短編小説
メロディ・ライン 坂井 悠二
僕がその高校に入ったのに特に理由はなかった。
ただ家に近く、成績も悪い方ではなかったし選り好みしなければ入れた、というだけだ。
勿論最初の内こそ慣れなかったがそこは人間、いつの間にか日常に組み込んでしまう。
だから僕が放課後にふらふらと校舎を歩いていたのも、特に理由が在っての事じゃなかった。
でもそこで僕には聞こえてしまった。忘れる事の無い、美しいバイオリンの旋律が。
僕の父は物心つく前には亡くなっていた。顔もろくに覚えていない人の死を悲しむほど情愛深い人間でも僕はなかったし、とか言って全く気にしない程無神経でもない。辛い思いだって高校生になるまでに一杯してきた。それでも母と二人でなんとか暮らして来れたし、これからもそうするつもりだ。この年代の友達なんて大体考えているのは色恋沙汰に学校の退屈さと遊びに行く事くらいのものだろう。そうじゃない人も勿論居るのだろうけど、少なくとも僕の周りはそう見えた。彼らが羨ましく映る事も、ちょっと、あったけど。
その日僕はバイトも無く、ホームルームが終わった後にゆっくりと帰宅の準備をしていた。
季節は初夏。白いワイシャツが青い空に光り、緑が青々と茂り始めていた。グラウンドからは運動部の威勢の良い声が聞こえ、隣の校舎からは吹奏楽の音が鳴り響く。
鞄に教科書を詰め終わり、忘れ物が無いか確認する。帰ろうとした時に声をかけられた。
「なあ、このプリント数学の斎藤先生に出しておいてくれないか」
見るとクラスの友人だった。どうやら部活の用事で急ぎらしい。サッカーのユニフォーム姿で頼んでくる彼に対し断る理由も無いし、僕には用事もなかったので承諾しておく。
「分かった。提出しておくよ」
彼は「サンキュ」とだけ言い足早に駆けて行った。高校に入ってもう二〜三か月経つけど頼まれ事はけっこう頻繁だ。皆何故か僕に頼んでくるし、僕もそれを引き受ける。委員会の役員を決める時だってそうだった。バイトをするつもりっだったからあまり忙しい委員は止めておこうと思ったのに、会議が終わってみたら図書委員と保健委員のダブルパンチだ。見た目だって中の下くらい(染めても無いショートの黒髪、背だって高い方じゃないし地味という言葉が合うと自分で思う)学級委員なんて花形委員は似合わない。案の定これから学校生活で目立ちたいであろうとの思惑である奴がやっていたように思う。
そんな日々をうざったいと思う程ではなかったけど、少々窮屈に感じていたのも事実だった。
だから最初に言ったけど、プリントを数学の斎藤先生に提出した後なんだか校舎をふらつきたくなったのも、ちょっとでも自由に動いてみたいと思ってそれ以外特に理由なんて無かったんだ。
「・・・ん?」
職員棟の一階まで来て、綺麗な音色が耳に入ってくる。なんだろう、誰か演奏しているのだろうか。そう思い音のする方へ歩いて行く。音楽室から音は聞こえていた。音楽の授業で何回か行った事があったがそれ以外で行ったことなんてない場所だ。
ドアを開けてみる。いつも授業をやっている部屋だが誰も居ない。部屋の右奥にまた扉が在って半開きだった。練習室があるらしい。扉の傍に寄って近寄って覗いてみた。
「あ・・・・」
先輩らしき女生徒がバイオリン(多分そうだと思う)を肩に乗せて弾いていた。激しく凛々しく、それでいて優雅に。演奏に夢中になっているらしく横から覗いている僕には気づいてないらしい。彼女が音を奏でる度に背中まである黒い髪が揺れる。目はまっすぐに弦を見ていて手は素早く弓を動かしていた。ちょっとだけ見惚れていたのは認めよう。それくらいの神々しさはあったかもしれないのだから。
しかしその後がまずかった。見ているあまり曲が終わる事なんて考えもしなかったのだ。
ゆっくりと彼女が動かす手を止めた後に、僕は我に帰った。
「見物料1000円」
いきなりそれだ。はっきりとした声で剃刀のように鋭く。
「はい?」
「今見てたでしょ。私の演奏で1000円。大特価でしょ」
