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 翌日。

 屋敷を抜け出すのは、思っていたよりも容易いものだった。祇鶴や殿守たちの多くは外に出払っており、屋敷の中にはほとんど誰もいなかったからだ。

 随身の俺は特に仕事も無く、少女――まゆを連れてこっそり抜け出すには都合が良かった。問題は帰りだが、昨日兼義が言ってたように、祇鶴たちの作業が終わる夕刻までに戻れば大丈夫だろう。

 実のところ、俺も屋敷の外には、祇鶴に付き合わされて数回しか出たことがない。土地勘などほとんど無いも同然だったが、ここの地形は月詠殿のある山を基準に考えると非常に分かり易かった。

 屋敷は山の中腹で、村はそこから下った南側の麓にある。さらに、川が村を貫くようにして流れており、向こう側の森の方まで続いているので、目印として申し分ない。

 市は、村の外れ――それなりに大きな街道沿いに立てられていた。道の両脇には簡素な作りの屋台がいくつも立ち並び、野菜や果物、ちょっとした小物なんかが雑多に売られている。

 千年前の市など想像もつかなかったが、行ってみると想像以上の賑わいだ。

「らっしゃ~い!」

「安いよ安いよ~!」

「お兄さん、お一ついかがだい?」

 あちらこちらから聞こえてくる呼び込みの掛け声。どこからか、鐘や太鼓の音までもが聞こえてくる。物を売るだけでなく、何か他の催しもしているようで、その活気はさながら祭りのようだ。

 こっちの時代に来てからというものの、屋敷の外にはほとんど出たことが無く、こういう騒がしいところには来たことがなかった。こういうのは、何となく懐かしい感じがするとともに、どこか新鮮な気分だ。

「わぁ……」

 隣を見ると、まゆが目を輝かせ、幼い子供のように辺りをキョロキョロと見渡している。

 まゆが着ているのは、薄桃色の小袖。兼義曰く京の上物らしいそれは、裾や袖の丈が適度に短く、動きやすそうな衣装だ。

「なるほど……これは、いいな」

 少女の姿を見て、感嘆の息を吐く。小袖を着たその姿は……縁日でよく見かけるありふれた少女のようで。

「どう? 似合ってる……?」

 おずおずと訊いてくる少女に、俺は力強く頷く。

「ああ、ばっちりだ。これなら――」

「……これなら?」

「――どこからどう見ても、平民だな!」

「あ……ありがとう」

 なぜか、困ったような笑顔を浮かべるまゆ。……俺、何か変なことでも言っただろうか?

「……まあ、取り合えずぶらぶらと歩くか」

「うんっ」

 俺の言葉に、まゆは嬉しそうに頷いた。その表情は、屋敷にいる時とは比べ物にならないほど明るく、生き生きとしている。

 ……まあ、無理もないか。屋敷では、ほとんどずっと、巫女として振る舞っているからな。

「渉くん」

 まゆが、くいくいっと、俺の服の裾を引っ張ってくる。

「あれ、何かな?」

 まゆが指さす先。そこには、赤く丸い根をもった植物が、筵の上に雑多に並べられていた。

「ああ。あれはたぶん、蕪だな」

「蕪って……蕪菜のこと? でもこれ、赤いよ……?」

「それは赤蕪っていう、根が赤いやつだ」

「へぇ~……」

 まゆは筵の上に置かれた蕪をじっと見て、

「――元気そうだね」

「元気そう!?」

 どうやったらそんな発想に至ることができるのか、未だに謎だ。

「じゃあこの小さいのも、蕪?」

「それは野苺だっ!」

 ……ダメだ。この時代の人間じゃない俺よりも常識がないとは……どうかしてるぞ、こいつ。

 しかしまぁ……楽しそう、だよな。屋敷にいた時なんかよりも、ずっと。別にまゆは、月詠殿が嫌いってわけじゃないんだろうけど。でも、巫女としてのあいつは、どこかいつも張り詰めていたような気がして。傍から見ていると――何だか窮屈そうに思えたのだ。

