【セントノリス中1−1】体育14組 画家志望ユリアン=ベックマン2
朝の広間
まだ朝日すら差し込んでいないそこに、すでに彼はいた。
燭台の揺れる光の中、静かにペンを動かすその横顔の放つピリリとした緊張感に、ユリアンは出かけていたあくびを引っ込めてじっと見つめる。
アントン=セレンソン。友人になったばかりの、投げたボールが絶対前に飛ばない摩訶不思議な子。
別に気配を消しているつもりはないが、集中しすぎて気づかれていないようだ。勉強の邪魔をするつもりはないしそこにいてくれればいいだけなので、ユリアンは声をかけなかった。
袖をまくり息を吐き、構図を考える。最初は黒一色で描くと決めている。ユリアンは画板を下げ、ランプを置き、炭を持った。線を消すためのパンは昨日残ったのを食堂でもらった。
さっきまで勢いよく動かしていたペンを止めそれを唇に当てて、アントンは何かをじっと考えている。ユリアンも同じくじっと考えた。全身で描こうか。顔のアップにしようか。
引きで描いたほうが彼の頼りないような弱々しいような雰囲気は出るだろう。強く奥深い目の光との対比で、それはきっと面白いものになるに違いない。
いや今はまだ瞳を描けない。それではただの弱々しいだけの風景画のようになる。今はとりあえず彼の形を正確に写し取る。机から上。彼の上半身まで寄ろう。となると位置はここではダメだと思い机をはさんだ正面に移動する。
光の位置もちょうどいい。彼の右側が光源。ペンで顔に落ちる影。明るさが顔半分を挟んで消えるグラデーションがすごくいい。肌が白くてきれいだから、頬にあたる光の線がとても滑らかだ。
ノートを見つめる伏した目に長いまつ毛がかかる。派手ではないが整っている分、生気のない陶器の人形のようでもある。
彼はいつも目を輝かせにこにこしているが今は一切の微笑みもない。目の前の大きな敵に抗うように、必死で頭を動かしてるのがわかる。
1号室というのは大変だろうなとユリアンは思う。ユリアンは今20号室だ。思ったより上の順位で入れたなと思っているが、同じセントノリスでも上に行けば行くほど世界が違うのもわかる。知の瞬発力というか、一つの情報から吸い込む知識の量が彼らは違う。
成績で負けていることをユリアンは特に恥ずかしいとは思わない。ここはセントノリス。学業だけで戦う場所ではない。己の得意を極め、伸ばす場所。伸ばしていいし、いくらでも自由に伸ばせる環境がある場所。
彼はここで勉学に生きると決めたのだ。そうじゃなきゃ少しの間だって1号室になんていられるわけもない。ユリアンは部屋番号は気にしない。彼とは戦う場所が違う。だからユリアンは張り合わない。彼には彼の、ユリアンにはユリアンの戦うべき場所がある。だからこそ心から彼を尊敬できる。
手を動かした。白い紙に少しずつ、目の前の男の姿が浮かび上がる。
目だけが残った。ユリアンは眉を寄せる。最も特徴的で、最も難しい場所。
必死で見つめる。あの光はどうしたら描けるのだろうと必死にその色をなぞる。
彼の目をとてもきれいだと思った。きらきらと奥から輝く不思議なもの。ユリアンが描きたいと思った、奥深く広い世界。美しい国にあるはずのそれが、目の前のやせた小さな子の中にあるのが不思議だった。
見つめ、手を動かし、消し、歯噛みした。ふと気づけば彼はユリアンを見ていた。暗かったはずの広間には朝日が満ち、黒い髪と透明な目がそれを跳ね返している。
「おはようユリアン」
「……おはよう、アントン」
朝日が彼を取り巻いている。飴玉みたいな目が柔らかく微笑み、黒髪がキラキラと光る。
ああ、これだとユリアンは思った。
一見目立たない大人しそうな彼のなかに、ユリアンが見つけた光。さっきまでの、鬼気迫る様子で勉強しているときにもそれはあった。でも今、より明るく、眩しくそれは輝いている。
「……そのままもう少し僕を見ていてくれるかい」
「うん。今日の分は終わったからいいよ。気が付かなくてごめんね」
「……」
返事もせずに集中した。紙のなかの先程描いた暗闇をパンで削り、俯いていた顔を上げさせる。
きれいなきれいな、眩しいものを見る瞳。自分に向けられるそれを描きながら、ユリアンはぽたと紙に落ちた水に、自分が泣いていることに気付く。
絵なんてと笑われた。人に交わらずいつも一人で変なことをしている変わり者だと変な顔をされた。
折られ、破られ、描く度に怒られた。
傷ついてなどいないと思っていた。誰に何をされたところで、自分のなかの美しいものは誰にも消せも汚せもしないと思っていた。へっちゃらだ、何も痛くないと。
「……」
じっと飽きずにユリアンに向けられる、何かとてもきれいなものを見る目。
ああ、僕は痛かったんだなと思った。
へっちゃらなんかじゃなかった。
ずっと、誰かに褒めてほしかった。
すごいね、きれいだねと。こんなふうに。派手な言葉なんていらないから、それでも心から。
泣いている理由は言わない。泣きながらも筆は止めない。それについて彼も、何も言わない。
「……君の好きな食べ物は? アントン」
「野菜と、お魚。ユリアンは?」
「母のベリーパイ。春の楽しみだ。絶品だよ」
「いいなあ」
「好きな遊びは?」
「読書と、想像」
「僕はお絵描き」
「そのままだ」
「そのままだね」
彼が笑う。ユリアンもだ。
「好きな科目は?」
