肉も骨も髪の一筋も
朝、目が覚めてアイリーンは気がついた。
――あぁ、私、魔王になったわ
この世界では魔王は突然産まれる。産まれた瞬間から魔王である者もいれば、生の途中で目覚める者もいる。種族に規則性もない。常にいるわけではないが、少なくとも人類の歴史の残る範囲内では百年と空白が続いたことがない。魔王は理由もなく世界の敵であり、世界は魔王を許さない。そういうものだ。何故かという知識は与えられてない。そしてアイリーンはその日、魔王という生き物になった。知らないはずの記憶が教えてくれる。ヒト型から魔王が出ることはおおよそ五百年ぶりであるらしい。
アイリーンは随分と不思議な気分だった。朝日がまぶしい。小鳥の声はかわいらしくて、パンの焼ける匂いに胸がときめく。いつも通りの朝だ。風が穏やかで日差しが暖かい分、どちらかというといつもより少しいい日かもしれない。その平凡な景色の裏側を、炎で炙るようにジリジリと破壊衝動がなめ回していなければ。日常を紡ごうとするいたって正常な思考回路と平行して、彼女の脳内には、どこから出て来るのかわからないいやらしい声で命令が響き渡っていた。
昨日は、久しぶりに大きな街での公演で、ふかふかのベッドある宿に泊まれたんだった。(燃やさなきゃ)
もう少ししたらきっとマチルダが起こしに来るわ。(殺さなきゃ)
昨日の公演は大成功だったんだもの。今日もがんばらないと!(壊さなきゃ!)
彼女はそれでも、ことの他冷静だった。あるいは逃避なのかもしれないが。
正常な日常を続けることを早々に諦め、魔王としてやらねばならぬこととひととしてやりたくないことを、慎重に慎重に、吟味して次の行動を考える。ひとまずは、この宿を誰にも遇わずに発たねばならない。魔王になって初めて壊すには、ここには大切なものが多すぎた。そして全てを壊すことも、チリ一つ動かさずにどこか遠くへ行くことも、魔王である彼女には造作もないことであった。いつでも壊せるから今じゃなくてもいい、という誰のためかもわからない言い訳は、十分にアイリーンをこの慣れ親しんだ居場所から遠ざけるに足るものである。
けれどアイリーンは、どうしても起き上がれない。たったひとつ。たったひとつの未練が彼女をベッドに縫い付ける。
エドワード。それが彼女の一等大事なものの名前だ。5歳で一座に売られたアイリーンが7歳の時に拾って、それからずっと一緒に生きてきた男の子。
とても寒い日だった。ベリダの吹く火すら青く凍ってしまいそうな芯から凍える黄昏の街角で、次の公演に使う衣装を飾り立てる布の買い出しの帰り道、アイリーンはボロ雑巾のようにうずくまる子供を見つけた。あまりに痩せこけて薄汚いのでよくわからないが、歳は彼女より少し下のように見える。そう大して遠くない昔、アイリーンも同じ姿で街を這いずっていたものだ。その頃を思い出しながら彼女は特段なんの感傷もなく子供に声をかけた。
「何をしてるの。」
少年はアイリーンの問いかけにうつむいた顔をわずかに上げ虚ろな視線を寄越す。傷んでぼさぼさの髪の合間から瞳は恐ろしく暗い。緩慢な動きで乾ききってひび割れた唇がはくはくと何度か空回りした後、ようやく返答らしき言葉絞り出された。
「……なにも……」
その声はあまりにもか細そく、うなだれた首は今にも折れそうだった。
「直に夜が来るわ。今日みたいな日に何もしてないなんて、あんたみたいな子供は死んじゃうわよ」
「いいよ……。行く所なんてない……」
「あんた自分がいらないの」
「いらない……。なんにも持ってないしどうにもなんないもん……」
子供はぼそぼそと囁くような声でアイリーンと問答をしながらどんどん体を丸めていき、やがて完全に顔を伏せてしまった。冬の僅かな陽光の傾きは刻一刻と子供から黒々とした影を長く伸ばしていき、それ自体が独立した化け物のようだ。この化け物が育ちきり、全身を喰らう時、この子供は死ぬのだろう。
