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28.レイの思いのひとかけら

 寮の一室、レイが使っていた部屋。そこはもう既に魔法省の人たちが調べ終えた後らしく、あちこち物が動かされていた。


 それらを無視して、壁際の本棚に近寄る。その片隅に、ひっそりとしまわれた一冊の本。古くてぼろぼろで、本というよりも古びた紙束のような雰囲気だ。


 前にこの部屋に遊びに来た時に、整然と並んだ本の数々とはまるでそぐわない紙束に興味をひかれたのを覚えている。


 あれ、なあに? とレイに尋ねたところ、僕の宝物、とだけ返ってきた。


「シンシア、それがレイの言っていた本なのか?」


 ついてきていたアンドリュー様が、遠慮がちにそう尋ねてくる。たぶんそうです、と答え、慎重に本を開いた。


 ここに何か書いてあるのか、それとも何か手紙でも挟んであるのか。そんなことを考えながら慎重にページをめくる。


「これは……」


「絵本、のようだな。それも、かなり古びて傷んだ」


 比較的有名な、昔からある童話の一つ。それが、この本には記されていた。どうやら、文字も絵も手書きのようだ。それも、かなり上手な。


 あまり質の良くない紙に、色むらのあるインク。貧しいながらも学のある人が、自分の手で書いた本なのだろうか。


 アンドリュー様と二人、息をのみながら絵本を読んでいく。不幸なカラスが苦難の果てに幸せをつかみ取るそのお話の最後には、『大切なレイへ、愛しているわ』と書かれていた。本文と同じ筆跡で。


「……この絵本は、レイの母君が作ったものだろうか……」


「私もそう思います。……彼は、豪商の養子です。でもきっとこれを書いたのは、彼の実の母なのでしょう」


 レイは、家族のことをほとんど話さなかった。自分を養子とした豪商夫婦のことはたまに話したりもしたけれど、それより前については「孤児院にいたよ」としか言わなかったのだ。


「それはそうとして、どうして彼はこの本を私にくれたのでしょうか?」


「思い入れの深い品だから、ということではないのか?」


「……何かまだ、あるような気がするんですよね……レイのことだし、そんな単純な話でもないような……」


 もう一度、じっくりと本を眺める。そうしているうちに、かすかな違和感を覚えた。


「……ここだけ、インクの色が違うような……かすれてもいないし、色むらもないですし」


 最後のページに書かれているレイの名前、そこだけがやけに黒々としていた。意識を集中すると、その文字からかすかな魔法の気配が感じ取れる。


 光の魔法を使う時と同じように、身の内のマナを指先に集め、文字に触れた。


「おお!」


 アンドリュー様が驚きの声を上げる。文字に私が触れたとたん、両手で包めるくらいの小さな光の球が飛び出したのだ。


 その球は私たちの目線の高さでふわふわと浮きながら、黒く光っている。そうして、レイの声で喋り始めた。


『闇の魔法、周囲の者の頭の中に幻を生む術を使って、この伝言を残すよ。願わくはシンシア、君にこの言葉が届きますように。……いや、聞いてもらわないほうがいいのかな。分からなくなってきた』


 レイの声は少しの間ためらっているようだったけれど、やがてゆったりと語り始めた。


『僕は、人の心を操ることができる。魔法省に来て、その力を手に入れてしまった』


『僕は、そのことが怖かった。シンシア、君に魔法をかけてしまいそうで』


 どういうことなのだろう。首をかしげたその時、レイの声が震えた。切なげに、苦しげに。


『ずっと、君のことが好きだったんだ。ギルバート様にも、アンドリュー様にも渡したくなかった』


 思わぬ言葉に、両手を胸の前でにぎりしめる。すぐ隣でアンドリュー様が息をのむ気配がしたけれど、そちらを見るだけの余裕はなかった。


『でも僕は臆病で、何も言えなかった。アンドリュー様のようにがむしゃらに突き進むことも、ギルバート様のように自分の思いに正面から向き合うこともできなかった』


 魔法省に入ってからの日々が、頭の中をかけめぐる。私とアンドリュー様、そしてギルバート様との関係が少しずつ変わっていくのを、レイは一番近くで、ずっと見ていた。


『きっとこのままだと、いつか君をアンドリュー様に取られてしまうんだろうなって、そう思った』


 レイの声はうわごとのようにぼんやりとしていたけれど、同時に熱を帯びてもいた。


『でも僕の力を使えば、君を手に入れられる。アンドリュー様なんて目じゃない。そんな考えが頭をよぎって、怖くなった』


 知らなかった。彼がそこまで思いつめるほど、私のことを思っていたなんて。


 彼は昔からぶっきらぼうで皮肉っぽくて、でも親切で優しくて。その態度は、ずっと変わらなかった。少なくとも私は、そう思っていた。


 その時、小さなため息が聞こえた。そうして、レイの声がふっと柔らかくなる。


『……王立学園にいた頃は、よかったね。僕たち二人とも変わり者で孤立してたから、僕は君を独占できた。僕が魔法省に来たのは、僕が闇の魔法の素質持ちだからっていうのもあったけど、でもそれ以上に、君のそばにいたかったからなんだ』


