8. 戦い
仮面舞踏会後の出来事からしばらくはハロルドと顔を合わせるのが気まずくはあったものの、そこは仕事である。
あの時のことは無かったことのようになっていた。
ある日、ジェナが訓練を終えて近衛隊に戻ると、隣席のレフが書類を広げていた。覗き込めば、ハロルドの予定表である。
「それ、今月の予定表か?」
「ええ、そうです。また侍従から予定変更が入って」
レフは、従来組まれていた予定を細々と修正しているところだった。
最近、こういったことが多い。ハロルドが夜会や夕食会に出席する頻度を減らしているのだ。
また、もともと夜会への出席に割いていた夜の時間帯に、周りに告げず何かをしている。理由は明らかではないが、供にする騎士の数も最低限にするよう指示されていた。
そのような場合、大抵護衛につくのはジェナより上官になるので、ジェナはハロルドが何をしているのか知らない。
「夜会に出ないようになったと思ったら、今度は陛下は何をされているのかな」
「……さあ、なんでしょうね」
「レフも知らないのか?」
「隊長がご存じなければ俺が知るわけありません」
「うーん……」
椅子に腰掛け、ジェナは行儀悪くも脚を組んで体を揺すった。額の汗を布で雑に拭う。
レフはそう言うが、実は女である自分に知らされていないだけなのではないかとジェナは思っていた。
すなわち、ハロルドは女性と会っているのではないかと。
そう考えれば、急な予定変更も合点がいく。
気に入った女性ができ、夜会に出る必要がなくなった。そしてその女性に執務後に会いに行く。逢瀬の邪魔にならないよう、最低限の騎士で。あり得る話だ。
ハロルドに恋人が出来たことは喜ばしいことである。
それまで前向きではなかったように見えた自身の婚姻に積極的になったということなのだし、心を許せる相手と出会えたことは幸福だ。
ジェナは汗を拭いていた手を止め、直されていく予定表をぼんやりと眺めた。
ハロルドから仮面舞踏会の時の正体を問われた時に答えなかったことで、彼はきっと区切りをつけた。
自惚れかもしれないが、あの時の答えによっては関係が変わったかもしれない。だが今さらである。自分で選んだことなのだから。
ただ、いずれやってくるハロルドの婚姻を心から純粋に喜べるかというと、難しいような気もしていた。
「……見合いでもしようかな」
「えっ、見合い!?」
ぽつりと呟いたジェナに、レフがぎょっとして顔を上げた。
「隊長、結婚する気なんですか!?」
「分からないけど……、あまり遅くなったら貰ってくれる人もいなくなるかもしれないし」
「なっ、ええ!? 隊長が辞めたりしたら王宮のメイドたちが泣きますよ。そもそも次の新人が入ってきたら大忙しですよ、落ち着くまでおかしなことは考えないでください」
捲し立てるように言うレフに圧倒され、慌てて「わ、わかった」と頷く。自分が退けばレフが隊長になれるのに、彼には出世意欲がないのだろうか。まさか強く引き留められるとは思ってもいなかった。
だが、まだ必要とされるのであればありがたい話ではある。どうせ新人が巣立つまでのことだ。
その頃までに見合いを実家に依頼すれば、相手を探してきてくれるだろう。
そしたら、辞めて、結婚して、家で夫を待ち、子どもを育てる幸せな日々がやってくる。
「しあわせか……」
なぜだろう。
その言葉の響きに反して、自分の明るい未来をうまく想像できないのだ。
♢
暑さの終わりを告げる長雨の時期を過ぎ、次の季節の気配を感じられるようになってきた。
厚手の騎士服に衣替えするには早いが、しかし夏仕様のままだと外勤務では肌寒い。ちょうど何を着るか迷う気温帯なのである。
ジェナはハロルドの護衛勤務についているものの、夜会への出席が減ったため、その時間を引き継ぎ資料の作成に充てていた。
新年度になれば新人が来て、彼らが一人前になる前にレフに隊長職を譲りたいと考えていたのだ。
ハロルドは相変わらず夕方から夜に個人の時間をとっているようだが、まだ婚姻の話は出ない。
もう噂になってもおかしくないが、情報通のメイド達からもそういった話を聞かないので、それは若干疑問に思っていた。
「うーーん」
夕方、事務作業を終えて体を伸ばすと、背中からごきりとひどい音が鳴った。この数日、護衛と事務作業に追われて訓練できていない。
少し体を動かすか、とジェナが立ち上がると、窓の外からレフがひょいと顔を覗かせた。
「隊長、いま時間よろしいですか?」
「なんだ?」
「隊長に戦いを挑みに来た奴がいます」
「は?」
意味が分からず問い返すと、彼は「隊長に戦いを挑みに来た奴がいます」と同じ文言を繰り返した。
「いや、それは聞こえた。だが意味が分からない。腕試し的な?」
「ま、ちょっと来てください」
レフが窓からちょいちょいと手招きするので、仕方なくそこから外に出た。
不審者ならそれなりに慌てそうなものだが、そういった様子もない。隊の違う騎士からの演習依頼だろうか。いや、だとしたらそんな言い方しないだろう。
疑問に思いながらレフの後をついていくと、着いたのは訓練場だった。
しかし普段は私語なく厳粛な雰囲気のそこが、今は賑やかである。
円形の訓練場を取り囲むように集まっているのは近衛騎士たちで、ジェナの前を歩いていたレフもその輪の中に加わった。
そして訓練場の中心では、ハロルドが仁王立ちしていた。
「来たな、バリー隊長」
ジェナは呆気に取られて言葉を失った。
戦いを挑みに来た奴というのは、まさか?
「ごほん、私はハロルド・ルハン・ヘルフォードである」
いや知ってます、という言葉をジェナは飲み込んだ。
よく見ればハロルドは、騎士と同様の訓練着で腰には訓練用の剣を差している。戦うというのは文字通りの意味らしい。
ハロルドは真剣な表情でジェナを指差した。
「バリー隊長、以前君は私に言ったな。『騎士としての力が衰えるまで、あるいは女として家に入るまでは辞めない』と」
「え、は? はぁ」
話が飛んで混乱する。
ジェナはハロルドの言葉を反芻した。確かに言ったことはある。アマンダから帝国に勧誘された時だ。
「そして、私が舞踏会で会った女性にもう一度会いたいと言ったことを覚えているか? 君は心当たりはないと言ったな」
「は、はい……」
「結婚するまで辞めないという反面、君は騎士である間は求愛を受けないようなので、もう一つの手で行くことにした」
「きゅ、求愛……!?」
「バリー隊長、私は君に戦いを挑む」
まっすぐな瞳で見つめられ、ジェナの心臓はどきりと跳ねた。
「私が勝ったら騎士を辞め、求婚する許可をくれ」