7話
『誰か……。誰か、聞こえていますか……』
果てしない暗闇の中、少女の声だけが、物悲しく虚空を彷徨う。
『誰か、この声が聞こえているのなら、私を解放して……。この暗き地の底から、私と、闇に囚われた死者達の魂を……』
もう何度、少女は祈ったことだろうか。
数え切れぬ哀切の念が、毎夜、漆黒の海へと送り出される。
それでも返ってくるのは、四方無辺に漂う静寂ばかり。
少女の願いは、今宵もまた、受け止められる事はないのか……。
『死の際に生者が放つ魔力を、悪用しようとする者がいます。彼等を止めるためにも、誰か……、私を解放して下さい……』
「ん……。むぅ、夢かぁ……」
魔王は朧気な意識のまま、重たい瞼をうっすらと開いた。
時刻は、まだ深夜。
酷い時間に起きたものだと呆れてから、魔王は忘れないうちに、夢の内容を反芻する。
妙に実感のある、声だけの内容。
普段なら、脈絡のない物語が進行するのに、今日に限っては、自分の視点すらも省かれている。
強いて言うなら、一枚絵に描かれたメッセージ。
その絵が放つ印象を、脳内に直接、転写されたような感覚だ。
……と、暗闇に秘められた暗号を読み解くうちに、魔王の眠気は完全に霧散していた。
一度、入眠したが最後、満足するまで眠り続ける質の彼としては、珍しいことである。
声のない夜。
虫の音はおろか、痛いほどの耳鳴りが静寂を統べる時間、魔王の意識はピンと張り詰めていた。
「そういえば、こんな時は決まってアレが出てくるんだっけ……」
魔王の独りごちるアレとは、大陸間戦争の前夜にも現れたという幻影女性のこと。
女と言っても、像がぼやけて素性が分からず、全ては魔王の当て推量。
これだけ聞くと、不審な事この上ないのだが、決して危害を加えてこないため、魔王も安心している。
ただし幻影は、なにか重大な出来事の前に必ず現れては、偉そうに教訓めいたことを残すのだ。
「あっ、やっぱり出てきた……」
殺風景な屋内の闇に、やおら白い粒子が渦を巻き、成人女性の像を象る。
髪はやや癖毛で、後ろ髪の長さは背中の半分ほど。
眼は細く、顔立ちは整っている方なのだが、如何せん、そこは全て魔王の色眼鏡。なにしろノイズが激しいせいで、輪郭が不安定なのだ。
色彩も白の陰影だけなので、服の素地はおろか、肌の色艶も判別できないくらいである。
「こんばんは……」
魔王は、とりあえず挨拶を口にしてみたが、特に返事を期待してる訳ではない。
と言うのもこの幻影は、毎度毎度、こちらの呼び掛けを無視しては、一方的に話を進める強者なのだ。
つまり向こうには、魔王の声が一切聞こえていないのである。
(まったく、いつも勝手だなぁ……)
御多分に漏れず、幻影の独り語りがゆるゆると始まる。
「大戦終結から二十年、時代は移り変わり、世界は新たな局面を迎えています。
魔王、人の世を離れたとはいえ、それは決して、あなたと無関係ではありません」
「知らないよぅ、そんなの……」
(って言うか、早く眠りたいよぅ……)
魔王の冷たい反応を前にしても、幻影の女は、やはり意に介さない。
「近く、重大な決断を迫られるでしょう。人の一生とは、風に舞う一枚の木の葉のようなものです。人一人に抗う術はありません。運命が残酷にも、人の意思を弄ぶというなら……。魔王、多くの人を集めるのです。運命に抗うには、大勢の者達の協力が必要です。あなたを待つ、多くの仲間たちと出会うのです…………」
そうして一方的に語り終えると、幻影はゆっくりと白い粒子の集合体へと戻り、やがて、室内の闇へと拡散していった。
翌朝、魔王は昨夜見たリアルな夢について相談してみるも、田衛文の反応はひどく冷たい。
「そんなの単なる夢ダヨ、夢! 昨日に限って、すんごく寝惚けてたんじゃない?」
(むう……、なんて酷い言い種なんだろう。こっちは真剣に話してるっていうのに……)
