十日間だけの隣人だ。だから人々は、名乗る前に距離を測り、笑い合う前に別れの形を心に作る。必要以上に親しくならないことは、暮らしの知恵であり、礼儀でもあった。
食堂車の窓際に空席を見つけ、アランは硬い椅子に腰を下ろす。配られた金属の器には薄いスープが張られ、指で摘めば砕けそうな堅パンが添えられている。スープを口に含み、舌の上で熱を転がす。味は希薄だが、塩と油の痕跡はある。胃が動くのを確かめてから、彼は視線を窓へ投げた。
窓外の草原には帯のような影が走っていた。雲が早い。風向きが変わったのだ。遠く、黒い点がわずかにうごめく。獣か、人の群れか、判断はつかない。列車は一定の速さで進む。通り過ぎるものに名を与える暇はない。与えた名は、すぐに置き去りにされる。
テーブルの対面で椅子が軋み、誰かが腰を下ろした。アランは反射的に工具袋を引き寄せ、視線を上げる。灰色の外套を羽織った老人だった。白い髪に煤をかぶり、皺に囲まれた目は水気を失っているようで、その実、不思議な光を宿している。老人は小さな革張りの本をテーブルに置いた。表紙は指の跡で黒光りし、角は丸く潰れていた。
「そこは、風が漏る」
老人が窓枠の隙間を顎で示す。
「肩に冷えが入るぞ」
「慣れています」アランは答え、わずかに窓を閉めた。金属の枠が擦れ、短い悲鳴を上げる。
老人は本の留め具を外し、ぱら、とページを繰る。紙は厚く、ひどく乾いていた。貼られた絵は、見慣れない建物を描いている。丸い屋根の上に尖塔、石を積んだ壁、広場に噴水。人々が手を繋いで踊っている。背景には、線路が見えない。
「記録ですか」
アランが問うと、老人は首を横に振った。
「記録じゃない。思い出だよ」
「……思い出」
「わしのじゃない。わしの祖父の、さらにその祖父の。似た絵を描いて伝えたのだとさ。昔、人は地に家を建てた。朝は戸口を開け、昼は市場で声を張り上げ、夕方には煙突から同じ匂いの煙が上がった。列車は旅のための道具で、家ではなかった」
アランはスープの器を両手で包んだ。器の縁が震えるのは、自分の手が微かに震えているせいだと気づく。
「評議会は言います。地は毒されていると。降りても三十日以上は危険だと」
老人は窓の向こうへ目を細めた。
「若いの。外を見ろ。風の筋が草をなでている。霧が朝の陽に割れて、谷に落ちていく。鳥が低くも高くもなく飛んで、やがて見えなくなる。――毒に、あの律義さはない」
食堂車の床下で、台車が短くきしんだ。速度がわずかに落ちる。臨時の停車――補給か、巡回点検か。車掌の笛が前方で二度鳴り、鈍い衝撃が連結部を伝ってきた。人々は立ち上がり、荷を抱えて出口に列を作る。降りる者、乗る者。三十日の始まりと終わりが、同じホームですれ違う。
老人は本を閉じ、懐に戻した。
「名は?」
「アラン」
「わしはサロ。老いぼれだ。覚えずともいい」
「覚えます」
老人は笑った。笑うと煤の皺が深くなり、若い頃の顔の輪郭が少しだけ浮かぶ。
「覚えるほどの時間があればな」
列が進み、扉が開くたび、冷たい空気が流れ込んでくる。土と鉄と遠い焚き火の匂い。アランは立ち上がり、敬礼に似た会釈を老人へ送ってから、通路に出た。機関室へ戻る前に、ホームの様子を見ようと思った。
プラットホームは仮設の木の香りがした。釘の頭が陽に光り、板はわずかに反っている。行商の女が布袋を抱えて走り、兵士が無表情に腕を組んで立つ。笑っている者は少ない。笑えば、三十日が短くなる気がするからだ。小さな子どもが母の手を離れ、板の隙間から地面を覗き込んだ。土は暗く湿り、草の根が蜘蛛の巣のように絡み合っている。子どもは指を伸ばし、母に叱られて引っ込めた。
その時だった。
