【セントノリス中1−1】初夏の芸術祭2
チャーリー=アビーは女優の息子に生まれた。『父』はあんまり家にいなかったが、みんなのお父さんよりもちょっとおじいさんで、会えば穏やかに微笑みたくさんの素晴らしいお土産をくれる大好きな人だった。
記憶の中の美しい人はいつも歌っている。洗濯物を干しながら、料理をしながら。嬉しそうに、幸せそうに。踊るように。
演技が好きだ、と全身で語る人だった。お話をせがめば、いくらでも、どんなお話でもしてくれた。その唇から溢れ出す世界の美しさと込められた濃密な愛情にチャーリーは溺れ、息もできないような心持ちだった。
『妾の子』
チャーリーを指差し最初にそう言ったのは近所の誰だったか。子供には難しすぎるその言葉を言った、チャーリーと母をあざ笑う大人の姿がその子の背中から透けて見えた。
めかけってなあにと母に問おうとして問えなかった。そこに何か嫌らしい、ねばっこい悪意のようなものがあるとわかったのかもしれなかった。
大きくなるにつれ、自分の家が普通ではないことにチャーリーは気付いた。それでも母に問おうとは思わなかった。初級学校を上がるにつれ『父』の訪れは徐々に減り、2年生か3年生のころにはもうまったくないと言っても良かった。
あんなにも演劇が好きな母が舞台に立たないのはなぜだろうとぼんやりと思っていた。
ある日道を歩く妊婦さんが大変そうだったから荷物を持ち手を引いてあげた。お辞儀をして去っていったその動きにくそうな足取りを見てチャーリーは気付いた。
動けなくなったからだ。自分を妊娠したからだ。他に何があるだろう。
あんなにも愛情深く、熱い思いを持って舞台を語る女性から、ほかでもない自分がその場所を奪ったのだとチャーリーは唐突に気付いた。
自分という存在が母をその舞台から引きずり下ろし、家に縛り付けた。世間に妾と呼ばせ、歌を奪った。この自分が。
泣きながら帰ったチャーリーを母は何も聞かずに抱きしめた。やはり泣きながらこれまで胸にあったことを語り、つかえながら謝り、ようやく顔を上げた先に、昨日までの母にはなかった強い光が宿っているのをチャーリーは見た。
それは以前のような艶やかな、たおやかな、儚いものなんかじゃない。
とてもどっしりとした、決意のなにかだった。
チャーリーの容姿は若き日の母にそっくりだ。きれいすぎるせいで何を成しても『顔がいいからだ』『贔屓だ』と言われるから、それなら贔屓のできない部門で頑張ろうと思い顔に見合わぬガリ勉になった。試験の得点は嘘をつかない。自分の頭で、チャーリーはいつだって一等賞を取ってきた。ヒソヒソ陰口をたたく奴らに鏡を突きつけてやりたかった。そんな暇があったら、少しは美しい物語の1ページでも読んでみたらどうだ。人の顔にああだこうだ言う前に、今の自分のその醜い顔を見てみたらどうだと。
「お疲れ様」
舞台袖でぼんやりと考えていたら、目の前にカップが差し出された。顔を上げる。
名前は知らないけど顔は知ってる。これぐらい普通の顔だったらよかったなと前に思ったことがある子だ。髪も目も黒い。確か成績が良かったはずだ。
「ありがとう。……ええと」
「アントン=セレンソン」
ああそうだ。そんな名前だった。1号室の子だ。彼は笑うと随分柔らかい顔になる。
「ありがとうアントン。まだ君の演技を見てないな。なんの役?」
「ガラシアの木」
「……ああ。よろしくね」
「うん。隣に座ってもいい?」
「どうぞ」
横に座った彼がお茶を飲みながら、ときどき堪えきれないようにチラッチラッとチャーリーを輝くような目で盗み見る。
こんな視線にチャーリーは慣れっこだ。正直、人の皮一枚に右往左往する目のその浅はかさにはうんざりする。
「外見がきれいだからって中身まできれいだろうなんて期待するのはやめてもらえるかい」
「君の外見がきれいなのは間違いのない事実だよチャーリー。きっと丸一日見ていても飽きない自信がある。でも僕は君の、その演技に取り組む真摯な姿勢と、こだわりの深さも尊敬してる。『必死に男になろうとしているシルヴィアが、いくら流行りだからって袖にレースをあしらうはずがない』なんて、よっぽど彼女の内面を掘り下げてなきゃ出ない発言だと思う」
ふうんと思った。
「そう、ありがとう。それでもいちいち小さなことにこだわる、面倒な細かいやつだって噂されてるのは知ってるさ」
「口には出さずとも、君のこだわりに賛同している人がいるのもわかってもらえると嬉しいな。小道具係のステファンが張り切って衣装の細かいところを修正していたよ」
「うん。彼はいいよね。好きだ」
「本人に言ってもいい? 喜ぶよ」
二人並んでお茶を飲む。
「大道具係のドナルドとエセルバードがそれぞれのこだわりで衝突してたから、あとで助言してくれないかな」
ふっとチャーリーは笑った。よく周りを見ている子だ。
「あの二人もあの二人ですごいよね。僕はああいう脇目も振らない、職人みたいな男たち好きだよ」
「喜ぶよ。彼らが裏方を愛しすぎるせいで彼らのこだわりを誰もが当たり前に思って彼らを褒め忘れるから、言ってあげて」
