10.王子様は暴走しがち
高い岩の壁に囲まれた、そう広くもない円形の草地。その中央にあるマナの泉に向かって、アンドリュー様は突然進み出た。彼の行く手には、地面から吹き上がるマナの流れ。
私たちはあれをマナの泉と呼んではいるけれど、泉なんて可愛らしいものではない。下から上に流れるマナの滝といったほうが正しい。
あまりの勢いに、見ているだけで背筋が寒くなる。できることなら、あれには近づきたくない。
それなのに、アンドリュー様はその滝に向かってまっすぐに進んでいる。
彼には、あのマナの流れは見えていない。だからこそ、あんなところに足を踏み入れようなどと思えるのだろう。
「駄目です!」
考えるより先に飛び出して、アンドリュー様の腕をしっかりとつかむ。そのまま体重をかけて、彼の体を後ろに引き戻した。
尻もちをついたアンドリュー様の腕をつかんだまま、きっぱりと叫んだ。
「マナの泉は、本当に危険なんです! 試しに足を踏み入れていいようなところじゃありません! 最悪、命を落とすことだってあるんですよ!」
「し、シンシア……」
アンドリュー様は、緑色の目を感動に潤ませている。しまった、どうにかして彼から遠ざかろうと、彼の恋心を冷まそうと頑張っていたのに、うっかり彼を助けてしまった。危ないって思ったら、つい。
うっとりとしたアンドリュー様の向こうに、呆然としたギルバート様の姿が見えている。彼もまた、アンドリュー様を止めようと進み出ているところだった。
うん、私がしゃしゃりでなくても、放っておけばギルバート様が何とかしてくれていたのに。あーあ、やっちゃった。
「シンシア、すまない。いや、ありがとう……私のために……」
「そ、その、わざわざ危険に突っ込んでいく人を止めるのは、ごく当たり前のことですから」
きらきらした目で私を見つめているアンドリュー様に、淡々と答える。しかし彼は満面の笑みを浮かべて、こちらに向き直ってきた。
「人助けを、当然のことだと断言する……ああ、なんと君は素晴らしい女性なのだ。またしても惚れ直してしまうではないか。君はどこまで私を魅了したら気が済むのだ」
駄目だ、話をそらさないと。天を仰ぎたいのをこらえつつ、アンドリュー様に尋ねてみる。
「それより、どうしてアンドリュー様はそこまで魔法の素質にこだわるんですか? 持っていない人のほうが多いですし、アンドリュー様が持っていても意味がないって、前にも説明したと思いますが」
するとアンドリュー様は、ふっと切なげに笑った。普段と違う表情に、つい見とれそうになる。落ち着け私、彼のペースにのまれるな。
「……それでも、私だけ違う光景を見ているのが、もどかしかったのだ。この場で私だけが、マナの泉を見ることができない。それが、寂しかった」
「だ、だからって、あんな無茶をしなくても……」
「ああ。もう二度と、あのような真似はしない。君を心配させたくはないからな」
「……絶対ですからね? いつも助けてあげられるとは、限りませんから」
そう念を押すと、アンドリュー様はとっても嬉しそうに笑った。
あ、駄目だこれ。また彼との仲が深まってしまった。日々頑張って彼を避けようとしていた、そんな努力が丸ごと無駄になった気がする。
呆然としたまま立ち上がり、岩の壁に向かってふらふらと歩く。壁に額を軽くぶつけて、そのままため息をついた。
後悔の海にどっぷりと浸っていると、背後からレイが笑いをこらえている気配がした。うう、他人事だと思ってのんきなんだから。
「うむ、これもまた青春だな」
私たちのめちゃくちゃな関係を知っているのかいないのか、クライヴさんは晴れやかに笑っていた。
そんな風に、まあちょっと問題がありつつも、私たちの初仕事は無事に終わった。
しかしここで、別の問題が持ち上がった。なんと帰りの馬車で、クライヴさんの提案により席替えが行われてしまったのだ。しかも、くじ引きで。
結果、私はギルバート様と、そしてアンドリュー様と同席することになってしまった。この組み合わせ、喜んでいいのか、悲しんでいいのか。
帰る間、当然ながらアンドリュー様はここぞとばかりに、私に話しかけてきていた。
そして私は私で、ギルバート様との距離が近すぎて動揺していて、何ともぎこちない返答しかできなくなっていた。
幸いギルバート様がうまく私たちの会話に混ざってくれたので、どうにかこうにかアンドリュー様の話をやり過ごせていた。やっぱりギルバート様は気遣いのできる、素敵な方だなあ。
そうやって話しているうちに、ふとある考えが頭をもたげていた。あの卒業パーティーの日からずっと気になっていた、でも聞けずにいたその問いを、言葉にしてみる。