『君のそばにいられれば、僕はそれで良かった。それなのに……』


 レイの声が、また苦しそうな響きを帯びている。ここにレイはいないと分かっているのに、思わず手を伸ばしてしまった。けれど私の手は、目の前に浮かぶ黒い球をただ突き抜けただけだった。


『魔法省の職員となった君は、たくさんの人に好かれて、新しい生活を満喫していて……僕だけが置いていかれたような気分だった。二人きりのあの頃に戻りたいって、いつもそう思ってた』


『戻りたいけれど、戻れない。僕は幸せにはなれないんだっていう事実を、突き付けられた気がした』


 寂しそうなその声に、思わず言い返す。私の声も、震えていた。


「だったら、私にちゃんと言ってくれればよかったのに! 私、鈍感だから、レイがそんなことを考えてたなんて気づけなかった! 知ってたら、もっと……」


『……だからせめて、君の幸せを壊さないようにしようと、そう思った』


「お願い! 私に分かるように話して!」


 当然ながら、返事はない。その代わりとばかりに、レイの声は恐ろしいほど淡々と語り始めた。寒気のするような、そんな話を。


 ほとんどの生物は、本能的に闇の魔法使いを恐れ、遠巻きにする傾向があるらしい。闇の魔法使いは、ただ存在するだけで周囲のマナをかき乱しがちだという特徴があるので、そのせいだろうと考えられている。


 先日のダンジョンでスライムがやけに攻撃的だったのも、レイがあの場にいたからだろうと、魔法省の研究班はそう結論づけていた。


『闇の魔法使いは、とても珍しい。そして一人の例外もなく、不幸な最期を迎えている。自身がかき乱したマナの影響を受けたり、闇の魔法が暴発したり……僕自身が魔法省の記録に目を通して確認したから、間違いないよ』


 そんな言葉を、レイは平然と語っている。そのことが、余計に辛かった。


『……僕の母さんは、女手一つで僕を育てようとして、病気になって死んだ。そうして僕は孤児院に入った。みんな親切にしてくれたけど、半年後に建物が燃えた』


『きっと僕が親しくなった相手にも、不幸が訪れるんだ。だから僕は、養い親とは距離を取っていた。そうしたら二人は、不幸にならなかった。ほっとしたよ』


 そうつぶやくレイの声は、さっきまでのものとは打って変わって、ひどく悲しそうだった。


『…………だから……ずっと、一人でいようと思ったのに』


『なのに、とってもまぶしい君に出会ってしまった。僕は君のそばにいたいと思ってしまった。そのせいで、君が不幸になってしまうかもしれないのに、あと一日、あと一日って、ずっと先延ばしにして』


 そうして、レイは口ごもる。涙をこらえているような苦しげな呼吸の音が、かすかに聞こえていた。


『……だから僕は、君のもとを離れるよ。僕の不幸に、君を巻き込まないように。僕が君を、操ってしまわないように』


「もしかしてそのために、わざと闇の魔法を使ったのか……? 彼女のもとを離れざるを得ない、そんな状況を作るために……?」


 今まで黙っていたアンドリュー様が、呆然とつぶやいているのが聞こえた。


『……最後に思いっきり闇の魔法も使えたし、人助けもできた。もう、思い残すことはないよ。こんなことを言ったら、きっと君は怒るんだろうな』


『……さよなら、シンシア。どうか僕のことは忘れて、ずっと幸せに暮らして』


 そこまで言い終えたところで、黒い球が霧のようになって消えていった。もう、レイの声は聞こえない。


 アンドリュー様と二人、黙り込む。さっきまでのレイの言葉を、頭の中で繰り返しながら。


「……はずれよ、レイ」


 自然と、そんな言葉が口をついて出ていた。私は確かに怒っていたかもしれない。でもそれ以上に私の胸を満たしていたのは、悲しみだった。


「こんなにたくさんのことを一人で抱え込んで、勝手にいなくなって……忘れるなんて、絶対に無理」


 頬を伝う涙の感触に戸惑いながら、ここにいないレイに向かって呼びかけた。アンドリュー様はそんな私を、そっと見守ってくれていた。

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