「全部。最近は社会が好きだよ」
「僕は美術。歴史も好きだな戦争以外。数学が少し苦手」
「感性と論理は比例しないのかな」
「名前のないものを許さない、なんでも定義する四角いところが嫌いなんだ」
「そこが楽しいんだよ。今度ハリーと語り合ってほしいな」
「彼と話すのは緊張しそうだから、遠慮する」
「ところが相手にそうさせないのがハリー=ジョイスだよ」
「遠慮する」
「わかった。気が向いたら言って」
「うん。気が向いたらね」
目を輝かせて頬を染め、にこにこ笑う彼の顔を紙に写す。ざっと描いているから荒っぽいけど、最初よりもずっといい。
「アントン」
「なんだい」
「今楽しい?」
「うん」
「そう。奇遇だね僕もだ」
「よかった」
静かに、静かに紙を擦る音が響く。
そしてその音は止まった。
顔を上げたユリアンを、アントンが見返す。
「……完成かい?」
「最初の失敗作がね。君って難しいな」
「特徴がなくて恐縮だよ。……見てもいい?」
抑えきれない興奮を浮かべて彼がもじもじしている。
あんまり期待されても困るなあと思いながら、ユリアンは立ち上がり、彼の隣に腰掛けた。
「どうぞ」
「……」
紙の上で黒髪の少年が、目を輝かせてこちらを見上げ、微笑んでいる。
もう少し頬は柔らかそうに、目尻を優しげに描きたかったなとユリアンは歯噛みする。
「……」
アントンがそれをじっと見ている。
「……」
「……なにか言って」
「……」
「なんで泣くの」
「……」
「……」
ポケットから取り出したハンカチで目を押さえながら、アントンは食い入るように絵を見ている。
ざっと描いただけのスケッチにそんなふうにされて、なんだかユリアンは恥ずかしい。
「……本当に、僕にこんなものがあるの?」
問われて思わず笑ってしまった。彼はいつもこんな顔をしているのに、彼だけがこの顔を知らないのだ。
だってこれは彼が、人を見るときの顔だから。
「うん。でも残念ながらこの君は鏡には写らないんだアントン」
「……」
ユリアンを見上げる不思議そうな顔を見返す。情けない顔で、鼻が赤い。
いろんな顔をする彼が面白くて、ふっとユリアンは笑った。
「在学中、きっと僕は何度も君を描くと思う。許してね」
「……ブラットフォード=エイジャーと、チャーリー=アビー……」
「うん。さっき思ったんだけど、みんなにもモデルを頼んでみようと思う」
人なんてつまらない。くだらなくて面倒なだけだと思っていた。自分の世界だけが自分をわかってくれるし、そこだけが最高で楽しいと。
でもそのつまらなさのなかに、くだらなさのなかに、もしかしたらユリアンの知らないものがあるんじゃないだろうか。ふとそんなことを思った。まあ試しにやってみて、やっぱりつまらなくてくだらなかったら、また自分の世界に戻ればいいだけだ。ユリアンにはユリアンだけの聖域がある。
せっかく入ったセントノリス。自分にない強さを持った人たちが、きっとたくさんいる場所。
こんな美しいものを見る目で、ユリアンもそれを見つけてみたい。今まで知らなかった様々なものを紙の上に描いてみたい。
「まあ、最初は優しそうな子からにしよう。僕うるさいやつが大の苦手なんだ」
「新しく刺繍部を作ったステファンが、部室に一人ぼっちで寂しいって言っていたよ」
「男子で刺繍を?」
「うん。彼は器用で繊細なんだ」
「そう。そして勇気のある変わり者だね。なんだか好きになれそうな気がする」
「きっとそうだと思うよ」
笑い合ったところでお腹が鳴った。そろそろ朝食の時間だ。
「それ、あげるよアントン」
「いいの?」
「うん。記念なる最初の失敗作」
「天才画家ユリアン=ベックマンの失敗作を持っているのなんて世界中に僕くらいだ。そして君にとってはそうでも、僕にとってはそうじゃない。……大切にするね」
「破いてもいいよ」
「だめだよ。ここの僕が可哀想じゃないか」
「確かにね」
もう一度彼はじっと絵を見つめた。
白い指が、線がないところをそっとなぞる。
そして彼は紙を胸に抱き、嬉しそうに頬を染めた。
「ありがとう、ユリアン」
「……どういたしまして」
廊下がざわめいている。みんな起き出して、食堂に向かっているんだろう。
「今思い出したけど、僕は数学の宿題を忘れてた」
「なんてことだ1時間目じゃないか」
「急いで食べて、まあ間に合わなかったら怒られるよ」
「僕なんて描いてる場合じゃなかったね」
「それはそれだ。描いてなくたって忘れたよ多分」
立ち上がり、それぞれ画材とノートを持ち上げる。
「じゃあ、また体育で」
「うん。次こそは進化した僕を見せてあげよう」
「……楽しみだな」
笑って手を振り、別れた。
ステファン君ってどんな顔だったっけとユリアンは考える。
ぼんやりと考えていたせいで、前から来た誰かにぶつかった。
「失礼!」
「こちらこそ」
バラバラと落ちてしまった炭を拾う。手はもともと黒かった。洗えば落ちる。
すっとハンカチが差し出された。控えめだけど細かいきれいな花の刺繍だ。顔を上げる。
長めの薄い金色の髪を後ろで結んだ、目尻に小さなほくろのある静かそうな子だった。
「……刺繍部のステファンくん?」
「……どうして知ってるんだい?」
互いに不思議そうに、瞬きをして見つめ合った。
セントノリスはいつだって、不思議な奇跡に満ちている。




