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大山家の肖像

作者: 吉野楢雄

「こんな成績だと落第させられるわよ」母親の佳子(よしこ)が言った。

「うん」次男の健輔が生返事をする。

「お兄さんは学校で一、二を争う秀才だというのに、肩身が狭いじゃないの」

「うん」

「家庭教師を付けてもらおうかしら」

「それは嫌だ」

「ならもう少し、勉強に身を入れなさい」

「うん」


 昭和の中頃、大阪の天王寺に、産廃処理を生業(なりわい)にする一家があった。大山といって、この辺りでは名の知れた業者であった。生活は慎ましく、上がりを鼻に掛けることはなかった。

 一家の主は健蔵で、元々は芦屋の銀行員であったが、大山家の長女だった佳子の元に婿入りしたのだった。健蔵と佳子夫婦は二男一女に恵まれており、とりわけ長男の健一に期待する所が大きかった。

 次男の健輔は健一と違って学校の成績も悪く、通知表を前に佳子が説教をするのが常であった。

 三人兄妹で一番下の長女の佳恵は、柔和な性格で周りからも好かれており、学校の成績も上々であった。常に健一と比べられて肩身の狭い思いをしている健輔の、良き理解者でもあった。

 一家のある夕げ時、遅れて帰ってきた健輔を佳恵が玄関に迎えに行くと、健輔は服を泥塗(まみ)れにしていた。

「ちい兄さん、またゲームセンターで不良に絡まれたの?」

「ああ」小さい声で健輔は答えた。

「怪我はしてない?」

「床に倒れただけだ」

「お金は取られなかった?」

「ああ」

 佳恵は、健輔の服を(はた)いて泥を落とすと、

「もうゲームセンターに行くのは止めにしてね」

「ああ」

 健輔は生返事をした。

 健輔が台所に入ると健一は嫌な顔をし、

「またゲームセンターか」

「うん」

「それでまた、不良に出くわしたのか」

「うん」

「父さん、健輔をもう行かさないように注意してよ」

 健蔵は、

「健輔、もうゲームセンターは禁止だ」

 健輔は返事をしなかった。

「聞こえたのか」

 佳恵が、

「ちい兄さん、返事をして」

「わかった」

 健輔は不承不承、返事をした。家族5人が揃って食卓に向かい、

「うちの家業は世の中に必要なもので、小さくなる必要はないが、人聞きがそうよろしいものじゃないんだ。息子がゲームセンター通いをしているとなると、悪口を言う人もいる」

「そうだろうね」

 健一が相槌を打つ。

「幸い今の所、事業は安泰だがいつどうなるやらわからない。健輔も、もう少し勉強に身を入れなさい」

「うん」

 健蔵は話を打ち切り、一家は再び食事に向かった。

 健輔はその後ゲームセンター通いを止めたが、今度は古本屋通いを始めた。店頭に並べられた一冊百円の小説を買い漁っては、部屋で読書に勤しむようになった。

 健蔵はこれもあまりいい顔をしなかったが、以前よりはましだと諦めた。


 健一は学校一の秀才で、両親を喜ばせていた。

 小学校4年生から塾に通わせ、欲しがる教材を大きな書店で欲しいままに買い与えた。スポーツは苦手ではなかったが、成績が健一の第一の関心事で、部活動には参加しなかった。

 そんな健一を、健輔は冷ややかな目で見、たまに嫌味を言っては兄弟喧嘩をした。

「うちの事業だって、いつ傾くかわからないんだぞ」

「知ったこっちゃないよ。俺は日雇い人夫でもやって、食って行くさ」

「お前はそれで良くても俺は困る」

「ごみ処理にそんなに勉強が必要だとも思えないが」

「これからはどうなるかわからないんだ」

 そんな口論を時折行い、健輔は諦めて、部屋で古本の小説に向かうのだった。


 健蔵と佳子は時折、事業の今後について話し合った。

「もうこのお仕事は、私達の代で閉じてしまって結構ですのよ。あなたも色々、嫌な目にも遭ったでしょう」

「そんなことないさ。それに、俺が遭わなきゃ他の人が遭うだけだ」

「どうだって良いんですよ、こんな稼業。父が食べるに困って始めたのがたまさか当た

ったというだけで」

「俺に言わせりゃ、銀行よりずっと価値のある稼業さ」

 とはいえ佳子は、銀行員を辞めてここに婿入りするまでの、健蔵の悩んだ様子を覚えている。

 融資先の一つであった大山家に通っていた健蔵を、佳子の父が口説き落として婿に迎え入れたのだった。健蔵が芦屋の銀行員を続けていたら、どうなっていたであろうか? 有能で人格にも恵まれた健蔵のことだから、出世して今頃左団扇(ひだりうちわ)であっただろう。

「あなたにそう言って頂けると、私も本望ですけど」

「とにかく俺が体の動くうちは続けるさ。息子達が引き継ぐかどうかは、様子を見よう。売ってもそれなりの金になることだろう」

「今はとにかく、健輔が心配ね。健一はあのまま大きくなればいい」

「そうだな。佳恵はいい娘に育っていることだし」

「健輔の古本屋通いもそこそこで止めさせて、近所の塾にでも通わせましょう」

 健一は電車に乗って、大手の塾に通っているのだった。

「それくらいが良かろう」

「ぜひそうしましょう」


 健輔は古本屋通いを諦めて、歩いて通える近所の塾の世話になることになった。だが、国語以外の成績は散々たるものだった。

 一方の健一は街の塾でも成績が優れており、中学受験を試みて中高一貫の国立中学に無事入学出来た。

「良かったわね」

 佳子は、発表の掲示板の前で涙した。

「おい、まだ中学受験だぞ」

 さりとて、立ち会った健蔵も感無量であった。

「お父さんは中卒の叩き上げだったもの。学歴では悔しい思いをさせられて」

「とにかく今夜はお祝いだ」

 夕げで家族5人で乾杯し、健一の前途を祝った。

「これで気を抜くんじゃないぞ」

「もちろんさ」

「都会の優秀な生徒が集まって来るぞ」

「塾でも負けてなかったよ」

「健輔からもお祝いしてやれ」

「合格おめでとう」

 くぐもった声で健輔が祝った。

「よく言ってやった。お前は公立中学でしっかりとやれ。スポーツに打ち込むのもいい」

 健蔵は機嫌良く話し、いつもはビール止まりの晩酌に日本酒を続けた。

「ぜひ勉強を続けてね。立派な大学に入って成功するのよ」

 佳子が口を入れた。

「僕はうちの家業を継ぐつもりだよ」

「そんなつまらない了見は要らないわよ。とにかく大きな人間になって」

 佳恵はうれしそうに話に耳を傾け、母の給仕を手伝った。

 健輔が最初に席を立ち、健輔の今後に話題が移った。

「健輔は全うに育ってくれればそれでいい。受験なんて(こと)(ほか)だ」

「そうね。そうしてもう少し性格が明るくなれば」

「ちい兄さんはあれですごくいい人よ。お兄さんの受験の結果もすごく気にしていたし」

 佳恵が口を挟んだ。

「本当か?」

「そうよ。ここ一か月程、寝る前にお祈りをしているのを見たわ」

「そんなところがあるんなら良かった」

 夕げがお開きになり、健一は少し考えて健輔の部屋をノックした。

「お前、俺が中学に合格するようお祈りしてくれたって本当か?」

「知らないよ」

 健輔はぶっきら棒に答えた。

「佳恵が言ってたぞ」

「自分のことを言ったんじゃあないかな」

「ともかくありがとう。お前も少しは勉強に身を入れろ」

「うん」

 健輔は小さな声で答えた。

 健一はドアを閉め、そうして部屋に戻って参考書に目を落とした。


 健一は入学後も勉強の手を緩めず、成績は10番以内で推移した。都会からの生徒はやはり優秀で、どうしても敵わないこともあったが、伍する程度の成績は収めた。

 健一が嫌なのは、友人達で親の職業の話になる時であった。

 役人や大手企業の会社員の子供が多く、健一が、父は産廃会社の経営者だと話すと、周りは物珍しそうな顔をした。表向きは言葉にはしなかったが、ちょっとした違和感を表情にするのを健一は見逃さなかった。

「あんまり儲からなくてさ。親の代で終わりにしようかと言っているんだ」

 話をぼかした。

「もったいないじゃないか」

「いいんだよ、こんな稼業」

「そう言うな。それより明日のテストの準備でもしよう」

 友人が話を打ち切ってくれて、健一はほっとした。親の事情は心苦しいものであったが、一方で、良家の子供達に負けてたまるかという反骨心を健一にもたらした。

 実際に成績で証明してみせ、テストの結果は両親をたいそう喜ばせるものであった。

「あなた、学校で肩身狭くない?」

 一度何かの折に、佳子が健一に尋ねた。

「狭い訳ないじゃないか。人の嫌がる仕事をしていることは、立派なことだ」

 健一は声を大きくして言った。

「それならいいんだけど」

「エリート連中の子供達に負ける訳には行かない」

「がんばりなさい」

 佳子は答え、そうして心強く思った。

「たまには健輔にも発破(はっぱ)を掛けてやって」

「あいつには、もう少ししっかりしてもらわないと困る。たまには勉強の面倒も見るよ」

 

 健輔は、健一が国立中学に入る秀才で、そこでも上々の成績を収めていることは、誇らしく思うと同時に煙たくもあるのだった。

(ごみ処理業者の息子が、どうしてそう優秀である必要があるんだ? そう汗水を垂らして)

 健輔は皮肉っぽく考え、俺は公立中学に進んで普通の労働者の道を歩もうと思うのだった。

 健一が一流の道を進み、家業のお鉢が健輔に回って来たとしても、健輔は断ろうと思っていた。自分には周りとの協調性や指導性が欠けていると、幼心に感じていたのである。

 さりとて、不良の道に近づいて一家を嘆かせることも好まなかった。健一が栄華の道を進んだ時に、足枷(あしかせ)になるような弟であることだけは避けたかった。

「健輔、教科書を見せろ。俺が勉強を教えてやる」

 健一が、声をかけた。

「それは断る」

「どうしてもか?」

「……。俺は自分の力で何とかする」

「それならいいんだ」

 健一は諦め、ドアを閉めた。

 健輔は、以前の古本屋通いで集めた本をあらかた紐で(くく)り、そうして古本屋に売った金で新刊の参考書を手に入れようと思った。


 佳恵は兄二人を同様に尊重し、健一を長男として尊重し、少し劣等の健輔を労わった。少しずつ母の仕事を手伝う一方で、勉強も欠かさなかった。

「あなた、私立の女子中学校に行きたい?」

 ある日、佳子が尋ねた。

「行かない。普通の公立中学に行く」

「お金のことなら心配しなくていいのよ」

「公立中学に行きたい」

「それならそうなさい」

 労わったつもりの佳子は少しがっかりし、そうして心強くも思った。佳子自身も公立の中学高校の出だった。

「あなた、おお兄さんとちい兄ちゃん、どっちが好き?」

 意地悪く聞いてみた。

「どっちも好き」

 佳恵は少し気を悪くした様子で、簡単に答えた。

「二人とも大事にしてあげてね」

「うん」

 この家の、女二人の会話であった。

「あなた、この家の仕事、お兄ちゃんに継いでほしいと思う?」

「うん」

 佳恵はすぐに答えた。

「あんまり儲からないし、人気のない仕事よ」

「いいの」

 佳子はそれだけ聞くと満足し、そうして話を打ち切った。


 健一は部活動の選択に難渋し、そうして卓球部に入った。健蔵が運動部に入ることを勧め、そうしてあまり、時間や労力の掛からない部活動を選んだ結果であった。

 帰宅部にして勉強を優先しようかという気も山々であったが、少しは体を鍛えたいとも思ったのだった。同じことを考えるのか、同期の最人気の選択だった。

 かくして健一はラケットを二本買ってもらい、放課後は卓球台に向かった。時間が来るとすぐに帰宅して勉強机に向かった。

 健輔は、学業優先の兄らしい選択だと少し心の中で笑い、俺はもう少し体を使う部活を選ぼうと考えた。

 健輔は、健一の中学合格後から少し勉強に身が入り、下の下から下の上程度まで成績を上向かせていた。

 健蔵は、通知表を見て声を大きくして褒め称え、佳子も頬を緩めた。誰より健一が喜び、さすが俺の弟だ、この調子で頑張れと発破(はっぱ)を掛けた。佳恵も声にはしなかったものの、心の中で大いに喜んだ。

 健輔は笑いもせず、今度は中の中位迄上げるよとはにかんだ。


 健蔵は会社の経営者として、朝7時には家を出て、丁度夕方6時に帰宅した。特に規模の拡大には興味がなく、定まったエリアの定まった顧客の確保に専念していた。

 大金を手にする訳ではないが、ちょっとした小金持ち程度の実入りは確保していた。

 ベンツの営業マンが日参した時期もあったが、国産車から乗り換えることはなかった。朝食はめざしとみそ汁に決まっており、健蔵を見送ってから佳子は、子供達にパンと洋食を準備した。

 三人の子供を見送った後、佳子は一人、居間のソファーに座り、あれこれとこの家の将来に思いを巡らせた。

 商売(しょうばい)(がたき)というものも特に見当たらず、元銀行員の健蔵は事業をよく統御(とうぎょ)していた。女を作るということもなく、外でも内でも実直な性分なのだった。

 悩みの種だった健輔の素行が収まり、心持ちは穏やかだった。

 成績の良い佳恵に名門女子中学の制服を着せてやりたい考えがあったが、佳恵はそれを嫌った。健輔の成績は伸びており、体育の良くできる健輔をスポーツの進んだ私学に通わせてやろうかとも思ったが、健輔も公立志向なのだった。期待の星の健一は人一倍、家に対する使命感が強く、成績も安定しており、東大に進みたいという希望も現実のものとなりそうな勢いだった。

(我が家も恵まれた一家に育ったものね)

 佳子は、近所で時折耳にする家庭内不和の数々を思い起こし、安堵の息を漏らした。

 家業の承継については考えが定まらなかった。家業に(まつ)わる嫌な思い出の数々が頭をよぎり、大手から時折掛かる事業売却の話がちらついた。

(健蔵の代で売ってしまえば数億のお金になる。肩の荷を取り去って、悠々自適に過ごせばいい)

 子供達に少なくない遺産を遺して、気楽な老後を過ごせるのであった。

(まあまだ分からない。健一の学業と、健輔の更生次第だわ)

 佳子は、夕食の献立を考えようとしたものの手元の新聞に目が行き、景気の先行きの記事に、はや目を凝らした。


 健蔵は、時折持ち込まれる近隣の業者の買収話を軒並み断っていた。中には心動かされるものもあり、規模の拡大による収益の増加を考えたこともあったが、結局は止めた。地場の、(いち)健全企業であり続けようと思ったのである。

 (つま)らない了見だとも思ったが、結局の所、何となくやめたのである。そしてそれは佳子と同意見であった。

「やめましょうよ」

「俺もそう思う」

「このままで続けましょう」

「ああ」

 健蔵は、覇気のないことよと嘆きたくもなったが、結論は変えなかった。


 健一は、卓球の部活にそれなりに付き合う一方、勉強の手を緩めなかった。テストには常に10番以内を目標に取り組み、実際にその圏内で成績は推移した。

 東大が目に入る圏内であった。健一も意識をし始め、案内本を本屋で物色して目を通した。良家の子供達には負けないという精神は健在だった。

 自分の他に気になるのは弟の健輔で、素行不良の過去と成績のパッとしなさが気になった。

 健輔は結局中学受験に興味を持たず、公立中学への進学を決めた。

「俺は多少、スポーツに身を入れるよ」

「そこそこにしておけ」

 健一は答えた。

 健輔は、中学では珍しいラグビー部に入部して、ユニフォームを泥だらけにして帰る日々を始めた。運動神経と体格の良い健輔は、部の期待の星になった。

「おいお前、注目されているそうだな」

 健一が言った。

「そうでもないよ」

「だが学生の本分は勉強だ。両方手を抜くな」

「うん」

 中の中を目指すと話した健輔の成績は、そこよりやや下ではあったが、落第を心配した過去は昔のものとなった。

「俺は平凡な労働者を目指すから、成績は大事じゃない」

(つま)らんことを言うな」


 佳恵は、健輔の更生振りを健一以上に喜んでいた。一家の悩みの種だった健輔が勉強にも多少なりとも真剣に取り組み、平均程度の成績を収めるようになってから、家族に明るさがもたらされた。

 泥だらけで洗濯に出されるユニフォームは、健輔の勲章だった。

 佳恵は、時折もたらされる健輔の怪我を気にし、

「ちい兄さん、あんまり無理しないでね」

「ああ」

「厳しすぎるようだったら、もうちょっと穏やかなスポーツに変えたら?」

「今のままで上等だ」

「そう。勉強も頑張ってね」

「ああ」

 健輔と同じ公立中学に進んだ佳恵は、手芸部に入部していた。家庭的な性格の佳恵らしいと、佳子は喜んだ。佳恵の作ったちょっとした飾り物を玄関に飾り、気の優しいこの末娘を誇らしく思うのだった。

「あなた、何か欲しい物でもない?」

「私は何にもいらない」

「もっといいお洋服が欲しければ、買ってあげるのよ」

「今のままで十分よ」

 欲の少ない娘なのだった。容色にも恵まれ、母親としては息子二人の行く末同様、佳恵の嫁ぎ先も案じられた。

「好きな男の子、できた?」

「特にいない」

「できたらお母さんに教えてね」

「お兄さん二人が恋人のようなものだもの」

 佳恵は冗談っぽくそう言い、佳子は、

「じゃあ、二人を両方とも大事にしてあげてね」

「うん」


 健一は部活の帰りに、本屋に参考書を買いに寄った。金曜日の健一の習慣であった。

 新刊の英文法の参考書が優れていると思ったので買い、腹が減ったので、立ち食い蕎麦で200円のきつね蕎麦を食べて、帰路に就いた。

 部活の仲間とはあまり、(つる)まなかった。無駄話をして和気藹々(わきあいあい)と過ごすというのが、あまり健一の性に合わなかったのである。もともと学業優先で公立中学に進まなかった訳で、目的意識のはっきりした健一には、必要以上の友人関係は余計であった。

 少し遅れて帰宅すると、家族四人は(すで)に在宅だった。

「遅れてごめん」

「そうでもないわよ。すぐにご飯にしましょう」

 夕げを家族全員で囲み、いつもの金曜の夕方であった。健蔵はあまり仕事で接待を受けず、家族優先の良夫賢父と言えるものだった。

 金曜日によくするように、佳子は鍋を支度した。

「今日は良い参考書が見付かったか?」

「薄くて簡潔な文法書があったので買ったよ」

「そりゃよかった。健輔は、今日は怪我をしなかったか」

「肘を軽く擦ったから、さっき佳恵に(ばん)(そう)(こう)を貼ってもらったよ」

「その程度で良かったが、あまり激しいプレーで大怪我をしないように気を付けろ。何しろまだ中学生なんだから」

「うん」

「佳恵は何か作ったかい?」

「ビーズの簡単なお飾りを」

「また玄関に飾ろう」

 健蔵にも諧謔(かいぎゃく)がない訳ではなく、何やら気恥ずかしい父親振りだと思わないでもなかったが、そうするのが正解だと思い、佳子もそうあってほしいと願っているのだった。それに、こういう5人揃っての家族(かぞく)団欒(だんらん)というものも、あと4年とは続かないものとわかっている。

 こういう調子で夕食が終わり、給仕をしていた佳子と健蔵は二人、テーブルに向かい、佳子の食事の間、健蔵はビールを飲んだ。

「お酒はいいの?」

「今日はいいや」

「会社は何もなかった?」

「なさすぎるくらいさ」

「家族の、一番楽しい時期かもしれないわね」

「ああ」

 特に否定する理由もなかった。

 佳子は珍しく、自分から日本酒を取り出して飲み始めた。健蔵も付き合った。

 夫婦は黙って杯を重ね、健蔵はいい夜だと思った。

「あなたがしっかり会社を切り盛りしてくれるおかげで」

 しばらくして佳子が言った。

「誰にでもできる仕事さ」

「そんな訳ないわよ」

「銀行員をしている時より数段楽さ」

「嘘ばっかり。気苦労があるでしょう」

「お義父さんが基礎を固めてあったさ」

「そんなことができる人じゃなかったわ」

 佳子は笑い、打ち切った。

「ところで健一だが」

「ええ」

「ありゃあ性格的に、成績が落ちることはないぞ」

「そうかしら」

「生真面目で、道を踏み外すということが考えられない」

 健蔵自身も、名の通った大学の出だった。

「そうしたら東大かしら?」

「それも法科だろう」

「おもしろいわね、うちの子が東大法学部でございって」

「そう卑下することもないさ」

 佳子は笑って洗い場に立ち、

「事業はもう、私達限りで売って(しま)いましょう」

「お前はそれで良いのか?」

「せいせいするわ」

 二人の会話はそこで終わった。


 健輔は二年生になり、部活動の役職者を決める時期になった。

 主将は、チームのリーダー格の少年が順当に選ばれたが、副主将には健輔を推す声が多かった。性格的に合っているからではなく、黙々と練習を人一倍こなし、技術と体格に優れていたからである。

