現実世界に二つ名とかねえよ
「はい、じゃあ莉愛さん。5+3=?」
「ふぇ?えーと、んーと………」
問われた莉愛は、戸惑いながらも指を使って考える。
やがて数え終わったのか顔を上げて、
「えーと、8!」
「正解!よくできましたね」
それを聞いて、莉愛はパァッと顔を輝かせた。
「では次は宗司君。4+2=?」
「6です」
だが、すぐに俺の方を向いて頬を膨らませる。
「おお、本当に早いですね。宗司君は先にお勉強を始めていたのですか?」
「ああいえ、そういうわけでは………」
「そーくん、まいにちわたしとあそんでて、おべんきょうのじかんなんてなかった!」
「まあ、では独学でここまで?それは凄いですね!」
「あ、あはは………」
こちとら、四則演算はもちろんのこと、関数から微分積分まで完璧じゃい!
だが前世で勉強しました、なんて口が裂けても言えないが………!
と、いうわけでただ今、絶賛勉強中である。
結局リリスさんは、今日だけなら、という制限付きで俺が授業に出ることを認めてくれた。
最初は渋っていたリリスさんだが、俺も授業を受けると聞いてからの莉愛の手のひら返しを見て諦めたのだろう。
まあ多分、そうでもしないと莉愛が勉強しないことはリリスさんもわかっていただろうが、一応、家庭教師を雇うのにもお金を払っているのだから一日だけでも許してくれただけ十分だ。
「はい、では算数はこのくらいにして、次はひらがなのお勉強にしましょう」
「「はーい」」
目の前の女性は俺たちの返事に満足したかのように微笑んで、ひらがな練習用のドリルを取り出した。
このおっとりとした印象の赤ぶちメガネの女性が、莉愛の家庭教師の朝木暖子さん。
現在、大学一年生で、将来は教師を目指しているらしい。
一応、莉愛の母方の親戚にあたる人物だ。
「ありがとうございました、宗司君」
「ん?」
リリスさんが用意してくれた真っ白なコピー用紙に一通り五十音を書き終えた頃、朝木先生がそう声をかけてきた。
「いえね、あなたが協力してくれなかったら、莉愛ちゃんが授業を受けてくれなかったとリリスに聞いたものですから」
朝木先生は、俺の隣で、ドリルの前で悪戦苦闘しながらミミズが這ったような字で一生懸命に、さ行の練習をしている莉愛を見て言った。
………まあ、初めてなら誰だってこんなもんだろ。
「ああ、そういうことでしたか。それならお礼を言うのは僕の方ですよ。一日だけとはいえ無償で授業を受けさせてくれてるんですから」
「………やっぱり聡い子ですね、君は。本当に幼稚園児か疑っちゃいます」
「うぐっ、いやいやいやっ、僕幼稚園児だよ!ほらっ、ポケ〇ンとか妖〇ウォッ〇とか、僕だーいすき!」
「そんなに焦られると、冗談だったのに困っちゃいますね」
うぅ、やっぱりこの時期にここまでできるのは異常だったか。一応、掛け算は出来ないことにしてあるけど、俺も指を使って計算するべきだったな………。
ちなみに口調なんかはできるだけ子供っぽくなるように心がけてはいたが、所々でボロが出るからもう諦めた。ていうか容姿はれっきとした四歳児なんだからまずバレることはない。そもそも普通の人は転生者なんて阿保なことは考えつかない。よしんば頭に過ったとしても勝手に自分で否定してくれるはずだ、たぶん、きっと。
「そ、そんなことよりも!朝木先生はリリスさんと仲がいいんですかっ?」
苦し紛れに露骨に話題をずらしてみたが、気になっていたことでもある。
だって、名前で呼び合ってたし、朝木先生と話している時のリリスさんは、いつも通りの無表情ではあったけど心なしか和やかだったような気がしたのだ。
「ふふっ、ええ、そうですね。リリスとは一応、小中高と一緒だった幼馴染ですね」
「へー、そうだったんですか。………あの、リリスさんの無表情は昔から………?」
「ええ。リリスったら小学校で会った時からもうあの顔が板についてて。笑顔なんて、ずっと一緒にいる私でさえ数回しか見たことがないんですよ。あの子が周りからなんて言われていたか知っていますか?」
「い、いえ」
「”深窓の姫君”、ですって」
「お、おお。なんか、リリスさんらしいですね」
今のクールビューティーなリリスさんとはちょっと違うが、子供の頃は、それはもう可愛らしい人だったんだろう。
それに、ちょっと見方を変えれば物憂げな表情に見えないこともない。成程、確かに育ちの良いお嬢様と思う人もいただろう。
だが、なんとなく、それを言った朝木先生の表情には影が差しているように見えた。
しかし、そのことを聞こうとした瞬間には、すでに元のおっとりとした表情に戻っていた。
「さてと、では一度一区切りにしましょうか。どうやら、莉愛さんも限界のようですしね」
「え?」
言われて隣を見てみると、莉愛の手がな行に入ったあたりで止まっている。
どうやら、いつの間にか眠ってしまったようだ。
「んー、起こした方がいいですかね?」