アイリーンはあまり良くない頭でいくつかの計算を行ったあと、子供の軽い腕を引っ張り上げてこう言ってやった。
「じゃあ、あたしがもらうわね」
その時からエドワードはアイリーンのものになった。
連れて帰った時は大人たちから大目玉をくらいはしたが、本質的には善人しかいない劇団員達が薄汚いガリガリの孤児を子供を放っておけるはずもなく、アイリーンの計画通り、エドワードはなし崩し的に曲芸一座の一員となったのだった。計算よりもうけたのはご飯を十分食べさせて洗ったあとのエドワードが思ったよりもきれいだったことだ。金色の髪に緑の瞳の子供が、美少女を自負するアイリーンの後ろをついて回るようにちょこちょこと公演の下働きや端役をこなす姿は客にも好評で、最終的には二人はコンビを組んで曲芸や演舞を披露するようになっていった。
それから11年間、朝も昼も夜もずっと一緒だった。朝は早く起きたほうがもう片方を起こすのが決まりなのに、寒い日には起きたくなくて二人でお互いにわかりきった寝たふりをした。後ろをついて回るエドワードの背丈がアイリーンを越したのはいつからだったか。日々サイズが変わっていくエドワードに合わせて技の調整を行うのは面倒だが悪くはなかった。めまぐるしく過ぎ行く日々の中、どんな1日の終わりにも眠る前にはお互いに手を繋いで明日の幸いを願う祈りの言葉を唱える習慣だけはずっとかわらなかった。それは決して思い通りに行くことばかりではない人生を、二人で明日も生きていくための儀式だった。流す涙も滲む血も、繋ぐ手と名を呼ぶ声があればなんでもないことのように思えた。
一座の所有物であるアイリーンにとって、真に自分のものであったのはエドワードだけだ。今ここを立ち去ってしまえば、きっともう二度とは彼に会えはしないだろう。朝食のハムエッグの取り分を争うこともなくなるし、励まし合いながら新技の練習をすることもない。夜のテントでマチルダの目を盗んでいれたホットココアをクスクス笑いながら飲むことも。
エドワードを失うことは、アイリーンがアイリーンであることのすべてを失うことと同義であった。決定的なその瞬間を少しでも先延ばしにしたくて、彼女は頭の中で一生懸命弱音を吐いてみることで動き出すまでの時間稼ぎをしていた。考えているうちは動けなくても仕方がないと思えたから。
神様、神様。なんで私なの?私、普通の女の子だったわ。それはついてない日には、あなたの悪口言ったこともあったけど、そんなの皆言ってるじゃないの。エドワードなんて、私の何倍も口汚く罵っていたのに!あの子ずっと私と一緒だったもの。悪いことだって良いことだってなんでも二人でやったのに。なんで……私……だ…け……
うそ!エドワードはちっとも悪くなんてない!だから私で正解よ。私神様なんてずっとずっと大嫌いだったもの。私こそが魔王。あんな弱虫エドワードなんか出る幕はない。あの子はせいぜい曲芸をするのがお似合いね。物語の舞台に上がる器じゃないわ。
人間的な悲劇を気取った一人問答は、心の底からの声のはずであるのにどこか上滑りして空々しく感じられた。これが魔王というものなのだろう。人間とは本質が違う。そして結局は自分が魔王であることを認め、エドワードから離れなければならないという結論に達しただけだったので、アイリーンは諦めて行動を起こすことを決めた。とりあえず五つ隣の街を焼きに行こうと転移術式を稼働させる。その際未練がましくエドワードの忘れ物だろう髪紐をくすねたのは内緒だ。しかしいつかは彼が喪失に気づけばいいとも思う。
それからの日々に特筆すべきことはない。アイリーンは正しく魔王であった。それだけだ。
しかしてその日は突然やってきた。
最近お気に入りの居城で今日の夕ご飯を考えていたら、侵入者がきたとの知らせを配下の魔族が伝えに来た。何やら慌てた様子で、どうにもかつてないような強敵だ。どれほどの魔物が倒されようがどうでもいいことではあるが、この城の快適さが損なわれるのも面白くないので、退屈しのぎがてらアイリーン自ら赴くこととした。今日はデザートに桃を食べようと決めて、なかなか上機嫌で降り立った先に、彼はいた。
