1話
歴史書は語る。
かつて、世界を恐怖の闇に包む者がいた。
天を衝き、地を揺るがせ、無数の同胞を駆る邪悪の化身。
其は、魔王。
人々は、彼の者に恐れ戦き、唯、逃げ惑うばかり。
「誰か……。誰か、この世界を救う者はおらんのか……」
血と、涙と、そして哀しみが大地を埋め尽くさんとしたその時、人々に希望の光が射す。
天より遣わされし勇者と六人の闘士が、魔王軍に敢然と立ち向かったのである。
猛々しき力は困難を振り払い、煌めく知性が魔性を退ける。
突如、精鋭揃いの魔王陣営を、膨大な魔力が灼き払った。
大地を覆う幾千もの魔族は、天より降り注ぐ白き炎に身を焼かれ、立ち上がる者なし。
人間の信仰せし宗教、アルメリア教。
彼の白き巫女の秘術、アルメリアの奇跡である。
満身創痍となった魔軍の将が叫ぶ。
「魔王様ぁぁぁ、お逃げ下さいぃぃぃ!」
程なくして、玉座に迫る剣戟の音。
そして、一人、また一人と倒されゆく親衛隊。
牛頭フェリオス。魔声アッカーファ。怪鳥ラムド。不倒ガープ。神槍エスタロン。
皆、ことごとく地に伏した。
残るは魔王、ただ一人である。
それでも彼は、退いたりはしない。
己が運命の下、この戦いに終止符を打たんとする。
故にこそ彼は魔の中の王、魔王である。
「来たか……」
一人の若者が幾多の罠を潜り抜けて、玉座の前へと踊り出る。
「覚悟しろ、魔王!」
「ムウゥゥン……!!」
脇息を軋ませて立ち上がる。
ただそれだけで、身を包む仄暗い闘気が場内を揺らした。
するどい眼差しで前を見据える魔王と、堂々と剣を構える勇者フィーダ。
両者が相見える時、人類と魔族の壮絶なる戦いが終わりを告げる。
突然、勇者の視界から魔王が消えた。
相手の不意を突き、魔王が恐るべき一手を繰り出したのである!
「助けて下さい!」(土下座)
命乞いをした!!
かくして一命を取り留めた魔族達は、その多くが遠き山林へと落ち延び、残された僅かな者達は、人間社会へと溶け込んで行ったのである。
そして、二十年の月日が経つ。
これは、魔王の土下座から始まるという、なんとも非常識な物語。
世界でただ一つの大陸、サンセベリア大陸の北東部。
魔王城から北へ遠く離れた、深い深~い森の中。
陽光が射し、緑に輝く樹々の中に、一軒の見窄らしい小屋が見える。
「グゴゴ……。フシュルルル……」
小屋の中を覗いてみると、一人の青年が鼾を高らかに、ベッドで眠りこけていた。
ふと其処へ、窓の外から一体の精霊が迷い込む。
「エヘヘ、よく寝てる。ヨ~シ……。ソレなら今日は、ビックリ作戦でイコっと♪」
悪戯心を満載にした精霊は、ソロリソロリと枕元へと忍び寄り、大きな声で呼び掛ける。
「ハロ~。アナタの大事な恋人、田衛文が来ましたヨ~♪」
田衛文。
みずからをそう名乗る精霊は、上半身を色っぽくクネらせて、小悪魔的な肢体をこれ見よがしにアピールする。
猫のようにしなやかな肩。流線型に括れたウエスト。
躍動感あふれる腿と脹ら脛。その上に乗る引き締まった臀部。
それら健康的な官能にアクセントを加えるのが、下着の上に重ねた黒いスパッツ。幼さと艶めかしさの不均衡が、彼女の健全な美しさを蠱惑的な色気へと昇華させている。
なにより、眩しい笑顔と日焼けにも似た小麦色の肌は、朝露を弾くほどに瑞々しい。
正しく、太陽に愛されし少女である。
しかし如何せん、この少女。体も胸もミニチュアサイズ。