「いえ、そのままにしといてあげましょう。莉愛さんにとっては、初めてのお勉強でしたしね。宗司君も、眠かったら一眠りしていてもいいですよ?」
「ああ、いえ。僕は大丈夫です」
「そうですか?では、私はお飲み物のおかわりを頼んできますね。宗司君はちょっと待っててください」
そう言って、莉愛さんは飲み終わった三つのコップを持って部屋の外に出て行った。
残された俺はやることがなくなり、なんとはなしに莉愛の寝顔を見てみる。
ホント、幸せそうな顔して寝てやがるよ、コイツ。
全く、男が隣にいるってのに不用心にもほどがあるぞ。まあ、まだ四則演算もまともにできないような子供にする心配ではないけど。
俺はなんとなく、莉愛の頭に手を触れて、そのまま撫でた。
うわ、莉愛の髪、ホントにサラサラだな。ヤベェ、ちょっとクセになるかも。
とまあ、そんな感じで我を忘れて莉愛の頭を撫でてたら、当然、起きてしまうわけで、
「ん、んぅ。………そーくん?」
「ああ、ゴメン。起こしちゃったね」
「ううん、いいよ。それより、もっとなでて?」
莉愛は、さっきとはまた違う幸せそうな表情で言う。
もちろん断る理由もないし、俺は朝木先生が戻ってくるまで莉愛を撫で続けていた。
「えへへー。そーくんのて、あったかーい」
「そう?」
尚、戻ってきた朝木先生にめちゃくちゃ弄られたのは余談だ。
* * *
「はい、じゃあ今日はここまでですね」
「ありがとうございました」
結局、あの後三十分くらいやってから再び莉愛が熟睡し始めたのを機に、今日の勉強はお開きになった。
ふぅ、小学生レベルとは言ってもやはり久々に勉強をしてみると疲れるな。
莉愛みたいに居眠りはしないが、俺にも少々眠気が出てきたところだったからちょうどいい。
一つ大きなあくびをし、俺が目をこすると、朝木先生が静かに微笑んだ。
「ふふっ、さすがに眠そうですね」
「ええ、まあそうですね」
出会ってからまだ数時間だが、この人ともだいぶ仲良くなれたと思う。
三剣家の人選なのだからもとから心配はなかったが、この人ならば莉愛を任せても大丈夫そうだな。
彼女の授業を受けるのは今日だけだから寂しくもあるが、まあこれからもここで教えるのだろうしまた会う機会はあるだろう。
「宗司様、お迎えの者が到着いたしました」
ノックの後、扉の外からそんな声が聞こえた。
この声はリリスさんだな。
「わかりました、すぐ行きます」
さてと、それじゃあ莉愛を起こさないとな。
あいつ、俺が黙って帰るとうるさいんだよな。
「おーい、莉愛ちゃん。僕もう帰るからねー」
体を揺すりながらそう言うと、莉愛の眼はゆっくりと開いて、やがてむくりと体を起こした。
「フニュウ、あれ、もうかえっちゃうの?」
「お迎えが来たってさ」
どうでもいいけど、なんかこう言うと死ぬ直前みたいだな。
「んー、わかったー。バイバーイ」
それだけ言うと、莉愛は再び眠りに落ちた。
ありゃ。これはもう今日は起きれんな。
しょうがない、ベッドに運んどいてやるか。
「宗司君は優しい子ですね」
その姿を見て、朝木先生はやはり微笑んでいた。
「いえ、父から女の子には優しくしろと口酸っぱく言われてるものでして」
「なるほど、さすが宗玄様ですね」
「父と会ったことがあるのですか?」
八金宗玄。今世の俺の父親であり、八金家現当主。
俺の祖父にあたる先代が急死したことにより、弱冠十五歳の若さで跡を継ぐことになった。
しかし、その手腕は義務教育を終えたばかりとは思えないほどの辣腕ぶりであり、その甘いマスクも相まって、一時はテレビにもよく出演していたらしい。
「ええ、パーティーで何度か話したことが」
「そうでしたか」
「そして、その度に口説かれています」
「ブフッ!?」
そして、極度の女たらしである。
きれいな女性を見たら口説きなさい、というのが家の家訓だ。
「父がとんだご迷惑を」
「宗司君が気にすることではありませんよ」
そう言われても。
だって朝木先生の顔、微笑んでいるのは変わらないのに印象が真逆なんだもん。
「フゥ、では私もそろそろ帰るとしましょうか」
「なんなら、家まで送っていきましょうか?」
「いえ、お気遣いなく。私の家はすぐそこなので」
「そうですか。では、せめて玄関まではお送りしましょう」
俺はそう言って、朝木先生に手を差し出す。
「………やはり、親子ですね」
「血は争えませんよ」
「フフッ、そうですね。ではよろしくお願いします。小さな紳士様」
朝木先生は、俺の手を優しく包むように握った。
いや、ほんと、前世じゃ考えられないくらいの社交力になったもんだ。
まともな三歳児の行動じゃないと思うけど、人間、やろうと思えば案外なんでもできるもんだな。
そんなことを考えながらも、俺は朝木先生の手を引いて玄関に向かった。
傍から見れば、俺が連れられてるように見えるだろうが、まあしょうがないだろ。
尚、そのことを後で聞いた莉愛がふくれっ面で文句を言ってきたのは、やはり余談である。