「エドワード」
そう。そうなの。あなたが今回の勇者なのね。エドワードをひと目みてその事実はアイリーンの胸に静かに降りてきた。すっかり理解する頃、向けられる刃と見知らぬ女(美人だわ!)を庇うようなエドワードの姿勢に彼女の頭の中はぐちゃぐちゃに壊されていた。
「ねぇ、その横にいる女はだぁれ?紹介してくれるでしょう?あなたと私の仲じゃない」
「うるさいうるさいうるさい!黙れ化け物!お前が名前を知るだけで人を攻撃出来ることなんざ知ってるんだよ!そうやって皆を殺したんだろうが。団長も、マチルダも、街の人も!虫酸が走る。いつからだ?いつからお前は魔王だった?どこから演技だった。何を目的に近づいた。………お前を、信じる俺は滑稽だったか?」
斬撃や攻撃魔法と共にもたらされる止まらないエドワードの罵倒や追求はほとんど見当違いのものばかりだった。魔王と人間には大きな隔たりがある。アイリーンは早々に会話を諦めた。何を言っても意味はないだろう。誤解をされてるのは少し寂しいが、魔王になってない人間には仕方なのないことだ。
それでもアイリーンは嬉しくてたまらなかった。エドワードが勇者だったおかげでもう一度会えた!彼を一目見る為だけに街を滅ぼしたこともある彼女にとって、向けられるのが殺意でも、かけられるのが悪罵でも、もう一度彼と見え、言葉を交わすことが出来るなど夢のようだった。
だからアイリーンはすべて終わらせることにした。一日の終わりに素敵な夢を見るのは悪くないと思ったから。
「なんでおれをおいていったの」
アイリーンは勢いよく腕を振り上げる。ひとしきりわめき終わった様子のエドワードが小さな声で何かを呟いたようだったが、もはや彼女にはなんの音も聞こえていなかった。持ち上げた腕をゆっくりと胸の高さまで降ろし、指先まで力を込めて水平に薙ぐ。全ての力を放出して、魔王になってからずっとずっと考えていた魔術式を展開させていく。短い詠唱が終わると一瞬強い光が辺りを包んだ後、パキパキとした音共に凄まじいスピードで彼女の足元から空間が凍りついていった。すぐにこの氷はアイリーンを時間とともにその内側へ閉じ込めてくれるだろう。
ここから百年、アイリーンは眠るつもりだった。それはあまり頭の良くない彼女が精一杯考えた神への反逆。百年。たった百年だ。何千年も繰り返されるこの茶番からすれば、ほんの一時の幕間にすぎないだろう。けれど百年もあればエドワードは死ぬ。アイリーンは彼を殺さなくて済む。大切なのはそれだけだった。
連綿と繰り返される茶番劇の中で何度この手のイレギュラーが起きたかは知らない。それでもくそったれな神様に少しだけやり返せたような気がして、アイリーンは口角をあげる。
――ざまをみろ神よ。人などという愚かな生き物を魔王にした己を悔いるがいい。
アイリーンは足先から体が凍っていくのを感じながら胸の中でたくさん喋っていた。見つめる先は当然エドワードだ。自分のいない世界で自分以外の女の子と生きていくのだろう彼に、言ってやりたいことがたくさんあったからだ。
私がいた場所にその子を座らせるの?悔しい。悔しいなぁ。さみしいなぁ。
なあにその顔。置いていくのはあなたなのに、迷子みたいな顔しないでよ。
私あなたと一緒にいられないなら別に生きてたってしようがないの。知らなかったの?嘘でしょ?私、あなたのことが大好きなのよ。いくら馬鹿なあなたでもわかるでしょう。名前一つで呪いをかけられる私が、あなたになんにもしなかった。その、意味が。
けれども、魔王の口から音になって現れたのは最期のほんの三言だけだった。
「おやすみ、エディ。あしたはきっといいひよ」
でも私はこれでおしまい。あんたはあたしのものだから、何も遺してあげないわ。
世界設定はそういうものだと思ってください。