「問い」
幸せに生きることが、人間の、生きる目的であるのか。
苦しみと共に生きる事こそが、私たちのあるべき、と言うより健康な生き方ではないのか。
周知のように、苦しみが癒えることはない。
あるのは、一時的な忘却に過ぎない。
とすればやはり、我々は、苦しみを引き連れて、生きていくしか方法がないように思われるが、
その状態と言うものが、果たして悪なんだと、忌み嫌われるべきものであるのだろうか。
人間は二度、生誕する。
ひとつは、文字通りの生誕である。おぎゃぁと生まれてくる。
ふたつめは、自覚的な生誕である。倫理的な生誕である。
これには悔悟の念をともなう。自覚的な苦しみの、始まりである。
というのも、二つ目の生誕の折に、我々は倫理の剣を受け取るのだ。
それでもって世の中を裁いて回らなければならないが、もっとも最初に裁かれるべき対象は、過去の自分である。
随分と悩みの種を蒔いていたことを、ここで知る。
私には、ここから、人間の真価が問われるものと思うわけである。
人間の真価、つまり自覚的に生きるということが、差し迫って眼前に顕現する。
人間、生きなければならない。生き続けなければならない。
この生きるという事が、難しくなったのが、現代である。自由の国に生まれ、生きる意味合いを喪失した現代に、更なる追い打ちとして、生きることを転嫁する事物は、ごまんとあるのだ。
いったい、自分の生を生きているのか、他人の生を生きているのか、分からなくなってくる。
しかし、徹底して、立たなければならない場所は、自身のこころである。
二度目の生誕時に、これとして決めた、こころである。
まずは、懐疑的にならざるを得ない。
自分自身が、いったい何なのか、解明していく道を、辿っていかなければならない。
いったい、どれが本当の自分であるのか。私も、ちょうど、その道中にあるようだ。
道中は、苦しみを背負って立つ、上り坂。永劫、上り坂かもしれない。
人に優しくなれという。待ってくれ、まだ私は、自分自身すら、知ることが出来ていない人間なのです。
これまで信じてきた言葉が、たちどころに、意味を喪失していく。
幸福、楽しみ、希望、そんなものは、まがい物じゃないのか。いや、本当の意味を知らなかっただけ、受け売りだったと。
言葉は意味を持って初めて、生を支える。自分で探し求め、意味を付帯出来た言葉が、である。
こんこんと眠りにつく。
起きる。
苦しみが待っている。悔悟の流転。それでも、生きねばならぬ。