 今の、馬鹿みたいにはしゃいでいるまゆのほうが、ずっと生き生きしている。――そんな気がした。


 ――最期の、舞。


 兼義や祇鶴の言っていたあれは……どういうことなのだろう。結局、その意味を問う前に、こうして屋敷の外に出てきてしまった。

 ただの、勘違いかもしれない。杞憂なのかもしれない。だが……どうにも嫌な予感が拭えない。

 もし、あの儀式でまゆが――

 ……それなら、いっそ。

 このまま、屋敷に帰らないほうが――

 そんなことを思っていると、ふと、まゆが立ち止まった。

「どうした?」

「あれ……」

 そう言ってまゆが指差したのは、飴色の宝石。整然と筵に並べられ、陽の光を受けて淡く輝いている。

「きれい……」

 削って形を整えられ、紐にとり付けられたそれは――琥珀の飾り。まゆの目は……さながら、俺のマフラーの時のように釘づけだ。

「なんだいお嬢ちゃん、これがほしいのかい?」

 店の番をしている、気さくそうな商人が聞いてくる。

「うん。これ、何かな?」

「琥珀か……。よくこんなに沢山作ったな」

「……おうおう、俺より先に答えおって。兄ちゃん、俺の仕事を取る気かい?」

 商人はからからと笑い

「ほら、見てみな、嬢ちゃん。……綺麗だろう」

 そう言って商人は、数ある琥珀の飾りの中から一つを取る。

「こいつが一番、大きくて綺麗なやつだ」

 まゆに手渡されたそれは、大きな雫の形に削られている。光を弾きながらも透かすそれは、まるで、太陽の輝きが固化したようだ。

「きれい……。……でも、わたし何も持ってないし」

 そう言って、少し落ち込んだ表情を見せるまゆ。その時……


「なに? あんたたち、これがほしいの?」


 ――突然。

 後ろからかけられたのは、活発そうな少女の声。

 振り向くと、十五、六歳のほどの少女が、腰に手を当てて立っていた。

 上に纏っているのは、狩衣に似た桜色の上着。下は臙脂色の袴を履き、鮮やかな紅色に塗られた弓と、矢筒を担いでいる。その出で立ちは、まるで武士のようでもあるが、同時に少女らしい華やかさも備えていた。カラッとした雰囲気の表情と、肩の上で短く切りそろえられた髪は、彼女に活発な印象を与え、勇ましさと可憐さをほどよく同居させている。

 彼女は、勝ち気な印象を湛えた瞳で、値踏みをするようにその品物を見つめていた。

 ――というか、誰だこいつ……?

 まゆの知り合いかとも一瞬思ったが、それはあり得ない。月詠殿にこんな奴はいなかったし、屋敷の外にまゆの知り合いなんているはずもないのだから。

「あんた、この子の連れ?」

 訝しく思う俺をよそに、彼女はそんなことを訊いてくる。

「まあ、そうだが……」

「見たところ、普通の平民って感じじゃないわね」

「あ、あぁ。まぁな……」

「それだったら、何か交換できそうなものとか持ってないの?」

「いや、そう言われてもな……」

 金になるもの……ってことだろうが、あいにくとそんな高価なものは持ち合わせていない。とりあえず何かないかと、服の袖口を探ってみるが……

「あるとしても、これくらいか……」

 出てきたのは、紫色のハンカチが一枚。俺が現代から持ってきたもので、手拭いの代わりにでもなるだろうと持ち歩いていたものであるが、

「――それ、ちょっと貸して!」

 何を思ったのか、彼女はそのハンカチを目にすると、勢いよくそれを取り上げた。

 そして、それをまじまじと見つめた後――

「……ねえ。あんたたち、その琥珀が欲しいのよね?」

 ずぃ――と、顔を近づけてくる。

「あ、あぁ……」

「一つでいいの?」

「一つでいい……んだよな?」

 一応、まゆに確認を取ると――こくんと頷いた。

「ん、りょーかい」

 目に見えない圧力で流れるように話を進めると、彼女はにんまりと、いかにも何かを企んでいそうな笑みを浮かべる。

「じゃあさ。この布、私にくれない? そのかわり、琥珀は私が買ってあんたにあげるわ。それなら文句ないでしょ?」

「まあ……、そういうことなら別に構わんが」

 このハンカチも、どうせ、百均で束買いしたものだしな。

「じゃあ、決まりね」

 そう言って、彼女はパンと手を打つと、「はい」と、俺に手を差し出してきた。俺は、言われるままに紫のハンカチを手渡す。

「おい、そんなもん一体――」

「ねぇ、おじさん。この布なんだけどさ……」

 俺の話など華麗にスルーし、商人に向けてハンカチをひらひらさせる彼女。

「おい。嬢ちゃん、そいつは……」

 驚きの表情を浮かべた商人は、そのままそのハンカチをとろうと手を伸ばす。しかし、彼女はそれをひょいと上に持ち上げ、

「あのさ。私たち、その琥珀がほしいんだけど……」

 ハンカチを頭上でひらひらさせながら、商人と話を進める。

「……いくつ、ほしいんだい?」

 生唾を呑みこみ、そう訊ねてくる商人に、彼女は満面の笑みで答える。

「ううん、琥珀は一つでいいの。その代わり、おじさんの後ろにあるその食糧……全部頂戴」

「おいおい、こいつは売り物じゃ――」

「あ、そう。なら琥珀だけでいいわ。それじゃあ、交換するのはこの巾着になるけど……それで、文句ないでしょ?」

 そう言って、彼女は腰につけてある巾着を外そうと、

「いや、ちょっと――」

「どうしたの? 食糧売ってくれる気になった?」

「……そうだな、半分ならどうだい?」

 少女はその言葉を受け、しばらく何やら考えた後、「……あなた、このあたりの人じゃないわよね。国はどこ?」と聞いた。

 国というのは、出身地のことだろうか。そんなもの聞いて、一体どうするというんだろう。

「国は、近江の方だが……」

「淡海のあたり?」

 淡海……って、今で言う琵琶湖のことか?

