25.抑えられなくなった思い
私の言葉に、ベリンダ様は凍りついたように動きを止めた。きらきら輝く水面のような銀色の目で、まっすぐに私を見つめたまま。
いつもふわふわと柔らかな彼女は、いつになく悲壮な、真剣な表情をしていた。彼女は何も言わないけれど、その表情が全てを物語っているように思えた。
のんびりと人が行きかい、ほどよいざわめきに満ちた広場。けれど私たちの周りだけは、音という音が消え去っているように思えた。
どれくらいそうしていただろう、ベリンダ様の小さな唇がゆっくりと開いた。
「……ええ、そうですわ」
そうして彼女は、すっと視線をそらす。私のほうを見ないまま、彼女はゆっくりと語り出した。
子供の頃にアンドリュー様と婚約し、彼の姉のような気持ちでずっと過ごしてきたこと。
そんなある日、アンドリュー様の未来の友人兼側近として、ギルバート様がやってきたこと。
その時、アンドリュー様とギルバート様は十二歳、ベリンダ様は十三歳だったのだそうだ。
「アンドリュー様は、最初ギルバート様のことも気に入らなかったんですの」
運動全般が得意だが、勉学はいたって平均的なアンドリュー様。一方、まだ年若いというのに文武両道のギルバート様。
年相応に、ただし王太子という立場にはあまりふさわしくない子供らしさとやんちゃさを備えたアンドリュー様。一方、年齢以上に大人びていて冷静なギルバート様。
そんな二人、同い年の二人を、どうしても周囲の大人は比べてしまいがちだったらしい。もちろん王太子であるアンドリュー様にはばれないように、こっそりと陰で。
でも当時のアンドリュー様は、何となくそんな空気を感じ取っていたらしい。
アンドリュー様は、ギルバート様をそれはもう毛嫌いしていたのだそうだ。私に近づくな、とことあるごとにギルバート様に命令するようになってしまったのだ。
自分に課せられた使命を果たせないことに、ギルバート様はすっかり落ち込み、自信を無くしてしまった。そんな彼を、ベリンダ様は一生懸命に励ましていた。
それだけではなく、ベリンダ様は、アンドリュー様とギルバート様との橋渡しになろうと努力した。
そうしているうちに、ベリンダ様とギルバート様の間には絆が生まれていった。あの面倒なアンドリュー様を支えていく者同士としての、堅い絆が。
「わたくしとギルバート様の努力はどうにか実を結び、アンドリュー様はどうにかこうにかギルバート様を受け入れてくださいました。やっとギルバート様は、アンドリュー様の友人として、側近としてそばにいることができるようになったんですの」
それだけなら、ただの良い話で済んでいただろう。でもベリンダ様は恥じらうように目を伏せて、ぼそぼそとつぶやいた。
「……でもその間に……わたくしはギルバート様に、ほのかな思いを寄せるようになりました」
彼女の顔には、恥じらいと共に罪悪感が浮かんでいる。
「わたくしの立場では、口にすることすら許されない思いですから……わたくしはずっと、その思いを心の奥に押し込めてきました」
彼女がずっと、やけに自信なさげにしていた理由が分かった気がした。自分は王妃としてふさわしくないと、そんなことを言い張っていた理由も。
きっと、胸の中にしまっていたその思いが、彼女の顔をくもらせていたのだろう。
何も、言葉を返せなかった。ただ黙って話を聞いている私に、ベリンダ様はさらに語り続ける。
それは、あのダンジョン探索の中でのことだった。アンドリュー様がスライムを倒して、大量のマナがあふれ出た時。
吹き荒れるマナに押されて、ギルバート様は土の壁を維持できなくなった。そうして私は、床の穴に落ちた。それを追って、アンドリュー様が穴に飛び込んだ。
その時既に、レイは離れた安全な場所まで逃れることに成功していた。けれど、ベリンダ様は逃げ損ねていた。自分の周りで渦巻く大量のマナに、ただ戸惑うことしかできなかったのだそうだ。
そんな彼女を救ったのが、ギルバート様だった。彼はまっすぐにベリンダ様のところに向かい、彼女を抱きかかえて安全なところまで走ったのだ。床の穴には、目もくれず。
「……ギルバート様の立場であれば、私を追って穴に飛び込んだアンドリュー様を、何に代えてもお守りしなくてはならない。そうですね」
そうつぶやきながら、そっとベリンダ様の様子をうかがう。彼女はうつむいたまま、小さな唇をかみしめていた。その表情は苦しそうで、でもどこか幸せそうで。
そんな表情ができる彼女のことを、うらやましいなと思ってしまった。私はそんな感情を知らない。そう、確信できてしまったから。
「ええ、そうですわ。でもあの時わたくしの胸を占めていたのは、震えるほどの嬉しさだけでした。ギルバート様が、わたくしを守ってくれている。そのことへの」
胸に手を当てて、ベリンダ様は微笑む。慈愛にあふれた、王妃そのものといった優しい表情で。
「わたくしは、もう王妃にはなれません。こんな思いを抱えたまま、国中のみなさまをあざむいていくなんて、許されませんわ」