 健輔はどうしてもとそれを固辞し、結局別の少年が選ばれた。健輔は家族には黙っていたが、健蔵の知る所となり、こっぴどく叱られた。

「馬鹿者! どうして人のために仕事をしようとしないんだ」

「俺にはそんな才覚はないよ」

「そんなものはやっているうちに身に付いてくるものだ。とにかくお前は、絶好の機会を逃した」

 頭ごなしに怒鳴られ、健輔はしばらく家で口を利かなかった。

「お兄ちゃんは、仕事が嫌なんじゃなくて、向いていないと思っただけなのにね」

 佳恵は健一と話した。

「父さんが正しいよ。向き不向きなんて関係ない。人の期待に応えようとしなきゃならない」

 健一は佳恵に(さと)した。

「それにしても、あんなに叱られては可哀想だわ」

「仕方のないことさ。あいつは周りをがっかりさせたんだから」

 健一は健蔵と意見を一にし、佳恵は健輔を可哀想に思ったが、どうにもならなかった。


 佳恵は手芸部で、登紀子という少女と仲良しになった。家は貧しいが品のある娘で、佳恵と最も性が合ったのである。

「この間、ちい兄さんがひどく叱られて」

 佳恵は登紀子に相談した。

「ラグビー部の副主将を引き受けなかったから」

「あら、どうして引き受けなかったの?」

「適任じゃないと思ったから」

「そうだったらしようがないじゃない」

「そうよね」

 佳恵は、登紀子の言葉にほっとした。

「口数も少なくて、人の上に立つことができないと思ったんだって」

「そうじゃない人がやればいいじゃない」

「そうよね」

 佳恵は家の事業のことを考え、何れ(いずれ)の兄が継ぐのだろう、それともお母さんがたまに(こぼ)すように、もう売ってしまうのだろうかと思案した。

 私はどうなるのが一番嬉しいだろうかと考えたが、おお兄さんはもっと偉い人になり、ちい兄さんは会社の経営なんてやりたくないだろうと思い、じゃあ売ってしまうのだろうかと思ったが、それも少し寂しい気がした。

 お母さんはあまり家業のことを良く言わず、嫌なことがたくさんあったからだと言うが、佳恵はそういうことは今までになく、お母さんは本心なのだろうかと考えることがあった。

「ねえ、週末にうちに遊びに来ない?」

 唐突に佳恵に浮かんだ。

「いいの?」

「もちろん」

 特に予定のない週末であった。

「うれしい」

「そうしよう」

 土曜日の午後に登紀子がやって来て、佳恵の部屋でケーキを食べた。

 登紀子は、質素だが清潔感のある服を着ており、これも佳恵の、登紀子を気に入る一因だった。

「ケーキを食べたらどうしよう?」

 佳恵が尋ねた。

「編み物の続きをしましょう。私、持ってきたの」

「じゃあ私も」

 二人は編み物に取り組み、沈黙がちになった。

「私の家、ごみ処理のお仕事、いずれ手放すかもしれないの」

 しばらくして佳恵は話し掛けた。

「どうして? もったいない」

「お兄ちゃん達が、跡を継がないかもしれないの」

「佳恵ちゃんが継いだらいいじゃない」

 そんなことは考えたことがなかった。

「なんならお婿さんをもらって」

「そんなこと、ありえるかしら」

「もちろん私には何にも分からないけど」

 佳恵は少し考えて、

「そうなったら家族は喜ぶかしら?」

「家のお仕事、家族が継いだら、やっぱり嬉しいんじゃないかしら?」

「それもそうね」

 佳恵はそこで話を止め、編み物に向かった。二人は夕方まで続けて、登紀子は家路に就いた。

 佳恵は、信頼する友人の登紀子が、家業を継ぐことは両親の喜びになるのではないかと話したことに、少し心を動かされた。

(でも、ずっと先の話なんだから、ずっとずっと)

 佳恵は、編み物を切りの良い所で切り上げ、佳子を手伝いに台所に入った。

「登紀子ちゃん、優しそうな子だったわね」

「とってもいい子よ」

「どんなお話をしたの?」

「内緒」

 佳子は笑って夕げの支度を続けた。


 健一は内部進学で高校に進んだが、健蔵の予想した通り、成績は下がらなかった。ただ、公立中学から進学してきた学生の中にも優秀な生徒がおり、切磋琢磨に懸命であった。

 学内で常に10番以内を目標にし、東大のしかも法学部に合格するという目標を健一は固めていた。学校も熱心な学業指導に取り組んでいたので健一には都合が良く、塾には通わず帰宅後は10時ごろまで参考書に取り組んだ。

「塾に通わなくて、他の生徒に後れは取らないのかい?」

 健蔵は一度尋ねた。

「うちの教師は塾の教師より優秀だし、模擬試験は受けているので大丈夫さ」

「気が変わったらいつでも言いなさい」

「ありがとう」

 健一はその後、高度な通信添削の会社に申し込み、その後はそこのテキストを中心に勉強を進めるようになった。そこでも一流高校の生徒が成績優秀者に名を連ねており、健一は尚更兜(かぶと)()を締めた。


 健輔のラグビー部が全国大会の予選に出場し、一家は家族を挙げて応援に出かけた。

「健輔、行け!」

 健一は、柄にもなく大声を出して応援し、残りの家族も笑顔で観戦した。

 あいにく一回戦で私学の強豪にぶつかり、接戦で敗退したものの、健輔は2トライをあげて活躍した。

「さすが俺の弟だ」

 健一は、試合の終わった健輔を褒めた。

「兄さんは卓球部じゃないか」

「いや、やはりお前は俺の弟だ」健輔の肩を叩いた。

 健輔は恥ずかしそうに笑い、まあ負けは負けだ、負けるとは思っていたけど、あいつらは多分優勝するよ、俺も今日は運が良かったと、小さく笑った。

 その夜は、100グラム千円の牛肉を佳子が張り込み、家族ですき焼きをした。相変わらず健輔の成績は冴えなかったが、スポーツで一家を喜ばせたのだった。

「府の中学生代表に選ばれないのか、お前?」

 健一が尋ねた。

「高校と違ってそういうのはないんだ」

「なんだ」

 健一はがっかりした。

「まあとにかくめでたいことだ、負けたのは残念だが、強豪相手に2トライは大したもんだ、肉はお前がたんと食え」

 饒舌の健一を目に、一家明るい夕食を囲んだのだった。


 翌朝、健蔵は社長室で新聞を読みながら、昨日の健輔の活躍について考えていた。副主将の役を辞退した健輔を叱り上げたことを思い出し、好みもしない役職を引き受けていたら昨日の活躍はあったであろうかと考え、言葉が過ぎたであろうかと少し後悔した。

 健一の喜びように少し笑みが(こぼ)れ、健輔が不良気味だった頃に兄弟が不和だったことを思い出し、すっかり良くなった、健一は健輔を許した、健輔はプレーで応えた、これで良かったと思った。

 事業は順調で変わったこともなく、特に心配事もないのであった。欠伸(あくび)を噛み殺しながら立ち上がり、処理場に出向いて軽い視察を行った。現場の作業員が廃棄物の解体を行っていた。

「社長、お見えでしたか」責任者が慌てて立ち上がって迎えた。

「いや、別に何もないんだよ」

「そうでしたか。今朝は、撤退した外食店の什器が嵩張(かさば)っておりまして」

「そうかい、邪魔はしないよ」

 健蔵は(きびす)を返して社長室に戻り、煙草に火をつけた。そうして、俺の次にここに座るのは誰だろうと考えた。

 健一にはこの小さな会社では可哀想だと思い、健輔は人の上に立つ種類の人物ではないように思った。佳恵が婿を取るのも一案だが、佳子はそこまでさせたくないと言うのである。

 結局、ここを欲しがる近隣の大手の業者を思い浮かべ、金額ではなく筋の良さで売却先を決めようと思った。


 佳恵の周りも思春期に入り、好きな男子の話で盛り上がるようになった。一番人気はサッカー部の花形選手で、次が学業優秀な生徒であった。二人とも、中々のハンサムなのだった。

「佳恵は誰が好きなの?」

 話好きな女の子が佳恵に振った。

「私は……、そうだな、やっぱり○○君かな」

 特に誰もいないというのはまずいと思い、一番人気の男の子の名を挙げた。

「そうだなってどうして? そんなに好きでもないの?」

「そうね、私、年の近いお兄ちゃんが二人いるので、あまり他の男の子に興味がないの」

 佳恵は正直に答えた。

「お兄ちゃんが好きなの?」

「そりゃあ恋愛対象じゃないけど、気持ちが取られてしまうの」

「そうなの? そういうこともあるのね」

 女の子は話題を替え、佳恵は無罪放免となった。

 放課後の教室の窓からは、グラウンドをランニングするラグビー部員の姿があり、その中には健輔の姿があった。先日の試合で見せた雄姿が思い出され、佳恵は(まぶ)しく思った。

 体格と素質に恵まれたちい兄さんは、その実力を家族に惜しまず披露し、一家を誇り高く感動させたのだった。

(ちい兄さんはラグビーを続けて、プロのラグビー選手にでもなるかしら?)

 そうなったらいいのにと思い、一方で家業のことを考えながら、帰宅の準備をした。


 佳子は、健一の保護者面談で高校を訪れた。校庭では桜が咲き乱れていた。

「健一君は学校のトップです、総合的に成績を見ますと」

「そうなんですか」

 トップテンに入る位だと思っていた佳子は驚いた。

「他の生徒は成績が上下しますが、健一君は安定しています」

「そうなんですか」

「理系を選ぶんでしたら医学部をお薦めしますが、健一君は法学部を志望していますので、文句なしに東京大学をお薦めします」

 健一の希望通りであった。

「このまま成績が下がらなかったらでしょう、先生、もちろん」

「大きく下がらない限り大丈夫でしょう。健一君は真面目な性格ですので、大丈夫ですよ」

 担任は太鼓判を押した。

「卓球部は、続けても大丈夫でしょうか?」

「たいした時間は取りませんし、早くに引退するようになっています。いい体力作りですよ」

 担任は健一を、大いに気に入っている様子だった。

「私も家庭で、一層気を遣うように致します」

 佳子は担任に頭を下げた。

「そうしてあげてください」


 健一は帰宅して、佳子から面談の結果を聞いた。今の学校でトップだという教師の評価は初耳だったが、大方それくらいの結果を残し続けていた。

「東大に行けとか言ったんだろう」

「法学部にしなさいとも」

「決まった話さ」

 健一は大きく出た。

「手を緩めちゃだめよ。大学に入ってから思いっきり遊びなさい」

 健一は笑い、部屋に戻った。

 佳子は夕食後、健蔵に報告した。

「上位10番位に入っているとは思っていたが、トップだとはな」

「私も驚いたの」

「こりゃあ本当に東大だ。もちろん法学部を選ばせて官僚にさせよう」

「めでたい限りね」

「大過なく過ごさせて、穏便に事を進めさせよう」

「ええ」

 洗い物をしながら佳子は、父親が中卒だったことを考え合わせて、笑いを抑えられなかった。久し振りに墓に参って報告しようと思いながら、手を拭った。


 健輔は、ラグビー部を引退してから受験勉強に入った。だがあまり身が入らず、成績は伸び悩んだ。下と中の間位を行き来し、何とか普通高校に進める成績であったが、健輔は工業高校を志望した。

 健一が、

「普通高校の方がつぶしが利くぞ」

 どこで覚えたか、健一はそんな言葉を使った。

「いいんだ。俺は工員になろうと思う」

「ただの工員か?」

「……。そうさな、日本一の工員になるさ」

「お前がそれでいいならいいんだ」

 続けて、

「ラグビーは続けるんだろう」

「いや、もうやめるんだ、あれは」

「どうしてだ?」

 健一は驚いて尋ねた。

「とにかくやめるんだ」

「皆、がっかりするぞ」

「悪いことだがやめるんだ」

「それで次は何をする?」

「帰宅部さ」

 ラグビー部で何か嫌なことでもあったかと健一は(いぶか)ったが、そういう訳でもなさそうだった。

「まあとにかく、受験勉強は頑張れ」

「ああ」


 佳恵は放課後の部室で編み物をしながら、二人の兄のことを考えていた。

 健一は東大に進むことが当然視されていた。東京には行ったことがないが、もちろん日本一の大学で、長兄が進学するとなると、佳恵にも(ほまれ)であった。

 佳子に、おお兄さん、卒業後はどうなるのと訊くと、うまくいけば官僚になるんじゃない、もしくは弁護士とか、そうじゃなければとてもいい会社で働くことになるんでしょうと、はっきりしない答えであった。

 

 一方の健輔は受験勉強に悪戦苦闘しており、府立の工業高校にすら落とされそうな(てい)たらくだった。健一は別段馬鹿にした様子もなく、時折勉強を教えてやっていた。

 心配なのは、健輔が、高校ではラグビーを止めて帰宅部になると言い出したことであった。どうしてやめるのかと家族が尋ねても、もう面倒くさくなったからだ、というような答えしかしないのだった。

「高校に入ったら、気が変わるかもしれないわよ」

 佳子は言うのだが、佳恵にはそうは思えなかった。

「帰宅部になったら、放課後は何をするのかな?」

 佳恵が問うと、

「それは心配ね。昔みたいにならなかったらいいんだけど」

 佳子は答えた。

 悪い友達が出来て不良みたいになり、一家を嘆かせることがありませんようにと佳恵は祈りながら、編み針を進めた。


 健一が大きな模擬試験で全国一位になり、家族は大いに喜んだ。一桁の成績になることは珍しくなかったが、一位は初めてだった。

 佳子は、成績表を持った健一を写真に撮って現像し、健蔵はその写真を棚に飾り、時折眺めては相好を崩した。

「俺はもう、いつ死んでもいいぞ」

「大げさな」

 佳子が笑う。

「文字通り、日本一の息子だ」

「先生からも、当校からは久し振りですと電話がかかってきたの」

「いい牛肉をたらふく食べさせてやれ」

「そのつもりよ」


 健輔は成績が振るわず、無入試の私立高校を滑り止めにして、府立の工業高校の入試に臨み、補欠で合格したが、しばらくして本合格の連絡が来た。

「実に良かった」

 一番喜んだのは、健一であった。

「さすが我が弟だ、あれだけラグビーに優れて入試も突破した。日本一の工員になるさ」

 佳子に喜びを隠さず、(まく)し立てた。

「補欠が本合格になるよう、僕はお祈りしたんだ」

「じゃあ、あなたのお祈りが効いたのね」

「そうとも言わないけど」

「進学後の勉強についてもお祈りしてあげて」

「そこから先は本人次第だ」


 佳恵は手芸部の部長に推挙され、全員一致で就任が決まった。佳恵は副部長に登紀子を選任した。女子生徒が20人ほどの小所帯で、特に決めることなどなかったが、佳恵は身を引き締めようと思い、登紀子と一年間頑張りましょうねと話し合った。

 顧問は家庭科の老教師で、来年で退官の予定だった。二人して教官室を訪れると、

「あなた達は私の最後の生徒なんだからね」

 二人に説いた。

「はい」

「いい作品を作って喜ばせてね」

「はい」

 教官室を離れ、佳恵は登紀子を校庭のベンチに誘った。

「私、三人兄妹の末っ子でしょう」

「ええ」

「人の上に立つなんて、本当は気後れするの。登紀子ちゃんは?」

「私もお姉ちゃんがいるだけだけど、そんなの大丈夫よ」

「そうだったらいいんだけど」

「私、頑張るから、佳恵ちゃんも自信を持って」

「うん」


 健輔は前言通り、入った高校で部活に入らなかった。ラグビー部があり、健輔を知る顧問は残念そうだったが、健輔は翻意しなかった。

 入学後しばらくは大人しくしていたが、そのうち悪い友達に誘われて雀荘通いを始めるようになった。レートは高校生なりだったが、むろん賭け麻雀だった。

 悪いことに、健輔の体格に目を付けた店主が、用心棒を兼ねた、店員のアルバイトに誘い、健輔は乗った。

 健輔のいない夕食の席で、

「何を考えているんだ、あいつは」

 健蔵が嘆いた。

「すっかり更生したと、思っていたのに」

 佳子は同感した。

「構わないんじゃないの、学校が引けてからだろう。高校生がアルバイトをするのは悪くない経験だと思うよ」

 意外に健一は意見を異にした。

「だって賭け麻雀でしょ、健一」

「うちの学校にもいるよ、やってる奴。成績はもちろん悪いけど」そうして、

「あの健一が3時迄、きっちり授業を受けて、落第もせずに卒業してくれれば、それで良しとしなきゃ。僕の卓球だって麻雀みたいなものさ」

 妙な例えで健一は健輔を擁護し、それでも、成績が低迷すれば僕からも一言言うよ、授業に食い込むようなら僕が止めさせる、とにかく健輔を放っておいてやってくれと弁じた。

 夫婦は不承不承納得し、麻雀とアルバイトを止めさせることを諦めた。

 それを聞いていた佳恵は、お兄さん、いやにちい兄さんを(かば)うのね、ゲームセンター通いはあれだけ怒っていたのに、お兄さんも大きくなって考え方が変わったのかしらと思った。

 そうして、用心棒って怖くないかしら、何もなければ良いんだけどと、健輔の身を案じた。

 食事の後片付けを手伝いながら佳恵は、

「ちい兄さんをそのままにしておいてあげてね」

「あなたまで、そんなこと言うの?」

「おお兄さんの言う通りにしたらいいと思うの」

「わかったわ。麻雀もアルバイトも、そのままにさせておくわ」


 健輔の成績は振るわなかったが、それでも平均を少し下回る程度で、アルバイトから帰った後も、多少は学校の勉強をしている節があった。味方に付いてくれた健一の顔を立てる必要があることを感じているらしかった。

「お前、勉強教えてやろうか?」

「いいよ。俺は俺なりに進める」

「解らないことがあったら訊きに来い」

「ありがとう」

 健一の受験も近づいていた。成績は良好で、模擬試験でもA判定ばかりだった。

 卓球部も引退し、家族は緊張感に包まれた。

「そんなに気を遣わなくたっていいんだよ」

 夕食で健一の好物を繰り返し出す佳子に、健一は言った。

「多分、余裕で受かるよ」

「そんなこと言ってちゃ駄目よ」

「それより健輔のことが心配だ。ちゃんとアルバイトは務まっているのかな」

「あんまり話はしないけど、ちゃんとお給料はもらっているみたい」

「麻雀で巻き上げられてなけりゃ、いいんだけど」

「一回でせいぜい数百円の勝ち負けだから、心配するなって言ってたわよ。大丈夫」


 健蔵は社長室で紅茶を啜りながら、子供達のことを考えていた。

 健一は成績が振るい、余程のことがなければ東大に合格するだろうと担任からは聞いていた。

 問題の健輔は、学校が終わると雀荘に向かい、夕方遅くまで麻雀とアルバイトをしていた。最近健輔が、ブランデーの小瓶をプレゼントしてくれ、健蔵は社長室の棚に収めて、今の紅茶にも数滴零(こぼ)したのだった。

 高校生の賭け麻雀と聞いて怒り心頭だったが、アルバイトを兼ねており、まあいいんじゃないのという健一の意見を結局受け入れたのだった。その代わりに、少しでも毎日勉強しろと健一が諭し、成績はそこまで悪いものではなかった。

(まあ健一も健輔もはや、10代の後半で、俺も佳子も30年もすりゃ棺桶の中だ。兄妹三人で、良きに計らえばいい)

 やや他人事の様に考えた。

 佳恵は手芸部の部長になり、多少の気苦労はあるんだろうが、毎日明るく学校に通っている。顔立ちに優れ、同級生の男子生徒から人気もあるだろうが、口にはしない。玄関の棚に飾る佳恵の手芸品も増えた。

(あれに婿を取らせて事業を継がせるか?)

 少し考え、佳子が嫌がるのを思い出して打ち消した。

 さっき、もう子供達も概ね健全に育ち、手が離れる手前だと考えたのを思い出し、そうだ、行く行くは三人で話し合って決めればいいだけのことだと、突き放した考えに至った。

 義父が中卒で苦労したという話を佳子に聞かされていたので、もう4年もすれば子供達も高校を出る、最低限のお務めはそこでこなしたと誇れるのではないかと考えながら、紅茶を飲み干した。


 佳恵は放課後の部室で、部員達と編み物をしていた。黒板の前では、顧問も同様に黙々と編み針を進めていた。

 下級生が作業に行き詰まると大方、佳恵と登紀子が対応し、それでも解決しない場合には、顧問に相談した。顧問は対応して多少の助言を与え、そうして生徒は作業を続行した。

 静かな部室であった。佳恵も兄二人と同様、スポーツは苦手ではなかったが、あまり好まなかった。

(ちい兄さん、良かったわね、お父さんからお許しが出て)そんなことを考えた。

 健一まで雀荘の件に反対していれば、止めさせられていたことだろう。

 ちい兄さんは、無事高校を卒業出来れば、何になるんだろうと考えた。

 ラグビー部で活躍していた頃は、兄さんがラグビー選手になればいいのにと夢見たことがあった。中学限りでラグビーを止めたことにがっかりしたのは、佳恵も同様であった。

(麻雀って、ラグビーより面白いのかしら?)

