1. 主君の憂い
窓からの陽を背に浴びて、暑い。
ジェナは騎士服の下に流れる汗を感じながら、視線だけで日差しの先を追った。
広い部屋を見渡すように据えられた、艶のある重厚な机。積まれた資料に日光が当たり、日焼けしてしまいそうだ。
その先、右手にペンを持ったままこめかみを抑える自分の主君に目を移す。ジェナは彼を見つめた。
豪奢だが年季の入った椅子に背をもたれることなく、前のめりになってじっと手元を見つめている。直毛の黒髪が目にかかり、こめかみを抑えていた手でそれを鬱陶しそうに払った。
そのとき露わになった額に汗が浮かんでいるのを見て、ああ、この人も汗をかくんだなと思った。
ジェナは音を立てないように踵を返し、背後の窓をそっと開けた。レースのカーテンを引くと、それがふわりと形を変えて膨らむ。部屋の扉は開いているので、少しは風が入るはずだ。
姿勢を戻すと、難しい顔をしていた主君と目が合った。「ありがとう」との言葉に目礼で返し、ジェナはまた部屋の一部に戻った。
女騎士ジェナ・バリーの主君は、ハロルドという。
彼はこの小さな島国ヨルハーバーの君主だが、半年前に就いたばかりだ。もともと彼は重要な港を管轄する領地を収めていた高位貴族であった。
だが前国王が急病で亡くなり、さらに後継がなかったため、王家の血筋であったハロルドが急きょ君主となったのである。
始めのうちは中央政治の複雑さに戸惑うことのみられたハロルドだが、従来の処理能力の高さからすぐに内政は安定した。
その様子を、ジェナは近衛騎士として間近で見ていた。
ハロルドはジェナの尊敬する主君である。
少しして、宰相がバタバタと入室してきた。「今日は暑いですな」と言いながら禿頭をハンカチで拭い、窓際のジェナを一瞥もせず、ハロルドの正面に腰掛けた。
「陛下、こちら連絡のあったものです。お目通しを」
「ああ……」
ため息混じりの低い声。
「これは後で見ておく。それより先ほどの修繕予算の件だが……」
ハロルドは宰相の出した封筒を脇にやり、代わりに手元の書類を差し出した。
それから仕事の話が始まったのでジェナはちらりと壁時計に目をやった。護衛交代までもう少し。
話を終えた宰相が部屋を出ていき、室内はまた静かになった。
ハロルドが大きくため息をつく。ちらりと彼に目をやると、宰相が持ってきた封筒をのろのろと開いている。
──最近、自分の主君は何かを憂いているらしい。
国王になってこの半年間、弱音を吐くことなく仕事をこなし、疲れも見せなかったハロルドだが、ここ最近急にため息が増えた。
時折、何かを考えながら窓の外をぼんやりと眺めたり、先ほどのように大きくため息をついたり。即位当初は見られなかったことである。
だが、彼はその憂いを誰かに話したりはしていないようだ。
ハロルドは封筒の中身を出し、二つ折りとなっているそれをわずかに開いてすぐに閉じた。それから封筒に戻し、眉を寄せて「んんん……」と唸る。
どうかなさったのですか、とはジェナには聞けない。自分はただの近衛騎士で、会話をする立場にないためである。勤務の最中は、この美しい部屋の調度品の一つとなっていなければならないのだ。
──だが。
「バリー隊長」
低い声で突然名を呼ばれ、ジェナはびくりと肩を震わせた。
驚いて顔を向けるとハロルドが自分を見ていて、ジェナは急に心拍が上がった。
近衛騎士団には複数の隊があり、その隊長および副長が国王の護衛に交代で当たる。まさか、即位して半年足らずの主君が、ただのいち隊長である自分の名前を知っているとは思わなかった。
「はっ」
「少し質問をしても?」
「はっ。何なりと」
ハロルドは一瞬躊躇った後、口を開いた。
「……君は私のことをどう思う?」
間髪あけず、ジェナは踵を鳴らして足を揃え、騎士の礼を取った。
「はっ! 国民のため、身を粉にして執務に励まれる国王陛下のことを敬愛しております! 陛下が憂いなく政務を行われますよう、命をかけて責務の完遂に努めます!」
入隊時の宣誓と同様に、きっぱりと高らかに宣言する。だが、ジェナの気概に反してハロルドは眉を寄せた。
「いや、命はかけなくていい。というか、そういうことではなくて……」
「は……?」
自分の答えが間違っていたようである。困惑したジェナに、ハロルドは続けた。
「その、私がこの地位になく、ただの男として見たらどうだ? 例えば君と同じ、一介の騎士だとして……」
「はっ。陛下は上背もあり筋肉のつきもバランスの良い体格をなさっているとお見受けします。訓練により強い騎士となることは十分可能と存じます」
「いや、そうではなくて……」
そう言ってまたため息をつく。
ジェナは唇を噛み締めた。主君の問いにすぐに答えられないなんて、なんで自分は不甲斐ない近衛騎士なのだろう。
気まずい沈黙が流れてから、ハロルドが封筒を差し出した。「拝見しても?」と問うと無言で頷く。ジェナは封筒の中を出した。
二つ折りになっているそれを開くと、中は姿絵であった。亜麻色の髪の美しく若い女性がこちらを見て微笑んでいる絵。
「ヘラルダ帝国の第二皇女だ。二週間後に我が国に避暑に来るのでよろしく、と」
「は……」
ヘラルダ帝国は海を挟んで隣接している大国である。
ヨルハーバー国は果樹と水産を中心とした貿易と、豊富な自然を目的とした観光が主な産業であり、近隣国から避暑に訪れる貴族も多い。
