2.ああ勘違い、そう勘違い
卒業パーティーで婚約破棄が宣言された、それだけでも訳が分からないのに、今度は謎の人物が突然求婚してくるなんて。まったくもって、何がどうなっているのか。
ぽかんとしながら、今の言葉を整理する。ええと、つまり、目の前の派手な男性は私を妻としたいらしい。それはそうとして、誰だこれ。
その時、さっき婚約破棄を宣言していた声が、目の前の男性の声と同じだったということに気がついた。
さっき婚約破棄を宣言していたのは、王太子のアンドリュー様だ。ということは、この男性は、もしかして。まさかそんな。
「……アンドリュー様?」
頼むから外れてくれという願いを込めて、目の前の男性にそう呼びかける。しかし私の願いもむなしく、彼はぱあっと顔を輝かせた。
「どうしたのだ、シンシア。もしかして、何か不安でもあるのだろうか。大丈夫だ、何があっても私がついている」
その甘ったるい声に、めまいがした。どうして彼は、こんな声で私に話しかけているのか。
そもそもどうして、妻になってくれなんて言い出したのか。私は、ついさっきまで彼の顔すら知らなかったのに。
おまけに今は卒業パーティーの途中で、それはもうたくさんの人がいる訳で。そんな中、いきなり知らない男性に求婚されるなんて、恥ずかしすぎて死にそうだ。
とにかく一刻も早く、ここから逃げたい。状況の把握とかそういうのは、後でいい。
さっさと彼の求婚を断って……あれ、でも王子の求婚って、断ったら断ったで大変なことになるような。どうしよう。困った。本当にどうしよう。
「あの、アンドリュー様」
無言であわてふためく私とうっとりしたままのアンドリュー様の間に、冷静なレイの声が割って入る。
レイは金色の目を糸のように細め、いつもより低い声で話していた。気のせいかな、彼がやけに不機嫌そうなのは。
「彼女は戸惑っています。それに、ここは人目もあります。いったん場所を移して、ゆっくり話をされてはいかがでしょう」
その言葉に、アンドリュー様の後ろにいるギルバート様がほっとした顔をした。そんな顔ですら麗しい。一瞬、自分が置かれた状況を忘れて見入ってしまった。
いきなり求婚された戸惑いよりも、近くでギルバート様をじっくり見られる喜びのほうが勝ってしまっていたのだ。
ギルバート様はちらりと私を見て、きびきびとアンドリュー様に向き直った。
「アンドリュー様、彼の言う通りです。今なら談話室が空いておりますから、そちらへ向かいましょう」
「ギルバート、お前までそう言うのか。私はむしろ、多くの者に祝福されたいというのに……シンシア、君はどうしたい?」
私に話しかける時だけ、アンドリュー様は甘ったるい声を出す。見た目にふさわしく中々の美声ではあるのだけれど、いかんせんこんな甘い声でささやかれる心当たりがなくてぞわぞわする。
「私も移動したいです! この状況はちょっと、じゃなくてかなり落ち着かないので!」
そう答える私の声は、それはもう見事に裏返っていた。けれどアンドリュー様は優しく笑ってうなずいている。
彼の肩越しに、困り顔のギルバート様と、すさまじく嫌そうな顔をしたレイが見えていた。
パーティー会場のすぐ近くにある、ふかふかした椅子がいくつも並べられた談話室。そこに私たちは集まり、めいめい腰を下ろしていた。
私の右隣にはアンドリュー様が座り、うっとりした顔で私をじっと見つめ続けている。そして左隣には、眉間に深々としわを刻んだレイが座っていた。
さらに私の向かいには、二人の人物が座っている。素敵なギルバート様と、見覚えのない女性だ。
あの物腰と身なりからして、彼女が上位の貴族であることは間違いない。淡い水色の綺麗な髪と、銀色の目が素敵な、おっとりとした上品な女性だ。
どうにかこうにか人の目のないところに移動できたのはいいけれど、ここからどうしよう。
というか、アンドリュー様からの視線が怖くてそちらを向けない。しかし彼に立ち向かわないといけないのは確かだ。
どう切り出したものかと困り果てていたら、またしてもレイが口を開いた。
「アンドリュー様。僕はレイ、シンシアの友人です。あなたに一つ、質問してもいいでしょうか」
私から少しも目を離さずにアンドリュー様がうなずくのが、目の端に見えた。そんな彼に、レイは恐ろしいほど淡々と問いかけた。
「先ほどアンドリュー様は、シンシアに対して『君の思いに応えてやれる』とおっしゃっていました。それは、どういう意味なのでしょうか」
「そのままの意味だ。彼女はずっと、私に焦がれていた。しかし私にはベリンダという婚約者がいた。だから彼女は、私に思いを告げることができなかった。そしてまた私も、シンシアをひそかに愛するようになった」
「はあ!?」