「ここからだと、淡海の真反対になるな」

「ということは、急げば二日で帰れるわよね」

「え……?」

 ポカン、と、間抜けな表情で口を半開きにする商人。

 そりゃそうだ。そんなペースで琵琶湖縦断など、ほとんど競歩みたいなものだろう。

「じゃあ、二日分の食糧は残しておいてあげる」

「そんな、国を離れて商売人として生きていこうと思って出てきたのに……。せめて、四日! 四日残して――」

「じゃあ、この布はあきらめることね。他を当たるわ」

「待ってくれ!」

 商人は、再び巾着を取ろうとする少女を慌てて制する。

「どうするの? 買うの、買わないの?」

「それは……」

 いつの間にやら、売り買いの立場が逆転してるぞ……。

「そう。じゃあ……私が十数える間に決めないなら、この布は諦めることね。一、二、三……」

「いやでも……ちょっと待って――」

「待たない。七、八、九……」

「わかった! わかったよ!」

 商人は頭を抱え、なかばヤケクソ気味にそう叫ぶ。そんな様子を見て、満面の笑みを浮かべる彼女は、

「じゃあ、交渉成立ね。はい、これ」

 そう言って、商人にハンカチを手渡す。してやったり、という顔が無性に恐ろしい。

 何だかよくわからんが……相当な鬼畜っぷりだな、こいつ。

「……くそっ、もってけ泥棒!」

 商人は半泣きになりながら、後ろに積んである食糧らしきものをほとんど手渡した。

「泥棒とは失礼ね。私は、この布に見合うだけの正当な対価を要求しただけよ」

 悪びれもせずに言った彼女は「じゃあね~」と手を振り、こっちに戻ってくる。

「はい、これ。約束してたやつ」

「え? なんで俺に?」

 商人から琥珀の飾りを受け取った彼女は、それを何故か俺に渡してきた。

「あんたの布で買ったんだから、あんたのもんでしょ?」

 そう言って彼女は、まゆの方をくいくいと指差す。どうやら、俺から渡してやれということらしい。別に、そんな回りくどいことしなくてもいいと思うんだがな。

「……ほら」

 俺は、その琥珀をまゆに渡してやる。

「ありがとう……」

 まゆは、受け取った琥珀を両手でそっと握りしめた。

「いやぁ、あんたのおかげでいい買い物ができたわ。お礼言わなくっちゃね」

 そう言って彼女は、背中をバシンと叩いてくる。

「いや、礼を言うのはこっちの方だ。というか、さっきのは一体どういうことだよ?」

「それを聞きたいのはこっちよ。あれって、禁色じゃない」

「キンジキ……って、なんだ?」

 俺の言葉に、彼女は驚いたような表情を浮かべた後、

「位の高い貴族の人しか身につけることのできない色ってことよ。あんなものどこで手に入れたの? どう見てもあんた、高貴な貴族ってわけじゃないわよね」

 何か今、サラっと失礼なことを言われた気がするぞ……。

「まあ、どこって……俺も偶然見つけて、安かったからついつい買っちまったというか……」

 ……百均で。

「安かったからって――」

「おーい!」

 その時、遠くから声が聞こえた。

「おーい、飛鳥!」

 向こうの方から歩いてきたのは、十七、八歳頃の快活そうな青年。短く無造作に切られた短髪に、がっちりとした長身。その顔には爽やかな笑みを浮かべている。そして最も目についたのは……、両腕の下腕から掌の先まで覆う、黒い手甲。漆黒に塗られたその手甲は、鎧のそれよりもはるかに重厚そうなシロモノだ。

