【セントノリス中1−1】体育14組 画家志望ユリアン=ベックマン1
ユリアン=ベックマンは絵がうまい。
本当は画家になりたかった。厳格な父は息子の夢を笑った。そんなもの、人生のありとあらゆる勝負に勝てなかった負け犬の仕事だと。貴族や金持ちにおべっかを使いながら実際の顔よりも美しく描き、えへらえへらと笑いながら欠点を消し似ても似つかないものに仕上げる道化だと。ユリアンが描きたいのはそんなものじゃない。美しい風景や天上の景色だとどんなに言っても聞いてはもらえなかった。
父には見えないのだ。感じられないのだ。朝焼けに浮かぶ命そのもののような力強い色が。宵闇に沈む前の一瞬に光るはかない今日の終わりの切れ端が。ここにはない美しき国の、今にも歌が聞こえそうな空気が。漂う甘やかな香りが。
画家に弟子入りしたいというユリアンの夢は一蹴された。教師か聖職者になれと父は言った。誰にも恥じぬ正しき行いをしろと。
ユリアンは絵を描くことが正しくないとは少しも思っていない。だが見つけ次第絵を破られ、筆を折られる家にこれ以上身を置いていたくなかった。
父は昔セントノリスを受験して落ちたらしい。なのでユリアンは頑張った。中央ならば画家も多い。過去の偉大な画家が残した壁画もある。必ずこの家を出てそういうところに行くのだとユリアンは頑張った。
そして今ユリアンは、セントノリスの飾り気のない白の運動着を着て、芝生の上に座っている。
残念ながらユリアンは運動が苦手だ。友達が走り回っているなか、隙あらば地面にお絵描きをしている子供時代を過ごしたせいかもしれない。基本的に何をすれば自分の体がどう動くのか、ユリアンはわかっていない気がする。
だからユリアンは今感動している。自分以上にそれをわかっていない人間を、ユリアンは初めて見た。
前のゴールに向かって投げた球が後ろに飛んでいくのを呆然と見送った小柄な生徒、アントン=セレンソンが戻ってきて、膝小僧を抱えてユリアンの横に座った。
「……元気出して」
ほかに何と声を掛けたらいいかわからずユリアンは言った。彼が顔を上げる。
それほど動いていないのに彼は頬を真っ赤にして汗をかいている。
「うん。大丈夫だよ。いつものことだ」
気丈にもそんなことを言っているが、ユリアンだったら今のを見られたら恥ずかしくて顔を上げられないと思う。
セントノリスは体育でも美術でも、なんの教科のクラスでも、実力順に、10~20名ほどに細かく生徒を分ける。上のクラスに行っても良いと教師が判断すれば、あるいはその逆であれば途中でクラスを変わることもある。一見残酷なようだが、常に同じレベルの級友に囲まれ、少数ゆえに教師にすくい上げてもらえ、無駄な萎縮や遠慮なく発言できるため、この仕組みはなかなか理にかなっていると思う。
体育の評価は他のものより優れているかではなく、過去の自分からどれほど成長したかを基準に行われる。今ユリアンがいる体育のクラスは最下位のクラスだ。最上位のクラスと同じ競技をしていても、まったく違う競技に見えることだろう。
「……アントン君だよね」
「うん。アントン=セレンソン。覚えてもらえて嬉しい、ユリアン=ベックマン君。ユリアンって呼んでいいかな」
「ああ。じゃあアントン。どうして僕の名前を知ってるの?」
「君がノートに描いた花瓶が本物みたいだった。忘れられるわけがない」
「……あの日の授業は前に徹底的にやったところだったから、知ってることしかなくて暇だったんだ」
「なんでノートの上に硝子の花瓶があるのかなって思ったんだ」
「色がない。言いすぎだ」
「僕には水色があるように見えた。嘘じゃない」
妙に必死に彼が言うのでユリアンは笑った。なんかこの子は嫌いじゃないなと思う。ユリアンは結構好き嫌いが激しい。
じっと顔を見る。きれいな顔だ。派手ではないが、ちゃんとした形のものがちょうどよく配置されている。まつ毛が長い。唇と頬が赤い。肌がとても白い。
この『白』と『黒』、『赤』の対比を黒一色で出せたら、きっと面白い。
「……」
ユリアンはあまり人物は描かない。
「アントン」
「なんだい」
「今度僕の絵のモデルにならないかい」
「……残念だけど僕はガリガリだ」
「大丈夫君に筋肉美は期待してないし脱げとは言ってない。止まってろなんて言わない。普通にしていてくれたら勝手に描くから」
「学年で一般的な基準で一番見た目がかっこいいのはブラットフォード=エイジャー、綺麗なのはチャーリー=アビーだよ。あれほどの腕がある君が、僕のようなつまらないものを描くのはもったいない。彼らに比べたら僕の顔は割れた花瓶以下だ」
「……」
まだ赤い頬のまましゃべるアントンをユリアンはじいっと見ている。
髪の艶感を出す必要がある。
この目はまだ描ける気がしない。伏し目がちのところ、横か斜めから描くのが今はきっと望ましい。
全体的につるつるしているので、対比になにかふわふわしたものが欲しい。まあ、羽根ペンでいいだろう。
「アントン。自習はどこでしてる?」
「夜は自室、朝は広間」
「じゃあ朝か。僕は朝弱いんだけど、がんばるよ」
「ブラットフォード=エイジャーとチャーリー=アビーは?」
「残念ながら彼らを知らないけど、もとから綺麗ならそのまんま綺麗に描いたって仕方ないだろう。僕は君のそのなんて言うんだろうな。よくわからない、なんだか綺麗なものを描きたいんだ」
「僕にそんなものがあったかなあ」
「あるよ。僕の目が曇っているとでも?」
じっとアントンはユリアンを見た。不思議な奥行きのある目をきれいな月のような形にしてアントンは笑う。
「ううん。黒一色でノートに透き通った水色の花瓶を作り出した君を信じるユリアン。僕にそんなものがあるって、君の目は見てくれるんだね。……すごく、うれしいな」
「……」
おーいと呼ばれた。今度は全員でやるらしい。ユリアンは立ち上がる。
「さて。頑張ろうか体育14組」
「僕はさっきよりも前に飛ばすことを目標とする。角度的な意味で」
「いっそのこと後ろを向いて投げたらどうだい」
「そうすると不思議なことに、前に飛ぶんだ」
「なんとも摩訶不思議だ」
「そうだろう」
言ってからアントンは眩しそうにユリアンを見る。
「君の銀色の髪、素敵だね。太陽に揺れてキラキラ光るんだ」
「……父親譲りだよ」
「そうか。いいな。とても素敵だよ」
「……」
実はユリアンも、この色は気に入っている。
「……伸ばしてみようかな」
「いいと思う。きっと似合うよ」
屈託なくアントンが笑う。
そこにまた何か眩しい光を見た気がしてユリアンは目を細めた。
ユリアンが描きたいのは偽りの肖像画じゃない。朝の命、宵闇の今日。歌うような空気に、漂う薫香。
風景の中に、美しき国の中にそれはあると思っていた。でも、人を通して描けるそれらもきっとたくさんあるかもしれないと、今何故か感じる。
明日は早起きがんばろう、とユリアンは思った。
このなにかよくわからない綺麗なものを、早く紙の上に描いて、ほらねと彼の目に見せてやりたかった。