【セントノリス中1−1】ハインリヒがきた2
「……何故彼は怒ったんだ? 普段の授業でも、ああいう顔で僕を見る生徒が多い。僕は何か、君たちに嫌われるようなことを行なっているのだろうか」
心底不思議そうなハインリヒのきらきらした顔をアントンはじっと見た。
生まれながらに最上級の布に包まれ、金色のものに囲まれ磨かれてきた男だ。なるほどそれはきらきらするだろうなあと納得する。
平民には出せない気品、揺らぐことのない自信と高慢さ。これは選び抜かれた場所に生を受けた人間しか持てない、ハインリヒ=フォン=ベルジュの財産だ。
「テオドルとフェリクスには聞いてみた?」
「ああ。そしたら二人とも、君に聞くのが一番だというんだ」
「そうか、僕ならなんのしがらみもないし、平民の立場からものを言いやすいものね」
アントンは考えた。ハインリヒは今本当に不思議で、理解できず、困っている。
「ハインリヒは僕たちのような平民と、仲良しになりたいの? 肩を組むような対等な友人に」
「……」
ハインリヒは黙った。考えている。
「いや、僕は貴族だから、君たちの上に立って導かなくてはならない。当然そこにけじめは必要だ」
「うん。君ならばそう言ってくれるって信じてた」
彼が揺るがないことに、アントンはほっとしてしまった。
貴族にふさわしい勉強を、三男とはいえ家の名を冠す者であるハインリヒはこれまでずっと頑張ったのだ。
礼儀、作法、マナー。貴族が学ぶそれらを向ける対象は平民ではない。貴族に通じるそれを、彼はしっかりと身に着けてきた。彼にとって対等に語り合うべきは貴族であり、平民とはその貴族の領地でメエメエ鳴く迷える子羊であり、己が管理し導かねばならぬかわいそうな生き物なのだ。彼を尊敬してついてくるのが当然の者だから、彼に奉仕すること、彼の時間を与えることが平民たちには報酬になると信じて疑っていない。
少しの疑問を持たずにそう思えるほどに、彼は高位なのだ。そして与えられた教えを疑いもなく信じる素直な男だから、それを隠そうとも思わない。彼がここにいてくれることをありがたいとアントンは思う。
「君にとって僕たちがそうであるのとは反対に、僕たちは君を、対等の、同じ人だと思って接してる。だから君から泥水に濡れた犬を見るような目で見られれば僕たちは傷つくし、君に人扱いされないと悲しいんだ。君にはそうではなくても、僕たちには君は自分と、同じ種類の生き物に見えている」
「……君たちと?」
ハインリヒは目を見開いている。
「……僕が?」
「うん。同じ場所にいて、同じものを食べて、一緒に勉強しているから。君は同じセントノリスの、僕たちの同級生ハインリヒだから」
「……」
「今僕たちはまだお互いに戸惑ってるんだと思う。お互いが、初めて出会う文化だから。君には戸惑うことが多くて申し訳ないけれど、君がいてくれるおかげで僕たちは君から多くのことを学べる。平民の登用が年々増えているとはいえ上は、要職はまだまだ貴族ばかりだ。そこに入っていく僕たちにその異なる常識を教えてくれる君という存在は、とても貴重なものだって、ここの皆ならこれからきっと気付くよ」
サミュエルだって、あのあと少し、変な顔をしていた。
彼は針と毒を出せるものの、自分の意図するところ以外や以上にそれを出すのは好きではないのだ。多分。
「貴族と平民の間に高い壁があるという考え方は、それをあからさまにするかは置いておいてすべての貴族が持っている考えだ。僕たち平民はそれをどうしたら超えられえるか、超えないとしても壁の向こうにどうやって自分の声を響かせるかを考えて工夫しなきゃいけない。ここで君はこれから、きっと僕たちの素晴らしい先生になる。君は僕たちを導きながら、僕たちから羊の視点を学べばいい。僕たちがどんなとき悲しくて、嬉しいか。外に出れば平民の数の方がずっと多いんだから、ここでそれを学ぶことはきっと君の将来の役に立つと思う」
「……」
ハインリヒはじっと考え、じっとアントンのノートを見た。
そしてまた、アントンを見る。
「……僕は君たちを泥水に濡れた犬とは思っていない」
「あれはサミュエル式の誇張表現だよ。君の目はせいぜい哀れな子羊を見る程度の優しいものだ」
「……君たちのなかの能力の高い者に、驚かされることも、ある。……君たちがずいぶん楽しそうにしているから、何の話をしているのかな、と気になることも」
「……」
「だが気になって僕が行くと皆があの顔になるので、何故だろうと思っていたんだ。そうか、君たちは僕を、君たちと同じ生き物だと思って見ているのか」
じっとアントンはハインリヒの考える顔を見ている。
彼もまた今、自分の常識とは異なる出会ったことのない文化に出会い、その感触を戸惑いながら確かめている。
彼はとても素直だが愚かな男ではない。何かあればちゃんとおかしいなと感じるし、感じれば考える。必要とあらばこんなふうに、自分から下々の者に話を聞きに行ける。平民を自分とは違うものだと迷いなく思いながらも、侮蔑したり、嫌悪したりしていない。言葉にすればちゃんと聞いて考えてくれる。
「これまでのことの訳が分かった気がする。双方の認識に相違があるわけだね。大変わかりやすかった。君に聞いてよかったよ。御礼に今日の美術の授業のあと僕が昼食をご一緒してあげよう」
「喜んで。僕が何かマナー違反をしていたら、面倒だろうけど都度教えてほしい」
「そうか。では言おう。君は文字を書くときの姿勢がやや美しくないね」
「……ありがとう」
「あまり前かがみにならず背を伸ばし、腕をもう少し浮かせるべきだよ。君は子供の頃背中に鋼を入れて練習しなかったのかい?」
「これまでその発想がなかったからやらなかった。直らなかったらこれからやってみるよ。本当にありがとう」
彼は本当に新しい。文化の違いは実に刺激的で、学べることがきっとたくさんある。だからこうやって話ができるのは嬉しい。
わくわくしてうれしくてつい笑ってしまうアントンを、ハインリヒはじっと見ている。
「……ちなみに、肩を組むような友人とは、身分が違ってもなれるものなのかな?」
アントンはハインリヒを見上げた。
高貴な顔立ち。くるんくるんの巻き毛がとてもきれいだ。
彼を取り巻くきらきらが眩しくて、アントンは目を細めて微笑んだ。
「なろうとなんて思わなくても、気づいたら隣にいて、知らないうちに肩を組んでいると思う。だって僕たちはこれから6年も、同じ場所で同じものを食べて、同じ不思議に立ち向かいながら毎日を過ごすんだから」
「そんなものなのか」
「そんな気がするよ」
ふっとハインリヒが、珍しく少年らしい顔でほどけたように笑った。
「そうか。参考になったよ。僕はこれで失礼する」
「うん。じゃあまた」
「君はまだやるのかい」
「うん、まだ少し時間があるから。予習と復習は何回やってもいいんだ」
「そうか。勤勉は平民の美徳だそのまま続けたまえセレンソン。では失礼する」
ばたんと扉の向こうに彼は消えた。
きらんきらんの光も消える。
ペンを取り教科書を開き直す。少し経てばもうアントンの頭には、今日の問題のことでいっぱいになる。
いつもより背を伸ばし、腕を浮かせて、アントン=セレンソンは少し明るんできた部屋のなか、静かにペンを動かしている。




