第2話 隣国の王太子
その広場に灰姫が足を踏み入れるのは稀であった。
後宮の真ん中、位の高い妃嬪達が暮らす場所。
行事などもここで執り行われるが、当然ながら灰姫は参席したことなどない。
大昔、母の葬儀の時に父に呼ばれた帰りに雪の中をひとりでトボトボと歩いた記憶が甦る。
李燈に握ってもらっている手が震えた。
「……灰姫様、今ならまだ……」
李燈が振り返らずにそう言った。
「いいえ、行くわ」
固い声で灰姫は言い切った。
「項成様が殺されるなんて、そんなのダメよ」
「わかりました。もう言いません」
李燈はうなずいた。
「……伝聞ですが、皇帝陛下はもう亡くなられたようです。伝聞ですが」
「…………」
驚くほど感情がわき上がってこなかった。
悲しみはもちろん、怒りや憎しみ、喜びすらも、何もなかった。
父の死を心底どうでも良いと思っている自分に灰姫は少し身震いした。
自分が少し嫌になった。
人の塊が見えてきた。
武装した兵、見慣れない鎧。大済国の者どもだろう。
彼らが囲む真ん中には縛られた男女がいる。
灰姫のきょうだい達だった。
「……お兄様」
その中には王太子の姿もあった。
薄汚れてうつむいている。
「なんだ、お前ら」
兵の一人が灰姫と李燈に気付いた。見慣れない身内以外の『男』という存在に灰姫の体は震えた。
「宦官と……姫か? 妃か?」
灰姫の装いに兵は戸惑う。普段の地味な装いであれば宮女は引っ込んでいろと追い払われていただろうと灰姫は思った。
「妃なら各々の宮殿で待機していろ、今は用はない。姫は……これで全部ではなかったのか?」
いまいましげに兵はきょうだいのひとりに声をかける。
それはたまたま近くにいた三番目の姉だった。
「か、灰姫……?」
姉は灰姫の白髪頭に目を留めると、震える声でそう言った。自分を覚えているきょうだいもいるのかと、灰姫は少し驚いた。
「そ、それは七番目の姉妹の灰姫であります。……ふ、普段はあまり表に出ないので……その、忘れておりました」
「姫か、なら、こちらに来い。宦官は剣を捨ててあちらに行っていろ」
李燈がこちらを向く。灰姫はうなずいた。李燈は剣を投げ捨てた。
灰姫は兵に近付きながら項成を探す。
五つの弟は泣きもせずに縛られていた。
状況がよくわかっていないようで、キョロキョロしていたが、灰姫の姿を見つけてにこりと笑った。
灰姫も弟を安心させるために微笑み返した。
――よかった、まだ殺されていなかった。
そう思いながら、灰姫はおとなしく縛られるために両手を後ろに回す。
兵がキツく縄を手首にかける。
痛みに少し顔をしかめると、その表情を項成が見ていた。
「……灰姫様!?」
項成が叫んだ。
「だ、大丈夫! 大丈夫だから……!」
「うわあん! 灰姫様が! 灰姫様がー!」
自分が縛られていることより、姉が縛られ痛みを与えられていることが怖かったのだろう。項成が大声で泣き出した。
兵が冷たく舌打ちをする。灰姫の体が震える。
「……おい、そいつを黙らせろ! うるさいぞ!」
年配の兵が声をかける。
「……おい! 静かにしろ!」
若い兵が項成を怒鳴りつける。王子である項成はそのように怒鳴られるのは慣れていない。より泣き声が激しさを増す。
灰姫はまだ縛られている途中で、身動きができない。
「項成様……!」
灰姫は必死で呼び掛けるが、弟の耳にはもう泣き声ばかりで声が届かない。
「……ちっ」
兵のひとりが腰の剣に手を伸ばした。
「や、やめてっ」
灰姫が裏返った声で悲鳴を上げる。
李燈も動こうとするが、周りの兵に阻まれる。
兵が剣をすらりと抜いた。
刃が太陽の光を反射する。剣が振り上げられる。
灰姫は走った。
兵と項成の間に割って入る。
剣がきらめく。
「灰姫様あ!」
李燈が叫ぶ。
灰姫は必死で項成をかばう。
「何をしている!」
場に鋭い声が響いた。
「何故、俺の許しもなく剣を抜いている!」
若い男が剣を抜いた兵に詰め寄った。
「め、明晶殿下……」
「も、申し訳ございません」
剣を抜いた兵と年配の兵が頭を下げる。
明晶と呼ばれた男は涼しげな目元の男だった。
年の頃は、灰姫と同じくらい、二十歳前後に見える。
彼は他の兵とはひときわ違う派手な色合いの鎧を纏っていた。
そして立ち振る舞いに気品がある。
殿下、すなわち大済国の王子。
「そちらは」
「す、末の王子、項成と、七番目の姫、灰姫です……」
「そうか」
明晶はうなずいた。
「うちの兵が失礼をした」
明晶は灰姫に深々と礼をした。
このように丁寧に扱われることなど、灰姫にはなかなかないことだった。
「だ、大丈夫です」
明晶は小さくうなずくと、灰姫のきょうだいたちを見渡した。
「王太子はどちらに?」
一番上の兄が顔を上げた。
「……私だ」
その声は苦渋に満ちていた。
「今日より黒猛国を大済国の傘下に収める。貴殿らの皇帝陛下は降伏していただけなかったので、俺たちが首を刎ねた」
あれが本当に最後の会話になったかと、灰姫は感慨もなくぼんやりとそう思った。
「王太子、貴殿はどうする」
「……降伏する。虜囚として何でもしよう。だから弟妹の命は救っていただきたい」
「いい心がけだ」
明晶は満足げにうなずいた。
「……縄を一人ずつ解いてやれ。姫君はそれぞれの宮殿に戻し、王子らは中央殿に集めて軟禁しろ」
「はっ」
きょうだいたちの縄が解かれていく。
その間に明晶は灰姫と項成に向き直った。
「項成はいくつだ」
項成の縄を手ずから解いてやりながら、明晶は灰姫に尋ねた。
「まだ五つです」
「母君は健在か?」
「はい」
「だったら項成は姫君と同じ扱いを。宮殿に戻す」
灰姫は頭を下げた。
項成の縄を解くと、明晶は灰姫の縄を解いた。
「あなたも宮殿に戻ってよい。何という名前の宮殿だ」
灰姫の顔が赤く染まった。
きょうだいたちはそれぞれ名のある宮殿に住んでいたが、灰姫のあばら家には当然名前などない。
「あ、あの、わ、私には……宮殿がなくて……」
「……どういう意味だ?」
明晶は戸惑ったが、灰姫の縄を解くと、項成を抱き上げ、灰姫を立ち上がらせた。
「まあいい。案内してくれ」
「は、はい……」
景美人は宮殿に戻っただろうか?
それともあばら家にまだいるだろうか。
明晶には五人ほどの屈強な兵が付き従った。
李燈がこちらに来たそうに身じろぎした。
「あちらの宦官を連れて行ってもよろしいですか。私によくしてくれているのです」
「……仕えているわけではないのか?」
明晶はますます疑問を深めた。
「まあよい。灰姫の宦官! 着いてまいれ!」
「は、はい!」
李燈は灰姫たちに駆け寄った。