もう一度、恋をしませんか。
出会ったのは大学1年生の時。新歓コンパで出会った。長い髪が魅力的で、一目惚れだったと思う。笑うと見える八重歯が可愛くて好きだった。あの頃に戻りたい、なんて言ったら、君は笑うかな。
「…おい」
「え?あ~、お茶ね。はいはい」
そう言って立ち上がる文子を辰彦は盗むように見た。「おい」の一言で何をしてほしいのかわかってしまう。今まで当たり前だと思っていたそんなことが、本当はすごいことなのだと最近ようやく気付いた。
「はい、どうぞ」
ソファーに座る辰彦に手渡すと、文子はテーブルに座り直し、テレビに集中した。辰彦は手の中のお茶を見る。香りのいいそれは自分でいれるときと味が全く違う。それも最近気づいたことだ。
辰彦は60歳を迎え、長年勤めていた会社を定年退職した。辰彦と文子は2人の子宝に恵まれた。その子供も30歳、27歳と立派に大人になった。27歳の次男はつい最近までこの家で一緒に住んでいたが、東京に転勤となったため、今はアパートを借りて一人暮らしをしている。立派に巣立って行った子供たちと反対に、自分はこの家に戻ってきたのだなと辰彦は思った。
辰彦は、28歳で結婚し、それからずっと仕事一筋だった。家の事も、子供の事もすべて文子に任せた。子供の行事に出ることは指で数えられるほどしかなく、家族旅行に連れていくこともあまりなかった。そうやって家庭を犠牲にして仕事をした結果、退職金はそれなりの額であった。だから、辰彦は再就職という道を選ばず、家にいる。文子と2人で。文子は23歳で結婚してからずっと専業主婦をしている。今は週2回のレジ打ちのパート仕事があるが、基本家にいるのは変わらない。
子供たちが居なくなった家はしんと静かで、静かなこの家で妻と何を話していいのか辰彦にはわからなかった。以前に比べ、交わし合う言葉数も減った。それも退職して初めて気づいたことである。家の相談がなくなり、子供の相談がなくなり、そして文子からのダメ出しもなくなった。以前であればお茶を頼んでも「自分でいれたらいいじゃないの」という小言がついていたが、それもいつの間にかない。
今時珍しいほどの亭主関白。その自覚もあった。たぶん、自覚がある分、他よりましである。ましではあるがどうしても頭をよぎるのは「熟年離婚」の文字だった。
「…それ面白いか?」
「え?テレビの事?」
「ああ」
「普通かな」
「…そうか」
途切れる会話。こちらを見ない文子に辰彦は危機感を覚える。
「か、母さん」
「ん?」
「き、今日…その…映画でも見に行かないか?」
「……は?」
心底「何を言っているんだ?」という表情で文子が辰彦を見る。文子の冷たい視線を耐えながら辰彦は慣れない笑みを浮かべた。
「いや、久しぶりにいいかな、なんて…思って」
尻すぼみになるのは仕方がない。どこか落ち込んだような辰彦に、文子は少し考えテレビの電源を切った。ゆっくりと歩き、辰彦と同じソファーに少しだけ距離を取り座る。
「…母さん?」
「何をしたの?」
怒っているわけでなく、どこか呆れているような文子の声色に辰彦は一瞬理解できなかった。
「え?」
「借金…じゃないよね?それだけは本当にやめてよ。…浮気、とか言う?」
「う、浮気?なわけないだろう!」
「違うか。…じゃあ、何?」
「…映画に誘っただけだろ」
気を落とすように言う辰彦を文子はしばらく眺めていた。そして安心したように息を吐く。
「とりあえず嘘は言ってなさそうだね」
「……そんなにおかしいか?俺がお前を映画に誘うの」
「う~ん、そうだね。浮気って言われた方が納得できるくらいには?」
「……」
「で、なんでそんなこと言い出したわけ?」
辰彦は文子を見た。その様子は母親がいたずらをした子供の言い訳を聞いているようでどこか情けなくなる。
「文子」
「……え?」
久しぶりに名前を呼んだ。一番上の子供が生まれて30年、ずっと「母さん」「お前」と呼んできた。けれど、「あやこ」と口から出たその言葉はとても綺麗だなと辰彦は思った。
「文子」
「な、何、急に」
突然の名前呼びに文子はわかりやすく動揺する。どこか頬が赤い気がするのは気のせいだろうか。
「……お前は知らないかもしれないが…俺はお前が好きなんだよ」
「…」
「だから、これからだってお前の一番傍にいたいんだ。死ぬまでずっと」
「な、に…言ってるの?…健康診断の結果、悪かった?」
「いや、別に。ちょっと高血圧だけど、問題ない」
「じゃあ、…なんで急にそんなこと言い出したわけ?」
「2人のこの家に、ちょっと……浮かれてるだけだ」
「…」
辰彦の言葉に文子は目を丸くする。その反応に、そうだろうなと辰彦は思った。熟年離婚の危機さえある自分たちの状況と今の辰彦の言葉が合わないことは理解している。理解しているが、本音だった。この家を支え、子供たちを立派に育ててくれた文子に辰彦は心から感謝していた。そしてそれと同時に、一度は家族愛になった気持ちがもう一度燃え上がっていくのを感じていた。手を繋ぎたくて、キスをしたかった。いい年の親父が何を考えているんだ、と笑われるなと自嘲しながらも、そう思う。
めったに笑わなくなった文子。事務的な会話しかないことが悲しかった。
好きになった大学時代に戻って、文子ともう一度恋をしたい。辰彦はそう思った。
「…で?映画行くのか?」
「いや、行ってもいいけど」
「じゃあ、決定な。ほら、支度しろ」
「……そういう所、大学の時から変わってないんだから」
呆れながらも文子は小さく笑う。八重歯が少し見えて、その笑顔が好きなんだ、そう思いながら辰彦は支度を急いだ。
大丈夫。現実にはない、フィクション中のフィクションであることは理解しています。
でも、いつもと違う感じで楽しかった。
たぶん、辰彦、かわいい親父です。