ヘラルダ帝国からの観光客も当然いるのだが。
「陛下、第二皇女がいらっしゃるので近衛で警護を、ということでしょうか?」
「いや、それは別に手配するので近衛は動かなくていい。私が悩んでいるのは、第二皇女の歓待をしなければならないということだ」
ハロルドが椅子の背にもたれる。その拍子に、ぎぃ、と椅子が鳴った。
「歓待するだけなら、いい。だが、なぜか帝国はわざわざ第二皇女の姿絵を送ってきた」
「はい」
「さらにご丁寧に親書には『即位からしばらく経ちそろそろ落ち着かれたかと思うので』と書かれている。これはどういう意味だと思う?」
送られてきた姿絵、含みを持たせた親書。
答えは簡単だ。
「……ご縁談かと」
「私もそう思う」
ハロルドが大きく頷く。
彼は独身で、縁組の予定はない。即位が急だったので、それどころではなかった。だが、前国王も後継がなく急逝により混乱したため、今後のことを考えるとハロルドの縁組は喫緊の重要事項といえた。
「縁談目的であることはいいのだ。断る理由はない」
「ええ」
「帝国からの皇女であれば繋がりは強くなるし、これ以上ない縁組だろう。だが……」
言葉を切って「はああ」とため息をつき、ハロルドは顔を手で覆った。黙ってしまった主君の様子を窺う。
続きを待つジェナに、ハロルドは絞り出すように言った。
「……私は、女性と話すことが出来ないのだ……」
意味が分からず、ジェナは「は?」と近衛騎士らしからぬ声を出した。
「あの、それはどういう……」
「今まで領主として働いてきたが、周りは同性ばかりで女性はいなかった。女性とどのように話せば良いか分からないのだ」
「え、ええと、普通に話せば良いのでは」
「どきどきしちゃう……」
「ど……」
いよいよジェナは絶句した。
自分の主君は決して醜男ではない。むしろ綺麗な部類で、それなりに女性を侍らせていると言われても違和感がないだろう。
そんな彼が今、目の前で恥ずかしそうに顔を隠して「女性と話せない」と告白している。
だが、わずかに思い当たることはあった。護衛をしている中で特定の女性と会っている様子がまるでない。
それに彼は夜会に出て踊るにしても、令嬢と交友を深めることなくさっさとその場を後にしてしまうことで有名だった。多忙なためと思われていたが、まさかそういうことだったのだろうか?
というかそれ以前に目の前の自分は女なのだが、それを主君は知らないのであろうか。
「あ、あの陛下、ご存じないかもしれませんが、実は私は女なのです。なので同じように女性にお話になられたら」
「君が女騎士であることは知っている。だが、君は今、仕事でここにいて、しかも騎士服だ。だから話せる」
「はあ……」
「私は女性にどう接すればいいか分からないし、そもそも自分が女性からどう見られているのか分からない。だから先ほどの質問をしたのだが……」
ハロルドはきりりと顔を上げた。
「君に頼みがある」
その真剣な表情に、ジェナは姿勢を正した。
「はっ」
「第二皇女と問題なく交流が出来るよう、私と練習してくれ」
「はっ!」
────ん?
反射的に返事をしてから、ジェナはわずかに首を傾げた。
練習とは、一体?
疑問符を浮かべるジェナを尻目に、ハロルドが続ける。
「君は女性でありながら、女性に大人気だと聞いている」
「は、はあ」
「君は美しく、騎士で、女性で、しかも女性に人気。彼女らの気持ちが分かると思うのだ」
「はい」
否定せずに頷く。事実だからだ。
近衛騎士は騎士としての実力はもちろん、美しさも必要である。お人形と揶揄されることはあれど、ジェナは気にしない。その要素も含めて自分の仕事であり、自分は基準を満たしている。
そして、王宮で働く女性たちから好意的に見られていることは自分でも認識している。
「だから、皇女とまともに話せるように私に指導してほしい」
「指導……」
「だめだろうか……」
すがるような目で見つめられる。
その視線を受けたら、ジェナはなんとかしてやりたい気持ちになった。
彼は突然の立場の変化にも腐ることなく、前向きに政治に取り組んでおり、そこには国を良くしていこうという意欲を感じる。
結婚だって、本来はある程度自由に伴侶を選べる立場だったのにそれが叶わなくなっても文句も言わず、国のために最適な道を選ぼうとしているのだ。
ジェナは彼を尊敬している。
その尊敬する主君から直接請われているのだ。断る理由が?
「……やりましょう」
「本当か!」
喜色をたたえた表情で立ち上がり、ハロルドは机の向こう側から回ってジェナのいる窓際に駆け寄った。
「ありがとう、バリー隊長! 感謝する」
そして強く手を握られ、ジェナは一瞬身を引いた。話したこともない主君から感謝され、手を握られるとは。
「え、えーとあの、先に伺っておきたいのですが、どのくらいが目標なのでしょうか? 今回の来国で、皇女殿下と婚約まで?」
問われたハロルドは手を握ったまま目を逸らし、怯えたような顔をした。
「まさか。そんなところまで進めるはずもない。せめて皇女に気持ち悪いとか、顔も見たくないとまでは思われない程度に知り合いになれたらそれでいい」
目標が低すぎませんか。
そう言いかけて、すんでのところで無遠慮な言葉が口から出るのを耐えたジェナであった。