【セントノリス0-0】アントン=セレンソン
5皿目 神童アントン = セレンソン 直前のお話です。
アントン=セレンソンは考える。
考えたくないのに、ハリー=ジョイスのことを考える。
アントン=セレンソンはここトイスの町に、役人の一人息子として育った。
もともと社交的ではなかったが、初級学校に入って自分の人との関わり方の下手さをさらに強く実感した。
背が低い。足が遅い。女子みたいな顔で、白くてひょろひょろ。それだけで男子としては軽く扱われる。
集団の中で何かを発言すると、一瞬場がしんと静まり返る。あいつは何を言ってるんだ? さあ? という視線が交わされる。
だからアントンはだんだん俯いて、隅っこで本を読むようになった。
邪魔しない。邪魔しない。
アントンは隅っこで、輝く同級生たちの顔をそっと覗き見るのが好きだ。
足が速い子。皆を一声で笑わせるムードメーカー。歌がうまい子、話を優しく聞く子、ぶっきらぼうだけど本当は繊細な子。逆に大人しいのに強い芯のある子。もちろんこわい子、乱暴な子もいる。皆にアントンにはない個性と、それぞれに憧れるようないいところがあった。外から眺めるように、アントンはずっと、じっとそれを見ていた。
『ともだちのいいところさがし』の課題でアントンはたくさん、たくさん彼らのいいところを書いた。ドキドキしながら見たアントン=セレンソンの欄には『頭がいい』『勉強ができる』という文字が並んだ。優しいとか、面白いとか、かっこいいとか、そんな文字はアントンの欄には書かれない。
アントン=セレンソンは頭がいい。
アントン=セレンソンは勉強ができる。
それがなくなったらアントン=セレンソンの欄はきっと何も書かれなくなるのだろうと、その文字をそっと撫でながらアントンは思った。
セントノリスという学校があることは父に聞いた。
家に友達も連れてこず、外にも遊びに行かず、追い詰められたように必死で遅くまで勉強している息子に、父は何か目標を、夢を与えたかったのかもしれない。
学校案内を読み、その歴史を調べたアントンはたちまちセントノリスの虜になった。
歴史あるその学校はかつて大昔の王が開いた全寮制の貴族学校だった。
『平民に文字を』。教育改革の走りだったアルジャノン=アディントンの熱心な進言により、彼を支えた多くの人々により、また当時のセントノリスの校長だったドナート=バザロフの尽力によりセントノリスの門が一般に向けて平等に開かれたのがわずか90年前。当初は貴族たちから猛反発があり、寄付金が減らされ、入学志望者が減る大変なことになったという。
王と、一部の卒業生と、学校関係者の尽力、何より夢に溢れ負けん気と根性のある優秀な平民の生徒たちがそれを立て直し、その歴史ある校舎は堂々とそこに立ち、門を開き続けている。
全ては学びたいすべての者のため、その門は平等に開かれている。
涙が溢れた。
絶対にここに行こう。
ここにはもしかしたら一緒に本を読んで、アントンの言ったことに変な顔をせずに聞いてくれる友達がいるかもしれない。
繰り返し繰り返しその案内を読みながら、アントン=セレンソンは夢に向かって勉強した。
あと数月でその人生をかけた試験を迎えるというそのとき、その男は現れた。
ハリー=ジョイス
太陽のように眩しい、突然アントンの前に現れた転校生。
身なりは粗末だ。だがこの町の子は皆同じような格好だ。逆にアントンの、つぎはぎ一つない服の方が浮いている。
背が高くて、どこか皆よりも大人っぽい。誰も知らない町の外を知っている。ガキ大将になったっておかしくないのに誰にも意地悪をせず、弱いものいじめをしてるやつがいたらそいつの名誉を傷つけることなく止め、丸く収めて場を和らげる。
抑えるように皆に合わせているが、頭の回転が凄まじく早いのが分かる。一言一言に説得力がある。誰にどのような言葉で伝えれば伝わるか彼は知っていて、その場その場で必要な言葉をなんでもないようにぽんと出す。
いつも彼は笑っている。軽やかに動く。力強く、いつも眩しく。
どうしてか彼が転入してきてからは彼のことばかり見てしまうので、アントンは気を逸らそうとその日は学校に好きな本を持って行った。
セントノリス出身の作家の自伝だ。
『13歳のときの星降る夜、私はもう二度と出会えないだろう一生の友情に出会った』
そんな一文から始まるケヴィン=マイヤーのその小説のなかに、以前アントンにはどうしても理解できない箇所があった。
主人公ケヴィンが一生の友カスパールと喧嘩し、仲直りするシーン。
文学少年であったカスパールが木の幹に身を隠したケヴィンに語りかける。
『君の姿が見えなくて、声が聞こえないと、僕の心にはもう小夜啼鳥の声しか響かない』
そこから延々詩のような美しい台詞が続くのだが、最初のここだけがわからない。