 青年は青年で、どこぞの武人のような出で立ちではあるが……その手に持っているのは、武器ではなく、米や野菜などの食糧。

「ったく、遅いわね」

「しゃあねぇだろ」

 飛鳥と呼ばれた少女は、青年の持った荷物をじろじろと見て、

「何、隼人? あんた、食べ物なんか持ってきたの。もう手に入れたのに」

「……いや、お前が買えって言ったんだろ!」

 隼人は全力でツッコみ、それからこちらを向く。

「……で、そっちの二人は?」

「あ、そうだ。私たちまだ自己紹介してなかったっけ」

 飛鳥はポンと手を打って笑い、

「私は、飛鳥。で、こっちの男は隼人ね」

「おう、よろしく」

 隼人は手を挙げて、気さくに笑う。

「それで、あなたたちは?」

「俺は、神楽渉。こいつは……まゆだ」

 我ながら、名前を付けておいて良かったと思う。平民のふりをして出て来ながら、まさか巫女だなんて名乗れないわけだし。

「渉に、まゆね。よろしく!」

 飛鳥の言葉に、まゆは――なぜかとても嬉しそうな顔で頷いた。



 その後、俺たち二人は、飛鳥と隼人に連れられ、四人で市を見て回ることになった。

 俺もまゆも市に来るのが初めてだと知ると、「じゃあ、一緒にまわろっか!」という飛鳥の言葉で、みんなで行動することになったのだ。

 そうして、騒ぎに騒いだひと時はあっという間に流れ。

 俺は、太陽が徐々に傾きかけているのに気がついた。

 祇鶴が帰ってくるのは夕方だったか。なら――

「なあ。俺たち、そろそろ帰ろうと思うんだが……」

 ここらで切り上げるのが妥当か。そう思っての発言だったが、

「何言ってるのよ、市はこれからが本番じゃない! ほら、飲んで食べて見て回って、最後までパーッといくわよっ!」

「……まあ、そこまでしろとは言わねぇけどさ。お前ら、初めて市に来たわけだろ? それならせっかくだし、最後までゆっくり楽しんでったらどうだ?」

 飛鳥と隼人は、そう言って屈託のない笑みを浮かべる。

「いや、でも……」

「ちょっと隼人! これおいしそうじゃない?」

「お前、さっきあんだけ食糧買っただろ!」

 さすがにあまり遅くなってはと思い食い下がるも、三人はもう、向こうの方に行ってしまっている。

 それに……楽しんでいるまゆの顔を見ていると、強引に二人の誘いを断るのも気が引けて。結局俺たちは、二人に連れられるがままに市を歩いた。

「……これは?」

 まゆが指さしたのは、竹で編まれた四角い籠。

「ああ、それ、水口細工でしょ? ここの名産品よ」

「ここって、淡那の?」

「というより、近江のだろ」

「へ~、こんなのあったんだ……」

 まゆは籠を両手で持ち、しげしげと眺めている。

 二人が加わってからのまゆは、本当に楽しそうで、見ているこっちまで顔が綻びそうになる。まあ、今までずっと屋敷の中で過ごしてきたんだ。こういうみんなで歩くお祭りみたいなのは、経験したことも無かったんだろう。だが、祇鶴たちが仕事を終え、屋敷に帰ってくる時間が近づいてるというのもまた事実で……

「なあ、そろそろ――」

「ほらほら、次はあっちに行くわよ!」

「お、あれも面白そうだな」

 言葉の続きは二人の声にかき消され、こんなことならもう少し早めに切り出すべきだったと軽く後悔。その後俺たちは、そう言う二人に、仕方なくついて歩いた。

 早くしないと、祇鶴たちが仕事を終えて帰ってくる。そうなるとさすがにちょっと厄介だ。その前にはなんとか月詠殿に帰らないと――

「渉くん、渉くん」

 見ると、まゆがこっちに向かって手招きをしていた。

「ん、なんだ?」

 俺が三人の元へ向かうと、まゆが差し出してきたのは、木製の小皿に入った水あめのようなもの。

「これ、食べてみて」

 まゆに促され、俺は一口舐めてみる。

「甘いでしょ?」

「……確かに。なかなか甘いな。なんていうんだ、これ?」

「それは、甘葛煎よ」

「甘葛を煎じて煮詰めたもんだな。結構貴重なもんだから、こういう市なんかに売られてるってのは珍しいんだが」

 飛鳥と隼人が、それぞれ説明をしてくれる。

「……結構、色々知ってるんだな、お前ら」

「そりゃまあ、あちこち旅して回ってるからね」

「おうよ、なんたって俺たちは――」


「――祓妖師殿!」


 その時……向こうの方から声が聞こえた。見ると、腰の後ろに手を回した一人の老人と若い男が、こちらに向かって歩いてくる。

 老人は、飛鳥と隼人に向かって頭を下げた。

「祓妖師殿、少し来ては下さらぬか」

「どうしたの?」

「妖でございます。村外れで人が襲われまして」

 老人は、落ち着き払った声で二人に話しかける。というか――

「祓妖師って、お前ら……」

「ああ。俺らはいわゆる、旅の祓妖師ってヤツでな」

「旅の途中で依頼を受けて、妖なんかを退治して回ってるのよ」

 飛鳥と隼人は、まるでいつものことのように軽く、自分たちの正体を告げた。

「つーわけで。ちょっくら、行ってくるわ」

「楽しかったけど、あなたたちとは、ここでお別れね。まゆ、渉。それじゃ!」

 そう言い残すと「では、こちらへ」と言う若い男に連れられ、二人はどこかへ行ってしまう。

「すまぬの。楽しんでおられたところ、無粋な真似をして」

 若い男に連れられて去って行く二人の姿を見送ってから、老人はこっちに話しかけてきた。

「この辺って、結構妖怪――妖とか出るのか?」

「うむ……。昔は妖もよく出ておりましたが、最近はめっきり少なくなりましたな」

 そう言って老人は、少し顔をほころばせ、

「まあこれも、巫女様のおかげでございます」

 ……巫女様のおかげ?

 ちらりと横目でまゆの表情を見ると、どこか嬉しそうな顔をしている。そうか。こいつが魂鎮めの舞で妖怪たちを成仏させてるから、村からどんどん数が減っているのか……。

「それにしても、あのお二方がいてくださって助かりましたわい」

 老人はありがたやありがたやと、仏でも拝むようにしみじみと言う。

「あんたは……あいつらと行かないのか?」

「わしみたいな老いぼれが行っても邪魔になるだけですからの」

 老人は息を吐き、

「わしも一応、いまだに郷長ということになっておりましてな。市や村を守らねばなりませぬ」

 郷長……? 郷長って、確か昨日兼義が……。じゃあ、爺さんが言ってた旧友って、この人だったのか……。

「今度の妖は、土蜘蛛という奴でありましての。妖の中でも特に厄介な相手。その身体は虎よりも大きく、その脇腹には数多のしもべ妖怪を抱えておると聞き及んでいます。そこらにいる並の祓妖師では話になりませぬ」

