6. 知らない姿
仮面舞踏会を主催する侯爵家は、『ヨルハーバーのキューピッド』と呼ばれている。
とにかく、男女の集まる場を設けるのが好きな家なのである。
一部の上位貴族を除き、昔に比べると家同士の政略結婚は減ってきた昨今。未婚の男女は出会いの場を求め、種々の夜会に参加する。
件の侯爵家はその婚活の場を提供しており、実際に侯爵家の行事で出会って婚姻に至った夫婦も少なくない。
侯爵家はただの夜会だけでなく、少し遊びを設けた集まりを主催するのが好きだった。時には大人数での海への散策、時には森へピクニックへ。非日常空間でのひとときが恋へと発展させるのだという。
今回の仮面舞踏会もその一環である。未婚の若い貴族たちを招待し、顔と身分を隠した上で交流を深めるということだ。
侯爵家は、貴族であればあちこちの家に招待状を出している。実家であるバリー家にもそれが届いているはずだとジェナは予想した。
王都の新興住宅街の中に、ジェナの実家はある。父が爵位を授かり、急遽建てた屋敷だ。
基本的にジェナは宿舎で暮らしているので、実家に帰ることは滅多にない。
そのため連絡もなく唐突に帰宅して手紙の山を漁り始めた娘を見て、母であるバリー夫人は驚いた。
「ジェナ、急にどうしたの?」
「少し野暮用が……」
埃っぽい自室の机に積まれた招待状の束を選り分ける。
ジェナは騎士としての仕事があるので夜会に出ることは滅多にないものの、その姿は有名なので招待だけはやたらと来るのだ。
「あった」
目的の封筒を見つけたジェナは目を輝かせた。それからくるりと振り返り、母に招待状を見せた。
「母上、この日の夜にドレスを一着貸して頂きたいのですが」
「まあ! 珍しいわね、いいわよ…………って、男装? 女装?」
その言い方にやや引っかかったジェナだが、正直に答える。
「女装です」
「分かったわ、準備しておくわね!」
異性との色恋とは無縁で王宮の女性たちの人気をかっさらっているジェナである。そんな娘がようやく婚活する気になったのだろうと判断したバリー夫人は、小躍りして衣装を考え始めた。
衣装のサイズも母は把握しているので大丈夫だろう。
ジェナはほっとして招待状だけ持って屋敷を後にした。
♢
当日。
休みを取ったジェナは、母の選んだドレスを着て一人で馬車に乗り込んでいた。行き先は目的の侯爵家である。
馬車に揺られながら、自分の姿を見下ろす。
深紅のドレス。髪は一部を結んで後ろに流している。おそらく剣を振るう娘の肩が丸出しにならないように母が気を配ったのだろう。露出の多くない、肩を覆うデザイン。
フリルのような装飾は少なく、しかし生地に重ねているレースの刺繍は美しい。体に沿うシンプルなシルエットは長身で細身の良さを生かすのよ、と母は言っていた。
ジェナは自分の姿に満足した。
久々の女装(適切な言い方ではないが)だが、ハロルドに気付かれることはないだろう。
なにせ彼は夜会の回数がかさむにつれ、『誰が誰だか分からない』と言っていたのだ。さらに今夜は派手な仮面を着ける。ますます分からなくなるはずである。
到着した侯爵家の広々としたフロアでは、すでに仮面を着けた男女が大勢いた。
ジェナも目元を隠す、蝶のようなデザインの仮面を着けて入った。
騎士としての習性から、入口、窓付近の警備体制に目をやる。
仕事を押し付けたレフは見当たらないが、他隊の近衛騎士は控えている。すでにハロルドが到着しているということだ。そして、参加者は今夜ハロルドが来ていることを認識しているだろう。
広い会場はその半分以上がダンスフロアとなっており、フロアを囲むように休憩用の長椅子が設けられている。一部は軽食をとるスペースで、扉からそのままテラスを通って庭に出られるようになっていた。
大半の男女は相手を代えながら踊り、気が合った相手とは歓談を楽しんだりワインを酌み交わしたりしている。一部の男女は暗い庭に出て個別に交流を深めているようだ。
今のところ羽目を外しているような様子はない。それに庭にも警備はいるだろう。
いや、とジェナは首を振った。
自分はここに仕事に来ているのではない。いち令嬢としてやって来たのだ。
改めて、ダンスフロアで踊る男女に目を凝らす。大抵の出席者は顔見知りのはずだが、顔が隠れているので素性は分からない。
だが、見慣れた黒髪の青年に気付き、ジェナは目を止めた。
「……いた」
仮面を着けてはいるものの、ハロルドはすぐに分かった。雰囲気、体格、足の運び。いつも見ているのだ。
「さて」
ここからどうしよう。
ジェナは思案した。声をかけたらさすがに分かってしまうだろう。そっと近付いて手をとれば怪しまれないだろうか?