「……ところで、アンドリュー様はどうしてそんなに私のことを気に入られたんですか」
とたん、アンドリュー様がぴたりと動きを止めた。それから頬を染めて、窓のほうを向く。まるで恋する乙女だ。
ギルバート様はそんな彼を見て、困ったように肩をすくめている。
そうして、アンドリュー様はしみじみとした声で語り始めた。
「あれは、王立学園に入学して一年ほども経った頃だろうか。私が、その視線に気づいたのは」
とすると、だいたい二年位前のことだろう。ちょうど、私がギルバート様のことを知ったのもその頃だった。
「遠巻きに私を見つめる、一人の美しい女性。その姿を、よく見かけるようになったのだ。海のように澄んだ青い目が印象的な女性だった。何とはなしに、彼女のことが気になった」
アンドリュー様は横を向いたまま、うっとりと語り続けている。ちょっと自分の世界に入ってしまっているようにも思える。
「そうして私は、ギルバートに尋ねた。あの可憐な女性は誰だろうか、と。そうして私は、君の名を知った。貴族の出でありながら、誰にも負けぬよう懸命に勉学に励んでいる、努力家の女性であることも」
なんでまた、ギルバート様は律儀にそんなことを全部話してしまったのか。彼女についてはよく知りません、とか、ごく普通の女性です、とかごまかしておいてくれればよかったのに。
そんな思いを込めてギルバート様をちらりとにらむと、彼は申し訳なさそうな顔で小さく頭を下げてきた。
すぐ隣で繰り広げられている私とギルバート様の無言のやり取りにはまったく気づいていない顔で、アンドリュー様はさらに言葉を続けた。
「私は自然と、君を目で追うようになっていた。君を見ていると、心が浮き立つのを感じるようになっていた。そうして気がついた。この高揚感は、恋なのだと」
「…………恋ではなく、一時の気の迷いだとしか思えないんですが」
ぼそりとそう言い切って、さらに追い打ちをかける。
「だいたい、あなたにはベリンダ様という婚約者がおられた訳ですし、たとえ他の女性に恋をしたとしても、そうそう行動に移していい立場ではないと思うのですが」
アンドリュー様は一瞬ひるんだような顔をしたが、しかし優雅に首を横に振ってみせた。
「この国のためにも、優秀な君が王妃となったほうが良いと思う」
「ベリンダ様は、アンドリュー様のことをしっかりと支えていけるお方だと思いますが」
「いいや、そんなことはない。彼女はとにかく口うるさくて、王妃としての品格に欠ける」
「ええっ、ベリンダ様はあんなに上品で気遣いもできる素敵な方なのに!」
いつの間にか私とアンドリュー様は、勢いよく言い合ってしまっていた。それを見守っていたギルバート様が、わずかに微笑む。こんな状況なのに、ついそちらに見とれてしまいそうになった。
できることならギルバート様だけを見つめていたい。そんな思いを横に置いておいて、アンドリュー様にさらに言い返す。
「だいたい品格に欠けるっていうなら、私のほうがひどいですよ。礼儀作法とか淑女らしいふるまいとか、全然駄目ですし」
「そう、なのか?」
私の言葉に反応したのはギルバート様だった。緑がかった深い茶色の目が、かすかに見開かれている。彼に直接声をかけられたことにどきどきしながら、ちょっとだけ可愛らしい声で答えた。
「は、はい。恥ずかしながらそうなんです。幼い頃から、おしゃれよりも読書のほうが好きで……」
「恥ずかしがることはない。それは君の持つ才能だ。私も学問には自信があったが、王立学園で君やレイ君と首位を争い合って、世間は広いのだと思わされた。君は今の自分に誇りを持つといい」
「あ、ありがとうございます……」
嬉しい。ギルバート様に褒められた。すっごく嬉しい。
ひざの上で両手をぎゅっとにぎりしめてもじもじしていたら、たいそう不機嫌な声が聞こえてきた。
「おい、ギルバート。彼女は私が見初めたのだ。お前が口説いてどうする」
「……申し訳ありません、アンドリュー様。私はただ思うところをそのまま述べただけですが、お気を悪くされたのなら謝罪いたします」
そろそろと目を上げると、ふてくされた顔のアンドリュー様と、折り目正しく頭を下げているギルバート様が目に入った。
そんな姿を見ながら、決意を新たにする。とにかくひたすらにアンドリュー様から逃げ続け、彼の求婚を白紙に戻してもらおう、と。
私はギルバート様やベリンダ様みたいに、おとなしく引くことはできない。アンドリュー様がおかしなことを言ったら、もれなく反論してしまう自信がある。いちいち王に食ってかかる王妃など、国のためにならない。
そう、私のこの決意は、この国のためでもあるのだ。
ほんの少し気分が軽くなるのを感じながら、対照的な二人をそっと見ていた。