2. 練習
ジェナの育ったバリー家は、代々騎士を輩出している一家である。
所属する騎士団は違えど、父も騎士、母も元騎士、兄弟も騎士である。爵位はあるものの父一代のみの準貴族で、世襲権・領地はない。
兄弟の中で女一人であるジェナも、騎士になることが当然という認識だった。ジェナも幼い頃から騎士見習いとして仕え、十七の時に正式な騎士となり、近衛騎士団へ配属された。
近衛騎士として勤め始めてから六年。
前国王は国民の父といった穏やかな雰囲気の尊敬すべき人物であった。
新たな主君となったハロルドも、高貴で、清廉で、完璧な人物であると思っていたのだが──。
磨き上げられた大廊下を靴を鳴らして進みながら、ジェナは昨日のことを思い出していた。
──どうやら、自分の主君は男女関係における自己評価が極端に低く、婦女たちに恐れを抱いているようである。
勢いに負けて「女性と話せるようになりたい」という主君の練習に付き合うことになったものの、彼は普通に仕事が出来ているのだから練習など必要ないのではとジェナは思った。
だが、あれから詳しく聞いたところ、確かにハロルドは異性との会話の経験に乏しいようであった。特に、貴族女性に対しては。
港町で育ったハロルドの周りに決して女性がいなかったわけではない。
ハロルド自身貴族であるものの、領主という面だけでなく貿易を取り仕切る商人のような仕事も行っていたため、商談相手は貴族だけなく一般人であることも多かった。
港町で働く人間は、総じて大胆である。おおらか、かつ豪気。
つまり彼は、たおやかで儚げな婦人たちと接したことがなく、そのため一方的に苦手意識を持っているようなのだ。
確かに、港町の女性たちと、この王宮にいる貴族女性たちは違うであろう。だが、どちらも同じ、裏も表もある人間である。
少し話をして内面を知れば、問題なくコミュニケーションがとれるのではないかと思うのだ。
たとえそれが帝国の皇女だとしても。
「ジェナ様」
考え事をしながら歩いていたジェナは、自分を呼ぶ明るい声に足を止めた。
広い大廊下には王宮で働く人間たちが常に行き来しており、ジェナは護衛勤務交代のためにハロルドの執務室に向かっているところである。
声の方へ顔を向けると、メイド二人が布の被せられたワゴンをガラガラと音を立てながら寄ってきた。時間的に、王族たちの茶会の片付けだろう。
「ジェナ様、これよかったら。料理長が作った新作なんですけどとても美味しくてジェナ様にどうかしらってとっておいたのです」
片方の若いメイドに手渡されたのは、赤い小さな巾着だった。話の内容から、中身は菓子だろう。
「頂くよ、どうもありがとう」
そう言ってにっこりと微笑む。
メイド二人は顔を見合わせ、頬を染めてはにかんでから、またワゴンをガラガラを押して行った。
その背を見送って歩き出そうとしたところで、舌打ちとともに「お人形が」という揶揄する声が耳に入った。廊下の反対側から、騎士服を着た男二人がニタニタと見ていた。王宮内の警備を担当する第二騎士団。
ジェナはその男たちにも、にっこりと笑顔を向けた。すると男たちはばつの悪そうな顔で目を逸らした。
十七から近衛騎士として勤めているのだ。無遠慮な視線など、慣れたものである。
その後も時折声をかけられ、視線を感じながらハロルドの執務室へ着いたジェナは、ノックをしてからそっと室内に入った。扉の側で立っていた副隊長のレフが目礼する。
ハロルドは、というと、珍しく正装姿で執務室の前で腰に手を当て、仁王立ちしていた。その胸元から腹に至るまで、上着には大量の勲章がぶら下がっている。
「……レフ、陛下はなにを?」
「なんでも、絵師に姿絵を描かせるそうで」
「ああなるほど、分かった」
小声で話してから、レフと交代して扉の前に立つ。部屋にはハロルドと、その反対側に小柄な中年男性が画材道具を準備している。
「バリー隊長」
ジェナに気付いたハロルドが手招きする。その拍子に上着の勲章がじゃらじゃらと鳴った。
ジェナが近寄ると、ハロルドは誇らしげに胸を張った。
「皇女から姿絵を贈られたからな、こちらも贈ろうと思って準備することにした。どうだ?」
「陛下の功績がよく分かりますね。しかしこれほどは必要ないかと」
「えっ」
ジェナは「失礼」と前置きして、あまり重要でない勲章の類はそっと外していった。
「陛下、恐れながらなぜこんなに勲章を?」
「こういった地位や名誉を示せるものがたくさんあった方が女性に好まれるかと思って……」
「無駄なものは必要ありません。多すぎるのはあまり品が良くないかと」
「ええ……」
気の抜けたような声がすぐ近くから聞こえ、ジェナは苦笑した。
「陛下、昨今は威圧的な男性は好まれません。どちらかというと包容力があり、穏やかで落ち着いた男性が好まれます」
「……というと?」
