第三話 神の采配
まだ来られないか、私はその方向に目を向ける。空の色が透き通ってくる。光る星が点々としたものに、なっていく。
一曲と思ったが、空の色から見ると時間が足り無さそうなの事を読む。私は途中で遮られる事を避けるために、再びぼんやりと明けゆく空を眺めていた。少し前の出来事が、ふわりと私に降りてきた………。
―――好きにしろ、即位の礼を終えられた数日後、位を退かれたクシャル様は、ようやく居を移した静かな、かつての住まいでもある、離宮にてそう話された。
そして少年の時にバム様に拾われ、音楽の才が認められた事で、ご主人様と共に、お仕えしていた私の方もご覧になられると、ウードを頼む、恐れ多くも私にそう託され………そして大きく息を一つつくと……
「バム、このままに………」
最後の力を振り絞り、青い石がはめ込まれた古ぼけた片方だけの銀の耳飾りにそろりと触れ、王は目を閉じ旅立たれて逝かれた。そのご尊顔は穏やかで、そして決して他人がいるところで流すことの無かった、一筋の涙が、頬に流れていた。
その涙は初めて見るもの、幸せが宿っている………そんなひと雫に見えた私、バム様が震える声で、返事をされていた。
そして………そのままに、クシャル様は、静かに旅立たれて逝かれた。
そのままに、私はウードを抱えていたあの日を、見送った事を、星に導かれる様に、思い出していた。
「早いな、それにしても何もせずに、待っておるとは珍しい」
その声に私は振り返る、そこにはバム様のお姿があった。それに対して頭を下げ礼をとった。既に身についた習慣、あそこで生きていた証。
「早くに目が覚めましたから、少し色々思い出しておりました」
その答えに少し苦笑するバム様。その姿もお声も、随分とお優しくなられたと思う。そう、ここに来てからは、何時もそう思う。
………ザザよ、お前も物好きだな、何もここ迄ついてこなくても良かったのに、バム様は事あるごとによくそう仰られる。何故ならば私達は、葬儀が終えると居を、先王のクシャル様が祀られた、白い廟へと移した為に。
そう、墓守になる事を選んだバム様に、私は、従者としてそのままに、ついてきたのだ。それまでと変わらぬ様にお仕えするために、他の道もあったのだが、それを捨て去り私はここに来た。
泉の畔に咲き乱れる、白い薄絹をクシュ、とまとめた様な白い花を、バム様は、一つ二つと摘んで行かれる。私はそれを受け取って行く、甘く香りが私を包む、
ほろほろと、小さな花園を歩き、花を摘むバム様のお手元に、目をやるのが今するべき事。なぜならば
「………あ、できるだけ咲いたのを、明日になれば、また新しく活けるのですから………ここは離宮とは違い数が少ないのです」」
何も思わずに、蕾がほろと、綻びかけのそれに手を持っていく、少々老いが始まっている主に、私は、失礼ですが、と、やんわりと静止をかける。おお、すまぬと手を止めるバム様。
「うむ………そなたが居らねば、困るやもしれぬ、が、それとは別だ、まだまだお前には先があるというのに、惜しいのだよ」
神妙な面持ちで答え、私を眺めながら話してこられる。それに対して、幾度も繰り返している答えを返す。
「ウードを預かったのは私です。名器にはそれを扱った者の、魂が宿ると申します、ですからここでコレを、お聞かせする事が私の役目なのです」
腕に抱えた、大輪に開くそれを落とさぬようにするために、一つ二つと手をやり揃える、そして、私は背に負う荷物を背負い直す。そして黙って私を見ているバム様に、言葉を重ねた。
「ですからここに来たのは、運命ではないかと」
そうか、運命とな………そうか、お前が良ければと、穏やかに言葉を出したバム様は、咲き乱れる花の中に立ち、ほのぼのと白く明けゆく空をみる。
そろそろ行かねば祈りの時間に間に合わぬと、側で立つ私に促してきた。
「はい、かしこまりました」