「そこらのって……じゃあ、あの二人、そんなに強いのか?」

「旅の祓妖師なんぞ、生半可な腕では務まりませぬゆえ」

 そういうもの……なんだろうか。俺たちと一緒に居た時は、全然、祓妖師という感じはしなかったが。

「しかしまた、なにゆえ森から出てたのですかの。普段は森の中にいるか、出てくるにしても水辺が多いと聞きますが……」

 老人――村の郷長は、誰に言うとでもなく一人ごちて市の喧騒を見渡し、

「若いの、こんな老いぼれの話に付き合わせてしまって、申し訳ありませぬ。わしは市の様子でも見てくるとしましょうか」

 そう言って、どこかへ行ってしまった。

「やれやれ……兼義め、こんな老いぼれに仕事なんぞ押し付けおって……」

 ……兼義。本当に相変わらずだな、あんたは。

「行っちゃったね……」

「……そうだな。じゃあ、俺たちもそろそろ――」

 帰るか、と言おうとした、その時。

 ふらっ、と。まゆの身体が傾いて――

「……おいっ!?」

 力の抜けたその身体をとっさに支え、名前を呼びかける。

「まゆ。……まゆっ!」

 目を閉じたまま動かない少女は……

 ――すー、すー……と。静かに寝息を立てていた。

「はは……。ったく、驚かせるなよな……」

 ほっ、と。体から力が抜ける。

 その時。ぽとり、と。足元に何かが落ちた。紐飾りがついた飴色のそれは――琥珀。

 地面に落ちたそれを拾い上げると、ほんのりとした温もりが伝わってくる。

「こいつ……今までずっとこれを握りしめていたのか」

 俺は軽く土を払って、とりあえずそれを自分の懐に入れた。

「渉……くん? あれ? わたし……」

「お、気が付いたか。……ったく、急に倒れるから驚いたぞ」

 ぱちりと目を開けたまゆは不思議そうに俺を見て――それから自分の体勢に気付き、「わわっ」と、慌てて身体を離すが、

「……おいっ!?」

 ふらついたまゆの身体を、再び支える。

「お前……無理してるんじゃないだろうな」

 よく見ると、どこか足元がおぼつかない。こいつ、もしかしたら市を回ってた時からずっと……

「大丈夫だよ。ほら、早く帰――」

「――ダメだ」

 まゆの言葉を遮り、俺は少し強い口調で言った。

「少し休むぞ。こんな状態じゃロクに山も登れないだろ」

 背負って帰るという手もあるが、さすがにそれは、屋敷の中に入る時に面倒だ。

「…………ごめんなさい」

「いや。さんざん連れ回した俺も悪いからな。あんまり無理するんじゃないぞ」

 頭を下げるまゆの手を引いて、近くの倒木に腰を下ろさせる。

 まあ今は、祇鶴が帰って来ないのを祈るしかないだろう。



 市の喧騒を離れ、静かな場所で浴びる風は心地よい。

 やはり俺には、騒がしい所よりも静かな場所の方が性に合っているようで。傍らに座っているまゆも……それは同じなのかもしれない。

 そう言えば、こっちに来てからというもの、こうして外で景色を眺めることなんてほとんどなかったな。

 遠くに見える山の稜線や、黄昏時の燃えるような空の色は……いつの時代であっても変わらず。人の営みもまた、それは同じなのかもしれない。市に賑わう人々の姿は、活気に満ち溢れており。むしろ、俺のいた時代よりも生き生きとして見えた。

「あれ……なんだろ?」

 ふと、まゆが不思議そうな声を上げた。

 少女の指さす先には、賑やかな市の中でも、一際大きな人だかりがあった。その中心では、太鼓や銅鑼をもった坊主たちが、何やら念仏らしきものを唱えながら、楽しそうに踊っている。

 念仏といっても、淡々としたお経のようなものではない。独特の拍子や音程を付け、さながらそれは、歌を歌っているようだ。さらに坊主だけでなく、彼らの周りを囲う人たちも、奏でる拍子に吊られるように、一緒になって踊っている。

 その様子は、まるで市の賑わいを集約したかのように、とても楽しげなものだった。

「あれは……踊り念仏、か?」

「踊り念仏?」

 まゆは、きょとんとしながら訊いてくる。

「ああ。人々が覚えやすいように、音楽や拍子を付けて、踊りながら念仏を唱えるものらしいけど」

 まぁ、これは歴史の教科書の受け入り……というか、そのままの内容を言っただけのもので、俺も実際に見るのは初めてだった。

 まゆは、その様子を眺めて……ちょこんと、首を傾げる。

「なんのために、そんなことするんだろうね?」

「何のためってそりゃ……あれだろ。人生ままならないこととか、思い通りにならないことってのはいっぱいある。でも、みんな諦めきれないんだよ。頑張っても結果が出ないかもしれないことはわかってても、だからこそ一縷の望みをかけて、神様に頼りたくも――」