考えていると、横から手が差し伸べられた。
「失礼、お相手を?」
目元を覆う黒い仮面に金髪の青年に声をかけられ、ジェナは戸惑った。
今夜はハロルド以外と踊るつもりでは来ていない。ハロルドと踊って、さっさと帰ろうかと思っていたのだが。
「え、ええと……」
青年の手を取ろうかどうか迷っていると、急に後ろからぐいと腕を引かれてジェナは体勢を崩した。
「あっ、ちょっ」
「失礼」
振り向くと、先ほどまで声をかけようかどうか迷っていた当の黒髪の相手であった。
呆気に取られ、言葉を失う。
いつの間に。まさか、こちらの正体に気付かれてしまったのだろうか? あの遠目から?
そのまま手を引かれてフロアに連れて行かれる。ちょうど曲が変わるタイミングで、周りもパートナーを代えていたようだった。
触れていた手の向きが変えられて体が向き合う形となり、仮面越しに対峙してジェナの心臓は音を立てた。
間違いなく、ハロルドである。
髪の色も、瞳の色も、触れた手も。執務室で踊った日のことを思い出す。
あの時は遠慮がちだった手も、今は放さまいというように、強く握られている。
顔を上げるとばちりと目が合い、ジェナは慌てて俯いた。
「……お名前を?」
ハロルドが言う。それは自分が教えた言葉。
ジェナは俯いたまま、勢いよく首を横に振った。
「それは残念」
心底落胆したように呟く。
そのままリードされるも、動揺してうまく動けない。俯いているが頭上から強く視線を感じるのだ。
触れられている部分から心臓の音が伝わってしまいそうで、ジェナは浅い呼吸を誤魔化すように唇を噛んだ。
「綺麗な髪ですね」
ジェナが返事をする前に、背を支えていた手が離れて髪に触れられた。びくりと体が震える。
「……蜂蜜のように甘そうだ」
柔らかい声色。
以前、『練習』をしたときと同じ言葉。
温かい指が、自分の髪を優しく梳く。
だが、接触を含むコミュニケーションは親しくなってからだと教えたはずなのに。
俯いていたジェナは顔を上げ、抗議の視線を投げた。しかしハロルドは怯むことなくその視線を受け止める。その口元は楽しそうに微笑んでいた。
「嫌でしたか?」
「…………っ」
言いながらも、ハロルドの指はまだジェナの髪を弄んでいる。神経が通っていないのに、その部分からくすぐったさが上ってくるような気がして、ジェナは身を捩った。
「っ、やめてください」
「失礼、あまりに綺麗だったので」
思わず声を出すと、ハロルドはすんなりと手を戻した。しかもジェナの拒否に傷付いたりあるいは反省している様子もなく、機嫌良さそうに踊っている。
ジェナは理解出来ずに顔を顰めた。
どうなっているのだ。
てっきり、ハロルドは『練習』のせいで女性と上辺だけのやり取りしか出来ないため、特定の女性と進展出来ないのだと思っていた。だから実際はどうなのか、仕事を離れた姿を見てみたいと思ってやってきたのに。
しかしどうだ。目の前のハロルドはとろけそうな瞳で見つめてきて、優しく触れてきて。確かに自分と行った『練習』をなぞっているものの、はたしてこれで女性と進展しない? 嘘だろう?
ハロルドからこんな態度取られたら、好意を持ってしまうに決まっている。
と、そこまで考えて、ジェナははっとして息をのんだ。
──いま、自分はなにを思った?
好意?
混乱して足を止める。
急に固まったジェナに、ハロルドも躓く。
「っと、どうしました?」
「………………」
ジェナは呆然として、そのまま仮面越しに彼を見つめた。
彼に抱いている感情は、敬愛のはずだ。間違いなく。
ハロルドは仕えるべき自分の主君で、守るべき対象で、聡明で優秀な国民の代表で。
しかし、二人きりの時間を過ごすようになってから少しずつ変わってしまった。
完璧だと思っていた彼が、実際は自分たちと同じ、人間味のある普通の男性であったこと。
自分の苦手なことを認め、それを改善すべく努力していること。
朗らかで、穏やかな人であること。
だから、彼が誰よりも幸せになって欲しいと願ったのだ。愛しい相手を見つけて欲しいと。
なぜか?
それは───
「うそ……」
ジェナは初めて、主君に対して敬愛以上の感情を抱いていることに気付いてしまった。
「……えっと、大丈夫か?」
ハロルドの心配そうな声に、ジェナは我に返った。気付けば自分を覗き込むハロルドの顔がすぐ近くにあり、急に顔に熱が集まる。
ジェナは勢いよく顔を背け、繋がれていた手を振り払った。
「あっ、ちょっと」
止める声も聞かず、背を向けて走り出す。フロアを抜けて入口に向かおうとしたら、目を丸くしたレフが扉の前に立っていた。
しまった、鉢合わせしたくない。
ジェナは方向を変え、テラスへと向かった。後ろから呼び止められたような気がするが、無視してさらに足を速める。今すぐにここから去ってしまいたい。
何事かと向けられる視線から逃れるように人をかき分ける。テラスから庭へ出る階段付近はフロアから抜け出してきた男女で混雑していた。邪魔だ。
ジェナは小さく舌打ちし、右手でドレスの裾を手繰り持った。
そのままヒールを鳴らして助走をつける。勢いつけてひらりと手すりを飛び越えれば、難なく庭へ降りられた。周囲の人間が呆気に取られて、舞ったドレスの残像を追う。
ジェナはそのまま馬車に乗り込み、会場を後にした。