型どおりに花を抱え膝を付き答える私に、もうよかろう、そなたは私の身内そのもの、クシャル様から、それ相応の身分を与えられていたのだから………、以前とは違うであろう、と苦笑しながら、立ち上がる様にとゆるりと手で示された。
廟に向かう、建物の外もヒヤリとする扉の内も、ここに仕えている数人の下人達によって既に朝の掃除は終わっている。あとは祭壇の花を取り替えれば良いだけの、塵一つない白の空間。
私は抱えていた花をバム様に手渡す。そして背に負っている錦で作られた袋を下ろすと、目の前の柩の中に眠っているお方様から預かった、ウードをするりと取り出す。白い石の床にすわり奏でるために抱え込む。
バム様が手向けられていた花を取り替える。白い花を………クシャル様の様な、その色。白い、真白、闇を、黒を飲み込む強い白。
王になる為に産まれたお方。統治においても、私生活に置いても、王となられてからは、明の世界に己を置いていると称されたクシャル様。何かを含んで献上される様々な品物も、一瞥の後に………
「無用だ、どのような意図があるか述べよ。われの祝い事等、近にない、答えろ」
冷たく一言で簡単で終わらす、他者を寄せ付けない言葉と温度。それが口癖と言われたお方。思い起こせば、私がお仕えするようになった頃、まだ同じ年格好の少年だった王子の時から、随従がお聞きすると、
「いらない、無用だ」
そう言って素知らぬ顔をされていた。しかしそれはそのまま、言葉のまま、家臣達からの様々な献上品を、不要と切って捨てられる事に、無欲で高潔と称されていたが、単に興味が無いから、いらなかっただけなのだ。
お慰めに、と思いまして………と、綺羅びやかな品を携えた商人を連れた家臣は、しどろもどろに返事を返す。それを受け、商人には、労力に対しての物は後で届けよう、下がれ、と言われた後に、
不興を与えたと顔色を青くしている家臣には、われの事にそこまで心を砕くとは、忠臣なのだな、と声をかける。その言葉に安堵し、そうでございます、と同意をし頭を下げる者を見下ろしながら
「そうか、そなたの忠義は受け取った、われの慰めを考えるとは、暇なのか、ならば、もっと動いてもらおう、忠義をみせろ」
と吹くような言葉を家臣に贈っていた、王。それに対して顔色を青くし、わかりましたと言うしか無い者。
そんな王に、私はバム様と共に、生涯お仕えしたが、何を考えてらっしゃるのか良くわからないお方様だった。そもそも、何故に王になられたのか。その理由からして、今も、お聞きした時も………わからないそのお考え。
そう、あれは即位の礼が終わり、宴会迄の束の間の休息の時。わかるかと突然に問いかけられた、その時の記憶が、声が、不意に私の中に表れた。
―――ザザ、わかるか?我が今日の時を獲ようと思った理由を、だ………何だ?その目は、わからぬと?では教えてやろう、それはな王となり、独り静かに眠る墓を作る為だ。王家の墓等に入りたく無いからが理由だ。
他国に質にやられても、籍を抜かぬ限りは、骨でも戻され入る事になる。そんなのはまっぴらでな、王族をやめて、家臣となり手柄を立て、それにより墓が創られる、事もあるが。それも気に入らぬ。なので王になることにしたのだ。
と私に言ったクシャル様。目を閉じる。何時も、もう少し身なりを構うように言われておられた、召使いのような簡素な装いを好んでいたお姿が、鮮やかに蘇る。
弦を鳴らす、いちの音、ニの音………。哀愁をまとった音色が流れ出す。私の中にコレに宿っていると思われるかつての持ち主達の魂の欠片が流れ込む。
「そう、上手くなれ、われの後にはザザ、お前が次の持ち手になるように………」
冷え切る夜の風の様な声が耳に発する。あれはいつの事、私の住まいが廟ではなく、あの方のお住まいであられた離宮の時、まだ少年であらさらて、私も少年だった頃の時。
目を閉じ音に酔う、記憶を振り返る旅に………先程は星の光に導かれ、今は音に乗り、私は出ていく。