「――神さまなんて、いないんだよ」


 その時――世界から音が消えた。

 上を向いた少女の顔は、眩しすぎる陽の光で見えなくて。

 まるで、さっきの言葉が、夢か幻であったかのように。

 空を見上げる少女の姿は、いつものまゆで。だからこそ、このまゆは、妙ちくりんで夢見がちなことを言う、いつものまゆのはずで。

 それなのに、俺は。なぜか、この少女がどこか遠くへ行ってしまうような……そんな感覚に捕らわれた。

 沈黙に耐えきれなくなった俺が、何かを口にしようとした、その時……

 ――ふわりと、夕陽の光が和らいだ。

「渉くんは、太陽を追いかけたこと、ある?」

「……太陽?」

 夕陽の赤に照らされる中、少女は、懐かしい日々を思い出しているのか、古いお伽話でもするように、語り始める。

「それか、月。わたしなら……月かな。小さいころ、よく追いかけてた」

 少女の視線の先には、果実のような太陽が。

 山際のすぐそばにあって空を赤く染めているそれは、心なしか大きく――近く。

 このまま落ちてきそうなほど、間近にあるように見える。

「でもね。追いかけても、追いかけても……全然届かないんだ。どれだけ近くに見えたとしても……それ以上、追いかけることはできなくて」

 そう語る少女の瞳は、もう太陽の方へは向いておらず。

 だけど、その目が見つめている場所は、空よりも遠いところに、見えて。

「太陽も、月も。どんなに手を伸ばしても、どんなに走って追いかけても。それは、手に届くものじゃないんだって知って。だからわたしは、追いかけることを諦めた。手の届かない空なんかじゃなくて、ここに。わたしが欲しいものは、ここに作ればいいんだって」

 少女の視線が指す先は、山の――月詠殿の方。

「だからね。神さまなんて、いないんだよ」

 陽の光の傍で影を映す山を見る少女の表情は、ここからは見えず。

 けれど、少女の後ろ姿を縁取る柔らかい輪郭が、それを映している気がした。

「神さまはね、たとえいたとしても、何かを与えてくれるわけじゃない。何かをしてくれるわけじゃない。どれだけ願っても、その願いは届かない。だったらそれは、いないのと同じだよね」

 そう言って少女は、くるりと身体を回転させて、笑顔を受ける。

 その拍子に、長く柔らかい髪がふわりと宙を舞い、着物の袖が花弁のように広がって。

「今日は、本当に楽しかった。これが、外の世界なんだなってわかって。だから……守らなきゃ」

 少女は、何かを仕切り直すように。あるいは、何かを始めるように、言う。

「……渉くん」

 その瞳を見た瞬間。

 この少女に覚えたのは、途方もない恐怖。冷えた風が全身の肌を撫で、骨の髄を締め付けられるような感覚を覚える。

 怖いのは、少女そのものではなく――

「渉くんに、大切なお話しがあるの」

 それは、覚悟を決めた人間の目で。確固たる意志の光を湛えた眼が、俺を射抜く。


「わたしは、月詠の儀で――」


「なぁ、まゆ」

 だから、なのだろうか。俺は遮った。

「このまま……どこか遠くへ行かないか? ほら、飛鳥や隼人とさ。あいつら、旅してるだろ。一緒に四人でさ。月詠殿のことなんか忘れて、どこか遠くに……」

 自分でも何を言っているのかわからなかった。気付けば俺は、がむしゃらに口を動かし、考えも纏まらないまま、そんなことを口走って、

「それなら外の世界、もっと沢山見れるじゃないか。月詠殿なんかに引き籠ってるよりもさ、そっちのほうが――」

「――あ、妖じゃ!」

 突如。――地面が爆発した。

 土砂が舞い上がり、周囲のものは巻き起こる風によって吹き飛ばされる。

「な……ッ!?」

 咄嗟にまゆを庇い、宙を舞い飛んでくる品々からその身を守る。

「ひぃ!」

「なんじゃこれは!?」

「土蜘蛛じゃ! はよう逃げよ!」

 平穏だったはずの市は、蜂の巣を突いたような騒ぎになった。簡素な作りの屋台は柱からへし折られ、危うく屋根の下敷きになりかけた人々が、品物を放り捨てて次々と逃げ出す。

「あれは…………」

 束の間吹き荒れた暴虐の嵐は止み、飛ばされた砂はぱらぱらと地に落ちる。

「妖怪……土蜘蛛かっ!」

 それは確かに、蜘蛛のカタチをしていた。だが、人の背丈にも勝るその大きさは、そして、その顔にあたる部分にある漆黒の鬼面は、普通の生物では断じてあり得ない。

『怨……』

 鬼面からぞわぞわと響いてくる、妖怪の声。その片側の目に、不気味な青い炎が灯る。

『……傀儡蟲(くぐつちゅう)

 瞬間、土蜘蛛の腹が裂けた。

 割れた亀裂の奥底から這い出してくるのは……蜘蛛の大群。一つ一つの大きさが小さな犬ほどもあるそれらが、俺たちを囲い込もうとする。

「……まずい。とにかく逃げ――」

「――待って」

 その手を引き、走り出そうとした俺の手を。まゆは、逆に引き返した。

まゆはその場から動こうとせずに、首を振って、言う。

「妖怪の狙いは……わたしだと、思うから。だからせめて、みんなが逃げる時間くらいは稼がないと」

「妖怪の狙いはって、まさかお前――」

 ――吸引体質……なのか?