爪先から頭の天辺まで、せいぜい大人の胴体ほどしかないのだ。
悪魔を連想させる前衛的な翼だって、跳ねっ返りの証にしか見えない。
デーモン、デーモン、田衛文……。
そんな微……美少女の呼びかけにも関わらず、ベッドの中の野暮天は、身動き一つしない。
もちろん相手に悪気はないが、このままだと、なんとなく無視されているようで少し寂しい。
「むううぅぅ……」
田衛文は不機嫌そうに唇を尖らせると、ユサユサと肩を揺すって、男の目覚めを促してみる。
「ねえ、起きて……。そろそろ朝御飯の時間ダヨ」
『ピクッ、ピククッ!』
感アリ。
掛け布団の下、男の身体が気怠そうにモゾモゾと動いた。
やがて、まだ眠りから覚めない男が、田衛文にテキトーな返事をぶつける。
「う~ん、うるさい虫だなぁ……」
『ブチッ!!』
瞬間、田衛文の中で何かがキレた。
ついで彼女は、天井高くまで飛翔。
両手の魔力を胸元で合わせて、ゆっくりと開く。
ほっそりとした掌のあいだで、紫電の雷光がバチバチと凶悪に爆ぜた。
田衛文の特技、無詠唱にして非殺傷の《お仕置き魔法》である。
「さっさと起キロ!」
「アダダダダダ!!」
突然、全身を駆け巡る衝撃に、眠れる男がベッドから跳ね起きる。
(くっそう……。今のは絶対、田衛文が使うあのビリビリだぞ……)
男は頭上の犯人を視界に捉えて、恨みがましく抗議を垂れる。
「痛ったいじゃないか。いきなりなんて事するんだよ!」
すると田衛文は、顔をプイッと横に背けて、相手の言葉に不満をぶつける。
「ダッテ魔王ってば、ボクの事、虫扱いしたんだモン!」
「あぇ?」
寝惚けてて、そんなの覚えてないぞ。
「だからって、もう少しほかに起こし方があるだろう?」
「炎トカ?」
うんうん、電撃とは違うね。
「って、ベッドが燃えてしまうではないか!」
「ナンデ一番に其処! 自分の心配はしないの!?」
むっ、それもそうだね。
どれ、ちょっくら体の確認をば……。(サワサワ)
「あれれ? 僕の力強い肉体はどこ!? 突き出た角も、刃を弾く鋼の皮膚だって無い!」
うぬぬぬ……。
両肩に嵌ってた魔力結晶すら見当たらないぞ。
「これでは通販番組の『使用前 → 使用後』みたいではないか!」
魔王は大きく腕を振り上げ、これ見よがしに不満を露わにする。
サバイバルナイフで不揃いに整えた髪。
空色の瞳と、ニコッと笑うと笑窪ができる頬。
やや童顔で、何事にもムキになる言動は、見る者に愛嬌を感じさせるが、その
年齢はもうじき三百歳にまで届く。
腕は細く締まっているが、腹筋は割れてない。
中肉中背で、白い起毛のシャツと青のデニムを身に着けた姿は、誰が見たって、頼りない兄ちゃんだと思うだろう。
まったくもって強そうではない。
身体をまさぐる動きに合わせて、表情がコロコロと変化する様は実に滑稽だ。
しかし、驚くなかれ。
この風采の上がらない男こそ、正真正銘、あの魔王の成れの果てなのだ。
バタバタと混乱の収まらない魔王を、田衛文が呆れ顔で指摘する。
「まだ寝惚けてるの? ずっと前からそうだったじゃない」
すると魔王は正気へ正気へ戻り、沈んだ声で同意を重ねる。
「あぁ、うん……。言われてみると、そんな気もするや」
ホロ苦い笑みで口を閉ざすと、間を置かず、自嘲の想いが胸に広がる。
(そうか。ずっと前か……)
起き抜けの霞掛かった思考に別れを告げて、魔王の意識は、二十年前の或る日に遡る。