「いやあの・・・ちょっと音が聞こえて見にきただけなんですけど」
こっちにずんずん歩いてきたまっ白いワイシャツを卒なく着こなした彼女はじっとこちらを見る。そこではっきりと僕はこの人の顔を見た。黒く長い艶々な髪に澄んだ目と長いまつげ、薄化粧な白い肌。背はけっこう高いし大人びてみえる。だが見た目と中身は得てして違うものだったりする。
「君、名前は?」
「一年生の美鞍です。美鞍和義」
「ミクラ君か。私は二年の安達凛子。凛子で良いわよ」
・・・何が良いんだろう。とりあえず頭を下げて音楽室を出ようとした。
「待ちなさい。お金無いならアナタ、弦楽部に入部しない?」
「ええ!?いや楽譜も読めないんですけど・・・」
「そんなもの直ぐ読めるようになる。強制入部。でなければ1000円」
今思えばそこで1000円払っても良かったかもしれない。ただ、なんだかこの先輩におずおずと1000円渡すくらいなら入部してやるという考えが勝ってしまった。なんというスピード入部。昔から女性に逆らうなというセーフティが掛っているのかもしれない。
少し間を置いて、溜息をついた。
「・・・わかりましたよ。入部します。ただし、何にも出来ませんよ」
「問題無し。これから技術をみっちり叩きこんであげる」
「・・・お手柔らかにお願いします」
先輩が持ってきたバイオリン(なぜか二つ持っているらしい)でそれからみっちりと凛子先輩の指導が始まった。基本姿勢は顎と肩でバイオリンを支えて左手での維持は最小限にすること、右手で弓を操作することをボウイングと言ってこれが音色を左右すること、運指の仕方すなわち弦の押さえ方・・・なぜここまで成り行きとはいえ練習しているのか自分でもよく分からなかった。バイトも委員会もあるのに続いた音楽室でのレッスンは日常とはどこか違ったように思えた。勿論そんなすぐ弾けるようにはならないし、疲れて集中も出来ない日がある。そんな時はなんともなく話を振ってみたりした。
「この部には先輩しか居ないんですか」
「そう。みんな三年生が卒業しちゃった。残ったのは私だけ」
「何で潰れないんでしょう」
「さあ?私が真面目に練習してるからじゃない?」
「・・・・・。というか何で先輩は残ったんですか」
「タダで練習できる部屋があるからに決まってるじゃん」
「そうですか。あ、演奏会みたいのってありませんよね?」
「せっかく練習してるんだから発表しなきゃ勿体無いじゃない。と言っても初秋の文化祭のまではお預けね」
なんてこった。いくらちょくちょく練習してるとは言え楽譜のおたまじゃくしが音符として見えてきたのも最近だというのに。同級生の前で恥かけというのか。無駄だと思ったが反論してみた。
「いやまだそんな技量ないんですけど・・・」
「夏休み返上。どうせ一年生の夏休みなんて暇でしょ」
・・・やれやれと言いそうになったが、口の中で我慢する。どうやら演奏会出演は当然、のようだ。ふと時計を見る。五時。まだ明るいな。
もう一回左手の置き方を確認して、ぎこちなく弓を動かしていった。
練習が終わった後、たまに先輩と帰る事が有った。同級生の中では俺が部員一人の零細弦楽部に入ったのを知ってる奴も居て、けっこう冷やかされたり羨ましがられたり演奏してくれとせがまれたりするのだが、冷やかされる事なんて大抵凛子先輩との事だった。でも別に何でもない事を話して、互いに家路に着くだけだったし、凛子先輩はどんな家庭でどんな人間でどんな理由があってバイオリンを弾いてるのかなんて全く聞かなかった。多分聞いても教えてくれないだろうし、隠したい事なんて人なんだからあるに決まってる。だから無理に突っ込む必要なんてないし、いつか話してくれるかも、と勝手に考えたりした。
母親は弦楽部に入った僕を芳しく思ってくれていたのだろうか、「今まで色々な所で苦労ばかりさせてきたし」とか「打ち込む事が見つかって良かった」とか「今度その先輩お母さんに紹介しなさい」とかいつも話していた。そんな事を言う母の顔は決まって心から嬉しそうだったので、僕自身も安心させられて良かった、ちょっとだけ凛子先輩に感謝しないとなと思ったのだけど今はまだそう言うべきじゃない気がした。