あれが只の夢だとは、とても思えない。
仮に田衛文の言う通りだったとしても、声だけの内容なんて、尋常じゃないだろう。
とすると、考えられる可能性はたった一つ……。
(鬱病かもね、僕……)
魔王が至極残念な解答に落ち込んでいると、とっくに気持ちを切り替えていた
田衛文が、反対に心配事を持ち掛ける。
「ネエネエ、そんな事よりさ……。昨日の男の子、ニルスって言ったっけ?」
「うん。無事に村へ帰れてると良いね」
「ウン♪」
田衛文は、魔王の呑気な切り返しに一度だけ同意してから、何を思ったか、すぐに態度を改める。
「って、そうじゃないよ。魔王は気にならないの? もしもあの子が、ボク達のコトを他の人に話しちゃったらってさぁ……」
どうやら彼女は、昨日、魔王が正体をバラした事が、未だに気に掛かるらしい。
今度はさっきの立場とは逆で、魔王は手持ち無沙汰に、木の実のスープをよそった器を木匙でグルグルと掻き回しながら、田衛文の不安を陽気に笑い飛ばす。
「大丈夫だって……。そんな御伽噺みたいなこと、大の大人が信じる訳ないじゃないか。それこそさっきの田衛文みたく、どうせ夢か冗談だと思うに決まってるよ」
すると田衛文は、窓の外 ― ニルスの村があると思しき方角を向いて、憂鬱そうに息を吐いた。
「否、大人は好くってもさ……」
田衛文がそう言い掛けた時、まるでタイミングを見計らっていたかのように、
『ドンドンドンドン!』
と、入り口の戸が、突然、乱打される。
さらには扉の向こうから子供の声で、『居るのは分かってるんだぞ。出てこいよ、魔王』的な挑発めいた罵声が、屋内の二人に向けて容赦なく浴びせられた。
今度は魔王が、明後日の方向を向く番である。
「確かに、ほかの子供に喋ったりすると……」
「調子に乗って、こうやって乗り込んで来るんだよネェ……」
(子供って、怖いもの知らずだからなぁ……)
二人がゲンナリとした表情で固まっていると、先頭の子が痺れを切らして、
入り口の戸を乱暴に蹴り開ける。
「オラーッ、とっとと姿を見せろーっ!」
幼くも荒々しい声が、小屋中に響き渡る。
二人の前に現れたのは、武装が棒切れ一本という最弱プレイ一直線な三人組。
皆、同じような背格好で、先頭から、ツンツン頭のリーダーと、その後ろへ隠れるように棒を構えた眼鏡のお坊ちゃん。最後尾で困惑気味に突っ立っているのが
ニルスである。
(改めて考えると、やってる事が、まんま山賊なんだけど……)
将来の就職先を間違わせないためにも、ここは大人が『ガツン!』と言ってやる義務がある。
そう思った魔王は、テーブル前の席から自信タップリに立ち上がると、拳の関節をバキボキと鳴らした。
「やれやれ、仕方ないなぁ。それじゃ、僕達の実力を軽く披露して、お説教と行くか。ねぇ、田衛文?」
「…………(ピクリとも動かない)」
どうやら田衛文は、コスト0で僕を生贄に捧げ、ターンエンドしたようだ。
そもそもあの三人が此処に居るのって、森で田衛文を見付けたのがキッカケなんだから、いまさら人形のフリをしても無駄だと思う。
けど、こうして小道具と化した田衛文は、それが無意味だと分からない限り、
梃子でも動かない。
(だったら定石通り、リーダー格の子をビビらせて、チームを瓦解させてやるぞ!)
突然の乱入に動じないばかりか、なんら特別な反応を示さない魔王と田衛文に、前列の二人が声を荒げる。
「オイ、机の上の妖精とオマエ、俺達を無視するな!」
「魔王め、覚悟しろ!」
(『覚悟しろ』と来たか……。二十年前にも、似たような台詞を聞いたけど、アレとは偉い違いだなぁ)
魔王は心中の苦笑をひた隠しに、場馴れした口調で少年達を威嚇する。
「ハッ。小僧共、どうやら命が惜しくな……」
『ガシッ!!』
魔王の口上を完全無視で、リーダー格の少年が、魔王の脛を木の棒でマイルドに打つ!