 健蔵が多少囲碁を(たしな)む以外は、ゲームごとに縁がない一家だった。放課後の教室で将棋に興じる男子生徒を傍目(はため)に眺め、男の人はこんなことが好きなのねとぼんやり感じ、一方でそういう生徒は成績が総じていいことを考えて、ならちい兄さんは例外ね、それとも麻雀はゲームごとの例外なのかしらと可笑(おか)しく思った。

「それでは今日は、ここまでにしましょう」

 時間が来て、佳恵が部員達に告げた。

「はい」

 部員達はそれぞれ後片付けをして、部室を離れた。

「今日も特に、問題ごとはありませんでした」

 佳恵は顧問に報告した。

「良かったわね。この調子で後半も進めましょう」

 そうして佳恵に、

「健輔君は元気にしているの?」

「はい、天王寺工業高校の機械科で勉強しています」

「ラグビーは続けているの?」

「いえ、もうやめてしまいました」

「そう、残念ね。でも、健輔君の考えがあるでしょう。よろしく伝えておいて」

「はい、ありがとうございます」

 アルバイトをしていることを話そうかと思ったが、雀荘というのが顧問にどう思われるかわからず、やめた。そうして佳恵は、登紀子と部室を離れた。

「先生、健輔さんのこと、覚えていたわね」

「ありがたい話よね」

「健輔さん、ラグビーの花形選手だったものね」

「今は、雀荘の常連客兼用心棒だけど」

 佳恵はおどけた。

「きっと大きな人になるわよ、いずれ」

「そうだったらいいんだけど」


 健輔は今月分のアルバイト代を受け取り、家路に就いていた。

 数万のことではあるが、仕事の対価を得るというのは充実感のあるものであった。ウエイターを兼ねており、問題が起こった時の用心棒代というだけのものでもなかった。

 最初の給料で若干のプレゼントを両親に渡すというのは、佳恵の勧めであった。

「あんまり高いものじゃない方がいいわよ」

「じゃあ、何がいいかな」

「お父さん、紅茶が好きでしょ。ブランデーの小瓶がいいよ、紅茶に入れるの」

 そんな会話をして、プレゼントの運びとなったのであった。

 佳子へは、健輔自身の発案で洗い場のタオルを買った。いずれも千円程度のものではあったが、両親は大げさに喜んで見せ、健輔は恥ずかしくなり、言葉少なに部屋に立ち去ったのだった。

 健一と佳恵にも何か買ってやろうかとも思ったが、それは気が引けてやめた。自分には象牙の麻雀牌を買いたいと思いながらも、家で打つことはなく、高価なものでもあり自重している。

 麻雀仲間に時折チャーハンなどをご馳走する他は、遣う当てはなかった。雀荘で覚えた酒は嫌いではなかったが、ビールを付き合い程度に(たしな)むくらいで抑えている。

 (わず)かばかりのバイト代をせっせと貯金するというのも性に合わなかったが、結局の所さしたる使い道もなく、引き出しの封筒に収めることになっていた。

(兄貴と佳恵の入学祝いに多少奮発してやろう)

 そう考えて、玄関のドアを開けた。


 大学入試のセンター試験が近づき、健一もさすがに緊張感に包まれた。愛用している通信添削会社のテキストと市販の攻略本で、最低でも9割、出来れば9割半程の成績を収めたいと考えていた。

 佳子も気が張る毎日で、料理に気を遣った。試験前日には好物のカツ丼を作った。

(げん)がいいでしょ、受験に勝つだから」

 いつもはそっくり平らげる健一であったが、さすがに緊張するのか、カツはすべて食べたがご飯は少し残した。

 余裕で合格すると家では豪語している健一だったのだが、さすがに食欲が削がれている様子で、佳子はからかおうかとも思ったがそういう雰囲気でもなく、淡々と丼を引いて、

「今日は早くお風呂に入って寝なさい」

「うん」

「佳恵がシュークリームを買ってきたけどどう?」

「少しもらおうか」

 食欲がないところを気を遣ったのか、健一は一つを半分に割って食べた。

「まあ余程のことがなければ大丈夫さ」

 いつもの強がる台詞(せりふ)であった。

「そりゃそうよ、あの成績だったんだもの」

 佳子は、話を合わせた。

 その夜佳子は、健一が風呂に入って部屋に戻るのを待って、棚から普段は伏せてある亡父母の写真立てを取り出した。鏡台の上に置いてしばらく眺め、そうして手を合わせて、健一の明日の成功を祈った。


 翌日の夕方、健一は頬を緩ませて帰ってきた。手応えが良く、唯一苦手にしている生物が良く出来たからだという。

 翌々日も機嫌良く帰宅し、夜の解答速報をテレビで見て、9割5分に達したよと話した。

 次の日学校で集計があり、健一は学校でトップだった。本試験までに多少の優位を確保出来たことで、健一は笑顔で帰宅した。

「おお兄ちゃん、良くできたんだって?」

 佳恵が話しかけた。

「上出来だ、吉兆だよ」

「良かったわね、本試験も頑張って」

「ああ。佳恵の買って来てくれたシュークリームが効いたよ」

「まあそんな」

 健蔵も心配は山々だったが、おくびにも出さないよう努めていたところ、結果を聞くと安堵の溜め息を漏らし、とにかく良かったと健一を褒め称えた。少し遅れて帰って来た健輔は結果を聞いて笑顔を見せ、そりゃ良かったと一言言った。

 健一は終始笑顔であったが、それでもさすがに疲れがあったと見え、風呂を終えると早々に電気を消して寝込んだ。

 

 翌月の本試験でも健一は実力通りの力を見せて、東大法学部に合格した。

「死んだお祖父ちゃんやお祖母ちゃんも、泣いて喜んでいるわよ」

 佳子は合格電報を前に、涙ぐんで喜んだ。健一も感無量であった。

「僕は東京に行くけど」

「ええ」

「この家のことをしっかり守ってね」

 家族思いの健一らしい一言だった。それを聞いて、佳子は涙を(こぼ)した。

「お父さんと二人、頑張って健輔と佳恵を育てるわ。あなたは何も心配しないで」

「盆と正月には必ず帰省するから」

「楽しみに待っています」

 その夜は肉屋で一番の肉を買って、すき焼きで祝った。

「事業のことなら心配するな」

 健蔵は、宴の終わり掛けに健一に言った。

「お母さんと相談して何なりと処理する。お前は希望通り官僚になれ」

「いや、まだ決めたわけじゃないんだ」

「いや、東大法学部に進むからにはそうしろ。お前もそれが本望なんだろう」

「今の所そうだけど」

「ぜひそうしろ」

 健蔵は佳子にコップを用意させ、健一にビールを注いだ。健一は、まだビールの味がわからない年ではあったが、一気に飲み干した。

「もっと飲め」

「いやもういいよ」

「じゃあやめておけ」

 健蔵が自分のコップにビールを()ごうとした所、佳子が、

「健一、お父さんに注いであげなさい」

「うん」

 いつもは母親のする仕草を健一はした。健蔵は一気に飲み干し、

「もう一杯注いであげなさい」

「うん」

 夕食が終わる頃、健輔が帰ってきた。佳子が健輔に合格を報告すると健輔は、

「そりゃ良かった」

「それだけ?」

「……。本当に良かった。おめでとう」健輔は恥ずかしそうに言った。

「ありがとう。次はお前だ」

「俺には何にもないよ」

「きっちりと高校を卒業して、日本一の工員になると言ってたな、それで行け」

 健一は健輔の言葉を覚えていた。

 健輔は恥ずかしそうに笑い、俺は俺なりにやっていくよと答えた。そうして食卓に着いて、すき焼きを食べ始めた。

「うまいね、この肉」

「肉屋さんで一番の牛肉を張り込んだのよ」

「俺も高校を無事卒業出来たら、食わせてほしいな」

「もちろよ」

 遅れて帰ったことは仕方なく、そうして健輔も控えめながら、兄に祝いの弁を述べたのである。

 佳子はその夜、湯船に浸かりながら、この一家のハイライトの一日だったわね、もう二度とこんなことはないかもしれないと思った。


 健一の下宿選びと引っ越しが終わり、とうとう大阪を離れる日が来た。

 新大阪駅のホームで再び佳子は涙ぐみ、健蔵が慰めた。新幹線がホームに到着し、健一は、

「じゃあ行って来ます」

「ああ」

「父さんと母さんも体に気を付けて」

「後のことは任せておけ」

 健輔と佳恵に、

「お前達も、体に気を付けろ」

「うん」「ええ」

「元気でありさえすれば、他のことはどうだっていいんだ」

 二人は笑い、そうして健一は新幹線に乗り込んだ。

 新幹線が出発するまで残された4人は手を振り続け、佳子は涙し、佳恵ももらい泣いた。

 帰りの車の中で健蔵は、

「おい、俺達4人が残されたぞ」

「うん」

 健輔が答えた。

「健一はもう、大阪には帰らんぞ」

「そうだろうね」

「俺も今の所は元気だが、いつどうなるやらわからない」

「うん」

「お前達子供二人は、気を引き締めて成人まで精進しろ」

「うん」「はい」

 佳恵は後席で笑顔で話を聞きながら、そうなればと思った。




 健一は教養課程が始まり、下宿から駒場に通い始めた。第二外国語はドイツ語にした。

 フランス語と迷ったが、フランスは高尚なイメージがあり、大阪の下町の出身の俺にはドイツ語のほうが良かろうと思ったのである。

 第二外国語の選択に従ってクラス分けがあり、50人ずつ、入学生は800人だったので、16組まであった。単位を取るには中国語が一番楽だという噂を選択後に耳にし、少し残念なしたが、ヨーロッパというものへの憧れもあり、後悔はしなかった。

 クラスの担当教官は民法の助教授で、法律の学者にしては気さくな口調で、ここは日本一の大学の日本一の学部ですが、そう気を張る必要はありません、ここまで来るまでの努力を大学でも続ければ、自然とお報いがあることでしょう、とは言っても少しは楽に過ごしましょう、若者らしい生活を部活動やサークルで楽しんで下さいと言った。誰かが拍手をし、皆がそれに続いた。

 健一は官僚になる夢を抱いているとはいえ、3年後の国家公務員試験まで、今までのような突き詰めた勉強生活を送りたくないものだと思っていたので、担当教官の言葉にほっとした。

 とはいえ、部活動で学業が(おろそ)かになることを恐れ、気楽にテニスサークルでも始めようと思った。そうして、入学式の際に配られたビラから良さそうなサークルを選び、さっそく見学に出かけ、その場で入会した。


 健輔の生活が荒れ始めた。

 煙草を覚え、雀荘だけではなく家でも吸うようになった。酒は、ビールを雀荘で(たしな)む程度だったのが焼酎を飲み始め、部屋で深酒をするようになった。もちろん健蔵も佳子も叱るのだが、どうにも聞き入れなかった。

 成績は下降線を辿(たど)り、最下位に近い成績になってきた。健一の進学と時を同じくして始まったことで、これまでの健一の口添えが効かなくなったせいであろうかと、夫婦は嘆いた。

「健輔、このままじゃ留年よ」

「わかってるよ」

「じゃあどうするつもり?」

「知らないよ」

「知らないってどういうこと?」

「知らないから知らないんだ」

 こういった口論が一家を包み、刺々(とげとげ)しい雰囲気が漂うようになった。

 佳恵も当然嘆き、何とかなればと願うのだが、どうすることも出来ない。おお兄さんがいてくれたなら事情は変わっただろうかと考えるのだが、どうにもならない。

 夫婦は当然健一を心配させたくなく、しかし夏休みの帰省の折に、それとなく健輔に注意をしてもらおうかと話し合った。


 健一は、クラスでも入会したサークルでも友人ができ、新しい生活が始まった。

 勉強を疎かにしてはいけないと真面目な健一は考えたが、大学側も色々考えるのか、3回生になり学部に上がるまでは多少の猶予期間を与えられ、授業への出席は高校時代ほど厳しいものではなかった。

 健一はテニスの他、余った時間で友人達と、ビリヤードやボーリングなどをして楽しんだ。

「おい健一、大学生活ってずいぶん楽だな、今までと比べたら」

 クラスメートの隆也が、球を撞く健一に話しかけた。

「一生学生を続けたいくらいだ」

 健一も同感した。

「だが学部に上がるまでの話さ、きっと」健一は続けた。

「お前は何になりたいんだ?」隆也が尋ねた。

「官僚。出来るだけいい省庁の」

「俺は弁護士位でいいかと思うんだ、街中(まちなか)の」

 隆也の父親は、甲府で司法書士をしていると聞いていた。

「弁護士でもピンキリじゃないか。ピンになれ、ピンに」

「上昇志向はいいんだが、俺はここいら辺りで打ち切ろうと思うんだ」

「まだまだ早いさ」

 健一は笑った。


 佳恵は地元の公立高校に進学していた。健一に似て勤勉な佳恵は成績も良かったので、地元の進学校に進むことができたのだった。

 健輔からは、バイト代からカシミアのカーディガンをプレゼントされた。佳恵は喜び、外出する時はいつも身に着けた。健輔の生活が暗転したのはその後、しばらくしてからであった。

(あんなに優しいちい兄さんなのにね)

 酒も煙草も、人より少し早く始めるだけだと思えば、そう大したことではないのではとも思えたが、しかし勉強を諦めてしまい、それ以上に家でも塞ぎ込むようになったことが気になるのだった。元々無口な方だったのが、一層無口になったのである。

 佳恵は中学時代と同様に手芸部を選んだ。同じ高校に進んだ登紀子も同様であった。

「ちい兄さんの生活が荒れて困っているの」

「ラグビーで活躍した健輔さん?」

「そう」

「荒れるってどういう?」

「お酒と煙草を始めて、そうして勉強をしなくなったの」

「成績が悪くなっちゃったの?」

「そう、ひどく」

「でも、学校には行ってるんでしょ」

「今の所は」

「それならいいじゃない。学校の成績なんて、本当はどうでも良いことよ」

「そうかな」

「きっとそうよ。でも、できれば卒業までは学校に行ってくれればね」

「そうね」


 健輔は部屋で寝そべりながら煙草を吹かし、時折焼酎を口にした。

 まずいことになっているのは自分でも分かっていたが、酒と煙草はもはや手放せなくなっていた。勉強机は、酒瓶と煙草に埋もれていた。

(もう高校は中退しようか?)

 自堕落な生活に陥っていたが、そこまではまだ決断出来なかった。成績はほぼ最下位だったが、他にも似たような生徒はおり、皆、何とか卒業には漕ぎ着けられそうなのだった。

(兄貴は全国トップで、俺は工業高校の最下位か)

 少し健輔は笑い、そうして煙草を揉み消すと、少し酔った頭で机に向かった。機械の教科書を手に取ってみたが頭に入らず、引き出しから家族の写真を取り出してしばらく眺め、そうして再び布団に入って眠りに就いた。


 健一はテニスサークルの練習が終わり、アフターと呼ばれる食事会を終えて、親に買ってもらったカブで下宿に向かっていた。原付を買おうとしていた所、隆也が、制限速度と二人乗りができることから、小型二輪免許を取って110㏄のカブにしろ、マニュアルは運転が楽しいぞと勧めてくれたのだった。

 かくいう隆也は普通二輪免許を取って、中型バイクを乗りこなしていた。羨ましくはあったが、当然ながらバイクは危険だ、日和(ひよ)っていると言われようとも、あまり深入りしまいと考えていた。

 テニスサークルはいわゆるインカレで、女子は近辺の女子大の学生であった。幸いちらほらと健一の目に適う学生もおり、クラスにほとんど女子のいない健一は、ここで早く恋人を見付けようと、考えていた。

(いい年齢の男が結婚もせず、女を替える独身生活を続けるのは罪だ)

 とは言え、いい女子を狙う男側も競争率は高く、健一は、サークルの男子と自分を比較して、どうだろう、まあまあの女の子にしておくか、贅沢や驕奢(きょうしゃ)が罪なのは恋人選びにおいても同様だなどと考えた。

 健一は身長も高いほうで、外見にも恵まれた方であった。大山家一家はなべて、外見に恵まれていたのである。

 下宿の駐輪場にカブを止め、部屋に戻るとテニスバッグを置き、少し疲れたのですぐにベッドに横になった。

 ――テニスサークルというものは練習が終わると必ず、近くの喫茶店やレストランで男女仲良く食事をするものだった。

 お喋りに花が咲く。男女共に、目当ての学生と駆け引きをする。青春時代とはこういうものかと健一は合点し、非常に楽しいものではあるが、いつまでもこういう状態は良くない、早く目当てを絞り恋人にしてしまおうと考えた。

 しばらく眠りに就き、起きると腹が減っていたので、歩いて馴染みの中華料理屋に向かい、日替わり定食を注文した。食べながら、時折電話を掛ける実家の様子が気になり、俺にははっきりと言わないが、多分健輔の奴だろう、不安が的中したと思った。夏休みの帰省の折に長男として、少し話をしてやらねばと思った。

 そうして再び帰宅すると、しばらく勉強をして、早々に寝た。


 夏が近づいていた。健蔵と佳子は健輔に頭を悩ませていた。

 救いは、学校には欠席せず通い、全く勉強についていけないということもない様子だったことである。

「高校生が酒と煙草、しかも強いものだ」

「どうしたらいいものでしょうねえ」

「佳恵は何て言っている?」

「“別にいいんじゃないの、普通の人より1,2年早いだけでしょう”って」

「それもそうだが」

 健蔵は、苦々しく笑った。

「落第はどうだ?」

「担任の先生は、出席日数さえ足りていれば、およそ落第はさせませんって」

「そりゃ良かった」

「健一には話してませんが、夏の帰省で兄として、やはり一言言ってもらいましょう」

「それが良いだろう。兄弟の絆というものに頼ろう」


 大学が夏休みに入り、テニスサークルの夏合宿が始まった。志賀高原のペンションを借り切り、総勢40人程の学生が、2代の貸し切りバスで宿に向かった。

 健一は、おおよそ三人の女子学生に目星を付けており、合宿で親しくなって、脈のありそうな学生に合宿後に愛を告げようと考えていた。

 天候にも恵まれ、運良く筆頭候補の一人と肝試しでペアになり、最中に合宿後のデートを申し入れた。先方も健一を悪からず思っていたようで、すぐに応じた。思い切りの良い健輔らしい行動だった。

 同じように考えていた学生は他にもいたようで、肝試しのペアから合宿後に、三組のカップルが誕生したのだった。

 三回目のデートで健一は、結婚を前提に交際してほしいと相手の葵に告白し、葵は恥ずかしそうに応諾した。お茶の水女子大の学生だった。

 恋人が出来たとなると、デートの場所やレストランを知っていなければならない。さっそく健一は東京近辺のガイドブックを買い込み、ガイド雑誌を毎週買い始めた。

(いずれ、車を買ってもらおうか?)