真夏になっても先輩との練習は続いた。バイトに行く日以外は殆どやっていた気がする。その甲斐あって練習曲程度ならゆっくりと弾けるようになってから、夏休み直前の放課後に凛子先輩はいきなり言いだした。
「ミクラ君。あなた『耳をすませば』って見たことある?」
「ええ、まあ。・・・・バイオリン弾きが居ましたね。いやバイオリン職人かな」
「そうね。私あの映画大好きなのよ。主人公のヒロインのように物語は書けないけれど」
「意外にも乙女的な要素あるんですね」
「意外は余計。あの映画の中で使われてた曲を演奏してみたらどう?」
「下手にクラシックやらなんやらより良いかもしれませんね。知ってる曲の方が良いですし」
「じゃあそれにしましょう」
若干抵抗が無かったと言えば嘘になる。しかしあの映画は僕もどちらかと言えば好きだった。・・・あのバイオリン職人の中学生より熱意があるかは分からないが。
夏休みはバイトと練習の繰り返しで順調に過ぎていき、あっという間にまた学校が始まった。文化祭は2週間後。練習にも身が入ってくる。夏休みが始まってからなのだが、凛子先輩は時々遠くを見ている事が多いように見えた。どうしたんだろう、いつもなら五月蠅い程にああしなさいこうしなさい言い訳してる暇あったら練習しろみたいな感じであったのだけど。
「先輩は演奏しないんですか」
練習前の放課後に突然に聞いてみた。ずっと疑問だったが聞くに聞けなかった事だ。
「私は、出来ない」
先輩は寂そうな目になって床を見つめる。全く訳がわからない。
「どうして?」
「・・・とにかく、出来ないの。御免なさい」
正直この先輩から謝られたなんて無かった事なので、それ以上追及するなんて出来なかった。場の空気が重くなる。ただ聞いてみただけですから気にしないでください、とだけ言って練習を始めた。外ではまだまだ、蝉が五月蠅く鳴いていた。
残暑が続く文化祭当日。僕は凛子先輩の姿が見当たらない事に気づいた。
昨日までは居たのに。何故だ、あれだけやらせようとしていたのに見に来ないなんて酷いじゃないか。携帯に連絡してみたが電源が切られていた。
時間が迫ってくる。僕はたった一曲の演奏曲を頭の中に刻みつけていた。
体育館での即席で出来たステージ。音を増幅させるマイクも置いてある。
「じゃあ、美鞍君。君の出番だよ」
そう実行委員に言われステージに歩み出る。満員とは言えないがそこそこに客は居る。
どこかで見ている事を祈るように僕は演奏を始めた。
少しざわついていた観客はすぐに静かになった。僕の音しか聞こえない。持ち曲が一曲しかないのでゆっくり弾く事にした。弾いている内にあの映画を思い出す。ああ、あの中学生は最後にどうしただろう?確か思いの丈を物語書きの少女にぶつけたのではなかったか。
まっすぐだ、まっすぐ過ぎだ。でも僕もまっすぐに練習してきたのではないか。
ミスをしないように時々演奏にも意識を配りながら、緊張も心の端で感じながら、ここ半年の事も思い出す。先輩の演奏・・・そう言えば見たのは後にも先にも一回きりか、いやこれから会えなくなるみたいな言い方じゃないか、どこかで見てくれてるさ。練習きつかったけど、最初はおたまじゃくしの集まりにしか見えなかった楽譜も、人並みにも読めるようになったかな。先輩はどうしてこの舞台で弾けないんだ、本来僕なんかより先輩が弾くべきなんだなんて考えていたら押さえる弦を間違えそうになった。
最後の一小節が終わる。僕は目を閉じる。ゆっくりと音色が・・・・・消えた。
スタンディングオべーションとはいかないけど十分過ぎるくらいの拍手。とても気持ち良かった。凛子先輩の姿を目で探した。でも、どこにも見当たらなかった。
外の風に当たりたくて体育館を出るとそう言えば先輩にバイオリン返さなきゃ、と思う。ずっと借りっぱなしだった。でもどこにいるんだ?というか見に来てくれたのか?