「無理に華美に見せたり、権力を主張する必要はありません。なので仁王立ちは止めましょう」
正装を整え、ハロルドを窓からの明かりが入る位置に移動させる。絵師も道具をがたがたと運びながらハロルドの正面にやってきて丸椅子に腰かけた。
「陛下は右からのお顔立ちの方がお優しそうに見えますから、こちら側からで。それから体は正面ではなく少し斜めに……、そうです、そこで。顔だけこちらを、視線はまっすぐ、ああ、眼力は弱めてください」
「ええ……?」
てきぱきと指示しながらポージングを整えていく。よしばっちり、となったところでジェナは離れた。
「バリー隊長……、この体勢は辛いのだが……」
「動かないで!!」
「、はい……」
「陛下、もう少し優しい雰囲気の顔をしてください」
「無茶を言う……」
それからしばらくの間、ハロルドはジェナに言われるがまま、人形と化した。出来るだけ早く済ませようと絵師が急いで筆を走らせる。
いち段落ついたときには、ハロルドはその場に崩れ落ちた。絵師は苦笑し、しかし出来栄えに満足して部屋を出て行った。
「きつい……、絶対どこか筋を痛めたし、明日は筋肉痛だ」
「大丈夫ですか、陛下?」
差し伸べたジェナの手を取り、ハロルドが立ち上がる。
「練習してくれとは言ったが、君は意外と厳しい先生だったようだ」
「近衛騎士ですから。周りから見られるのも仕事のうちです」
「そうだった」
真面目に返すジェナに、ハロルドは笑って上着を脱いだ。執務机の反対側に設られている長椅子にそれを掛け、自分も座る。
「バリー隊長、時間があるのでちょっと付き合ってくれ」
そう言って、自分の膝をぽんぽんと叩く。意味が分からず、ジェナは首を傾げた。
「別に問題ないだろう? 少しおしゃべりの練習をしてほしいだけだ」
「それは構いませんが……、なぜ膝を?」
「なぜって……、男女の語らいでは、膝に女性を乗せるものなんだろう?」
「え……?」
予想外の言葉にジェナは頭痛がする思いがして頭を押さえた。
まさか主君は初対面の皇女を膝に乗せるつもりなのだろうか? そんなことしたら美しい応接室が一瞬で戦場になってしまう。
「陛下、そういったスキンシップは恋人同士のものであり、親しい間柄でなければ行いません」
「え……、そうなのか……。それじゃあ手を繋ぐのは?」
「親しくなければ。それに触れる時には許可を」
「菓子をあーんするのは?」
「行いません」
「頭をポンポンするのは?」
「ぞっとします」
ハロルドは「そうなのか……」と呟いて黙り込んだ。
どうやら彼は女性との接し方に不慣れというだけでなく、それ以前に知識に偏りがあるようである。
「陛下、どこからそのような話を?」
ジェナが問うと、ハロルドは視線を彷徨わせてから立ち上がり、おもむろに執務机に向かった。
机の前にしゃがみ込んだ彼は、その引き出しの下からペンを差し込んでいる。二重底になっている隠し底板であるらしい。おそらく機密性の高い書類などを保管するための場所なのであろう。
しかしそこから取り出して渡された本に、ジェナは顔をしかめた。
それはいわゆる恋愛指南本であった。
ぱらぱらとめくると、男女交際におけるイロハが可愛らしい図解とともに描かれている。
決して卑猥なものではない。しかし猥褻本を隠すかのごとく仕舞われていたようだ。
「なるほど」
ジェナはざっと本に目を通すと、パタンと閉じた。
彼がこの本により偏った知識を得ていたことは分かった。
「陛下、分からないことを学ばれることは素晴らしいですが、こと人とのコミュニケーションに関してはその限りではありません。相手が都度違うからです」
「……はい」
「練習しましょう、自己紹介から」
二人は長椅子に戻って腰掛けた。当然、膝の上ではない。間に一人分くらいの距離を空けてそれぞれ、である。
ジェナが「陛下からどうぞ」と促すと、ハロルドはごほんと咳払いをして居住まいを正した。
「初めてお目にかかる。ハロルド・ルハン・ヘルフォードである。ようこそお越しくださった。んんっ、姿絵よりもずっと美しいな。ごゆるりと休まれよ」
「初めまして、ジェナ・バリーと申します。遠路はるばるようこそいらっしゃいました、お疲れでしょう。甘味をご用意しました、お口に合うといいのですが。どうぞこちらへ」
流れるように言うと、ハロルドは口元を手で覆い「おお」と感嘆の声を漏らした。
「なんて自然な」
「陛下、相手を褒めようというお気持ちは素晴らしいと思いますが、初対面で外見への言及は避けた方が良いかと」
「そうか。姿絵と全く違う可能性もあるものな」
「その可能性もあります。ちなみに皇女殿下の姿絵は陛下からご覧になっていかがでしたか?」
ハロルドが、うーんと考える。
「美しかったが、華奢そうだな。私はもっと心身ともに頑丈そうな……、そうだな、お尻の立派な」
「聞かなかったことにいたします」
ジェナは渋い顔で主君の言葉を遮った。