 東京の一人暮らしで、車まで買ってもらうとなると贅沢としか言いようがないだろうが、葵をデートで楽しませるには、中古でいいのでどうしても欲しいところであった。アルバイトはできるだけやりたくなく、親も反対するのだった。

 ある夜健一は、意を決して家に電話をかけ、

「母さん、僕、恋人ができたんだ」

「あら良かったわね。それにしても早いわね」

「テニスサークルの一回生で一番乗りだ」

「あなたらしいわね。お相手を大切になさい」

「うん、……。ところで、頼み事があるんだけど」

「なあに、お金?」

 佳子は鋭かった。

「中古でいいから車が欲しいんだ。いや僕は別に要らないんだけど、相手は静岡の出身で、東京を知らないんだ。方々に連れて行ってやりたいと思ってさ」

「いいわよ。いくらくらいかしら?」佳子はあっさり答えた。

「父さんに聞かなくてもいいの?」

「車くらい、持っていた方がいいだろうとか言ってたわよ」

「学生時代だけもてばいいんだ。6,70万もあれば」

「もう少しいいのにしなさい。100万円用意しておくわ」

「いや、それは悪いよ」

「いいのよ、そうしなさい。次の仕送りで送金するから、調べておきなさい」

「本当? ありがとう」

 健一とていい若者で、よりいい車が欲しいという気持ちはあったので、両親に感謝し、さっそく近くのコンビニに、中古車雑誌を買いに出かけた。


 その夜、佳子は健蔵に、電話のあらましを話した。

「そうか、車か。学生生活が楽しくなるな」

「100万で足りるかしら?」

「十分だろう。就職したら新車に買い替えればいい。それより恋人というのは?」

「静岡の出身で、お茶の水女子大の学生さんですって」

「ああ、そりゃいい。男兄弟はいるのか?」

「お兄さんがいるって」

「なら、家のことは安心だろう。健一と東京で新居を構えればいい」

「まあ、気の早い」

「健一のことだから、無責任なことはせんだろう」


 盆に健一は、新幹線で大阪に帰阪した。新大阪駅まで迎えに行くという家族の申し出は強く断った。そうして御堂筋線で、天王寺の実家に帰省した。

「お帰りなさい。あらあなた、背が伸びたんじゃない?」

 佳子が、出迎えた。

「恥ずかしながらこの年で」

「恥ずかしくもないわよ。髭を生やしているの?」

「就職したらできないと思って。今のうちだけ」

「似合ってるわよ」

 二人は台所に入り、健一は切ってあったスイカを食べた。下宿では果物を口にすることがなかった。

「うまいね、このスイカ」

「大玉のを買ったのよ」

「ところで、車代の100万円、ありがとう」

「お父さんは、車くらい乗りゃあいいと喜んでたわよ」

「あんまりいい車を買うのも学生としてどうかと思ってるんだ。それなりの車を買うよ」

 健一は、トヨタの大衆車に狙いを定めていた。

「あらいいじゃない。CM見るわよ、テレビで」

「それにするよ」

「そうしなさい」

 しばらく沈黙した後、

「ところで新しくできた恋人だけど」

「ええ」

「性格が控えめで気に入ったんだ。後は外見もだけど」

「外見も大切よ。もちろん性格の方がだけど」

「サークルの友達からは、お祝いの会を居酒屋で開いてもらったんだ」

「あら、オープンなのね」

「もう飽きても捨てられないや」

「そりゃそうね」

 佳子は笑った。

「きちんと責任取りなさい」

「もちろんさ」

 再び二人は沈黙し、健一は、

「ところで会社はうまく行ってるんだね?」

「伸びもしないけど、落ちもしない状態よ」

「そういう方針なんだろう、うちは」

「そうよ。だから大丈夫」

 そうして健一は、気になっていた健輔のことを訊いた。

「健輔はちゃんとやっているの?」

「それがねえ、お酒と煙草を始めて勉強に手を付けないの」

「成績は?」

「一番下の辺りよ」

「学校には欠かさず通っているの?」

「それが、それだけは通うのよ」

「そりゃ感心だ」

「そうよね」

 佳子は笑った。

「父さんも母さんも、ずいぶん気に病むんだけど」

「卒業はできるの?」

「出席日数さえ足りていれば、成績が最下位でも卒業させますって」

「なら高校中退じゃなくて、高卒だ」

「そうよ」

「ずいぶん、社会に出てからの風当たりもいい」

「そうだといいんだけど」

「一応僕からは、話をしておくよ」

「お願いするわ。言いにくかったんだけど」

「任せておいて」

 健一はスイカのあと、好物の焼豚を当てにビールを飲み、そのままベッドに横になった。

 心配していた通り、健輔の生活は荒れていた。さりとて、学校には欠かさず通っているところが不幸中の幸いであった。

(どうでもいいじゃないか、学校の成績なんて)

 工員になるのに学校の成績なんて必要だろうか、要らないだろう。必要なことは仕事に就いてから自然と学んで行くだろう。俺から説教じみたことを口にするのは逆効果なのではないかと考えながら、眠りに就いた。


 夕方、残りの家族が帰宅し、一家は焼肉で再会を祝った。

 健一がビールの栓を抜き、両親に注いだあと、佳恵が健一にビールを注いだ。健輔は、家族では酒を飲まないのであった。

「健一、よく帰って来てくれたな。長旅だったろう」

「のぞみがあるから、全部で4時間ほどさ。大したことないよ」

「ゆっくりして帰りなさい」

「次のサークルが盆明けにあるまで居させてもらうよ」

 そんな会話をしながら一家は話を咲かせた。

 健輔はほとんど口を利かなかったが、別段不機嫌でもなく、時折笑顔を見せた。

 佳恵は甲斐甲斐しく佳子を手伝い、まるで若主婦な風であった。

 健一は元気に学校に通い、勉強にも付いて行き、放課後はテニスに興じ、週末には友人達と居酒屋で飲む。申し分のない東京での新生活の始まりで、美しくてしとやかな娘を恋人に得、いずれはもちろん結婚するつもりなのだった。

 残りの家族は(まぶ)しく健一を見、頼もしく思った。

 

 食事が終わり、佳子は、手伝うという佳恵を下がらせ、後片づけをしたあと居間に入った。

 居間で三人になり、健一は、車代の無心以来考えていたことを口にした。

「実は僕、アルバイトを始めようと思って」

「そうなの?」

「する気はなかったんだけど気が変わった」

「お金なら心配ないのよ」

「それだけじゃないんだ。やっぱり学生らしく、アルバイトの一つでも始めようと思って」

「周りの学生はどうなんだ?」

「している学生もいるけど、していない方が多い」

「どんなアルバイトを始めるつもり?」

「それが、周りは家庭教師や塾講師が多いんだけど、僕はそれは嫌なんだ」

「そうなの。わかるような気もするけど」

「コンビニを考えていたんだけど考え直して、清掃をやろうと思って」

「清掃? コンビニは駄目なの?」

「それもいいんだけど、何となく学生のうちに、清掃員をやっておきたいと思うんだ」

 佳子は健蔵と顔を見合わせた。

「どうしてでしょうねえ」

「僕もはっきりとはわからないんだけど。まあ、社会勉強というのかな」

 下らないと健蔵は反対したが、佳子は(たしな)めた。

「じゃあやりなさい。それで、勉強の妨げになるようだったらすぐに辞めなさい」

「それはそうするよ。一日3時間の仕事で、週3日ほどの仕事を見つけたんだ」

「どこで?」

「下宿近くのオフィスビル。……。それで、これは不純なんだけど、便所掃除はベテランの女性がやるから、やらなくていいんだって」

「うら若い東大生に便所掃除はきついわね。させられそうになったら逃げてきなさい」

「そうするかもね」

 健一は、軽く笑った。

「まあいい、人生勉強だ。上回生になって忙しくなったら、引退しなさい」

「そうだね。2年を目途に止めておくよ」

 アルバイトの話がやみ、健一は部屋に引き取った。しばらく考えて、健輔の部屋のドアをノックした。

健輔は、机で焼酎を飲みながら煙草を吸っていたが、火を揉み消して、どうぞと言った。健一が入ってきた。健一はベッドに腰掛け、

「お前、学校には欠かさず通っているらしいな」

「一応、行くだけ行ってる」

「授業は理解出来るか?」

「全く解らない訳ではないという程度だ」

「それならいいんだ」

 健一は少し黙った。そうして、

「学校に通うだけ通えば、卒業させてもらえるそうじゃないか。そうしろ」

「ああ、続けば」

「無理なのか?」

「わからない」

 健一はしばらく考え、

「まあ、なんとか卒業まで漕ぎ着けるよう頑張れ」

「うん」

 それだけ言って、健一は部屋を出た。

 自室に戻り、会話を振り返りながら、兄弟だといってもああ言うくらいのことしか他人のことだから言えないのだ、と思った。酒と煙草はどうでもいい、卒業まで漕ぎ着ければ、新たな展開があるかもしれないと考えながら、ベッドに横になった。

 実家に3泊して、健一は東京に戻った。

 佳恵には一言、健輔をよく見てやってくれと声をかけた。うんと言葉短く佳恵は答えたが、健輔の非行を気に病んでいる様子であった。健一がそうであるのと同様、本人ではないのだから、結局のところどうすることもできないのであった。

 健一は、健輔の生活の荒廃が、健一の東京行きと期を同じくして始まったことを苦く感じ、俺が大阪か京都の大学に進んで家を離れなければ、こうはならなかったであろうかと頭を悩ませたが、どうにもならないことであった。


 健輔はそれからすぐ学校を中退し、雀荘の正社員になった。一家はなべて嘆いたが、どうにもならなかった。

 昼の1時から夜9時までの勤務で、帰りは夜10時ごろになった。昼食と夕食は、雀荘で店屋物で済ませ、朝食ばかりは自宅で摂った。

 一番落ち着いていたのは佳恵で、勉強や学歴なんてどうでもいいことよ、ちゃんとお仕事して、お金を自分で稼いでいるんだから、文句を言うことなんてないじゃないと、両親を励ました。

 健輔は、稼ぎの中から3万円を家に入れると言いだし、夫婦は断ったが、聞かなかった。

 強引に(さつ)を机の上に置いて、部屋に戻った。稼ぎは月に20万もあっただろうか、そこから飲食代や酒代、煙草代を除けば幾らも残らないはずだったが、健輔は引かなかった。

「うちはお金に困ってないのよ」

「関係ないよ」

「先々のために貯めておきなさい」

「先のことはその時考えるよ」

 深酒をして深夜2時頃布団に入り、朝9時頃に起きて、10時ごろに朝食を摂るという生活を始めたのであった。


 佳恵は手芸部で編み物をしながら、健輔のことを考えていた。勉強なんてどうでもいいとか、働いているなら構わないじゃないかとか口にはしたが、本当にそんなことが世に通用するのかわからないのだった。

 健輔は、今回は初給料で両親には何もしてやらなかったが、佳恵には千円ほどのハンカチをくれた。佳恵は、部のミシンでイニシャルを縫って使い始めた。

 健輔が一体佳恵のことをどう思っているのかはわからないことであったが、ともかく佳恵は心遣いを感謝し、良き理解者として頭を悩ませる両親と健輔との間に立とうと思った。

 周りは色気付いた高校生で、付き合いを始める生徒もいたが、佳恵には関心がなかった。けれども、大学に入学した早々に恋人を見つけて結婚を考える健一のことを思い、大学に入ったら私も、恋人の一人でも見つけようと思った。


 健一は、帰京後早々に聞いた健輔退学の知らせに落胆したが、健輔が家に引き(こも)らず、雀荘で正社員に昇格してもらって働き始めたことを喜んだ。健一などの世界と違って、高卒ではなく高校中退という肩書が、健輔のような世界でどれだけ意味があるだろうかと思ったが、わからないことであった。

(雀荘の社員か)

 麻雀をやらない健一は雀荘というものをよく知らず、煙草でもうもうとして合間にチャーハンを食うという、どこかのテレビドラマの印象しか持っていなかった。

(職業に貴賎なしだ)

 健一は、かつて健輔が日本一の工員になると(うそぶ)いたことを思い出し、それは忘れたろうか、それとも雀荘の店員として、一生を勤め上げることができるだろうかと考えながら、ビールを飲んだ。


 佳子は、健輔の高校中退にひどく落胆したが、来るべき時が来たかと、健輔が酒と煙草を始めたときに感じた不安を思い返して思った。夕食時に健蔵に、

「お父さん、来るべき時が来ただけですよ」

「ああ、兆しは明らかにあったからな」

「私が至らなかったんです」

「いや、それはなかろう」

「健一ばかり取り立ててと、健輔はぐれたんじゃあないでしょうか」

「健輔には健輔なりに大事にしたつもりだったが、そうは思わなかったかもな」

「雀荘って一体、どんなところなんでしょう?」

「極めて不健全な香りのするところだ。パチンコ屋くらいかな、似たようなのは」

 佳子はビールを注ぎながら、まあとにもかくにも働いている訳だから、それは喜ばなければならないという健一と佳恵の言葉を思い出し、他の二人に悪い影響がなければいいがと思った。


 健一は帰京後すぐに、中古車雑誌で見つけた車を見に三店舗ほど中古車屋を回り、一番気に入った車を買い、即金で支払った。手続きが終わり無事納車された車を前に写真を撮り、親に送った。

 すぐに葵に報告し、次のデートはドライブにしようと誘った。葵は喜び、二人は横浜まで車を走らせて、ランドマークタワーの下でキスをした。

 その夜、二人は初めての夜を健輔の下宿で過ごした。学生にしてはやや贅沢なワンルームマンションで健一は、必ず君を幸せにするよと誓った。葵は、黙って(うなず)いた。

 

 健一は、アルバイト雑誌で見つけた清掃のアルバイトを始めることを決意した。電話をかけて履歴書を書き、面接に訪れた清掃会社は下町の片隅にあったが、割合手広く事業を手掛けており、そのうちの一つの、大学近くのオフィスビルを求人に出していたのである。

「君、東大の、法学部の学生さんなんだよね」

「はい」

「清掃って割合疲れるんだよ。勉強の妨げにならないかい?」

「それは大丈夫です」

「部活動とかはやってないの?」

「サークルには所属していますが、仕事の日は休みます」

「時給は千円だけど、いいのかい?」

「全く構いません」

 ただし2年を目途に引退させてほしいと一言入れ、面接官は、2年も居てくれりゃ助かるよと答えた。その場で採用が決まり、Lサイズのブルーの制服が充てがわれた。

 何やら、実家の会社の作業服に似ていると思ったが、作業服などどこも同じようなものだろうと思った。そうして健一は放課後を、サークルとアルバイトで分け合う生活が始まった。


 健蔵は、健一の始めたアルバイトを快く思わなかった。

 その辺の大学生と違い、健一は官僚を目指す東大生なのである。雀の涙ほどのバイト代のために勉強時間が削られるのは馬鹿馬鹿しいと思ったが、健一は引かなかった。

「社会勉強だなんてお前、うちの会社を知っているだろう」

「自分自身が身を置いてみたいんだ」

「ちょっとした奇行だよ」

「そうまで言わないさ」

 健一は結局引かず、2年の約束で健蔵は了承したのであった。

 社長室の窓からは処理場の、従業員の姿が見える。たまに気紛(きまぐ)れで訪れることはあるが、健蔵自身は経験したことがない。

 元々、後継者として婿入りした健蔵に、佳子も佳子の父親も、現場に深入りするなと言ったのだった。健蔵も若かったので、現場経験というものをしてみたいと言ったが、佳子はさせたがらず、結局お蔵入りになった話であった。

 健蔵はそのエピソードを思い出し、紅茶に健輔からもらったブランデーを入れながら、午後にもまた処理場を見に行くかと思った。


 佳恵は健一と健輔に、お揃いのベストをプレゼントすることを思いつき、毛糸を手芸店で揃えて編み始めた。身長は二人共同じくらいで、体格はラグビーをしていた頃は健輔が勝っていたが、今はスポーツを止めた健輔も健一並みになっていた。

(二人はどう思うかしら? 重く思うかしら?)

 佳恵は心の中で少し笑い、紺の毛糸に針を通した。


 佳子は昼食の後片付けをしながら、三人の子供達について考えていた。

 健一には車を買ってやった。良かったと思った。

 そして健一は、清掃のアルバイトをするのだと聞かず、結局押し切った。

 社会勉強という金科玉条の様なものを健一は持ち出し、子供の頃から事業を目の当たりにして手伝いもしてきた佳子には可笑しく思えたが、悪いことではないと思った。

 健輔は毎日、雀荘に勤めに行く。遅くに帰り、その後深酒をする。めったやたらと飲むので、肝臓を悪くしないかと冷や冷やしている。煙草は、一番強いものを一日で3箱吸っているという。

 雀荘といっても場末のこじんまりした店で、いつまで働けるかわからない。いざとなったら工員になると健輔は言っているが、工業高校も卒業できないで雇ってくれる所があるのかも覚束(おぼつか)ない。すっかり一家の頭痛の種に戻った健輔の先が思い遣られた。

 佳恵は佳子に似て、中々美しい顔立ちになってきた。中学に引き続き手芸部を選んで、編み物に専念している。一向に色気付いた所がなく、好きな男子もいない様子だ。

 高校に入るとすぐ、健蔵と佳子にそれぞれマフラーを編んでプレゼントしてくれたが、今は兄弟へのベストを熱心に編んでいる。

「あげる前に母さんにも見せてね」

「恥ずかしいよ」

「そんなことないわよ」

 佳子にはそんな趣味はないのに佳恵はなぜか手芸を好み、編み物の他にも裁縫やビーズ細工をして、都度、次の作品まで大山家の玄関を飾るのだった。

 いい子に育ったわねと佳恵はひとりごち、居間に向かった。


 健輔の雀荘で喧嘩騒ぎがあり、仲裁に入った健輔は殴られて倒れた。頭を打って出血し、全治一か月の入院生活を送ることになった。

 相手は、プロのラグビーだかアメリカンフットボールの選手で、相手が悪かった。警察が呼ばれて騒ぎが収まり、結局相手に弁護士が入って、治療費と慰謝料を受け取ることで話がついた。

 雀荘の店主が大山家を訪れ、この度の件は誠に申し訳ない、相手は常連客であったが出入禁止にすることで決まったと平身低頭し、私からも若干のお詫びをお持ちしたと封筒に入った現金を渡そうとしたが、佳子は受け取らなかった。

 あの子を受け入れて下さっていることに常々感謝しております、用心棒も兼ねた仕事ということで、こういう日が来るのも覚悟していました、どうぞお気になさらず、今後とも健輔をよろしくお願い致しますと佳子は気丈に答え、店主を帰らせた。

 話を聞いた健蔵は当然大いに嘆き、いくら健輔が偉丈夫だからといって、まだ高校生の年齢だ、相手によっては当然こういうことは考えられた、店主は自分は前には立たずに、健輔をプロのスポーツ選手の仲裁に向かわせたんだろうと、憤った。

 もうあそこは辞めさせようといきり立つ健蔵に、佳子は、そう悪い人にも見えませんでしたよ、場末の小さな麻雀店のご主人でしょう、可哀想です、第一健輔は納得しませんよと(いさ)めた。

 佳子は毎日病院に見舞いに行き、佳恵も学校の後、たびたび見舞いをした。健蔵は二人に任せて、病院には行かなかった。

 医者によると、傷口が(ふさ)がるのにおおよそ一か月かかるということだった。

「傷口、痛まない?」

 見舞いに訪れた佳子が尋ねた。

「ああ、あんまり」

「相手が悪かったわね」

「俺は体格がいいったって、まだ17だ。同い年だったらぶっ飛ばしていた」

「あら威勢がいいわね」

 寡黙な健輔が強がったのが佳子には可笑しかった。

「お父さん、もうあの仕事は辞めたらって言うんだけど」

「嫌だ」

「そうよね。ご主人、初めて見たけど、いい人そうだったわ」

「ああそうなんだよ」

「お金を持って来られたけど、受け取らなかったわ」

「そりゃあそれでよかった」

 佳子は黙ってベッドに横たわる健輔を見た。

「あなたもラグビーをやめてから、色々あるわね」

「大したことじゃないよ」

「やっぱりラグビー、続けた方が良かったんじゃない?」

「たまに考えなくはないけど」

 予想に反して健輔は否定しなかった。

「きっとそうよ。でももう終わったことだから」

「別に後悔してないよ」

 健輔は少し笑い、

「そろそろ帰ったら? 夕食の支度あるだろ」

「そうね」

 佳子は病室を離れ、家路に就いた。


 健一は佳子から話を聞き、健蔵同様、大いに嘆いた。単なる店員ではなく、用心棒を兼ねた、とされていたところが、味噌だったのである。

「店主は何をしていたんだ?」

「悪そうな人ではなかったわよ」

「十代の少年を表に出すからこうなったんだろう」

「お金を持って謝りに来たのよ」

「金がどうこうという話じゃああるまい」

 電話を切ってから健一はベッドに寝そべり、やれやれと溜め息をつき、せっかく俺は勉強に恋愛にアルバイトにと、順風満帆に進んでいるのにと思った。

 佳恵も当然嘆いているだろうと妹の心中を思った。無理矢理にも辞めさせたらという健一の言葉に、それはやめましょうと佳子が答えたのを渋々受け入れたのがこの結果だった。

 

 健一のアルバイトは順調に推移していた。掃除機やモップ、雑巾のかけ方を一から教わり、二週間の研修の後に健一は現場に出ていた。夕方の5時から8時までの3時間の勤務で、面接で聞いたようにさすがに肉体労働で、帰宅するとどっと疲れて寝入った。

 しばらくすると慣れが出て多少治まったが、それでも多少の疲れは消えなかった。

 葵に話すと、

「頑張って。応援するわ」

「もうやめなさいとは言ってくれないの?」

「絶対駄目よ。今度お弁当を持って応援に行くわ」

「ばかな」

 葵は健一のアルバイトに賛成なのであった。

 車でのデートを重ねる他、時折二人は健一のカブで二人乗りをして、ツーリングに出かけた。隆也の助言が当たった具合であった。天気の良い日に風を感じながらカブを走らせるのは爽快だった。そうして二人は愛を深めた。

 時折健一は、自分がひどく恵まれた人種であることに思いを馳せた。

 一流大学の学生で将来が嘱望され、体も健康で性格も平常、外見にも恵まれている。金にも困らず、美しくて清純な娘を恋人に得た。

 今の幸せは一生続くのだろうか? おかしなことさえ起らなければ、健一は官庁や、せいぜい一流企業で、エリートとして一生この幸せが続く算段なのだった。

(これは一体、どうだろう?)

 成功者の父を持つ中高の同級生を妬んだことを思い出し、今のバイトのおじさんおばさん達や、実家の会社の作業員達は、一体俺のことをどう思っているだろうかと考えた。やはり俺の少年時代同様、妬むのではないかと考え、そこで健一は考えを打ち切った。

 そうして葵に電話をかけ、次のデートの約束をした。


 健輔は病院のベッドで横たわりながら、今回の件について思いを巡らせた。

 店主は人は悪くないが、初老の小柄な男で、客が大喧嘩を始めて、君、何とか止めてやってくれんかと健輔に頼み、健輔が駆け寄っていきり立っている大男を止めようとしたが、逆に殴られて倒れ込んだ。男はそこで平静を取り戻し、主人が警察を呼んで、健輔は救急車で病院に運ばれたのだった。男達には当然、酒が入っていた。

(店主も人が悪いな、いくら用心棒ったって、あの相手に17歳の俺を使うなんて)

 健蔵が怒るのも無理もなかったが、気が弱く、稼ぎも少ない店主を恨む気もなかった。これで仕事を辞める気もなく、見舞いに来た店主にも、退院したらすぐ仕事に復帰すると約束したのだった。

 両親にはもちろん、東京の健一や佳恵にも心労を与えたことは間違いなく、これは失態だと思った。

 思えば佳子の言う通り、ラグビーを止めてからは人生が失態続きなのであった。今は特に友人もおらず、それはかつての友人達とどちらからとなく離れていった結果だった。

(気持ちを入れ替えるか? そんなことを言って一体何を始める?)