嫉妬や皮肉、飾り気も気負いもない、ただ純粋な憧れの色でチャーリーを見る黒い目に、自分でも知らないうちに張っていた盾のようなものを柔らかく破られたような気がして、チャーリーはふっと笑う。
「君はいい顔をしているね」
「ありがとう。僕は今金剛石に褒められた硝子玉の気分だよ」
「本当さ。なんていうのかな、味があるよ」
「うれしいよ」
うれしそうに頬を染めて彼は笑う。なんだか本当にきれいに見えてきたから不思議だ。
「ねえアントン、実際のところどう思う、僕のこの顔」
じっと彼はチャーリーを見る。なんだかくすぐったい。
まん丸だった黒い目が半月のように蕩けて笑う。
「うん。やっぱり学年で一番きれいだと思う」
「……ありがとう」
当たり前過ぎてもう誰も正面切って言わないことを正面から言われた。なんだろう改めてそう言われると、妙に照れる。
「……女優だった母の若い頃に生き写しなんだ。本当は自分でも気に入ってるんだけど、何をしたって顔のせいだって言われるから、少し飽き飽きしていたところだ」
「顔で詩は書けないよチャーリー」
当たり前のように微笑みながらすっと言われた。
「『それは、小さな蝶が春の終わりに地の上で、翅を瞬かせたときにこぼれ落ちる粉の光が舞うに似る』。頭の中にアイディアが浮かぶ瞬間のくすぐったいムズムズする感覚をそんなふうに表現できるのは、君の顔がきれいだからだろうか」
「……」
国語の最初の授業で、即興で作った詩のうちの一つを覚えている子がいるとは思わなかった。おそらくこの子は自分の熱狂的なファンだ。
「……母の最後の舞台がシルヴィアだった。もともと立候補するつもりなんてなかったんだけど、演目を聞いて気がついたら手を挙げていた。僕は舞台を成功させたい。こんなふうに険悪な雰囲気を作りたいわけじゃない。うまくやりたいんだ。なにかアドヴァイスをもらえないかな」
「ブラッドフォードは気持ちいいくらいおおらかで、かっこいい自分が正直に大好きな男だよチャーリー。君が人に言われて嫌な外見への褒め言葉も彼は大好きで、どんどん飲み込んで栄養にして余計に強くなる男。褒めて褒めて褒めまくれば、気持ちよく行ってほしい場所に突っ走ってくれる素敵な男だ。君が求めるジェラルド像を具体的に教えて、褒めて導いてあげたらいいよ。『どうしてできないのかわからない』じゃなく、『こうしてほしい』って言えばちゃんとしてくれる。彼は愚かじゃない。とても素直なんだ」
「彼のことがなんとなくわかった。そういう男なんだね。……やってみるよ」
彼は立ち上がった。
「アントンは練習に混ざらないの?」
「まだ衣装ができてないし、僕の出番はラストの方だから、君たちの演技を見てイメージを膨らませておく。ラストシーンでの僕の素敵な揺れを見逃さないで。さて休憩終了だお茶をくばらなくっちゃ」
「がんばって」
今最後に吹く風の強さで悩んでるんだと嬉しそうに笑いながら彼は去った。
変わった子だ。でもなんだろう、胸のつかえが軽くなったような気がする。
『妾の子』。突然泥を投げるように浴びせられたそんな蔑称を、これまで誰よりも気にしていたのはチャーリーかもしれない。
いつも、誰にも負けるものかと虚勢を張っていた。自分の姿を羨んで見る人の目を蔑んでいた。誰にも心を許さずに、無理をしてでも突っ走っていた。
母はあの日から仕事を探して、今日も野菜屋さんの店先に立っている。よく響く大きな声でお客さんを呼んで、2倍くらいたくましくなった体で笑っている。父の訪れを待ってベルの音に耳を澄ましていたあの頃の面影は一切ない。チャーリーは昔の母も、今の母も、大好きだ。
「――よし」
立ち上がり、埃を払う。
今頃練習場ではブラッドフォードが張り切って見せ場を演じていることだろう。
褒めてみよう。実際彼は華があるし、自分の見せ方というものをよく心得ている。
だけどジェラルドは影だ。押さえてこそ光る、支え役だ。
抑える美。それはなんと言えば彼に届くだろうと、チャーリーは頭の中の語彙を総動員している。
「……」
「……」
「……」
朝食。
固まって卓についている1号室メンバーとフェリクスの周りが静かだ。
「ざわ……」
「今風吹いたか?」
「少し吹いたよ」
「しゃらら……」
「ああホントだ。吹いてるな」
「わかりやすくなったね」
「……」
「しゃらしゃら」
なぜ皆そんなに普通にご飯が食べられるんだと思いながら、フェリクスはパンを必死に飲み込む。
木が生えている。
テーブルに一本。やたらと真剣な木が。
……木だ。
……木だ!
ここまで役作りに没頭しなくてはいけない役どころなのかという疑問を口に出せない。その木があまりにも真剣だからだ。
「……」
「……」
風が止まったらしく静かになった木が、静かにパンを食べている。
早く芸術祭が終わって欲しい、とフェリクスは思う。
なんだか腹がゾワゾワする。見ているフェリクスのほうがいたたまれない。
自分以外がそう感じていないことを疑問に思いながら、フェリクスはパンを飲み込んだ。