そうして彼女は、にっこりと笑う。さっきまでの苦悩は、もうどこにも見当たらなかった。
「だってわたくしが愛しているのは、アンドリュー様ではなく、ギルバート様なのですから」
かしゃん。
その時、近くで音がした。固いものを石畳の上に落としたような、ごくありふれたその音は、妙に鋭く私の耳に突き刺さってきた。
ふとそちらを見て、呆然とする。そこには、制服姿のギルバート様が立っていた。その端正な顔いっぱいに驚きを浮かべて、まばたきもせずにベリンダ様を見つめている。
彼の足元には、魔法省の刻印が入った小ぶりのトランクが落ちていた。さっきの音は、どうやらこのトランクを落とした音らしい。ギルバート様の後ろには、困り顔のレイもいた。
「……ベリンダ様、今のお言葉は……」
その場から一歩も動かずに、ギルバート様がうわごとのように言う。ベリンダ様は姉のような母親のような優しい声で、彼に答えた。
「わたくしの一方的な思いですわ。どうぞ、聞かなかったことにしてくださいませ」
私がちょっと余計なことを言ったばかりに、そして間の悪いことにギルバート様が居合わせたせいで、とんでもなくややこしいことになりそうだ。
どうしよう、とこっそりとレイのほうを見たけれど、彼もお手上げだとばかりに首を横に振るだけだった。
「……いえ……アンドリュー様の側近でありながら、あなたに懸想していたのは……私も同じです」
その言葉に、思わず息をのむ。レイもまた、無言で目を丸くしていた。
「あなたがいなければ、私は側近として不適格であるとして、アンドリュー様のおそばにつくことは許されなかったでしょう。そうして、家名にも泥を塗ってしまっていた」
ギルバート様は沈痛な面持ちで目を伏せている。私がずっと憧れの目で見ていたこの人は、こんな過去を抱えていたのか。あんな思いを抱えていたのか。
私はあまり、他人に興味がない。それは、学園にいた頃からよくレイに指摘された。だからギルバート様のことも、ちゃんと見ようとしていなかったのだろう。
最近ようやっと、ギルバート様のことを等身大の人間として見るようになったけれど、本当に彼は次から次へと色々な顔を見せてくる。人間って、面白い。私はそんな場違いな感想を抱いてしまっていた。
そんなことを考えている間も、ギルバート様の話は続いていく。ベリンダ様へ向けた、不器用で甘い言葉が。
「そうしてあなたに助けられるうち……私は、許されない思いを抱いてしまいました。……あの卒業パーティーで、アンドリュー様がおかしなことを言いだされたあの時……私は、内心喜んでしまったのです」
思いもかけない言葉に、またレイと目を見かわす。あの時のギルバート様はとても落ち着き払っていて、大混乱に陥った私たちをうまくまとめてくれていたというのに、腹の中では喜んでいたなんて。信じられない。
「あなたが婚約破棄されれば、私のこの思いを成就させることもかなうのではないかと、そんな浅ましいことを考えてしまったのです」
「……浅ましくは、ないわ。わたくしも、同じことを考えていましたから……だからあの時、アンドリュー様を強くいさめることが、できなかった」
こわばった顔で、ベリンダ様が答える。彼女のほうに一歩歩み寄り、ギルバート様がさらに言葉を重ねる。
「……もし、一年後。アンドリュー様のお気持ちが変わらずに、あなたとの婚約破棄が正式に成立したなら」
彼の声は、少し震えていた。
「その時は……どうか私の口から、私の思いを告げさせてください」
ギルバート様の熱意と悲壮感を共にはらんだ言葉に、ベリンダ様もまた泣きそうな顔でうなずいていた。
「やっぱりあの二人、そういうことだったんだね」
ベリンダ様をギルバート様に預けて、私はレイと一緒にその場を離れる。少しだけでも、あの二人をそっとしておいてあげたかったから。
「うん。……うまくまとまるといいなって思うけど」
「僕もそう思うけど……難しいだろうね」
レイは歩きながら、何か考え込んでいるようだった。やがて彼は空を仰ぎ、遠い目をしてつぶやいた。
「一年、待てば……か。そうやって期間を区切られていれば、荒れ狂う思いをなだめることも、できるのかな」
「レイ? どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
やけに寂しそうな声のレイに向き直り、じっと見つめる。彼は何事もなかったかのような顔で肩をすくめてみせた。
彼がほんの一瞬だけ見せた、透明な笑顔。
まるで彼がそのまま空気の中に溶け込んでいってしまうような、そんな錯覚を覚えるほどに儚いその表情に、胸がぎゅっと苦しくなった。
今のは気のせい。きっと、ベリンダ様とギルバート様のとんでもない話を立て続けに聞いたせいで、まだちょっと混乱しているだけ。
自分にそう言い聞かせて、適当な世間話を始める。そうしてレイといつものように話しながら、広場を立ち去っていった。