 考えが定まらず、たまたま空いていた個室の病室でラジオをつけると演歌が流れていたので何ということもなく聴き、しばらくして電源を切って眠りに就いた。


 佳恵は自室でベストの編み物に針を通しながら、頭を強く打ったが切り傷だけで済んだ健輔の幸運を喜んだ。時折、佳子に付いて見舞いに行ったが元気そうだった。

 仕事は続けるのだろうかと案じたが、佳子は、私は辞めてほしいが健輔は聞かなかったと話していた。

 健輔は佳恵にただ、留守中をよろしく頼むと一言言った。佳子が毎日見舞いに行くので、佳恵は夕食の準備をこまめに手伝った。

(ちい兄ちゃんも災難ね。相手が悪かったわね、よりにもよってラグビーの選手だって、運命のいたずらね)

 少し笑った。

 佳恵は中学時代の健輔の雄姿を思い出し、中々うまく行かないものね、どうしてラグビー止めちゃったかしらと、何度となく考えた(よし)無し(なし)(ごと)を繰りながら編み物を進めた。


 健一は中間試験の成績表を受け取り眺めたが、すべて合格していた。優と良と可が入り混じっていて、まずまずかと思った。国家公務員の採用に学校の成績はほとんど関係なく、教養課程となれば尚更だった。

(まあ良く出来た方だ)

 サークルとアルバイトとデートで勉強時間は著しく制約されており、ほとんど一夜漬けのような科目もあったが、不可が付いていなかったのは僥倖(ぎょうこう)であった。

 健一は葵に成績表を見せた。

「優、あんまりないわね。それに、可が多いわね」

「どうだっていいんだ、大学の成績なんて」

「そうなの? だから手を抜いたの?」

「学部に進学したらもうちょっと真剣にやるよ」

 葵は笑い、健一もつられて笑った。

 アルバイトを始めてから、サークルにはあまり顔を出せなくなった。もうすぐ役職者の決定をする時期だったが、健一はアルバイトがこの調子なので、裏方の、あまり時間を割かない役職に就こうと思った。

 現場のアルバイトをしている学生は聞いたことがなく、周りの学生仲間は変な顔をしたが、健一はちょっと珍しい社会経験さと笑った。


 健輔は1か月足らずで完治し、自宅に戻った。その夜はすき焼きで快癒祝いをした。

「1か月で退院できて良かったわね、健輔」

「うん。色々ありがとう」

「もう喧嘩騒ぎはないといいのにね」

「ああ」

 健蔵はほとんど口を利かず、食事の終わり頃に、

「お前が選んで採用された職場だ。お前の好きなようにしろ」

「うん」

 食事が終わり、佳子と佳恵は後片付けをしながら、

「もう、部屋に戻りなさい」

「うん」

「よかったわね。一件落着よ」

「うん」

「お揃いのベスト、うまく行くといいわね」

「ええ」

 佳恵が部屋に戻ってしばらくすると、健輔がやって来た。

「これ、取っておけ」

 3万円を裸で渡そうとした。

「なあに、このお金」

「今回の件であぶく銭が手に入ったんだ。要らない金だから、佳恵はこれだけ取っておけ」

 渋る佳恵に健輔は強引に取らせた。

「カシミアの毛糸でも買え」

「ありがとう」

 健輔が出て行った後、佳恵は机に向かって参考書を開いたが頭に入らなかった。


 健蔵は紅茶を啜りながら、社長室の窓から外を眺めた。真下の処分場では作業員が甲斐甲斐しく働いていた。外の風景はビル群と山々であった。

 健一のアルバイトは心配だったが、2年で辞めると言質(げんち)を取ってあった。健輔は怪我が治り、以前の生活に戻った。佳恵は熱心に勉強に取り組む他、趣味の手芸を続けている。

 会社の経営は順風満帆で、健蔵は暇を持て余すくらいであった。佳子との夫婦仲も無論円満だ。

 健輔のことが唯一の頭痛の種で、雀荘勤めが悪いという訳ではないが、生活が荒れて学業を放棄した末の結末で、今も深酒と深煙草で佳子は健康を心配している。

 給料が非常に少ないのは、経営不振で傾き掛けの店で働くせいであった。月20万程の稼ぎでボーナスは寸志程度だったので、結婚して所帯を持つことは考えられなかった。

 健一がかつて、僕は日本一の工員になると健輔が話したと喜んでいたが、その話はどうなったろうか。

(独立して店を持たせてやろうか?)

 そんなことが頭をよぎり、どうだろう、健輔に経営の才覚はあるだろうか、受け入れるだろうかと考え、これは保留にしよう、17の健輔にはまだ早すぎる考えだと考え直し、紅茶の残りを啜った。


 佳恵は3万円の使い道を考えた。あまり買い物もしない佳恵には貯金もあり、そのまま貯金しようかと考えたが、折角(せっかく)だから健輔の言う通り、手芸の用品に換えてしまおうと思った。

 翌日の手芸部の休憩時間に登紀子に経緯(いきさつ)を話し、こういう事情で手に入ったお金なので、私とあなたで遣って仕舞いましょうと提案した。登紀子は遠慮したが佳恵は強く誘い、二人は部活のあと、馴染みの手芸店に向かった。

 二人は真っ先にカシミアの毛糸のコーナーに向かって高級カシミアの毛糸を選び、レジに持って行った。登紀子は遠慮して私は普通のウールでいいと言ったのだが、佳恵は聞かなかった。

「ご両親やお姉さんにいいものを作ってあげて」

「本当にありがとう」

 手芸部の皆には内緒よと話し、学校には持って行かないことを申し合わせた。

 まだずいぶん残った残金を封筒に入れ、毛糸が終わったらまた登紀子といい毛糸を買おうと思った。


 ベストが完成した夜、佳恵は健輔の部屋に向かい、下手くそだけどと前置きして渡した。健輔は礼を言い、早速着てみせた。

「ぴったりさ」

「よかった。おお兄さんとお揃いなの」

「そりゃあ尚更よかった」

 健輔は喜んで見せ、

「俺にはもう編むな。これで十分だ」

「そうなの? 考えていたんだけど」

「他の人に向けてくれ」

「わかったわ」

 佳恵は部屋に戻り、ならカシミアはおお兄さんに編もうと考えながら、針を繰った。


 健一のテニスサークルで役員が選ばれ、健一はテニスコートの抽選係になった。近隣のテニスコートは予約の割り振りのため月に一度、朝9時から抽選会を行うので、そのくじを引く係であった。1限目の授業には出席できなくなるが単位には困っておらず、月に一度の雑用で役職が全うできるなら安い用であった。

「悪いな、楽な係で」

 健一は謝った。

「アルバイトが忙しくて、あまり練習に参加出来ないんだ」

「いいよ、抽選係も面倒くさいよ。バイト頑張れ」

「ありがとう」

 代わりといっては何だが、健一は土日の練習にカブではなく車で向かい、練習後はメンバーの足を務めた。車を持っている学生はあまりいなかった。

(役員が終わったら練習はまず参加出来ないな)

 勉強時間の確保が頭をよぎり、今のうちに車係を兼ねることで罪滅ぼしをしようと思った。

 下宿に帰ると佳恵から小包が届いており、開けると手編みのベストが入っていた。手紙が簡単に綴られており、

“兄さん、お元気ですか? 楽しくやっておられることと思います。

手芸部の活動でベストを編みました。ちい兄さんとお揃いです。

気に入ってもらえれば幸いです“

とあった。

 試着してみるとちょうど良かった。良し悪しはよく分からないながら、良く出来ているんじゃないかと思った。

 さっそく実家に電話をかけて佳恵に礼を言った。佳恵は恐縮して、そんなに上手じゃないけど一生懸命作りました、たまにでも着てもらえればと答えた。

 次に葵が訪れた時に見せた。

「すごく上手ね」

「そうなの? わかる?」

「わかる。お母さんが作るのはもっと雑なの」

「そうなの。妹は中学からずっと手芸部なんだ」

「そうでしょう」

 葵に、ベストを着た健一の写真を撮ってもらい、現像して簡単な礼の手紙と共に佳恵に送った。


 大学が冬休みに入り、健一は帰省した。

 家に別段変わったことはなく、玄関には佳恵の編んだ刺繍(ししゅう)が飾ってあった。健一は、奮発して買った皮のコートの下に、佳恵の編んだベストを着ていた。

「お帰りなさい。あら似合ってるわね、そのベスト」

「葵も褒めるんだよ」

「気持ちが入っているからよ」

「そうだね」

 居間に入ると健蔵が、座って新聞を読んでいた。

「早かったな。ゆっくりして行きなさい」

「3日に同窓会があるから、それが終わったら帰るよ」

「同窓会か、そりゃあいい」

 まだ仕事中の健輔を除いた一家が集まり、鍋をつついた。

「健輔は仕事を休んだことはないの?」

「一度もないわ」

「深酒のせいで遅刻したことは?」

「それも一度もないわ」

「そりゃいい」

「そうね」

 健一は安心し、実直な雀荘店員となった健輔を心の中で褒めた。ただし健蔵と同じで、とうてい結婚などできない安月給であることを苦々しく思った。

「どうしてそんなに給料が安いんだろう?」

「向こうが出し渋るんじゃなくて、本当に儲かってないらしいわよ」

「雀荘って儲からないんだろうか?」

「儲かる雀荘もあるんでしょうけど。次から次へとライバル店ができるって言ってたわよ」

「そりゃ大変だ」

 健一は健輔の話を切り上げ、学生生活について簡単に話した。授業のこと、サークルのこと、アルバイトのこと、そうして葵のことだった。

「サークルの役職、しっかりやりなさいよ。車を活用してあげて」

 ささやかながらサークルの役を引き受けた健一を褒めた。役職を持つのを嫌がる学生もいたのである。

「高校の卓球部では無役だったからね。今回は頑張るよ」

「アルバイトも手を抜いちゃだめよ。たかが清掃ったって」

「3時間みっちり、働いてるよ」

「授業はちゃんと出てるの?」

「ほとんど出て、欠席の回はノートを友達に借りてコピーしている」

 隆也のことだった。

「葵ちゃんは大事にしてるの?」

「蝶よ花よとしているよ」

「結婚なさいよ」

「もちろんだよ」

 そういった会話で、健蔵と佳恵は笑顔で聞いていた。

 健一は、食事を終えると一番風呂に入れてもらい、自室に戻ってビールを飲んだ。

 しばらく考えて、佳恵の部屋に行き、

「ベスト、ありがとう。嬉しかったよ」

「下手くそだけど」

 健輔は封筒を佳恵に渡し、

「これは少ないけど俺からの気持ちだ。清掃のアルバイト代が余ってしようがない。これで高級毛糸でも買って、両親や好きな男にでも編んでやれ。それで俺にはもう編むな」

 健輔と同じことを言った。佳恵は、健輔からも小遣いをもらったことは黙っていた。金額も、健輔と同じ3万円だった。

「ありがとう。そうさせてもらうわ」

 遅くになって健輔が帰って来たので、健一は迎えに行き、

「久し振りだな」

「そうだね。お帰りなさい」

「勤めは順調かい?」

「たまに喧嘩を起こす客を止めなきゃならないけど」

「雀荘ってそういう所なのか?」

「よそでもあるみたいだよ。でも前みたいなことはもうないよ」

「あっちゃ困ることだ」

 そうして健一は部屋に戻り、健輔が元気で変わらぬ様子だったことを喜びながら眠りに就いた。

 元日3日に健一は高校の同窓会に出席し、旧交を温めたあと、4日には帰京した。


 1年余りが経ち、健一は3回生になって、法学部の勉強が始まった。大学生協の本屋で教科書を揃え家でぱらぱらと(めく)ったが、難解であった。やれやれと思い、本棚に仕舞うと気が向いて、隆也に電話をかけた。

「教科書、見たか?」

「ああ」

「どう思った?」

「法律科目は難しそうだな。政治科目はそうでもなかった」

「俺は官僚狙いだから、(かな)わないけど法律系中心に行くよ」

「俺は法律科目ばっかりだ。弁護士を目指すからな」

「まあ何とかやっていこう」

「お互いな」

 電話を切り、健輔は自分の置かれている状況を考えた。

 テニスサークルの役職からは解放され、ほとんど行くことがなくなった。

 清掃のアルバイトは順調で、あと半年で約束の2年になる。教養課程の単位はすべて揃い、あとは学部の単位だけだ。

 葵との交際は順調で、後は官僚になるための、国家公務員試験の勉強を始めるだけだった。

 健一は、受験の予備校のパンフレットを大学生協で集め、目を通した。

 3つ4つ、有力な学校がある。同級生の官僚志望者達は2回生ごろから、早ければ1回生から通学を始めていた。

 こんなものに通う必要が果たしてあるのか、中高時代に塾に通わなかった健一は疑問に思ったが、合格体験記などではほとんどの学生が通学していた。

 検討したが、高校時代と同様、大学の授業の他は独学で勉強することにした。そうして、大きな書店で大量の入門書を買い込み読み始めた。


 佳恵は手芸部を引退し、勉強中心の生活になった。成績は良く、担任からは、女子なんだから自宅から通える大阪大学を目指せと言われた。

 古風なことを言うなと佳恵は笑い、そうして阪大の文学部を目指そうか、それとも浪速教育大学に進んで家庭科の教師を目指そうかと考えた。登紀子は浪速教育大学一本の志望であった。

 健一からもらった3万円は、再び登紀子と高級毛糸の購入に遣っていた。二人とも、健輔からの3万円分のカシミアの毛糸は、家族用と自分用に少々とで使い果たしていた。

 今回も登紀子は遠慮したが、佳恵は強引に受け取らせた。そうすることが自然だと思ったのである。

 佳恵とて勉強は別段好きではなく、編み物に針を通している方がずっと楽しかったが、受験勉強は仕方のないことであった。阪大は、志望する文学部でも数学が必要で、これも頭痛の種だった。

(おお兄さんは、こんな(つま)らない勉強を日本一良くこなしたのね)

 勉強が進むにつれ感心するのであった。


 健輔は勤めも3年目に入り、雀荘の仕事にすっかり慣れた。麻雀歴も4年を越え、腕前はプロ並みになった。たまに仕事で客と打つが、相手に合わせてとんとんになるようにしていた。

 それ以外は大方いわゆるウェイターで、苦もない仕事であった。

 初老の店主は独身で後継ぎもいなかったが、健輔は別段、跡を継ごうとは思わなかった。

 店は、昼1時開店の深夜12時閉店が表向きで、健輔は開店から夜9時迄の勤務だったので、もう一人、夜9時から閉店迄を担当する、緒方という古参のアルバイトがいた。年は30代で、阪大を中退して梅田で何社か会社員をしたが務まらず、この雀荘に流れてきたと聞いていた。

 雀荘は、深夜12時までの閉店と法定されているがあまり守られておらず、この雀荘も、最後の客が離れるまで、1時か2時頃まで営業しているのだった。緒方は、時給が1500円ほどだったので、かつかつの生活をしていた。阪大生時代から豊中の文化住宅を離れていないとのことだった。

 健輔はほとんど接触がないながら、どことはなしに緒方に好感を持っていた。夜9時の勤務交替で少し言葉を交わす。

「○番テーブルのお客さん、かなりお酒が入っていますのでご注意を」

「はいよ」

「△番テーブルからは徹マンをしたいと要請があり、2時まででしたら何とかと返答しました」

「はいよ」

 緒方は愛想よく相槌を打ち、蝶ネクタイを直しながら、

「今日もお疲れさん、後は任せて」

「お願いします」

 緒方の愛想の良さが、勤務の終わりに心地良く感じられるのだった。

 一度だけ飲みに行ったことがある。雀荘が盛況だった期の寸志で店長が、君達ほとんど交流ないだろう、一度飲みに行け、居酒屋代くらい出してやると、5千円ずつを上乗せしてくれたのである。

 店の定休日に二人は、近くの居酒屋に向かった。

「き、君、ラグビーの選手やったらしいね、店長から聞いたよ」

 緒方は少しどもりの気があった。

「中学生の頃の話ですが」

「羨ましい。僕なんかこんなもやしやから、スポーツはからっきし駄目で」

「でも勉強はできなさった」

「阪大に進むまではやけど。後は転落の人生や」

「僕は工業高校すら中退していますから、転落は僕の方が上ですよ」

「き、君はまだ若い。僕はもう35やから、見込みはない」

「35って、まだ若いじゃありませんか」

「いや、もう駄目や。でも、望みを全く捨てた訳やない」

 そうして緒方は、小説を幾つか書き溜めていること、気に入った新人賞に時折応募しているが、1次審査くらいは越えたものもあること、当選したら作家としてやっていく夢を持っていることを話した。

「また読ませて下さい」

「いや、それは駄目や。まだまだ僕の筆は甘い。当選したらぜひ読んでもらうけど」

 そんなことを話し、

「ところで、君には夢はあるか?」

「ありません。当面は今のまま働きます。店が閉店することにでもなったら、高校時代まで考えていた、工員にでもなろうかと思います」

「工員か。いいな、プロレタリアートや」

 そんなことを緒方と話し、お開きにすることにした。

「ぼ、僕はいずれ、大きな作家になるかもしれん。そしたら、今日のことを思い出してや」

「必ず」


 健一は勉強に本腰を入れ始めた。アルバイト先の上司は、もう勉強に専念したらどうだと尋ねるのだが、健一は、約束の2年間は続けますと答えた。それで試験が駄目だったら、それはそれでしようがないと考えたのである。

 大学の授業は難しく、受講を断念して勉強を予備校通いに絞る学生も多かったが、健一は無理をしてでも授業に出た。予習をきっちりとして迎えれば、全くわからないということもなかった。

 模擬試験を受けたが結果は散々であった。成績優秀者には、早くから予備校通いを始めた学生達が名を連ねていた。

 自信をなくし、一年でどうこうなるだろうか、彼らと同様、予備校通いを始めようかと悩んだが、独学に賭けた。少しずつ成績は上向き、そうして四回生の初めに試験を迎えた。

 結果は中々良く、目当ての大蔵省の定員数くらいの順位であった。

(これは行ける)

 官僚を単に目指すというよりは、健一は上位の省庁を目標にしていたので、最低限の成績は取れた次第であった。梅雨の始まる頃に健一は官庁訪問を始め、秋の初めに大蔵省からの内定が出た。

 高校時代の成績から見れば不本意な試験結果であったが、テニスサークルと清掃のアルバイトに奔走する中での結果と見れば上々で、そうして何とか最上位官庁の椅子を物にすることができたのである。

 健一はすぐに実家に電話を入れた。

「そりゃあ良かったわね」

 話の途中で佳子は涙ぐんだ。

「恋人にサークルにアルバイトでしょ。お父さんとお母さんは、無理だろうと話し合っていたのよ」

「何とかなったよ。大山家の血が、そうさせたんだ」

「いえあなたの努力の賜物よ」

 次に健一は、葵に電話を掛けた。

「良かったわね。健一さんならやると思っていたわ」

「本当かな?」

「私も鼻高々よ」

 大いに喜び、その夜葵は、紅白のワインを土産に健一の下宿を訪れた。

「近々結婚しよう」

 ワインを口にしながら健一はプロポーズした。

「私なんかで本当にいいの?」

「俺にはもったいない相手だ」

「……。ではお受けさせて頂きます」

 葵は少し涙ぐんだ。

 翌日、二人は宝石店に出掛け、健一は葵に、貯めていたバイト代から5万円程の指輪を買ってプレゼントした。

「いずれ正式な婚約指輪を渡すよ」

「これでいいのよ」

 二人は次のデートの約束をし、健一は葵を下宿に送った。


 佳恵は阪大の文学部に進み、初めての秋を迎えていた。登紀子と一緒に浪速教育大学に進む考えを打ち消した結果であった。

 佳恵の教育大行きには、両親と健一が共に反対した。

「阪大に進める成績なら、迷わず進め」

 とりわけ健一は強く反対したのだった。

「佳恵は専業主婦になる考えはないのか?」

「家庭科の教師になるのと迷ってるの」

「どうしても家庭科の教師をやりたいのでなければ、阪大に行け。何かにつけ学は高い方がいい」

 温厚な健一がわりあい強く主張したのだった。

 結局、両親の意見も考え合わせて、成績の範囲で手の届く阪大の文学部を選んだのだった。

 御堂筋線で豊中の校舎に通う道すがら、健一の言葉を思い出し、どこがどうとはなく今回の決定は正しかったと思った。登紀子といくら仲良しだからといって、何も同じ大学の同じ科に進む必要もないわけである。