ホームの中央に、黒い外套が一つ立っていた。銀の徽章が胸で鈍く、確信に満ちた光を返す。監察官。人々の視線はそこへ向き、すぐさま逸らされる。関われば面倒を呼ぶ。誰もが知っていて、誰もが忘れたふりをする。
アランは歩く速度を落とした。監察官の視線が、まるで針のように空間を縫ってくる。すれ違う瞬間、彼は思わず目を伏せた。だが、低い声は的確に彼の耳を打つ。
「整備士」
背筋が強張る。
「はい」
「昨夜、老いぼれと話していたな」
喉の奥が乾く。嘘を吐くには、水が要った。
「世間話です。食堂の席が空いていなくて」
監察官はわずかに顎を上げ、ホームの向こうの草原を見た。表情はない。だが、目の動きは早い。
「過ぎ去ったものを口にすれば、人は勘違いする。秩序は、よくできた嘘でできている。嘘だと知った者は二通りだ。黙って守るか、壊してしまうか」
アランは言葉を探した。見つからない。
監察官は視線を戻し、背を向ける前に一つだけ付け加えた。
「……機械は、嘘を吐かない。針は正直だ。お前は針を読める」
彼が去ると、周囲の音が戻ってきた。靴底が木を叩く音、荷車の軋み、遠くの汽笛。アランはしばらくその場に立ち尽くし、やがて自分の呼吸が速いことに気づいた。指先に汗が滲む。掌を握れば、油と煤が混ざってぬるりとした感触が残る。
機関室に戻ると、圧力計の針は素直だった。赤と白の境目の手前、教科書どおりの角度で震えている。アランはバルブを半分だけ締め、耳を近づけて蒸気の囁きを聴いた。金属の壁の向こうで、大気が規則正しく出入りしている。巨大な呼吸。列車は生き物だ。生き物である限り、止まる時がある――そう思い至った瞬間、胸のどこかで何かが音を立てて外れた。
休憩の鐘が鳴り、交代の時間が来る。アランは工具袋を肩に回し、狭い通路を歩いた。窓の外はもう夕方で、陽は斜めに傾き、鉄の枠が床に長い影を伸ばしている。連結部を渡るとき、彼は一歩だけ足を止め、下を覗いた。規則的に枕木が過ぎていく。黒い影が、影を噛むように連なっている。そこに、家を置けるだろうか。そこに、火を囲む円を描けるだろうか。
答えはまだ持たない。だが問いは、確かに手の中にあった。
そして、問いは常に、行き先を指す。
夜、通路の灯りが落とされ、人の気配が薄くなると、列車はとたんに大きな生き物へ戻る。眠りについた街の外側で、怪物が規則正しく呼吸しているようだった。アランは眠れず、工具袋を枕元へ引き寄せ、薄い布団の中で瞼を開けた。天井のリベットを数える癖は、少年の頃から変わらない。十を数える前に眠る日もあれば、百を数えても眠れない夜もある。
この夜は後者だった。
「機械は嘘を吐かない」と監察官は言った。
では、人は。では、評議会は。では、この世界は。
彼は静かに身を起こし、長靴を引き寄せる。通路に出ると、灯りは最小限のランプだけが点いていた。遠くで保線用の小さな車輪が鳴り、床板はわずかにきしむ。息を潜めて歩いていると、窓辺に影が一つ見えた。膝を抱えて座り、外を見ている。輪郭は細く、肩が薄い。少女だった。
アランは、足音をできるだけ殺しながら近づいた。
「眠れないのか」
肩が小さく跳ね、振り向いた瞳がランプの光を受けてわずかに揺れる。
「あなたも?」
「機械がうるさくてね」
少女は窓の外へ目を戻した。闇の底で、草原が月の薄布をまとっている。
「見えるの。線路の向こう、まだ生きてるものがいっぱい」
アランは返す言葉を持たず、となりの窓枠へ背を預けた。外の闇は思ったよりも柔らかく、耳の奥で風の糸がほどける音がした。
その夜、彼は初めて、問いが自分ひとりのものではないと知る。そして、翌朝、彼の世界は静かに、だが決定的に、動き出すことになる。
――三十日という数字の向こう側へ。
――灰の線路の、先へ。