小夜啼鳥はきれいな声の鳥だ。夕方に大きな響く声で歌うように鳴く。夕暮れの歌姫とも言われるこの鳥の名を、何故友情を失ったことを嘆くカスパールが口にするのか。
気になった。辞書を調べ、訳された別の国の本を調べてわかった。ある国で小夜啼鳥は別名墓場鳥とも呼ばれる、安らかな死の象徴の鳥だったのだと。戦争によってその国を追われたというカスパールの悲劇性、友人の国の文化をよく知るケヴィンの知性が、互いを信じ理解し合う二人のつながりの深さが、そこでその鳥の名前だけで表されていたのだ。
そんなことも知らなかったなという恥と、自分で調べて理解したという誇りがあった。
誰かに聞かれたら言おうと思った。小夜啼鳥はカスパールの国で墓場鳥とも呼ばれてるんだよと。ケヴィンとの友情を失った悲しみを、心が死ぬほどに辛いということを、ケヴィンが鳥の名前でわかってくれると信じているからカスパールはこんなに美しく表現したんだよと。
だからアントンはこの本が好きだ。覗き込んだ誰かが、『なんで小夜啼鳥なんだろう。アントンはわかる?』っていつか聞いてくれるような気がするから。
『小夜啼鳥か』
後ろから覗き込んだ誰かが言った。
『これ以上が考えられない。13歳でこの場面でこれを言ってたら、本当にすごいな』
全て理解している目で、かっこよく笑って彼は言った。
アントンはじっとハリー=ジョイスを見た。
ああ今大好きな本が急に大嫌いになった、とアントンは思った。
その日もアントンは遅くまで勉強していた。
教科書は読んでいる。ペンは動いている。それなのに全然頭に入らない。
今日算数の授業で、じっと教科書を読んでいたハリー=ジョイスが後ろのほうのページを見ていた。
授業ではそこまでやらない、応用問題のところだ。そのペンが止まっていることにアントンはホッとした。
アントンだって、一月、基礎とその先を何度も問いて理解したところだ。さすがの彼でも難しいのだろうと思っていたところで彼のペンが動き出した。
呆然とアントンはそれを見ていた。
猛然と動いたペンがやがてクルリと回って止まる。
アントンから彼の回答は見えない。
だけどわかっていた。
きっと彼はそこに正解を書いている。アントンが一月かけて見出した美しいものをそこに。
『どうしたアントン=セレンソン』
先生に声をかけられ、アントンは自分が泣いていることに気づく。
『……早退させてください』
アントンはハンカチで顔を覆った。
『……気分が悪くて。とても』
一人で帰れるかと心配されながらアントンは歩いて家に帰った。
アントン=セレンソンは気づいている。
あのとき本についてハリー=ジョイスと語り合ったなら、きっと今まで誰とも交わせなかった楽しい会話ができたことに。
アントン=セレンソンは気づいている。
ハリー=ジョイスがときどきアントンに話しかけたそうにしていることに。聞きたいことがあるだろうことに。それがセントノリスに関することであることを、先生から言われたから知っている。
アントンの頭に、セントノリスの深緑色の制服を纏ったハリー=ジョイスの姿が浮かぶ。
ハリー=ジョイスならば今からやってもあの学校に受かるだろうことにアントン=セレンソンは気づいている。彼は天才だから。アントンと違って。
アントン=セレンソンは気づいている。
彼を妬むことなく向き合わず、ともに同じ方向を向けたなら、きっとそこには信じられないほど楽しい世界が見えることに。
でもできない。彼が眩しすぎて。
アントンにないものが、彼にありすぎて。アントンは彼をじっと見ずにはいられない。
ペンの先が紙に食い込みインクが広がった。
その上に透明な水が落ちた。
「……うっ……」
ひたひたとそれは広がる。
「うぅ……」
『勉強ができる』『頭がいい』、アントン=セレンソン
『かっこいい』『優しい』『明るい』『運動ができる』、もっといくらでも他に書いてもらえるだろうハリー=ジョイスが、唯一アントンに書かれたその言葉を持っていく日はきっとそう遠くない。
アントンの欄にはきっと近いうち、何も書かれなくなるのだろう。
そうなってしまったらどうしていいのか、アントンにはわからない。
アントンの唯一の夢さえも、きっと彼のものになる。だってハリー=ジョイスは紛うことなき天才だからだ。
消えてしまいたいと思う。彼に何の悪気もないことを知っているのに、こんなにも黒い気持ちで彼を憎む自分が浅ましい。
『勉強ができる』『頭がいい』せめて、それ以外に。
それ以外に一つでもそこに他の言葉があれば、アントンはそれに縋れたかもしれない。
でもアントンは他に何もない。
アントンには、それだけなのだ。
背中の後ろでぼんと音がした。
なんだろうと、アントンは涙を拭いて燭台を掲げる。
悪い心を持つ人間のもとに現れる、黒い魔物かもしれない。アントンはそういう心を今持っているから。
どうにでもなれ、と思っていた。
「誰ですか」
アントンは暗闇に問いかけた。
「おでん屋だよ」