 ともあれ疎遠にはなるが、これからも登紀子とはまめに連絡を取り、友達として仲良くやっていこうと思った。


 健輔は佳子から健一の朗報を聞き、笑って、そりゃ良かったと言った。俺からもお祝いを包むかとちらと思ったが、よしておこうと思った。

 健輔も健輔で人生の転機を迎えていた。健蔵から、金を出してやるから自分の店を持たないかと打診されたのである。

 返事はいつでもいい、要るだけ出してやる、その考えになったらいつでも言って来いと健蔵は言った。健輔は戸惑い、少し考えさせてほしいと答えた。

 21歳になったばかりだが、16から働いているので、もうすぐ店員歴も5年になる。雀荘の経営については大方わかっていた。

 そうしてそれとは別に、店長が、店の跡を継がないか、私もそろそろ引き際だ、田舎に行ってゆっくり暮らしたいなどと言い出したのである。別段急ぐ話でもない、経営は貧しいが、結婚して所帯を持つくらいの収入はあると言った。

 そうして健輔には、工員になろうかという考えもあった。接客が務まらない訳ではないがあまり好きになれず、機械や部品相手に武骨な作業を行う方が向いているのではないかと思われたのだった。

 急遽(きゅうきょ)三択を迫られ、健輔には頭の痛い話であった。健一に相談しようかとも思ったが気が進まなかった。友人もおらず、孤独な悩み事を抱え込み、酒と煙草がまた増えることになった。


 健一は無事大学を卒業して、大蔵省に入省する運びになった。

 法科大学院に進む隆也が焼肉でお祝いをしてくれた。庶民的な店ではあったが、隆也はすべて上の肉を選んだので、高くついた。

 隆也は、

「さあ別れの時だ。今日ばかりはしっかり飲もう」

「ありがとう」

「お前が昔言った通り、最上級の官庁に入れたな」

「お前には何かと世話になった」

「俺はかつて話した通り、平均の弁護士になるつもりだ」

「応援するよ」

 隆也はやたらめったらと酒を飲み、健一にも勧めた。二人はべろべろに酔って店を出た。

 隆也は、

「応援するよ、大蔵省と(まち)(べん)の関係になるが」

「立派な街弁になれ」

 隆也はまたなと言って、去って行った。

 健一は、下宿近くの居酒屋で再び二、三杯飲んでへべれけで店を出、部屋に戻ってベッドに転がり込み、俺の青春時代もこれで終わりだなどと考えながら寝入った。


 健輔はずいぶん考えた末、今の雀荘を継ぐことにした。愛着はあるにしろ、そこまでではなかったが何となくそうした。

 今まで貯めた金のほとんど全ての300万で、店主から権利ほか、一切の備品を引き継ぎ、晴れて一国一城の主となった。21歳の船出であった。

 健蔵は、そうかよかったと話を聞いて喜び、お前は金のことをどう思っているか知らないが、所帯を持ってやっていくには持つべきものは持っていなければならない、いずれお前が結婚するまでにも、それなりのものを貯めておけと諭した。

 健輔は、今までの健輔の仕事を求人誌にかけて、一人の若者を採用した。緒方には引き続き、夜の担当を任せた。

 実入りは思いのほか良く、前の店長がわりあい稼いでいたことがわかって健輔は少し笑った。そうして緒方の時給を上げ、若者にも健輔の時よりいい給料を払ってやった。

 昼1時から夜9時迄の勤務なのはこれまでと変わらなかったが、若干早い目に出勤し、そうして以前よりは遅く退勤した。経営は軌道に乗っており、健輔にとっても家族にとっても喜ばしい出来事となった。


 健一は主税局に配属されたが、研修を終えるとひたすらコピーを取らされた。最近のコピー機は進化しており、細かい機能まで自家薬籠中の物とした健一は、首になったらコピー屋を開くと葵に話した。

 別の部署に配属された同期も同様で、これが大蔵省の、新人を迎える伝統らしかった。

 その夏、短い夏休みを健一は帰省に充てた。

(てい)のいいコピー係さ」

「それにしちゃ、お給料いいんでしょ?」

「大したことないよ。官僚の新人時代って薄給さ」

 そうして、来年にも葵との入籍と結婚式を行いたいと許しを請うた。

「もちろんいいわよ。お父さんも大賛成よ。早くに所帯を構えるのは良いことよ」

 健蔵と佳子も早婚なのだった。

 健一は夕食を済ませると居間に入り、健蔵に向かって、来年にも正式に結婚したいと請うた。健蔵は、そりゃあいいことだ、実にめでたい、葵さんを幸せにしてあげなさいと簡単に答えて笑った。


 佳恵は、健一の結婚予定を聞き喜んだ。お兄さん、なかなかいい男だからね、浮気しなけりゃいいけど、とにもかくにもお幸せにと心の中で祈った。

 佳恵は最近、編み物を控え、代わりに読書に時間を割いた。大方が日本の古典文学で、趣味のものではあったが、学部に進学してからも多少の財産になるはずだった。

 登紀子とは時折、電話をしたり、食事をした。同じ教員志望の学生達に囲まれて、楽しく学び、語らっている様子だった。家庭科の教師を志望する仲間と、専門のサークルに入り、放課後はそこで送っているとのことだった。

 佳恵は佳恵でテニスサークルに入り、テニスに興じていたが、それでも、かつての夢の一つであった家庭科教師を目指して進む登紀子を羨ましくも思った。

 佳恵は恋人を作らなかった。誘いは何人かからあり、中には心を動かされる相手もいたが、自宅通いで男女の関係を持つことが(はばか)られたのである。

 まあ独り身の青春時代も気楽でいいわと思い、事のついでに結婚するまで(みさお)を守ろうかとおぼろげに考えた。


 健輔は店主修行の最中(さなか)であった。税金やら行政手続きやらが煩わしかった。

「雀荘は風営法の対象やから。パチンコ屋と並んで」

 緒方は言った。

「役所はどう思ってるんでしょうね」

「そりゃあ、いかがわしい商売やと思ってるんやろう、役人達」

 健輔は健一のことを思い、少し笑った。

 売り上げは引き継ぎ前と変わらず、広告会社が時折訪れて出稿を依頼したが、健輔は断った。店員数を絞っており、これ以上客が増えても困るのであった。

 心なしか客同士の喧嘩騒ぎも減り、たまに起こると若者には任せず、健輔が仲裁した。

(“職業は自営業、正しくは麻雀店経営”だ)

 21才の若店主は、カウンターの中で笑った。


 佳恵は読書に励む一方、自分と登紀子との友情に着想を得た小説を書き始め、30枚程の作品が完成したので、ちょうど募集していた地方の新聞社の主催する文学賞に応募してみた。何か月ののち当選発表があり、どういう訳だか佳作に選ばれ、賞金の3万円が送られてきた。

(何の因果か、また3万円ね)

 両親に何かプレゼントしようかと思ったが、また編み物を作ろうと考え、さっそくかつてのように登紀子を誘って、手芸店で毛糸を買った。

 編みながら、また良い題材が浮かんだら応募してみようかしら、それとももう終わりにしようかしらと思った。


 健一は、東京で結婚式を挙げた。24歳同士の若夫婦の誕生だった。

 健一が大学で東京へ発った日のように佳子は涙ぐみ、つられて佳恵も泣いた。

 健輔も店を緒方に任せて出席した。緒方には日当を弾もうと考えていた。

 健蔵はスピーチに立ち、まだ若い新郎新婦ではありますが、必ずや苦難を乗り越えて、新しく生まれる家庭を良く築くことを期待しますなどと話した。

 式はつつがなく終わり、4人は新幹線で帰阪した。新大阪駅からは車に乗り換え、車中で健蔵は、さあ次はお前達の番だ、期待しているぞと威勢よく話し、そうして一家は機嫌良く帰宅した。


 健輔の雀荘で、緒方が持ち逃げをした。100万程の売上金を金庫から盗み、そのまま行方をくらませた。

 健輔は、警察に届けるかどうか迷ったが、結局届けることにした。応対した警察官には、一人の勤務はこれだから危険ですよと釘を刺された。

 急遽(きゅうきょ)求人を出し、実直そうな若者を選んで採用し、しばらく研修をした後に夜の勤務を任せた。

 一連の騒ぎが収まり、健一は近くの居酒屋に入って痛飲した。

(あのおやじ、気が良さそうだったがな)

 俺の見る目がまだ若かったか、いや前の店主も重宝していた、魔が差したんだろうと諦めて、ウイスキーをロックで飲んだ。5,6杯程飲んで帰宅すると、遅かったが健蔵が出迎え、今回の件は残念だったな、実は中々悪い奴だったんだな、諦めて明日からまた頑張れと励ました。うんありがとうと健輔は答え、ぐったりとベッドに横たわってそのまま寝入った。


 健一夫婦は新婚旅行に北海道へ出掛け、自然を堪能して東京に戻った。そうして大手町の官舎での二人暮らしが始まった。

 官僚の給料は初めのうちは安いと聞いていたが、それほどでもなく、おまけに官舎の家賃が安かったので、金には困らなかった。健一は、今までにもあまり金に困るということがなかったので、今回も幸運に感謝した。

 一年間のコピー取りが終わり、本格的な仕事が始まった。もちろん官僚なので書類仕事がほとんどで、元々頭のいい健一は苦労しなかった。

 家に帰り、葵に、

「官僚、何とか定年まで務まりそうだよ」

「うれしいわ」

「それなりに出世もできるかもしれない」

「それはまだいいじゃない」

 葵は笑顔で答え、できてもできなくても私は幸せよと言った。


 佳恵は再び筆を執り、家族をテーマにした100枚足らずの小説を完成させ、今度は東京の文芸誌の賞に応募した。数か月ののち当選し、その出版社と契約を結ぶ運びとなった。21才なので若くはあるが、時折あることであった。

(何が幸いするやらわからないわね)

 健一が、教育大学ではなく阪大を強く勧めたことを思い出し、感謝しなければいけないと思った。とことん頭のいい兄であった。

 おおむね半年ごとに小説を出稿し文芸誌に掲載され、そうして結構な原稿料が支払われるのであった。健一がことのほか喜び、小説を極めろ、この調子で書き続けろ、作家なら結婚してもできると息巻いた。

 向いていたのか題材に事欠かず、書いているうちに手慣れてきて、技量も上達したと編集者には褒められた。思いもよらず、生業(なりわい)が定まったのである。

 そのうちの一編が出版され、思いがけない額の印税が手に入った。どうしようか、家族に幾許(いくばく)かを渡そうかと考えたがやめて、馴染みの肉屋で一番高い肉を買って来てすき焼きにしてもらい、残りはそのまま貯金にすることにした。


 隆也が司法試験に合格し、健一は喜んで祝賀会を開いた。勤めで知った銀座の一流焼肉店で、俺は社会人だから遠慮するなと以前に隆也がそうしたように、上の肉ばかり注文した。

「やっぱり弁護士志望か?」

「ああ、街の庶民の味方だ」

「儲からないぞ」

「それは承知だ」

 言葉と裏腹に、健一は隆也の無欲を喜んだ。

 友人とはいえ、何かと隆也の世話になることの方が多かった健一は、何ができるかはわからないが、今後できる限りのことはして恩を返そうと思った。とりあえずは、隆也がレバ刺しを好きなのを知っていたので、4皿注文してたらふく食べた。

 焼肉屋を出ると、仕事で知った、高層ビルの最上階にあるバーに隆也を連れて行き、カクテルを3杯ずつ飲んだ。

「ここ、いい店だな。夜景が綺麗だ」

「俺も気に入っているんだ」

「東京にいると、こんな風景が楽しめるんだな」

 しみじみと隆也は言った。隆也は、地元の甲府に帰る予定であった。

「東京なんてコンクリートジャングルさ。俺だって、できるものなら田舎でぼんやりして過ごしたいよ。何しろ俺が知っているのは東京と大阪だけだからな」

「いや、俺はお前には大きくなってもらいたいよ」

 バーを出て二人は別れ、健一は家に帰って葵に報告した。

「立派な弁護士さんになればいいね」

「俺もそう願うんだ」


 健輔の店の近くで大手のチェーン店が開店し、二人の店員は揃って引き抜かれた。3年ほどの経験を積み、麻雀の腕も上がったのを見込まれての引き抜きであった。

 勢いのあるチェーン店で、健輔も多少の昇給を持ち出して慰留したが、とうてい敵わなかった。

 健輔は仕事の話を家ではあまりしなかったが、この話ばかりはしておこうと思って健蔵に向き合った。

「やれやれ、軽薄だな」

「払える給料が違うから敵わないや」

「また雇え。今度は大丈夫だ」

「そうだったらいいけど」

 これだけ話して健輔は部屋に戻り、雀荘経営もこれまでかなと思った。

 数日考えて、店は売りに出すことにした。近隣の店に200万ほどでどうかと打診し、3件目で話が(まと)まった。健蔵に報告すると、そうか仕方ないなと寂しそうに言った。

 引き渡しの日に一人で店の真ん中に立ち、ぐるりと周りを見渡した。高校に入学して以来の、友人達とも打った思い出の店だった。感情があまり出ない健輔ではあったが、寂しさがよぎった。

 売却先の主人がやって来て、健輔は店のあらましをもう一度説明し、権利書類を渡した。そうして、帰りに居酒屋で5杯のウイスキーを飲み、帰宅した。


 佳恵は大学を卒業し、大学院には進まず専業の小説家になった。最初は30枚でスタートした作家稼業であったが、今では2,3百枚の原稿を、ざらに仕上げるようになった。

 時に題材が浮かばず、時に筆が進まない時も当然あったが、何とか乗り切った。社会や世界を描くというよりは、身近な主題を掘り下げて描くようにしていた。

 ある時、男から電話がかかって来た。学生時代のテニスサークルで交際を求められて心が揺れたが、結局断った相手だった。

 とにかく会ってもらえないかと喫茶店に誘われ、僕も就職して何とか家庭を持てる身になった、君のことが忘れられない、僕と所帯を持ってくれないかと口説かれた。

 数年来会っていない相手で佳恵は戸惑ったが、しばらく考えて、少し交際の期間を持たせてほしいと答えた。相手の若松は応諾し、週末に大山家の門前で若松の車が佳恵を待つこととなった。


 健輔は店の引き渡しの日以来、酒浸(びた)りになった。夕方に起きて食事をすると部屋に戻って飲み始め、朝方まで飲み続けて眠った。家族の頭痛の種の、健輔の再来であった。

(ひど)いことになったわね」

 佳子が健蔵に言った。

「無理もあるまいか」

 普段は健輔に厳しい健蔵が同情的だった。

「立て続けに3人に裏切られた訳だ」

「そりゃあそうですけど」

 佳子は顔をしかめた。

「いつまでこの生活が続きますでしょうか」

「まあ様子を見よう」


 健一は仕事に専念していた。膨大な書類のあらましや、関連法令などの知識の吸収に躍起であった。高校大学大蔵省と進むたびに周りは優秀な者が集まる訳で、さすがの健一も伍していくのに躍起であった。

「周りが優秀で困るんだ」

 葵に(こぼ)した。

「日本一偉い人達が集まる職場でしょ」

「こりゃあ、日本の官僚は世界一だと言われる訳だ」

 葵は笑い、けれども学生時代から健一を知っている葵には、悠々仕事が務まるはずだとわかっていた。

 健一は、健輔の話を佳子から聞きがっかりしたが、どうすることもできず、電話口で健輔に、そう落ち込むな、世の中悪い奴ばかりじゃない、しばらく考えて次の道を探せと言った。


 健輔は酒を飲みながら、厄介なことになったと思った。緒方に続いて、2人の若者に逃げられ、商売が崩壊したのである。また一から人を雇って再出発しようとは思えなかった。

 あの雀荘が自分の人生の大切な居場所だったことを、健輔は思い知らされることになった。

(工員にでもなるか)

 たまに求人誌をパラパラと(めく)り、未経験でも採用してくれる職場が多くあることは知っていたが、気力がなかった。

(もう少し先に考えよう)

 杯を重ねながらそう思った。


 若松は阪大の医学部の出身で、テニスサークル時代に佳恵を見染めて交際を申し込んだが、今は考えられないなどと言って断られたのである。佳恵は当時、誰とも交際する気がなく、その後も独り身を続けていたのを若松は知っていた。

 若松は今、6年間の学業を終えて、阪大病院で働いている。君のことが忘れられなかったなどという口説き文句も、その通りであった。

 容姿にも内面にも優れており、佳恵自身も時折、若松のことは思い出すことがあったのである。

 二人は関西各地を散策して楽しんだ。佳恵が若松を知るためであると同時に、若松も佳恵のことをより深く知った。

 あるデートで、展望の良いレストランでの食事中、佳恵は若松に、

「ぜひ私と結婚して下さい」

「構いませんか?」

「こちらこそよろしくお願いします」

 体を求められるかと思ったが、結婚までは清純を保ちたいと思う若松は求めなかった。ただし車の中で口付けを求められ、初めてだった佳恵は応じた。そうして二人は今後の予定について話し合い、別れた。

 佳恵は帰宅して机に向かい、頬杖を突いて考えた。

 おおよそ半年後に結婚することになったのである。お互い24才なので、悪くない年齢であった。

 若松はサークルでも人気があり、もちろん医師になる予定だったので、女子学生達の憧れの的だった。佳恵は、学生時代に袖にしてしまった相手を射止めることができたのである。

 小説はどうしようかと思った。思いもよらず得た女流作家の地位に、佳恵はそう未練はなかった。

(若松はどう思うであろうか? 訊いてみようか)

 佳恵は椅子を立つと、入浴の準備を始めた。


 翌日、佳恵は夕食のあと、家族三人の席で、結婚が決まったことを報告した。

 健蔵も佳子も喜び、良さそうな青年なんだろう、おまけに医師と来るのか、こりゃ朗報だと健蔵は言った。

「卒業してからも、私のことが忘れられなかったんだって」

 佳恵はおどけて見せた。

「そりゃあ、父さんがきっちりとあなたを育ててくれたおかげよ。感謝しなきゃ」

「もちろんよ。それで母さんにもよ。二人共、感謝しています」

不束(ふつつか)な母親でしたが」

 佳子はこう言って少し涙ぐんだ。佳恵も涙が込み上げた。

「小説はどうするね?」

「私はどっちでもいいの。若松さんに決めてもらおうと思って。でももうやめるかな」

「彼がそう言うならそうしなさい」

 部屋に戻って壁に並んだ小説をぱらぱらと(めく)り、やはり彼に(はか)らずやめようと思った。


 隆也が無事司法修習を終えたので、健一は再び焼肉に誘い、門出を祝った。

 隆也は、甲府の街の弁護士事務所に採用が決まっていた。

「めでたい」

 健一は言った。

「卒業試験はぎりぎり合格だったんだ。同期は侮れなかった」

「お前なら一流の弁護士になるよ」

 そんな話をして別れ、家に帰ると実家から電話が来た。佳恵婚約の一報だった。

 少し話は聞いていたが、(まと)まってよかったと思い、相手が阪大病院の医師だと聞きなおさら喜んだ。

「おめでとうと伝えておいて」

「そうね。帰省の折に改めて祝ってあげて」

「もちろんさ」


 

 健輔は、昼夜逆転の生活を始めて2年になった。いやいや受けさせられた健康診断でも、血液に異常値が出ていた。めまいや立ち(くら)みに悩まされ、夜中に散歩に出かけるようにした。

(さあどうするか?)

 雀荘の件で衝撃を受け、家族からは同情されているとはいえ限度があった。どこかしらに勤めに行くか、商売でも始めなければならないと思ったが、自営業はもうやりたくなかった。

(どこか遠くの街に行くか?)

 現場の作業員にでもなろうかとは考えたことがあった。遠くへ行くなら東北が良いのではないか、いやいっそのこと北海道にするか?

