5.盧生の夢
久しぶりの実家はそれほど変貌を遂げていなかった。扉は何年も開いていなかったせいか、立て付けが悪くなり強引に力であけるしかなかったが、その内部はそれほど変化していなかった。玄関があり、玄関の隣にはトイレがあり、廊下の先には台所と食卓がある。この地が死んだせいで逆に清潔さが保たれていたのか、埃すらなく6年間放置されていたとは思えない保存状態だった。
「懐かしいな……。」
そうニーナは一人、食卓を手でなぞる。他には誰もいない。ニーナはミアに一人で自分の家に行かせて欲しいと頼んだのだ。ミアは少し悩んだ後、三十分だけならという条件付きで家の外で待ってくれている。彼女の立場からすれば監視対象であるニーナから目を離すのは本来ならば許されない行為である。グラドボロスの件も含めて彼女にはどれだけ感謝を言っても足りないとニーナは思う。
ニーナはそのまま、食卓から戻り廊下を右にまがって扉の前に立つ。この扉の向こうはニーナが使っていた部屋だ。ニーナは意を決して、扉を開く。玄関の扉とは違い、すんなりと扉は開いた。部屋の中は寝台と勉強用に使っていたテーブル。小さな本棚には帝都からきた行商人から買った本がいくつか並んでいた。ニーナはその本棚から1冊を手にとった。本を開いた1ページ目、少しほんのページが破れていた。それを見て、ニーナはふと笑う。この破れたページは昔、あまりに家に帰って来ない父に怒って本を投げつけた時に破れてしまったものだ。
「ああ、まったく私は本当に馬鹿だなぁ……。」
ニーナは本棚に本をしまいなおし、辺りをくるりと見渡す。特に何かがあるという訳でもなかったが、つい気になってニーナは部屋を探索しはじめた。探すのは彼女が家に忘れた人形だ。毛布の中、本棚の上、机の上と探してみるも見つからない。それで少しニーナは考えるようにした後、床に俯せになるようにして寝台の下に手を突っ込んだ。探るように手を動かす中でニーナは何かが手に当る感触を得る。それを手元に引き寄せ取り出す。手に収まっていたのはニーナが大事にしていた人形ともう1つ、銀で作られた腕輪だった。それを見てニーナは理解する。
「そっか、お父さんここで取り込まれたんだ。」
ニーナの父がいつもつけていた銀の腕輪。ニーナはそれを一頻り眺めた後、胸のポケットから小指サイズの煙草を取り出し口に咥える。着火剤はないので、火は魔法で付ける事にした。簡単な詠唱と自己暗示のプロセス、小さな火をつけるぐらいの魔法ならば、誰でも出来る。ニーナは火の付いた煙草を吹かして少し感慨にふけった後、加えた煙草を持って、床に投げ捨てた。その後、ポケットにあったハンドサイズの油缶の蓋をあけ書ける。油は煙草の火で着火し燃え上がり始める。ニーナは自分の部屋に誰も入れないように机を動かし、 誰も入ってこれないようにした。
「ごめんね……。」
ニーナはそこにはいない少女に一言だけ詫びた。火は強さを増して、徐々に呼吸も苦しくなった。ニーナはそこに大の字になって寝て、静かに火が広がる天井を眺めた。
「これで、償いになるのかな……。」
そう呟いて強くなる火の手と煙の中でニーナずっとそれを眺めていた。死が迫る中でニーナは思う。
――これでいい。
そうこれでいい。父に償うにはこれぐらいの方法しか思いつかない。これが償いになるかすらわからないけども、これぐらいしか思いつかないのだから、これで――
「――いいわけないじゃないですか!」
そう叫ぶ声と共に水の塊が部屋に現れて爆発する。消えようとする意識の中で最後に効いたのが扉が壊される音だった。
* * *
―――声が聞こえた。いつかまどろんだ意識の中で聞いた声。
「ねえ、あなた。本当に帰るの?せっかくの旅行ですのに、わざわざそんな苦労をして取りに行くほどのものではありませんよ?」
「ほら、なんていうかさ、嬉しかったんだ。あれ、僕があの子に5年前にあげた奴だろう?それを今も大事にしてくれてたって聞いてたさ、こう家族の為の事なんて何もしてやれなかった父親で、あれぐらいのものしかあの子にあげる事は出来なかった。怒って捨てられているかもしれないとも思った、けれど――」
言葉は一旦止まり、その後、暖かい何かが私に注がれているのを感じる。
「けれど、僕でもこいつに何かを与えてやる事が出来た。そうわかったんだ。きっとこの子にとってはいつも家にいなかった僕との唯一の絆だったんだと思う。そういうつもりで渡した物じゃなかったのだとしても彼女はそう思って大切にしてくれた。だったらさ、あれは僕の半身も同然だ。あいつも一緒に連れて行ってやらないとな……。」
そして声は遠ざかっていく。永遠の喪失と共に静かに…。