―――バム様に拾われた私は、屋敷に閉じ込められ、そこで、貴人に仕える為の一通りの作法、言葉使い、異なる神の教え、そして幾分、高度な読み書きを、日々叩き込まる、数週間を過ごしていた。そして、その日も、いつも通りの朝を迎えた、筈だった。
私の所作を、見る為にだったのだろう、時なにバム様は忙しい日々の中で、時間を作り朝餉を共にしていた。
その日は以前と違い、冷ややかな視線に、さらされる事も無く、その後の叱責も無く、食事時らしい穏やかな時間のあと、私は食堂から与えられた自室に戻り、課題に取り掛かろうとしていた時、
私の身の回りの世話をしている下女達が、湯浴みを、とお急ぎくださいませ、と部屋に入るなり急かしてきた。思わず首を傾げそうになったのを、慌ててとめる。
え?と聞き返すのはいけないと最初に教えられたから。、はいか、わかりました、それか頷くか……、それだけしかお許しがなければ、出来なかったと、教えを思い出した。
そして、私は彼女達によって、慌ただしく、湯殿に連れて行かれ、そして身なりを整えられ、髪を透かれ、淡く香油をつけられた。それはまるで、新たに生まれ変わるかの感じを受けた。
目を白黒させているしかない。突っ立って、人形のように言われるままに手を上げ、下を向きをしていると、おやおや大変だな、と笑いながら、バム様が部屋に入って来られた。
そのお姿は落ち着いた色だが、鮮やかな織物で作られた衣装、勤められている王宮に向かう装束。
どこに行くのですかと、聞きたかった。しかし、話しかけるのは目上のお人から、質問はしてはいけないと、それに従い何も聞けない、私はとんでもない事になった………どうしよう、どうしたらいい、と戸惑っている。
ここに来てからは勉学の毎日、まだ何も知らなかった私は、ごく単純にこの屋敷の下男として、仕えるものばかりと、思っていた。
貴人の立場のバム様。このお屋敷の皆も、私が見聞きした市中の人々とは所作も言葉遣いも、全くちがっていた。まずは礼儀作法と、中途半端な読み書き、何故ならば喋れても書けない拾われた時の私。
沙羅の上着、絹地の衣、真新しいそれに戸惑う、ここに来るまでは私は市中で、物乞いをしていた、そしてその前も。それにかつて住んでいた村でも、木綿や毛織物、無骨な皮の靴それが精一杯の装いだったのだから………
逃げたいと、心の底から思った。しかし香油の香りが、私の逃げる算段を甘く痺れさし、無理だと伝えてくる。
………あの時、あの場所で………出会って付いてきたのは、間違いだったんだ、ここに来ることになった、出会いをぼんやりと思い出す。
頷いた。そしてついて行くことにした。それは、どうしてだかは、わからないけれど、そうしなくていけないものに、引っ張られるように、ついて来た。お屋敷に、そして……、
始まる後悔の日々。物乞いをしつつ、食うか食わずでも、着の身着のままでも、自由気ままに過ごしていた子供にとっては、まさに牢獄に入れられた日々が始まった。
………それは朝起きてから寝るまで、休む事などゆるされない、食事の時間すらそう、此方の作法を覚えろ………言葉を正せ、粗野はいらぬと、毎日毎日、厳しく教えられ、それを即座に覚える事を課せられた。本を読み学ぶ事は、好きだったが、それを上まわる事を要求された。
「そのままでは使えぬ!逆らえば元の主に返そう、どうせ逃げ出して来たのだろうから………」
とんでもないところに来てしまったと、後悔しても、後の祭りだった。衣食住は、それまでとは別世界なのだが、課せられた物が、とてつもなく大きく背負いきれない重さ。
私は、身分高いお方にお使えするのには、覚える事がなんとたくさんあるのだろう、と毎晩泣きながら、眠りについていた。
何時もの様に逃げればよかったと………でも、何故かそう思わなかった。どうしてかはわからない、別の国となった、あちらの神様のお言葉であらわすのなら、神の思し召しとなるのか、ならばそんなの、要らないと、泣きつつ、ギリギリの毎日を過ごしていた。