 健一は散歩を切り上げて家に向かい、明日職安に行こうと考えて早々に布団に入った。

 翌日、昼前に起きて食事を済ませ、ちょっと出かけて来ると佳子に言った。佳子は、あら珍しいわね、行ってらっしゃいと、行き先は問わなかった。

 職安の紹介窓口に向かい、現場作業員の仕事はありますか、できれば東北か北海道でと尋ねた。

 職員は簡単に略歴を尋ねたあと、ダム建設の仕事はどうですか、未経験でも可です、秋田の案件ですと言って、健輔に求人票を見せた。月給が30万ほどとあり一目で気に入ったが、他にも二、三の案件を紹介してもらって、その日は帰った。

 夜、酒を飲みながらもらって来た求人票を眺め、秋田の案件がやはり気になって応募しようと思った。


 佳恵は、次のデートで若松に、

「私、結婚したら作家はやめます」

と告げた。

「どうして? もったいない。僕はどっちでもいいんだよ」

「いえ、私は家庭に入りたく思います」

 佳恵はそれ以上言わなかった。若松は口にはしなかったが、内心で喜んでいるのが伝わり、佳恵はいい決断をしたと思った。

 健一から電話がかかって来た時に話すと、

「そうか、そりゃよかった。彼は喜んでいたろう。小説なんてちょっと変わった人間の書くものだ。俺は高校を出て以来、一冊の小説も読んでいない」

 こういう言い方をする兄であった。

 残念だと思っているのか喜んでいるのかわからず戸惑ったが、

「彼を専業主婦として支えて行きます」

「そうか。それで良かった」


 数日後、健一のもとに佳子から電話があり、

「健輔が大変なのよ」

「どうした? 倒れた?」

「秋田のダム建設の現場作業員になるって聞かないの」

「どうして秋田なの?」

「東北ならどこでもよかったって」

「どうして東北へ?」

「言わないけど、ここが嫌になって、遠くに行きたいと思ったんでしょ」

 ここというのは実家のことか、大阪のことかは分からなかった。

「健輔に替わって」

 健輔が出て来て、

「悪いね、騒がせて」

「どうして秋田へ行くんだ?」

「ここはもう嫌だ」

「ダムの建設作業員って危険な仕事なんだぞ。黒部で何人死んだか知っているのか?」

 健輔は知らなかった。道理で給料が高い訳だと思った。

「危険でも何でもいいよ。行きたいんだ」

「やめろ」

「いや行く」

 健一は一旦諦めて、電話を佳子に替わらせた。

「行かせちゃ絶対駄目だ」

「それが聞かないのよ」

「父さんは何て?」

「大反対よ」

「そりゃそうだ」

「鎖をつけるわけにもいかないから、あなたで駄目ならもう駄目ね」

 佳子はそう言い、

「まあ、仏壇に毎日お祈りすることにするわ」

「ばかな」


 健輔は求人に応募し、無事採用となって秋田に行く手筈となった。

 持ち物はあまりなく、多くはない衣料を事前に寮に送り、単身秋田に向かうことになった。新大阪まで送って行くという健蔵の申し出を断り、健輔は天王寺駅から新大阪に向かった。

 泣きこそしなかったが、家族三人は悲愴な面持ちで健輔を送り出した。

「嫌になったらすぐ帰って来なさい。うちは、あなた一人を一生食べさせるくらいのお金はあるのよ」

「これからは自分の金で生きて行くよ」

 健輔は答え、振り向かずに地下鉄の出入り口に消えた。

 夕方秋田に着くと、建設会社のマイクロバスが迎えに来ていた。すぐに寮へと車は走り、六畳一間の一室が充てがわれた。運転手を務めた案内人は東北人らしく朴訥(ぼくとつ)と、健輔を案内した。

 朝食と夕食はここで、風呂場はここ、トイレはここと、淡々と寮内を案内し、そうして、明日から会社の会議室で研修をします、明朝8時に迎えに来ますので、準備しておいて下さいと話して帰って行った。

 その夜、健一は持ってきた酒を飲みながら、控えめにしよう、もう実家の居候(いそうろう)じゃないんだ、なに、雀荘店主だった頃は中々良くやっていたじゃないかと振り返り、備え付けのテレビでニュースをちらりと見て寝た。


 翌日から1か月間の研修が始まり、ダム建設の概要が教えられた。ダムの名称は二葉ダムで、二葉地区の二葉川に造るダムであった。

 1か月間の研修後、面接が行われ、担当官は履歴書を見ながら健一に、

「天王寺工業高校を2年生で中退、その後麻雀店勤務ののち、麻雀店経営、その後無職、これでよろしいですね」

「はい」

「工業高校は機械科の所属でしたね」

「そうです」

「車の免許は何をお持ちですか」

「普通自動車免許だけです」

 担当官はしばらく沈黙した後、

「まずは土砂の運搬トラックの運転から入って頂きましょう。その間に大型免許を取得して頂き、いずれはミキサー車の運転をお任せしましょう」

「工事そのものには関わらないのでしょうか?」

「クレーンやら掘削機の操縦については、今は結構です。熟練工が足りていますので」

 健輔は、物足りないような一方で安心した。

「車両の運転だけでも置いて頂けるのでしょうか?」

「大丈夫です。それだけでも大助かりです」


 佳恵は結婚式を間近にして、最後の小説に向かっていた。

 愛と別れについて自分なりに書けるものを書き、編集者に見せると、いい作品です、来月号に掲載致しますと言った。そうして小説の末尾に、作者は本作品を以って引退致します、長らく応援頂きありがとうございましたと一言入れさせてもらった。これが佳恵の作家生活の終わりだった。

 短い作家生活ではあったが、佳恵なりに情熱と愛着を持って書いた3年間だったので寂しさがこみ上げ、編集者との別れ際に声を詰まらせて、

「3年間ありがとうございました。これ以上のご期待に沿えず申し訳御座(ござ)いません」

 と詫びた。

「こちらこそ、いい作品をありがとうございました。ご多幸をお祈り致します」

 編集者は明るく答えたが、寂しそうな表情であった。編集者が去ると佳恵は本棚に向かい、小説はすべて捨ててしまおうと思った。


 金曜日の夜、健一は自室でビールを飲みながら考えていた。

 佳恵は良さげな相手と結婚の運びになった。阪大病院の医師だというから、路頭に迷う心配は皆無だろう。

 健輔は家族の反対を押し切って秋田に行った。垣間(かきま)聞いたところでは、直接の工事作業ではなく、運搬員としてトラックの運転を任されただけだったというので、拍子抜けしただのと言っていたらしい。よかったが、そのうちどう事情が変わるかわからない。あいつのことは重々注意しておかねばならない。

 両親は歳を取ったが病気もせず、事業は安泰だ。かく言う俺は仕事にもついて行き、事務次官とは言わずとも、そこそこの出世の自信が出て来た。葵は良妻として甲斐甲斐しく尽くし、結婚相手にも恵まれたと言わねばならない。

(とにもかくにも健輔次第だ。大山家の安泰を守るには)

 そんなことを考えながらビールを干した。


 健輔は、8トントラックの運転に明け暮れる毎日が始まった。現場の採掘場と集積場の往復である。車はあまり運転したことがなかったが、丁寧な指導を受けうまく行っていた。

 同期に篠原という同世代の友人ができ、寮でたまに飲むようになった。

「大阪が嫌になって出て来たんだ」

 健輔が話すと、

「俺も東京が嫌だよ。もう帰りたくない」

 多少の身の上話をしたが、似たような境遇で郷里を離れたのだった。

「工事が終わったらどうしよう?」

 健輔が尋ねた。5年ほどの工期の予定であった。

 篠原は、

「俺はもう、秋田に居付きたい。そのままこの会社に雇われるつもりだ。お前は?」

「俺はどうしようかな。東北ならどこでもいいから、また仕事を探すよ」

 今のところ、週末に街に出ても店員などの態度もよく、何より建設会社や現場の先輩達の気性が優しかった。秋田ないし、東北の地が気に入ったのである。

「じゃあ、お互い東北人になるってこったな。親しくしよう」

 篠原が言ったが、そういう会話を緒方としたあとこっぴどく裏切られたことを思い出して少し笑い、

「そうしよう。死に場所は秋田だ」

 健輔は答えた。


 健輔から大山家に連絡はほとんどない。最後に、トラックの運転手で済みそうだという連絡があって以来、こちらから電話をしても、もうそちらからは連絡して来るなと怒って電話を切る。

「健輔はどうしているの?」

 健一が電話で尋ねると佳子は、

「連絡がつかないのよ。でも、便りがないのは良い便りって言うしね」

「僕、一度見に行こうか」

「怒るわよ。そっとしておいて」


 健輔は時折、街に買い物に出掛けた。貯まった金で中古の軽自動車を買い、篠原を乗せて方々に出かけるようにもなった。

 秋田は自然が豊かで美しく、また人の気性も優しく、篠原に言った通り死に場所に相応(ふさわ)しいと健輔は思った。

 そのうち大型免許の講習が始まった。勉強は大変だったが、運転は感覚のよい健輔には楽なものだった。無事試験に合格し、ミキサー車の運転ができるようになった。

 会社の同僚は大いに喜び、神社の交通安全のお守りをプレゼントしてくれた。健輔はそれをサイドバッグに入れ、肌身離さず持ち歩いた。

 篠原も少し遅れて大型免許を取り、健輔は、別の神社のお守りをプレゼントした。篠原は、会社からのと併せて二つのお守りをポーチに入れて携帯した。徐々に何もかもがうまくいくようであった。

 当然昼夜逆転が収まり、酒と煙草の量が自然と減ってきた。親しい友人ができ、秋田の厳しい寒さも乗り越えた。トラックとミキサー車の運転も(そつ)なくこなし、寮では、魚と野菜が中心ながらも、健康に気を配った中々の食事が提供された。

(今回の就職は正解だった。あいつらの言いつけに従っていたらこうはならなかった)

 健輔は心の中で毒づいた。


 佳恵の結婚準備が始まっていた。結納が終わり、一家は家具の選定と買い出しに追われていた。

 新居は吹田に決まり、佳恵と若松は相談の上、賃貸マンションではなく借家をすることにした。阪大病院から程近くに手頃な物件があり、若松は徒歩で通えると喜んだ。

 春の大安吉日に二人は、ホテルで結婚式を挙げた。阪大時代の友人達が多く参列し、仲人は若松の学生時代の指導教授が務めた。

 健輔は参列を躊躇したが、妹の結婚式に兄が参列しないなんて考えられないと篠原に説得され、渋々始発のホームを離れて、新幹線で新大阪に乗り込んだ。

 実家には向かわず会場のホテルに直行し、そうして式が終わるとすぐに秋田に引き返した。日帰りの強行軍であった。

 式場で佳子は諦め顔で、ちょっとは家に顔を出してくれてもいいじゃないとぼやいたが、健輔は工事が立て込んでいるんだと嘘を言った。

 その日の夜、辿(たど)り着いた寮の部屋に篠原が顔を出し、妹さんおめでとう、これはお祝いというほどのものじゃないけどと、大吟醸を一升置いて帰った。翌日は休みだったのでさっそく半分空け、風呂にも入らず寝入った。


 佳恵は北海道への新婚旅行を終え、専業主婦としての生活が始まった。家事以外の時間は再び、しばらく遠ざかっていた編み物を始めた。

 久し振りに登紀子に会いたくなって、天王寺の喫茶店で食事をした。登紀子は地元の町工場の工員と、佳恵の少し前に結婚していた。

「そう、家庭科の先生をまだ続けているんだ」

 佳恵は言った。

「亭主の稼ぎが悪くてしかたないんだ」

と登紀子は笑ったが、幸せそうだった。

「私は作家の真似事みたいなの、もうやめちゃったから、羨ましい」

「私も家に入りたいとはよく思うよ。半分半分ね」

「そうかしら」

 そうは答えたが、実際そうだろうかとも思った。登紀子が、

「主人がしょっちゅう怪我をして帰って来るのよ。心配でありゃしないわ」

「私も、主人が患者さんから悪い病気を移されないかと心配よ」

 と答えたが、ここはやはり登紀子の心配の方が上回っているような気がした。

「怪我のことで何かあったら言ってきて。主人に何かできるかもしれない」

「ありがとう」


 健一は入省して6年目に入り、夜の付き合いが増えた。いわゆる接待である。

 上官達が過剰接待で問題になり自粛ムードが続いていたが、ぼちぼち再開の兆しがあり、健輔も上官のお付きで、ときには単独で、銀行の大蔵省担当者達との食事会があった。

 俺のような雑魚をと、単独での接待の際には笑いながら受けたが、将来を見越しての銀行の次の一手であった。

「僕なんかを接待しても、上がりはありませんよ」

 健一は笑うが、

「いえ、大山さんには末永く当行とお付き合いを頂きたく」

と担当者が真顔で話し、まだ係長にもならない健一であったが、問題のない範囲で省の考え方や取り組みを食事代程度に説明して見せた。担当者は真剣に話を聞き、食事の終わりに重々感謝をし、勘定を持った。

(やれやれ、こういうことが続くと人間が腐る)

 健輔は溜め息を付き、しかたのないものを除いて、接待は受けないようにした。


 ダムの工事は無事に進捗(しんちょく)していた。反対運動というものもなく、四方満足の工事であった。

 健輔は毎朝7時に起床し、8時から寮の食堂で朝食を摂って迎えのバスで会社に向かい、特に何もなければ夕方6時から寮で夕食をとって、風呂に入って寝た。

(極めて健全な生活だ)

 健輔はたまに可笑しくなった。健全な生活を求める家族に反して秋田行きを決断したことが、結果的にそうなったのである。

 土日には大方、街に出て買い物をしたり温泉に行ったりして、秋田の人々と同じような休みの過ごし方をした。ボーナスも思いがけず多く、貯金は貯まる一方であった。

 工事は掘削が終わり、そろそろコンクリートの流し込みが始まる頃になったので、トラックからミキサー車の運転へと重心が移った。ミキサーの扱い方にも慣れ、熟練運転手の片割れとして重宝されるようになった。

 実家には長らく連絡をしていなかった。先方からの連絡には一度怒り、それ以来電話は来ない。

(家族って何だ? この年になって逐一、家族の指示を受ける必要もない。俺は俺でやっていくさ)

 健輔はウイスキーを(あお)り、そろそろ街で女を見つけて所帯を持つかと考えた。


 佳恵は庭で、園芸と家庭菜園を始めた。植木屋で気に入った鉢を買って手入れし、また、庭を掘り返して黒土を入れ、きゅうりやほうれん草などの野菜の苗を植えた。

 実家で母を少し手伝っていたのであらましは分かっていたが、本屋で入門書を買って読み始めた。若松は喜び、家庭的な妻だと思った。

 佳恵は夕食で、収穫した野菜をサラダにしたものを出しながら、

「お仕事は順調?」

「ああ。治りの悪い患者さんはいるけど」

「そういう時はどうするの?」

「治療期間を延長して通い続けてもらうか、入院してもらうよ」

 若松は整形外科医だった。

「そうなるとお互い大変ね」

「あんまりないことさ。気にすることはない」

 若松はビールを干して居間に入った。佳恵は後片付けをしながら、健輔兄さんも悪い怪我をしなければいいけどと思った。


 健一は運動不足を感じ始め、テニススクールに通うことにした。卓球と迷ったが、より運動量が多かろうと考えたのである。

 汗を流してボールを追いながら、テニスサークルの同期のことを考えた。学部を問わず、進路は洋々たるものだった。

 一番上の健一の他にも、裁判官や学者になったもの、外交官になったものや、弁護士になったものがおり、そして多くは大手企業の会社員になっていった。健一は、東京大学というものの格を改めて考え、大変な学校に入ったものだったと思った。

 時折、葵とコートを借りて打ち合った。テニススクールには葵も誘ったが、入らなかった。

 学生時代はあまりうまくならずに上級者の手を焼かせたものだったが、今は熱心にスクールに通うおかげで、ずいぶんうまくなった。

(今度、サークルのOBの合宿に参加しよう。皆、驚くぞ)

 そんなことを考えながら汗を拭いた。


 健輔は、一通り秋田観光を終え、日曜日に空手道場に通い始めた。高校時代以来のスポーツであった。

 まず型を、指導と見よう見まねで習得した。元々運動神経のよい健輔は試合でもめきめき上達し、師範から褒められた。軟派なスポーツを嫌う健輔には、空手はぴったりの選択だった。

 女子の部に気に入った女ができ、健輔はデートに誘った。相手は応じ、無事交際の運びとなった。

 車で方々をデートし、平日は電話をして愛を深めた。

(どうだろう、プロポーズするか?)

 健輔は考えた。

 ほぼ同い年で、話も合う。器量は十人並みだが、それくらいでちょうどいい。

(そろそろ所帯を持つ頃だ。金の心配も要らなかろう。篠原が言っていたように、ここで本採用にしてもらおう)

 決心を固め、前祝いだとウイスキーを干した。


 翌日、いつものように、ミキサー車を車庫から現場に向かわせた。途中でミキサーが止まり、健輔は車を寄せて降り、様子を見に行った。

 ミキサーは微動だにせず、健輔は手を伸ばして触ってみた。突然ミキサーは動き出し、健輔の右手は挟まれて吹き飛んだ。すぐに病院に運ばれたが、手術の甲斐もなく健輔は右手を失った。


 大阪に帰ることになり、健一と佳恵は寮に迎えに行った。健輔を拾うと在来線で盛岡に向かい、そうして東北新幹線に乗り換えた。

 窓からは一面の雪景色が広がっていた。

「ちい兄さん、秋田っていいところだね」

「そうだろう、俺も気に入っていたんだ」

「大阪はいや?」

「そんなことはないさ。俺の生まれ育った地だ」

「前みたいにお酒を飲み過ぎないでね」

「もう大丈夫だ。秋田のおかげさ」

 家に着き、健蔵と佳子が出迎えた。

「今回の件は大変だったな」

「うん。またも煩わせる結果になったね」

「養生なさい。後のことは考えないで」

「うん」

 女二人だけではなく、男二人も涙は出尽くしていた。そうしてなるたけ淡々と接しようとした結果であった。

 長旅の疲れが出て、健輔はすぐに布団に入った。残りの4人は居間で向き合ったが、言葉少なであった。健一が、

「起こったことはしようがない。僕は東京に帰らなきゃならないけど、みんな、優しく接してやって」

「もちろんだ。あいつにも言ったことがあるが、健輔が食べていくだけの金くらい、十分にある」

「佳恵、妹として優しくしてやってくれ」

「はい」

 翌日健一は、後ろ髪を引かれる思いで大阪を離れた。いつものように見送りを断って、歩いて天王寺駅に向かった。

(一番恵まれている俺が何もしてやれないな)

 そんなことを考えながら改札に向かった。


 健輔は横になって、これからのことを考えていた。左手一本でできる仕事など、世の中にあるんだろうかと思った。ちょっとわからなかった。

 秋田でできた、恋人の聡子(さとこ)のことを思い出した。

 入院先に熱心に見舞いに訪れ、あなたとやっていく決意は変わりませんと言ったが、子供じゃないんだしそういう訳にはいかない、俺はもう一生実家の世話になって独り身で通す、仕事も持てないだろうから女性を抱える訳には行かないんだと、強く断ったのだった。

 聡子は、私は諦めません、あなたを食べさせるだけのお金は稼ぎますと引かなかったが、健輔は結局、押し通したのだった。

 悪かっただろうかと考えたが、間違っているようには思えなかった。

(俺はもう一人で、この家の稼ぎで食べさせてもらって生きていく他ない)

 寂しさが込み上げて、涙が出そうになった。

(再び職安に行って、左手一本でできる仕事を尋ねてみようか)

 そうする他ないと考え、そのうち再び眠りに就いた。


 葵は、最近始めた編み物をしながら、健一のことを考えた。健輔のことで憔悴し、目を赤くして朝食に現れた朝もあった。

 葵は健輔にほとんど会ったことがないが、口数は少ないが朴訥として、悪い人間には見えなかった。秋田に行って運命が好転し、一時は喜んだものの、一気に暗転したのだった。

 可哀想だと思うが、さりとて葵が何をしてやることもできず、健一に慰めを言うのが関の山だった。健一は、せっかく通い始めたテニススクールも休会した。

 今度の帰省の際にできるだけ親身に話をしよう、それくらいしかできないと思いながら針を進めた。


 健輔は、しばらくののち職安に向かい、担当官に事情を説明して、左手一本で務まる仕事はあるかと尋ねた。

 担当官は苦し気に、ちょっと私共にはそういった職は扱いがありませんと言った。自営業をなさるのがいいのではないでしょうかと言うので、わかりましたと答えて去った。

 帰って佳子に話すと、仕事の話はこれでもう諦めなさい、うちで一生をゆるりと過ごすのよ、何度も言うけど、それくらいのお金はあるんだからと言い含められた。健輔はそれで、職を持つことを諦めた。


 健蔵は、社長室の窓から外を眺めた。天気は良く、処分場の職員はきびきびと働いている。

 買収するだのされるだのという話が時折湧いたが、結局何も変わらずに会社は回っている。

 ダム建設は危険だという健一の助言は、結果的に当たったのである。大阪で勤めに出ていればこんなことにはならなかった、俺の引き留めが弱かっただろうかと後悔もされたが、後の祭りであった。

 俺と佳子が死んだ後は田舎の施設にでも入り、ゆっくりと後世を過ごせばいい、それがよかろうと考えながら紅茶を啜った。


 佳子は、健輔が秋田へ行く前と同様、変わらず健輔に接した。この子の行く末を案じて泣けてくることも山々だったが、健輔には決して見せなかった。

 起こってしまったものはしようがない、後のことはどうあれ、私が生きている間はこの子に不自由をさせまいと誓った。そうして、私達夫婦が死んだ後のことは兄妹二人に託すしかないと思った。

 久し振りに庭に出て、菜園の草を取った。野菜を収穫して台所に戻り、切ってサラダにした。健輔は、庭で取れ立ての野菜を食べるのが好きだった。

 近頃、秋田で交際していたという娘さんから、健輔に電話がかかってきた。健輔に取り次ごうとすると健輔は断り、先方は諦めた。

「交際していた人よね」

「ああ少しね」

「結婚したら?」

「とんでもないさ」

 (おく)(ほど)持たせて、その娘さんに嫁いでもらうという考えが佳子に浮かび、

「性格はいいの?」

「ああとても」

「お金のことがあるから断っているの?」

「そればかりでもないよ」

 佳子はその考えを持ち越し、健蔵にも相談してみようと思った。


 健一は、健輔のことがあって以来休会していたテニススクールに復帰した。別段、家で塞ぎ込んでいたからといって、健輔の状況が改善する訳でもないのである。

 久し振りにコートで球を追い、走り回って心地よい汗を流し、ベンチに座って汗を拭いた。春の良い風が吹いていた。

(それにしても心配をかける奴だ)

