SOS .001 サイエン
クリムトは無意識に顎髭を撫でる。
判断を迷った時の仕草がそれだった。
歳を取っているというより、
重ねていると表現する方がしっくりくる。
老獪とも達観とも取れる外見は、
肉体的なモノとは別の強さを感じさせた。
「…先生、お連れしました」
レイルズの顔色は思わしくない。
一番信用の置ける部下である彼の態度は、
苦渋に満ちている。
素性のわからない者を、案内しなければならない
その葛藤がにじみ出ていた。
部屋の中は簡素な造りだが、
机も椅子も戸棚も一級品であり
多少の金銭では手も足も出ない額の調度品だった。
『初めまして。クリムト・ハインズウェイ』
「…初対面で、随分馴れ馴れしいな」
『申し訳ありません。育ちが良くないもので』
クリムトに対して相手は明らかな嘘を付いていた。
育ちの良くない者がここまで無傷で辿り着くワケが無い。
彼は一般人では無いし、公人でも、貴族でもない。
大きく言えば国家に認められていない
裏方仕事の全てに彼が関わっている。
だから、恨みを買うことも裏切られることも、
日常茶飯事でありいつものことだった。
そんなクリムトにこうして直談判出来るのは、
それなりに必要な徳を積んだモノだけだ。
『早速ですが、本題に入ります』
しかし、この来訪者は毛色がまるで違った。
『あなたには選択肢があります。
私の助言を聞くか、あるいは聞かないかです』
妙な被り物をしている来訪者は、
まるで神様の真似事をするように、
クリムトのこれからを示唆した。
その被り物は猿の顔を題材にした意匠で、
妙に艶めかしい表情をしている。
有り得ないことだが、仮面のまま素顔を晒しているような
そういう生々しさだ。
『あなたの流している《水薬》ですが、
やや粗悪すぎます。精製販売の経路を変えましょうか。
今の時代であれば、医療用として
正しい経路で捌いた方が
確実に安全な利益を生み出しますよ』
レイルズが視線を泳がせるが、クリムトは平然としている。
『次に、取り扱っている《財産奴隷》ですが、
縄張りの一部を解放したほうが良いですね。
そろそろ法改正も起こりますし、
費用対効果が悪すぎます』
クリムトは再び、自前の顎髭を撫でつけた。
『最後に、カルマリの《洞穴》は放棄すべきです。
理由はまあ……内緒と言うことで』
「おいっ! さっきから聞いていればいい加減な――」
「静かにしろ」
言葉の流れは穏やかだが、
その芯は鋭く冷ややかだった。
クリムトは一息付くと、改めて聞く。
「ところで、私はあなたを何と呼べばいいんだ?」
被り物の来訪者は、
何がオカシイのかクスクスと笑いながら言う。
『わたくしのことはどうぞ
《サイエン》とお呼び下さい』
「…あんた、向こう側の使者か?」
聞き慣れない音感に、
クリムトは亜大陸の血を感じ取った。
『いいえぇ、我らは同胞です。ご安心下さい』
サイエンは大げさに身振り手振りでそれを示した。
まるで下手な喜劇役者だ。
しかし、ことは喜劇でもなんでも無かった。
後で分かったことだが、
このサイエンは行儀の良い手順ではなく、
誰でも思いつく単純な方法でここまで侵入してきたのだった。
建物の1階から5階までを取り仕切る、
暴力しか能のない奴らを
このサイエンは抵抗する余地も残さない力で押し通ってきた。
しかも、争った痕跡すら残さず
素通りしたかのように美しく。
このとき、既に建物にはクリムト達以外、
誰も存在していなかったらしい。
それを理解したクリムトは、
すぐさまレイルズに指示を出す。
さしものクリムトとて、
化物にあえて反抗するほどの気概は持ち合わせていなかったからだ。
王都近郊にある商業区の一室で、
物語の鐘の音がひっそりと鳴り出した。