 そう言いかけた俺の手を、まゆはそっと掴む。

「――お願い、渉くん」

 少女の掌から伝わる体温は、ほんのりと温かくて。俺は、どこか浮き足立っていた心が、自然と落ち着いていくのを感じた。

「…………言ったからな」

「え……?」

 まゆは、俺が何を言っているのかわからないという顔で首を傾げる。

「言っただろ。俺が、お前を守ってやるって」

 ――直後。

 蜘蛛の大群が、こちらへ向かって一斉に襲い掛かってくる。

「――くッ」

 殺到する蜘蛛たちに、刀で応戦。一匹ごとの強さは、大したものじゃない。向かってくる敵を一太刀で切り捨て、次々と敵を倒してゆく。剣術もへったくれもない、ただの殲滅。

 だが……戦況はすぐに硬直する。

 数が、多すぎるのだ。斬っても斬っても、次々と湧いてくる蜘蛛。一体一体の霊力なんて、それこそあってないようなものだが、まゆに指一本触れさせるわけにもいかない今、防戦に回り、虱潰しに敵を倒すことしかできない。

(まずいな……)

 次々と押し寄せてくる敵を刀で捌き、薙ぎ払いながら思考する。このままじゃ消耗戦だ。体力勝負になればこちらが不利なのは目に見えている。

(くそっ……こんなやつら、霊気弾の一発でも撃てたらどうとでもなるのに……)

 そんな時、唐突に樹の顔が頭をよぎる。

(俺はまた、あの時みたいに……。――考えろ。今の状況を打破する一手を……! こんな時、あいつなら――)

 思考は一秒。

「すまん――ッ!」

 俺はまゆの方へ振り向き、謝罪するとともに、その両足を――薙ぎ払った。

「え――?」

 払い腰の要領で下半身を刈り取り、一瞬だけ宙に浮く身体。それが落ち始める前に、両足の下に左手を差し入れ――抱きかかえる。

 そして――石火抄。

 霊気爆発を起こした足裏で地面を蹴り、一気に加速。ほとんど地を這うように跳び、包囲の隙間を縫って一気に離脱。何度か地面を蹴って速度を維持し、敵の大群との距離を大きく開ける。

「ふ――ッ」

 着地の瞬間に身体を回し、勢いを殺す。大きく弧を描いた足が土煙を上げた。

(……なんとか、できたか)

 石火抄は、微妙な足捌きや重心の不備で容易くバランスを崩してしまう、難易度の高い技だ。ましてや人一人を抱えて、しかもこんな長距離を跳ぶのは初めてだったが……上手くできたみたいだな。

 きょとんとしているまゆを地面に下ろし、前へ出る。敵の進路はこれで限られた。傀儡の蜘蛛は数こそ多いが、一体一体は弱く、動きもさほど早くはない。

 刀を片手で水平に構え、もう片方の手を刀身に添える。

「――はッ」

 大きく前に踏込み、刀を一閃。狙いは、正面から向かってくる蜘蛛の群れ……ではなく。

 その横にある、屋台の柱。

 屋根を支える柱を切り落とされ重力に従って落下しする店の屋根は――ズンッッ!! と音を立て、蜘蛛の群れに上から伸し掛かり、一気に押し潰す。

「やった……か?」

 土煙を上げて屋根の下敷きになった蜘蛛たちを確認し、

「きゃ――!?」

 後ろから、まゆの悲鳴。

「まゆ!?」

 慌てて振り返ると、そこには……いつの間にか背後に回り込んでいた蜘蛛の本体が、その脚を構えていた。

 片目が燃え上がる鬼面から受けるのは、明確な殺意。

 ――まずい!

 刀を構え直し、土蜘蛛からまゆを庇おうと動きかけた――その時。


「――妖を囲えッ!」


 声のした方へ振り返ると、狩衣を着て、弓を持った連中がこちらへ走ってくるのが見えた。あれは……殿守?

『誰……だ』

 土蜘蛛の注意はまゆから逸れ、殿守たちの方へと向く。その隙に俺は、

「逃げるぞ!」

 まゆの手を引いて走り、土蜘蛛から逃れた。入れ替わるようにしてやって来たのは、大勢の殿守たち。だが、それらを覆い潰すかのように、土蜘蛛から出てきた新たな傀儡蟲が次々とその数を増やしてゆく。