 健一は笑った。

 小学生以来、ずっと健輔は一家の悩みの種だったのである。

 佳子からの電話で、健輔が秋田で交際していた娘さんから(しげ)く、電話がかかって来るという話は聞いていた。佳子は、お金のことなら先々を心配しないでいいほどのものを用意できるんだけどと言っていた。健輔は障害者年金を受け取ることにもなっていた。

 佳子に相談されて健一は戸惑った。判断がつかなかったのである。

「健輔はどうしたいんだろう?」

「彼女からの電話には出ないって言うのよ」

「母さん達が死んだ後も、僕達が面倒を見るけど」

「奥さんがいた方が健輔も幸せかなって、時に思うの」

「同情されているのかな、彼女に」

「そればかりでもなければいいんだけど」

 そうして電話を切り、健一は葵に話をした。葵は少し考えて、

「私はその人に嫁いでもらうのがいいと思うわ」

「どうしてかな」

「どうしてかわからないけどそう思うの」

 健一は、部屋に戻ってビールを飲みながら、次の電話の機会に、葵がそう言っていたと佳子に話そうと思った。


 ある週末、夫婦と健輔は、健輔の衣料品を買いに車で洋品店に出掛けた。天気予報では晴れだったが、天気がぐずつき始め、最後には大雨になった。

 一家がようやく家に辿(たど)り着くと、傘を差した若い女が門の前で立っていた。聡子であった。

 健輔は諦めて聡子を自室に通した。そうして話し合い、聡子は、私はどうしてもあなたと結婚するのだと引かなかった。

「面倒をかけたくないんだよ」

「そんなことはありません」

「俺のことは諦めてくれ」

「諦めません。私、秋田の女なんです」


 健輔は聡子と、大阪のホテルで結婚式を挙げた。友人があまりいない健輔は参列者に困ったが、かつてのラグビー仲間と麻雀仲間に声をかけて、参列してもらった。

「私の至らなさで障害を持つ身になってしまいましたが、嘆き悲しんでばかりはいられません。私は私なりに精進し、聡子さんを必ずや幸せにします」

 健輔はそういった挨拶をして身を正した。一同は拍手で迎え、健輔を応援した。

 佳子は新居を家の近くに(こしら)えて、

「聡子さん、あとのことはよろしくお願いします」

「はい、お義母さん」

「何かあったらすぐに私に相談して。すぐ駆け付けるから」

「はい。ありがとうございます」

「これは少ないけど、あなた達によ」

 佳子は、一億円が入った健輔の預金通帳を聡子に渡した。

「少ないけど、健輔には年金も入るから、これで何とか()っていって」

 聡子は驚き、

「お母さん、こんなに頂けません」

「私達からのお願いだから」

 佳子は渋る聡子に強引に受け取らせると、その場を去った。

 健輔が買い物から帰ると、聡子は一部始終を健輔に報告した。

「これはあなたが持っておいて下さい」

「俺がこんなものを持っていてもしようがない。お前、要るだけ出して、(つか)ってくれ」

「でも」

「ぜひ、そうしてくれ」

 聡子は、すぐに実家に電話をかけ、1億円の入った銀行通帳を渡されたと母親に話した。

 母親はたまげ、それでもすぐに気を取り直して、あなたへの期待の表れよ、健輔さんはもう働けないんでしょう、一生分なんだから大事に(つか)わせて頂きなさいと、聡子を諭した。

 そうして、年金がある上にそれは多いわね、健輔さんに良いものを食べさせて、着せてあげなさい、良かったわね、相手は坊っちゃんだったわねと笑い、電話を終えた。

 聡子は、実家から持参した小さな仏像を巾着袋から取り出して立て、ありがとうございます、ご加護があり、大変恵まれたこととなりました。慢心せず、生涯を賭けて健輔さんを幸せに致しますと念じ、そうして仏像をしまった。


 佳恵は菜園で野菜の手入れをしながら、健輔と聡子のことを考えていた。

 考えたくはないが、どうしてもついて回るお金の件が解決し、健輔は心置きなく聡子と所帯を持つことができたのである。

 健輔は片手での生活にも慣れ、大方の日常事を一人でできる様になった。それでも、どうしても聡子の手をかけることはあったが、そう負担にはさせていないと健輔は強がった。

(うまく行けばいいけど)

 健輔と聡子の、結婚に至る経緯について考えた。聡子の東北人らしい実直さに佳恵は打たれ、自分が聡子の立場だったら同じことができたろうかと思った。

 登紀子に話すと、

「いい恋人を持っていたわね、健輔さん。幸せね」

「そうよね」

「健康な生活を送ってお相手を幸せにしなきゃあ」

「以前みたいな生活に戻らないようにしてほしいの」

 他愛のない会話を登紀子と交わしている時間は、佳恵の楽しみだった。そうして、登紀子が同じ立場だったらやはり、健輔を見捨てなかったろうかと考え、電話を終わらせた。


 健輔は自活の道を探り、以前に職安で言われた、自営業の道を模索し始めた。

 再び、慣れた雀荘でもやるかと思ったが、人を雇う仕事はもうしたくなかった。

 煙草屋を思いつき、いい考えではないかと思ったが、近辺にはもう多くの煙草屋があり飽和だった。農業にも()かれたが、ここは大阪の中心部で、おまけに片手でできる仕事では到底なかった。

「聡子、片手でできそうな自営業ってないか?」

 夕食の席で健輔が尋ねた。

「ただし煙草屋は、ここいらでは駄目だ」

 聡子は困った顔をし、

「ちょっと考えられません。お坊さんなんてどうでしょう」

「そりゃあいい考えだが、坊さんってどうやってなるんだ?」

「そりゃあ、お坊さんの学校を出るんでしょう」

「そりゃだめだ。俺は勉強がからっきし駄目だ」

 聡子は笑い、

「お金のことは考えないでください。私達、身に余る大金をご両親から頂いたんです。贅沢せず、ゆっくりと人生を進みましょう」

「そりゃそうだ」

 健輔は自営の道を諦めた。


 健蔵が軽い脳梗塞を起こして入院した。医者は、一か月程の入院が必要だと言った。

 佳子が毎日見舞いに行き、健輔夫婦と佳恵夫婦もたびたび訪れた。

「俺も年を取ったもんだ」

「まだ60じゃありませんか」

「昔ならとっくに隠居しているところだ」

「昔と今は違いますよ」

 しっかりと回復して、経営に復帰して頂かないと困りますと佳子は言い、当然俺もそうするつもりだと健蔵は答えた。

 そろそろ後継のことを考えないとなと健蔵は考え、健一は官僚を全うするだろうし、健輔に経営は無理だ、若松は阪大病院の医者を当然全うするだろうと考え、現場の責任者を昇格させることを考えたが、経営者の器ではなかった。

 頭の痛い課題ではあったが、ここいらで手を打たなければならないと思った。


 帰宅した佳子は健蔵と同様に、事業の後継者のことを考えた。手が空いているのは健輔だけだが、健蔵と同様佳子にも、健輔は経営者の器では到底ないように思われた。

 けれども昔、健輔がラグビー部の副主将を固辞した時、健蔵は、馬鹿者、器なんていううものはやっているうちに身に付くものだと怒鳴ったことを思い出し、私達はそれに反することを言っていると思った。

(本当に、健輔に経営は出来ないかしら)

 今までの健輔を見ていると、できないだろうと思った。人見知りし不器用で、人と接するのが下手なのである。大所高所からの立場になることは難しいと思った。

 佳子は溜め息を付き、健一なら大丈夫なんだけどと思ったが、高級官僚を辞めてまで継ぐ様な家業では到底あるまいと思いながら、茶を啜った。


 健一は係長に昇格した。同期は一律にそうであったが、やはりうれしいものであった。

 帰宅すると、葵が高級ワインを買って待っていた。二人で空け、今のところ、東京大山家が順調に推移していることを喜んだ。

 健一は、聡子が結婚までの経緯(いきさつ)の通り、健輔に甲斐甲斐しく尽くしてくれていることを喜んでいた。健輔は、悪いが俺からは特に何もしてやれないんだがと寂しそうに言ったが、そんなことはない、健常者とできるだけ変わらない生活をして聡子の負担を減らしてやれ、生きているだけでいいんだ結局のところと力説した。

 葵とは、そろそろ子供が欲しいねという話になっていた。同期でも、そろそろ出産を迎える者が増えていた。

「産もうか、そろそろ」

「ええ」

 男がいいか女がいいかを考えたが、別段どちらでもよかった。しかし、男ばかり女ばかりは好きじゃない、できれば男女両方の子供が持ちたいなどと考えながら席を立った。


 若松が院内感染で肺炎になり、しばらくの入院生活ののち死んだ。享年27歳だった。

 あまりの早さに佳恵は涙も出ず、葬式の後は家を出られなかった。若松は元々体が弱く、そのために勉強に打ち込んで医者となったのだが、病弱な体質は変わらなかったのである。

 佳子も佳恵が不憫で一人、家で泣き、すぐ戻ってらっしゃいと佳恵に話し、佳恵はそうした。悪いことが続くわねと佳子は嘆き、健蔵は、禍福あざなえる縄の如しだ、また良いことがあるさと慰めた。佳子が、

「佳恵、まだ若いんだから、次のお相手を見つけるのよ」

「私、もう結婚しません」

「じゃあどうするの?」

「……。いったんやめたものではあるけど、作家の道を再開したいの」

「お金のことなら心配しなくていいのよ」

「それより、自分の生き甲斐にしたいの」

 佳恵は、以前の担当編集者に電話をし、こういう事情でもう一度作家の道に戻りたい、どうか手助けしてほしい、図々しいのは承知ですが何卒(なにとぞ)お願い致しますと頼んだ。

 編集者はお悔やみを言ったあと、いったん途絶えた作家の道ではありますが遅れは大したことがありません、短い間でしたが結婚生活を経験なさったことも文筆に活きてくるでしょう、ぜひ次作を完成させて見せて頂きたいと、歓迎してくれた。

 そうして佳恵は趣味の編み物も止め、小説に専念するようになった。28才の春であった。


 健一は、若松の葬式に出席した帰りに実家に泊まり、佳恵もしばらくは辛いだろうけど、まだ若いんだからいい相手が見つかるさと、明るく話して帰って行った。その後しばらくして、佳恵の作家業の再開の話を聞いた。

 佳子によると、佳恵はもう再婚をする気がなく、独身を貫いて小説に打ち込む覚悟だと言っているらしい。健一は言葉に困り、そう言うならそうさせてやればいいとだけ佳子に伝えた。

 良いことなのか悪いことなのかわからず、葵に相談した。

「作家さんを再開されるのは、私はいいと思うけど」

「そのために生涯を独身で貫くと言っているんだ」

「それもいいんじゃない。佳恵さん、芯が強そうな方だしきっとうまくいくわよ」

「そうか」

 健一は葵の言葉に励まされ、俺のできる限り佳恵を応援してやろうと思った。


 佳恵は書店に出かけて最近の小説に目を通し、10冊程を買い込んで帰宅した。知らない作家が知らない間にデビューして、活躍していた。

 作家への復帰話は我がままな頼みであったが、編集者は受け入れてくれた。さりとて雑誌への掲載や出版は、今後佳恵の書くもの次第なのであった。

 佳恵は買って来た本をあらかた読み、参考にして、編集者の希望する100枚程の短編を書き始めた。

 佳恵は露骨な私小説は嫌ったが、どうしても未亡人というテーマが頭から離れず、手始めに近からず遠からずというところで小説にして編集者に見せた。これはよろしいです、次号に掲載致しましょう、これを手掛かりに新しい小説をどんどん書いて下さいと編集者は喜び、無事掲載された。

 自らの死別経験を小説にしたことにやや引っ掛かったが、しかたなかった。

(私は、あなた以外の男性と所帯を持つことはありません。だから、今回の件は許して下さい)

 佳恵は、雑誌掲載後に若松の仏壇に向かってそう念じた。


 健輔は(とう)椅子に横たわりながら、佳恵のことを考えていた。

 結婚生活は3年で終わりを迎え、今後は独身を貫いて女流作家の道を行くと言っている。健輔も健一と同様、是非の判断がつかなかった。

(結婚って、女の最大の喜びとか言うんじゃなかったっけ)

 そう(いぶか)りながら、家庭を持ちながら筆を執ることを断念した佳恵が、これからは自由に文筆できるのだから、再婚を諦めて作家の道を歩むことは幸せなことなのだろうかと思った。

 健輔は考えたがよくわからず、聡子に尋ねた。

「お前、どう思うかい?」

「私なんかにはよくわかりません」

「そう言わずに」

「そうですね、結婚生活も女の幸せなら作家活動も佳恵さんの幸せで、二つあるうちの片方を選ばれたんでしょう」

 健輔は聞いたが、それでもよくわからないことであった。


 佳恵は夫の死後、初めて登紀子と会った。食事をしながら登紀子は、

「今回のことは残念だったね」

「しかたないわ」

「よさそうな人だったけど」

「いい人だったのよ。仕事も熱心でね」

「小説、書き始めたんだって?」

「そうね、私もう、再婚はしないことに決めたの。あなたと同じ職業婦人ね」

 登紀子と会って話をすると胸が晴れて、明るい気持ちになるのだった。そうして、もっと小説が上達しますようにと願いながら話を終えた。


 健一に男の子が産まれた。

 初孫に健蔵と佳子はいきり立ち、でかした健一、しかも最初が男の子だ、大山家の後継ぎ息子だと喜んだ。葵や葵の両親は、健一が長男であることを念頭に、男の子が産まれてほっとした。

 健一は、とにかく良かった、二人目か三人目が女の子だったらなおいいねと喜び、葵の出産を称えた。

 それぞれの実家から受けたお祝いを育児用品に充て、三人家族の出発だった。もうしばらくしたら二人目を産もうと、夫婦は言い交わした。


 職を求めるのを諦めた健輔は、日中を、ぼんやりと庭を眺めて過ごすようになった。

 デッキチェアというものを気に入って2つ買い求め、時には聡子にも付き合わせた。日中の飲酒は結婚して以来控えていたが、どうしても辛いときは缶ビールを空けた。

「やれ、隠居生活だ」

「幸せなことよ。苦しんで仕事に向かうことを考えたら」

「俺なんか、もう少し苦しんでいいんだ」

「あなたは十分、苦しんでいるわ」

 聡子はそう言い、

「ビール、もう一本飲む?」と尋ねた。

「もういいんだ。眠たくなってきた」

 すっかり酒に弱くなったが、酒量が減り、健輔には歓迎すべきことだった。

「今日はお肉を焼きましょう。牛肉がいい?」

「そうだな、それがいいや」

 健輔はうとうととし、そうしてそのうち眠りに就いた。


 佳恵は、最近登場したワープロを買い、原稿用紙と万年筆の執筆活動から乗り換えた。キーボードさえ慣れれば、執筆が便利になった。

 かつて200枚程で執筆した、家族をテーマにした小説の評判が良かったので、もう一度別のものを書こうかと考えていた。ほとんど恋愛経験のない佳恵には、恋愛小説が苦手であった。そうして、新婚旅行で訪れた北海道が気に入っていたので、中でも気に入った函館を舞台にして、家族小説をもう一度書いてみようと取り掛かった。

 腕はあまり衰えていなかったと見え、300枚程の小説を書き上げて編集者に見せると、これは白眉(はくび)です、さっそく次号に掲載しましょうと褒め、実際にそうなって新聞でも褒められた。

(結婚生活が不幸だった分、執筆活動には恵まれているわね)

 佳恵は心の中で笑い、次は軽い短編でも書こうか、それとも歴史小説に挑戦しようかなどと考えながらワープロを開いた。


 健蔵が二回目の脳梗塞を起こし、病院に運ばれた。今度は前回のような軽度のものではなく、医師は、退院してももう、職場に復帰することは勧められないと話した。

 どれくらい駄目かと健蔵が食い付き、そうですね、半日程度の勤務になさることを次善には勧めますと医師は答えた。

 退院した健蔵は佳子と話し合い、当面、午後だけの勤務にすることにした。その間に後継者を決めるか、そうでなければ、うちを欲しがっている近隣の業者に売却してしまおうと決めた。

 後継候補と言っても、健一か健輔か、あるいは佳恵を女社長にするか、あるいは現場の責任者に譲るかだったが、現場の責任者は幾つになっても頼りなく、到底任せられないと健蔵は断じた。

 売却の話は、いざとなると躊躇された。佳子の父が苦労して立ち上げ成長させて、健蔵が婿入りしてまで跡を継いだのである。売れば、夫婦の心にぽっかりと穴が開くだろうと思われ、そうしてそれは子供達にも同様かもしれなかった。

 (しま)いには、しっかりものの聡子を女社長に迎え入れる案まで出たところで佳子は、まず大山家の長男たる健一に相談すべきだと言い、健蔵も同感した。

 健一は電話で、

「そう、お父さん悪いの」

「そう。それはそうなんだけどね、電話で何なんだけど」

 佳子は、大山環境の後継ぎ問題を説明し、あなたどう考えると健一に投げた。

 健一は少し沈黙し、少し考えさせてほしいと言った。あなたに大蔵省を辞めて戻って来てほしいなんて露ほども思ってないのよ、むしろその逆なんだからと佳子は念を押し、電話を切った。


 健一は電話のあと、自室のソファーに座りこんだ。ビールを持ってきて飲み、厄介なことになった、父さんも社長がこれ以上続かない、長男たる俺は何とかする責任があるだろうと思った。

 これまでは、あの事業は売ればいい、両親も未練がなさそうだしと思っていたが、俺達が生まれ育ち馴染んで来た事業だ、いざとなると抵抗があるのは健一も同様だった。

 健輔は、右手のことはさておき、とうてい会社の社長が務まる器ではない。佳恵は作家業に打ち込み始めたところで、しかも会社の社長なんてどうだろうか。聡子を女社長に迎え入れるというのも、当然馬鹿げているように思われた。

(戻ろうか?)

 少し考え、一体誰が喜ぶ結論だろうかと思った。前途洋々の大蔵官僚が大阪の下町に戻り、小規模な産廃会社の跡を継ぐというのである。

 健一は居間に入って葵に相談した。電話のあらましを話し、俺が省を辞めて跡を継ぐなんて馬鹿馬鹿しいだろうと尋ねた。

「そんなこと思わないわよ。大切な家業でしょう」

「大切は大切だが」

「ご家族は、本当は戻って来てほしいんじゃないかしら」

「そう思うかい」

「もちろん私にはわからないけど」

 健一は部屋に戻り、もう一本ビールを空けて、そろそろ潮時かと思った。

「父さん、あなたの歩んだ道を、僕も行きます」

 (つぶや)いた。




 健一は、上司に辞表を提出し、晴れて大山環境の社長になった。上司も同僚も反対したが、決意は揺らがなかった。

 産廃会社の長男は、産廃会社の社長になるのである。健一は笑った。

 健輔の時にそうしたように、佳子は実家近くに家を建てて健一一家を迎え入れた。

 健一にこうさせたのは、決して私達夫婦のためだけじゃない、兄妹を含んだ一家の幸せのためだと、佳子は自分に言い聞かせた。

 健一は健輔を秘書にした。社長業に馴染(なじ)ませ、いずれは跡を継がせるつもりであった。

 家業とはいえ、会社のことをあまり知らない二人は、健蔵から教えを受けた。

「お前達、すまないな」

 話の途中で、健蔵が漏らした。

「僕達はこれで幸せさ」

 健一は答えた。

「僕は昔、友人達の親の職業を聞いた時、嫌な気がしたんだ。僕は下町の社長になる」

 健一のいつもの口振りであった。

「そうか。(だい)大山環境の、若社長の御成り(おなり)だ」

 健蔵もおどけた。


 健一は期待通り社長業を良くこなし、多少の社業の拡大もして両親を喜ばせた。

 健輔は秘書として懸命に健一に尽くし、社長業を学んだ。学びの悪さに健一は苦笑いしたが、何十年かの長期計画だったので、焦りもせず笑って流した。

 佳恵は再婚もせず、執筆に打ち込んでいる。時代小説に手を出し、その方が今の小説より向いているみたいと話していり。

 健一と健輔の二人の妻は共に良妻で、子供を良く育て夫に尽くしている。

 健一は、いずれ健一の長男と健輔の長男に事業を継がせようと思いながら、まだ早いやと笑った。


 そのうち折を見て、健一は社長の椅子を健輔に譲り引退した。心配された健輔ではあったが、健一の背中を見て学んだ成果で卒なく社長業をこなし、そのうち早々に二人の長男に跡を継がせた。


 ある時健一は、兄妹を誘って両親の墓参りをした。帰りに料亭で食事をし、

「やれやれ、大山家は安泰だ」

「兄さんの大いなる犠牲の上にね」

「ばか、これでいいんだ。大山家は上流民の座とは無縁だ」

 健一は笑い、二人もつられて笑い、そうして場を閉じた。


 それから30年が経ち、健一と健輔は物故した。

 佳恵は生涯を送った実家の縁側で編み物をしていた。筆は近年折った。

 編み物を繰る手を休め、庭を眺めながら、

(両親は、後継ぎなんて要らないって言ってたけど、こうなって本当は本望だったでしょうね。そうしてそれは私達の幸せでもあった)と思った。


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