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おでん屋春子の箸休め ~嗚呼青春のセントノリス~  (『おでん屋春子婆さんの偏屈異世界珍道中』番外編セントノリスver)   作者: 紺染 幸


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【セントノリス中1−4】フェリクスのペン殺ペン事件2


 翌日


 1号室から出たアントンは、2号室の前に誰かが俯いて立っているのに気づいた。


「……テオドル=ツー=オーグレーン」


 はっと彼はアントンを見た。

 深い茶のきちんと整えられた髪、セントノリスカラーの深緑の瞳。

 高貴で穏やかで真面目そうな顔立ちが、今は何か思いつめたような暗い色に染まって歪んでいる。

 どういうときにそんな顔になるのか、アントンはなんだか、わかるような気がした。


「……少し君と話がしたいなテオドル。入ってくれないか?」

「……」


 彼は無言で従った。

 中央のテーブルに座ってもらう。隣の椅子にアントンは腰掛けた。

 今日は休みだ。ハリーは今図書館に行っている。


「……トールヴァルド=アブラハムソン」

「……」


 彼は顔を上げた。


「君は言った。社会の授業で、尊敬する人物はトールヴァルド=アブラハムソンだって。名前を知らなかったからあとで調べたよ。かの有名な知将ノルドマンの右腕だった人なんだね。ノルドマンよりも年上で、バルバッソの戦いで亡くなった。追い詰められたノルドマン将軍を逃がすために彼の甲冑を纏って敵を引きつけ戦場に飛び出して、主の代わりに討たれた忠義の人。どうしてこんなすごい話が有名になってないのかって驚いた。ノルドマン将軍は一年に一日だけ一切の食べ物を口にしない断食の日を設けていたけど、それがトールヴァルドの命日だったところで僕はもう涙が止まらなくなった。剣も折れ矢も尽きて、それでも主の命だけは救いたくて彼は最後の剣を主に渡して飛び出した。名剣の愛好家だったトールヴァルドが最期に持ってたのはただの朽ちた木の棒だったというじゃないか。最期の言葉は『ノルドマンここにあり!』。名剣を主に渡して、主の甲冑と主の名前で偽ったまま彼は死んだ。嘘の嫌いな、寡黙で実直な男だったのに。主を生かすために彼はそうした。すごい男だ。かっこいい男だ。もっと有名な将軍や英雄が数多くいるなかで無名な彼の名を口にした君は、実に繊細で、誠実で、想像力のある人だなあって尊敬した」

「……」


 アントンはテオドルの優し気に整った顔をじっと見た。

 アントンはこの3号室常連者テオドル=ツー=オーグレーンを尊敬している。

 真面目で常識的で植物のように穏やかで、声が優しくて、いつも人を見る目が平等だから。

 主張はしないのに自然に場をまとめてくれる。みんなの先生みたいな、頼れる男だから。

 その柔らかい、上手な話し方を真似たくて、いつも彼の声を追っていた。

 じわじわと視界が滲む。


「……テオドル。フェリクスはあれを買うために、たくさん『見本』を書いたよ」

「……」

「コインを一枚一枚、ちゃりんちゃりんって数えるのは貴族として恥ずべき行為だからって、でも今どれくらいかどうしても数えたくて、考えた彼は板に必要な額のコインの高さに印をつけて、重ねてはかった。まだかなまだかなよしもう少しだぞって毎回嬉しそうに見てたんだ。やっと貯まったあとの最初の休日は朝からソワソワして、早く行き過ぎてお店が開く前にお店についちゃって、それでも開いてすぐ入るのはかっこ悪いからちょっとウロウロして、ようやく買って走らないよう、でも少しでも早く試し書きがしたくて、早足で帰ったんだ」

「……見てたのかい?」

「行く姿と帰ってきた姿だけ。でもきっとフェリクスならそうする」


 あの日フェリクスは頬を染め、すごくうれしそうな顔で帰ってきた。

 常に冷静沈着を心掛ける彼は気づいていないと思うが、彼は実に情緒が細やかで、表情豊かだ。

 あの日の彼の表情と、真っ二つに折れたペンを見た瞬間凍り付いた彼の白い顔を思い出してついにたまらずにぼろぼろと涙が溢れた。


「……あれはそういうものだった。彼のとても、とても大切な、楽しくて嬉しくて、幸せなものだった。だから机の目立つ場所に立てたんだ。見るたびに嬉しかったはずなんだ。あれは彼がアッケルマンの家から与えられたものじゃない、フェリクス自身が自分で生み出した、彼の、新しい誇りの象徴だった」


 歪む視界の中で、必死にテオドルの顔を見据える。


「サロだって、今までずっと一番だったのにここじゃなれなくて、自分の立ち位置に悩んでるところに、本当は仲良くなりたい皆に軽蔑されたんじゃないかって、すごく、すごく怖かったはずだ。『俺じゃない、信じてくれ』って僕たちを見回したとき、サロはブルブル震えてたんだよ」

 

 テオドルの顔が歪む。


「トールヴァルドを尊敬すると言ってほしいテオドル」

「……」

「折れない忠義と主を支えることの誇りを胸に木の棒を持って死んだ男を好きだと。……何かの行為の感触が、トールヴァルドの名を呼ぶ君の唇を止めることはないと言ってほしい」


 アントンはぎゅっと拳を握った。


「お願いだ。僕は君の口から、君の優しい声で、彼の名をもう一度聞きたい」

「……」


 じわじわとテオドルの緑の瞳に涙が浮いた。


「……言えない」


 閉じられた彼の目から、すうと涙が落ちる。

 アントンも目を閉じた。涙が出た。


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