22.王子様は根性を見せた
上から落ちてきた大きな塊は、斜めになった床の上でゼリーのようにぶるんぶるんと揺れていた。
二人がかりでようやく囲めそうなくらいに大きく、真ん丸だ。うっすらと黒みを帯びた半透明のその塊の内部には、ちらちらと小さな光が無数にきらめいている。
正体不明のその塊に、見覚えがあった。正確には、図鑑の中で。実物を見るのは、これが初めてだ。
「嘘、魔法生物……よね、これ……」
魔法生物とはマナの多いところでたまに発生する謎の生き物で、独特の形や習性を有する。共通するのは、一切飲食することなく代わりにマナを吸収して生きていることくらいか。
普通に暮らしていたら、魔法生物にはまず出くわすことなどない。
私は魔法省に入ると決まってから、魔法生物についてもしっかり予習しておいたのでさほど驚きはしなかったけれど、知らなければあわてふためいたかもしれない。
「何、魔法生物だと!? そんなものが存在するのか!」
案の定、何も知らなかったらしいアンドリュー様が大いに驚いている。しかし同時に、あれに対して興味を覚えてしまったのか、こそこそと近づこうとしていた。一応、彼に釘を刺しておくことにする。
「ええ。魔法生物にも色々いますけど、あれはスライムと呼ばれるものです。基本的にはおとなしいですが、下手につっつくと反撃してきますからね」
どうにも危なっかしいこの王子様は、ちょっと目を離すと何をするか分からない。スライムは結構おとなしい部類に入るけれど、それでもちょっかいをかけるなと言っておくに越したことはない。
「でも、不思議ですわね。どうしていきなり、こんなものが現れたのかしら? 先ほどまで、気配すらありませんでしたわ」
「この辺りは、周囲よりもマナが濃くなっています。そのせいであちこち空間がゆがんでいるのでしょう。先ほど天井の一部がぼやけ、その中からあのスライムが出てくるのが見えました」
小首をかしげるベリンダ様をかばうようにして、ギルバート様が低い声で答える。
美男美女、ほんと絵になるなあとうっかり見とれた私の後ろから、レイのあきれたような声が聞こえてきた。
「シンシア、ぼけっとしてると危ないよ。ほら、前見て」
その言葉に、はっと我に返る。目の前のスライムはぶるぶると激しく身を震わせていた。いけない、あれは攻撃準備に入ったことを意味する動作だ。と図鑑で読んだ。
「全員、私の後ろに集まってください!」
ギルバート様が切羽詰まった声で叫び、地面から大きな土の壁を生やす。私たちがそこに集まったのと、スライムが何かを発射してきたのとがほぼ同時だった。
こぶし大の何かがびゅんびゅん飛んできては、辺りの壁にぶつかっている。私たちは土の壁の陰にいるから何ともないけれど、あれをまともにくらったらかなり痛そうだ。
ギルバート様はスライムの様子を観察しながら、難しい顔をしている。
「スライムがいきなり攻撃してくるとは……聞いたことがない」
「ギルバート様も、そう思われますか? しかもこれ、かなり本気で攻撃してきていますよね。普通なら、数発撃ってそのまま逃げるとか、そんな風に書かれていたような……」
スライムの攻撃方法は二つ。大きな体で体当たりをするか、あるいは体の一部を弾として撃ち出すか。そこにいるスライムは、後者を選んだようだった。
土の壁のおかげで私たちには弾が届かないけれど、周囲の壁がスライムの体組織のせいでべたべたになっている。ちょっと気持ち悪い。
「興奮しているのかしら……いえ、おびえているようにも見えますわね。スライムさんはまん丸で、表情も何もなさそうですが……何となく、そんな気がしますわ」
意外と度胸があるらしいベリンダ様が、そっと土の壁の陰から顔を出して、またすぐに引っ込めた。しかし、スライム『さん』って。彼女らしいといえば、らしいのだけど。
彼女の感想を聞いたレイがくすりと笑い、アンドリュー様のほうをちらりと見る。
「アンドリュー様、僕たちが見てない間に何かちょっかいでもかけたんじゃないですか?」
「人聞きの悪いことを言うな、レイ! 他ならぬシンシアの言いつけだ、きちんと守ったぞ!」
「二人とも、こんな時に喧嘩しないでください。……それよりも、この局面をどうするか、それを考えないと」
ため息をついて、そろそろとスライムの様子をうかがう。どうやら周囲のマナを吸収して体を修復しているらしく、あれだけたくさん弾を撃ち出しているのに少しも小さくなっていない。
「どうやら、あれをどうにかしないと戻ることもできなさそうだな。この先どうなっているか分からないことをかんがみると、進むのは危険だろう……」
ギルバート様が眉間にしわをきゅっと寄せて、独り言のようにつぶやいている。運の悪いことに、スライムは私たちの帰り道をふさいでしまっていたのだ。
「今、地上の本部に連絡を取りました。この辺りにいるのは僕たちの隊だけです。しかも他の隊も、それぞれトラブルに巻き込まれているみたいです。できればそちらでどうにかできないかと、そう言われました」
遠方と会話できる音の魔導具を操作していたレイが、冷静にそう伝えてきた。どうやら、あのスライムを倒すしかないようだ。
むやみやたらに攻撃したところで、スライムを倒すのは難しい。普通の剣や槍なんかで切ったり刺したりちぎったりしたところで、すぐに再生してしまうのだ。
真っ二つにできれば倒せるらしいけど、体がぼよんぼよんしているので、それを叩き切るのは至難のわざだ。