思いもかけない内容にまたしても叫んでしまって、その場の全員の注目を浴びる。けれど、今のおかしな発言だけは正しておかなくては。
ばっとアンドリュー様のほうに向き直って、下を向いたまま一気に言い切る。
「私、別にアンドリュー様に恋なんてしてません。といいますか、そもそもアンドリュー様の顔すらついさっきまで知りませんでした」
私が憧れているのはギルバート様ですからと言いかけて、あわてて言葉を飲み込む。本人を前にしてそんなことを言う勇気は、さすがにない。
談話室に、沈黙が満ちる。アンドリュー様は身動き一つしない。そろそろと上目遣いに様子をうかがうと、彼は目を真ん丸にしてぽかんと口を開けていた。
けれどやがて気を取り直したように、彼は身を乗り出すようにして私を見つめた。
「そんな……いやしかし、君はいつも私のほうをじっと見ていただろう? それも、とても熱い目で。あの目が恋する乙女の目でないというのなら、何なのだ」
「えーっと、それはですね」
「あきらめて言っちゃいなよ、シンシア。さもないと、アンドリュー様は納得しなさそうだよ」
必死に言葉を濁す私に、あきれ返ったと言わんばかりの顔でレイがささやきかけてくる。
白状するのは恥ずかしい。しかし、この王子様をどうにかしなくてはならない。
さらにもう少し悩んで、ためらって、覚悟を決めて口を開いた。
「わっ、私が見ていたのは、ギルバート様なんです!」
アンドリュー様はまた目を見開いたまま、動きを止めた。それからぎこちなくギルバート様のほうを振り返る。
そんな彼から目をそらして、熱い頬を押さえながらごにょごにょと言い訳のようにつぶやく。
「その、ですね。私はずっと前から、ギルバート様に憧れていて……遠くからギルバート様の姿を見るのが、ささやかな楽しみだったんです」
私の告白に、ギルバート様が目を丸くした。そうだよね、普通は驚くよね。うう、恥ずかしい。
「あの、でもお近づきになろうとか、そういうのは考えていなくて、本当に遠くから見ているだけで良くって、こう、ギルバート様を見ていると気持ちが明るくなるというか、勉強がはかどるというか、そんな感じで」
ああ、恥ずかしい。やっぱり恥ずかしい。ひたすら恥ずかしい。
というか、余計なことまで喋ってしまったような気がする。隣のレイが、こっそりと笑う気配がした。
恥ずかしすぎてうつむいていると、レイの澄ました声が聞こえてきた。
「ギルバート様はいつもアンドリュー様のそばにおられました。ですから、シンシアがギルバート様を見つめようとすると、必然的にアンドリュー様のほうを見つめることになる……ということです」
さらりと締めくくってから、彼は笑いをはらんだ声で付け加える。
「それでいてアンドリュー様の顔を覚えていなかったなんて、ある意味シンシアらしいですけど。彼女、勉強は得意ですが、他人にはあまり興味がないようですから」
余計なことを言わなくていいの、という思いを込めて、こっそりとレイを横目でにらむ。
その時、アンドリュー様が声を張り上げた。大いに動揺した、そんな声だった。
「そ、そんな! いいや、きっとこれは何かの間違いだ! でなければ、ベリンダが彼女に嫌がらせをするはずがない!」
また、訳の分からないことを言っている。嫌がらせって何のことだ。そもそも私はベリンダ様の顔も知らないのに。
そう思いながらアンドリュー様の視線をたどると、私の向かいにいるおっとりとした女性が目に入った。
たぶん、あの方が婚約者であるというベリンダ様なのだろう。何となくそんな気はしていたけれど。
ベリンダ様は困ったような顔で、小さく首をかしげていた。
しかし彼女は、ついさっき公衆の面前で婚約破棄されたにしては、不思議なくらいに落ち着いているような。アンドリュー様の言っていることは謎だらけだけど、ベリンダ様の態度も結構謎だ。
そんなベリンダ様を見すえて、アンドリュー様が言い放つ。まるで、断罪するかのような厳しい声で。
「私とシンシアが相思相愛であることに気づいたベリンダは、シンシアをうとましく思い、嫌がらせをした。証拠はある。けなげなシンシアは、ただ黙って耐えていたようだが」
「……嫌がらせの……証拠、ですか?」
やっぱり嫌がらせをされていた覚えはないし、耐えていた覚えもない。
いやそれ以前に、誰が、誰と、相思相愛なんですか。さっきの私の発言、聞いてなかったんですか。
あんぐりと口を開けている私をちらりと見て、アンドリュー様は高らかに言葉を続けた。
「そうだ、嫌がらせだ。ねたみからそんなふるまいに出るような女性は、私の妻としても、未来の王妃としても、ふさわしくない!」
アンドリュー様以外の全員が、ただ彼の顔を見つめていた。そんなみんなの表情を見ていたら、確信できてしまった。
ああ、これもきっと、アンドリュー様の勘違いなんだろうな、と。