もう、このまま一生ここから、閉じ込められた部屋から出れないと、思っていたある日、突然に新しい世界が現れた。
「これならば御前に連れて行っても、大丈夫だろう、何人か見繕ったが………幾人は逃げ出し、数人は、暴れだし………どうにもならん子供ばかりでな、そなたで終いにしようと思っていたのだが、我が神の導きに感謝をせねば」
王宮へ、バム様の従者として赴く………思いもかけない展開。運命としか思えない事だった。用意が整った私を見て、それまで見せたことが無い笑顔を、ちらりと見せてくれたバム様。
神の名前をさらと唱える、礼を、祝福を言葉にしている。そして何かを思い付いたのか、戸惑っている私に、
「そうだ、名前を付けておらぬ………『ザザ』と呼ぼう、前の名前は忘れるように」
と短くそう言うと、私の身なりを一瞥し、満足そうに頷く、サッと衣を翻し踵を返して、向かうべき所に進む。私は、顔馴染みになった下女に背を押され、慌ててバム様の後を追った。
王宮の一角、泉がある庭園に建てられた離宮、この国の第四王子、クシャル様が居られる場。そこにしばらく前迄、物乞いをしていた子供がいる……。
「私の随従として先ずは目通りしておく、後はとにかく覚えろ、でないと生きてはいけない」
バム様の声に何かを察した私は、緊張と恐れと何か待ち受けている様な不思議な感覚と……ない混ぜのものに、おし潰されそうになりながら、はい、かしこました。とふるえる声で返事をした。
その様子がよほど情けなかったのか、軽くため息をつかれると、しゃがみ込み肩に手をおかれた。怖いことはない、クシャル様はそなたより………そうだな、少し上か、御年十五才、成人の儀をそろそろと言われておられたのだがな、少し先にのびた。今ご静養されておられれてな、と私の青の瞳を、覗き込むように見つめて、話して来られた。
「声が良い、そのうち名を聞かれて、何か所望された時は、教えたどれかを歌えばいい、そなたは神から与えられているのだから………クシャル様もそうなのだか、今はそれも手に取らぬ、母君は幼い時に亡くされ、この度は育ての親とも言うべき皇太后様、そして………お辛いのはわかるが」
何処か不憫な様子で最後は呟く様に、言葉をしめると、バム様はさあ、お待たせしてはならぬと、立ち上がり、身なりを整えられた。そしてまだ子供の私を伴い、王子が居られる居室へと入って行く。
そこに入る、その途端、身が引き締まるものを感じた。それは全く知らない世界の空気、貴人のお方様が暮らしている場所、身分等まだわからない私でも、何かを感じて小さくなる。
それは、物乞いをしていたから………異教徒の教えと名を持っていた者だから、入ってはいけない、そのような者は来てはいけない、そう何が囁いてくる。痛いほどに胸に緊張感が高まり、キリキリと締め付けてくる。
私は背後に従って歩いた、ただ………何も思わずに、息を止めて、吐いて、どくどくと胸から音が聞こえる中を歩いて行った、一歩一歩を数えて歩く。
そして、バム様と共にひれ伏した。私はそのままに、バム様は、許しを得たあとに表を上げて、口上を述べておられた。それが私の頭の上を流れている。
生きている心の拠り所を次々と、無くした王子様に、バム様は哀れに思っていらしている。そして私も、どこか近いものを感じていた。両親と生き別れになっていたから、だから病気になられたと思っていた。
年が近い………仲良くなれるだろうかな、と思っていた。屋敷の、あの時の逃してくれた、あの子の笑った目を、思い出していた。
しかしそれはここに、この部屋に入る迄の事。そんな小さな思い出など一気に吹き飛んだ。顔を上げろと言われて、上げた時に目に飛び込んた、深い緑の瞳が怖い。
ひしひしと、身に刺さるそれが………怖い。身体が震える。慌てて目を伏せる。どうしよう、どうしたらいい。
…………どうやって、逃げ出そうか、ここから逃亡って出来るのかな?
何も知らぬ私は、そんな事を………再び考えていた。