校舎を探して回ってみよう、と思った矢先に聞き覚えのある声が聞こえた
「素晴らしい演奏だったね、ミクラ君」
後ろから唐突に声を掛けられて、すぐに振り向く。私服姿の凛子先輩が立っていた。なんで私服なんだろう、文化祭であろうとなんだろうと生徒は制服着用なのだが。
「どこ行ってたんですか!演奏終わっちゃいましたよ」
「大丈夫、見てたよ、ちゃんと」
「?だって先輩居なかったじゃないですか」
「一番近いところでね。でももう見れないかな」
・・・・嫌な予感がした。こういう予感に鋭くても良い事なんてない。
「・・・・どこか行っちゃうんですか」
「うん、ここよりずっと、遠いところへ」
「ずるいですよ。勝手に入部させといて。あ、バイオリン返します。ちょっと待っ」「ああ、良いよあれは。君にあげる」
さらりと言った先輩の目は少しだけ悲しそうに見えた。演奏は映画のように上手くいっても、ストーリーは映画のようにはならないか、やっぱり。それでもいきなり居なくなるなんて、しかもバイオリンをまるで形見のようにあげるなんて、納得いかない。
「いつもの事ですけど説明してくれないんですね。・・・まあ聞く聞けないなんて割り切ってた僕も悪いんですけど」
「本当にごめんね。ただ、これだけは言える。何処に行ってもバイオリンは続けたい」
「・・・だったら文化祭でやれば良かったじゃないですか」
「・・・・・。私の代わりに君がやってくれたじゃない。それだけで十分」
そう言って頑張って笑う先輩見ていると何も言う気がなくなってくる。ただただ、重い空気が圧し掛かってくる。ふと思いついたように先輩は言った。
「ミクラ君、自転車通学だったよね。私乗せてってよ」
「・・・どこまでですか」
「駅まで。ダメかな?」
「ちょっと待っててください」
そう言って僕は自転車を取りに行った。なるべく早足で。早く戻らないと、先輩が居なくなる気がしてしょうがなかったからだ。きっと今の僕は子犬のような目をしてたかもしれない。捨てられた、ってやつ。それともセンチメンタルになり過ぎているのだろうか。
戻ってみるとまだ先輩は居た。一息ついて、僕らはゆっくりと正門まで、歩きだした。
「懐かしいねえ、あの映画のシーンみたい」
「重くてペダルが漕ぎづらいんですが」
「殴るわよ」
「痛っ、ホントに殴んないでくださいよ。しかもグーで」
「そういう事言うからモテないのね。冷静を装ってるくせに」
「別に装ってなんかいません。そうならざるを得ない環境だったんです」
「ふーん、複雑な環境なのね」
「凛子先輩こそどうなんですか」
「私?私はもっとシンプルに生きているからね」
「よく分からないですけど」
「そうね、ただ一つ目的が有れば後はどうでも良いのよ」
「けっこうドライなんですね・・・..知ってましたけど」
「そんな性格ならあんな映画見ない。見てもつまらないとしか言えないと思う」
「・・・・・・・。」
「それよりほら、夕焼けが綺麗ね」
「あ、ホントだ」
「君にバイオリンを教えれて楽しかったよ、・・・あり」「こっちの台詞です」
その次の台詞は僕が言いたかった。だから先輩が言う前に、言った。
「ありがとう、ございました」
夕焼けに染まる駅が見えて、先輩が、少しだけ震えた。
僕が振り返って、先輩は自転車をゆっくりと降りる。
「また弾いてね。私のあげたバイオリン、弾いてあげてね」
僕が頷いて手を振る。先輩も笑顔で手を振って、駅前の人混みに紛れて行った。