「ぐへぇ……」
魔王は堪らず低く呻いて、その場へ惨めに倒れ込んだ。
「よぅし、今だ。トール、ニルス、やっちまおうぜ!」
「よっしゃあ!」
「そんな……。止めようよ、二人とも……」
ニルスの制止はアッサリと却下され、リーダーのログと弟分のトールが、痛みに床を転げ回る魔王をポカポカと叩く。
(二人掛かりの不意打ちだなんて、なんて卑劣極まりない連中なんだ!)
「くっそう……。それならこっちも容赦なしだ。うおおおお!」
ドガッ、バキッ、グシャア!!
魔王の心に、勝利の風が吹き荒れる!!
「フン。どうだ、参ったか!」
掛ける言葉とは反対に、ログとトールは、幼い声に軽蔑の色を乗せて返す。
「なにが参ったかだよ。思いっ切り負けてる癖に」
「弱っわいなぁ……」
「否、断じてそんな事はないぞ。これはその…………、床下のシロアリに警戒してるだけさ」
魔王の惨めな強がりに、聞き手の2人は声も出さず、床の上へと侮蔑の視線を投げかける。
騒ぎがいったん落ち着くのを見計らってから、パーティ唯一の良識であるニルスが、遠回しな表現で2人を諫めた。
「ねえ、もう止めてあげようよ。このおじさん、可哀想だよ……」
嗚呼、ニルスはやっぱり良い子だ……。
僕が、悪ガキ二人をいじめる姿(注:事実の曲解)なんて、もう見てられないって言うんだね。
「んな事言ってもなぁ……。おい、ニルス。本当にコイツ、魔王なのか?」
――自分の説得が通じそうだ。
そう思ったニルスが、表情をパッと明るくさせる。
「うん、そうだよ♪ ねっ、おじさん?」
「くうぅ、その通りだぞ……」
(だから、さっきから僕を、棒でツンツン突ついてる眼鏡の少年を止めて欲しい……)
魔王の祈りが天に通じたのか、不意にトールの手が、空中でピタリと停止する。
「ねえ、ログぅ? ひょっとして此の人、やっぱり魔王なんかじゃ無いって事は……?」
「ハア? なんでだよ」
「だって、すっごく弱っちいじゃん。冷静に考えたらさ、本物だったら僕達、今頃とっくに殺されてるよ?」
この子達は、一体どれだけ冷徹なんだ。
殴る蹴るの暴行に加えて、僕の存在すら否定しようだなんて……。
「弱っちいって言うな。それに僕は、正真正銘の魔王だい!!」
「だとさ。これでも違うってのかよ」
まるで塵でも指すかのように、ログが親指を足下(僕)に向ける。
屈辱だ……。
「否、つまりさ……。こんな森の奥に住んでるくらいだから、本当は相当な人嫌いで、僕達を追い返すために、わざと嘘を吐いてるって事は(考えられない)?」
あまりの心配に、うしろの方は、声が小さく掠れて聞こえない。
しかし、皆まで聞く必要もなく、暫し、三人のあいだに気不味い沈黙が流れる。
『………………』
ややあって、緊張の糸がプツリと切れた。
何故だか知らないが、ログが一瞬、フッ……とニヒルな笑みを浮かべてから、
「やっべえ! 俺、とんでもない事しちまったのか!?」
非常に分かりやすい台詞を吐いて慌てだす。
続けてトールとニルスも、泡を食ったように取り乱した。
「うわ、マズイよ……。またローガスに怒られちゃう!」
「二人とも、そんな事ないってば。妖精さん、そうだよね? おじちゃん、嘘なんか吐いてないよね?」
すると田衛文が、ニルスの横から『唄のお姉さん』みたいなノリで、明朗快活にフォローする。
「大丈夫ダヨ、みんな。もし人違いだったとしても、このまま土に埋めちゃえば、バレないから!」
バカな!!
どさくさに紛れて、田衛文が寝返ってるじゃないか!
しかも、話し掛けられたログとトールは、焦りのあまり、そんな事をちっとも気に留めてくれない。
分かっては居たけれど、この場で頼れるのは、自分一人だけか…………。
「ぐぬぬぬぬっ! 魔王として生を受け、およそ三百年……。今こそ僕の真の
実力、見せてくれる。行くぞ、小僧共っ!」
(うおりゃああああアアア阿阿阿阿亜!!)
ドガッ、バキッ、グシャ、ドム!!