しかし魔法で攻撃すれば、その傷はゆっくりとしか再生しないらしい。なので、連続で何発か魔法を叩き込めば簡単に倒せる、と聞いている。
ところがここにいる魔法使いの属性は、土、水、光、闇。どちらかというと物理攻撃にはあまり向いていない組み合わせだ。火か風の魔法が使えれば、ここからでも簡単にスライムを倒せるのだけど。
ギルバート様が土の槍で貫く……のが一番早いとは思う。ただ、土の壁と土の槍を同時に制御するのはちょっと難しい。攻撃するにあたって、いったん土の壁を消すことになるだろう。
そうすれば私たちはいやおうなしにスライムの弾の雨にさらされてしまう。多少の怪我なら私が治せるけれど、アンドリュー様に怪我をさせるのはまずい気がする。万が一ということもあるし。
一つだけ、どうにかする方法を思いついてはいる。でもそれには、ギルバート様の協力が必要だ。悩みに悩んで、そっとギルバート様に告げる。
「あの、私の『生命吸収』を剣か何かに一時的に付与して、その剣でスライムを切るというのはどうでしょう」
この方法なら、私やレイでもスライムを倒せるだろう。私たち二人とも剣は扱えないけれど、それぞれ護身用にナイフは持っている。
「だがその術は……いや、今の私はこの隊を率いる身だ。緊急時の特例として、許可を出すことはできる、か……」
光の魔法の一つ、生命を吸収する魔法は禁忌なので、上からの許可がないと使えない。
でも今のギルバート様は隊長の任についているから、いざという時はその許可を出せる立場にあるのだ。というか、今は普通に緊急事態だと思うし。
ギルバート様はすさまじく険しい顔をして考え込んでいるようだった。
しかしその間も、スライム弾がびゅんびゅんと飛び交っている。ちょっと勢いが増してきたような気もする。タフだなあ。
それをちらりと見てから、ギルバート様は重々しくうなずきかけてきた。
「……頼む、シンシア君」
よし、許可はもらえた。彼にうなずき返して、レイのほうを向く。レイもまた、私をまっすぐに見ていた。
「正直、戦った経験なんてないけれど、ここは私たちが出るべきよね。幸い的は大きいし、当てるだけなら簡単よ」
「そうだね。二人がかりなら、そう長くかからないよ」
覚悟を決めて笑い合ったその時、堂々とした声が割り込んできた。
「その役、私に任せてはもらえないだろうか。これでも、剣術は得意だ」
声の主、アンドリュー様のほうをみんなが同時に見た。全員の顔に、なんてことを言っているんだ、信じられないと書いてある。
「ギルバートはみなを守るためここを離れられないだろう。ベリンダはそもそも武器を取ったことがない。それにシンシア、レイ、君たちにも剣術の心得はないのではないか?」
「それはまあ、そうですけど……でも、力任せに切りつけることぐらいはできます。スライムは敏捷性は低いですから、何とかなるかなって」
気まずさを感じながらごにょごにょとつぶやくと、アンドリュー様は誇らしげに胸を張った。
「しかしそれでは、君が負傷してしまう可能性が高いだろう。私は、そのようなところを見たくはないのだ」
「別に、私の魔法で治せますから。それに、アンドリュー様が怪我をするのはもっと駄目ですよ」
「問題ない。あのスライムとやらのところに駆け寄って剣を振るう間くらいなら、あの弾をかわすこともできるだろう。繰り返すが、私は剣術が得意だ。すなわち、相手の攻撃をかわしたりいなしたりすることも得意なのだ」
どうやら、アンドリュー様は一歩も引くつもりがないらしい。腰に下げている剣を抜いて、胸の前で構えている。確かにその動きは、無駄がなく美しいものだった。
戸惑いつつ、助けを求めるようにギルバート様を見る。ギルバート様は、さっき以上に苦々しい顔をしていたけれど、やがて小さな声でつぶやいた。
「……あなたがそういう顔をしておられる時は、止めても無駄だと分かっています。……シンシア君、アンドリュー様の剣に魔法をかけてくれ」
ためらいながらも、その言葉に従って魔法を使う。いいのかな、いくら本人の望みとはいえ王子様にこんなことさせて。
「軽い怪我くらいなら私が治せますけれど、絶対に無理はしないでくださいね」
そう声をかけると、アンドリュー様はそれはもう嬉しそうに笑った。それからきりりと顔を引き締めて、淡く光る剣をにぎり直している。
「君に心配してもらえて、天にも昇る心地だ。そんな君を悲しませないように、無傷で戻ると約束しよう。だから戻ったら、どうか私を褒めてくれ」
こんな緊迫した状況で、アンドリュー様は一人だけやけに自然体だった。彼は優雅な足取りで土の壁の陰から躍り出て、そのまままっすぐにスライムに向かっていく。辺り中を飛び交うスライムの弾を、全てよけながら。
土の壁のふちに手をかけて、そんなアンドリュー様をじっと見守る。
「すごい……」
「アンドリュー様は、体を動かすことは得意なんですの。剣術、馬術、ダンス……どれも、教師たちが舌を巻くほどの勢いで上達されましたわ。水泳と崖登りも得意だったかしら」
同じように様子をうかがっていたベリンダ様が、意外と落ち着いた声でとんでもないことを教えてくれた。
その間にもアンドリュー様は進み続け、もうスライムの目の前に迫っていた。流れるような動きで、光る剣をスライムに突き立てる。
次の瞬間、びっくりするほどたくさんのマナが、スライムの中から噴き出してきた。