「ひぃっ!? なんじゃこの妖は!」

「こんなに数多く……どうするんじゃ!?」

「こんなもの、相手にしておったらきりがないぞ!」

 狼狽える殿守たちは、口々に叫びながらも土蜘蛛を包囲するように動く。

「怯むな! 円陣で一気に叩く!」

 殿守たちを一喝したその声は、祇鶴のものだ。土蜘蛛を囲うように陣を敷いたその中で、祇鶴は毅然と立ち、年上であるはずの殿守たちに指示を飛ばしている。

「構え!」

 祇鶴は掛け声とともに刀を振り上げ、それを合図に、殿守たちは一斉に弓を構える。そして、


「――矢梢円陣!」


 祇鶴が刀を振り下し叫んだその瞬間――無数に鳴り響くのは、弓弦の音。周囲から一斉に飛んだ矢の雨は次々と地面に突き立ち、妖怪たちを丸ごと囲む円となる。

「これは……」

 梢のように突き立った数多の矢から迸るのは、光の筋。白く燐光を放つ霊気が陽炎のように立ち上り、妖怪たちを囲む壁を成す。

『ぬォおおおおおッッ!?』

 呻き声を上げる土蜘蛛。円陣に囲まれた傀儡蟲は、全てその動きを止め、身体を転がして痙攣している。まるで、この円陣に動きを縛られているかのように。

「矢を絶やすな! 打ち込み続けよ!」

 祇鶴の声とともに、絶えることなく矢が打ち込まれていく。円陣を作る矢はさらにその数を増やし、光の束縛を維持し続ける。

 だが――

『――おァアアアアアアアアアアアアアッッ!!』

 鬼面が――吠えた。片目の炎がその勢いを増し、大きく膨れ上がる。

「何――ッ!?」

 バギリ、と。土蜘蛛の――本体の伸ばした足が、円陣を作る矢の一部を、力任せにへし折る。

 光の縛鎖が緩み、動きを取り戻した土蜘蛛は、その脚で――地面を掻いた。

「あいつ……まさか地中に!?」

「逃がさん!」

 祇鶴の方を見ると、奇妙な構えをとっていた。

 掌を上にして左手を前に突き出し、右手一本で持った刀を肩に乗せ。その左手からは、群青色に輝く霊気が溢れ出す。左手の掌上に生み出された霊気の塊は、霊気弾なんかとは比べものにならないほど大きくなり――

「――鎌鼬」

 言葉と同時、祇鶴は左手に保持した霊気の塊を、右手の刀で切り裂いた。

 爆散する霊気の塊。その中から飛び出したのは――霊気の刃。小さいながらも霊気弾とは比べものにならないほどの輝きを持ったそれは、地面に体を埋め、まさに逃げようとしていた土蜘蛛の腹を掠め――その一端を消し飛ばす。

 ……餓舎髑髏の時に見た霊気弾なんかとは、全然違う。掠っただけで……この威力なんて。

『――ぐぅぁアアッッ!?』

 悲鳴を上げながらも、地中に潜り込む土蜘蛛。そのまま何かをする暇も無く、妖怪の姿は――消えた。

「くっ、逃げられたか……」

 祇鶴は息を吐き、

「とにかく、小さいのを仕留めにかかれ。今は気を失っているが、起きられては――」

「――待って」

「……巫女、様? 何故、斯様なところに――」

 祇鶴の言葉を遮り、まゆは一歩前へと踏み出す。

「あとは……わたしがやります」

 堂々と言い放った少女の、その手には。黄金に輝く杖が、いつの間にか握られていた。



 ――少女が舞う。

 髪を揺らし、裾をなびかせ。

 杖の鈴の音を鳴らして――少女は舞う。

 魂鎮めの、舞を――

 そして……やはり、意識の深奥に走るのは、あの感覚。――魂の、疼き。

 それは、あの傀儡蟲一体一体にも、魂が宿っているという何よりの証で。


 ――しゃらん。


 一際大きく鳴り響く、鈴の音。少女は、金色の杖を真横に振り切る。、

 地に転がる蜘蛛たちの身体を通り過ぎるように。微かに見えたのは――一筋の銀色。

 鳥の飛跡のようなそれが、刹那のうちだけ虹の残像のように浮かび上がり――


 死者の――花が咲く。

 風に吹かれた花弁のように呆気なく。身体を散らした無数の残像を、しばしの間まゆは見つめ――

 ――ふらりと、その身体が揺れた。

「まゆ――!」

「――巫女様ッ!」

 異変に気付いて飛び出そうとした俺よりも早く。祇鶴は、その身体を支え、そっと両手で抱きかかえる。

「大……丈夫、です……。ちょっと、疲れただけだから……」

 そういうまゆの顔は、先程にも増して紅潮しており、息も絶え絶えと言った様子だった。以前、餓舎髑髏戦で見た時より、明らかに体力を消耗している。

 ――これが、朔の禍刻の前触れか……。

「貴様らは、巫女様を社殿にお連れしろ」

 祇鶴は、近くの殿守にまゆを預ける。その声は、異様なほどに静かだった。

「し、祇鶴殿は……?」

 おずおずとそう訊いてくる殿守に、祇鶴は恐ろしく平坦な口調で答える。

「此奴と話がある。貴様らは……先に帰れ」

「は、はっ……」

 殿守たちは、まゆの身体を丁寧に抱えると、それ以上は一言も喋らず、こっちを見向きもせずに足早にその場を去って行く。

 そうして――後に残されたのは、俺と祇鶴だけになった。



 殿守と、彼らに運ばれるまゆの姿が見えなくなる。それまでずっと無言だった祇鶴が、やがておもむろに口を開いた。

「……なぜ、巫女様を連れ出した」

 こちらに背を向けているため、その表情はわからない。

 だが、有無を言わせぬ口調で放たれたその言葉。それはもはや、質問ではなく、糾弾だった。

「いくらあいつが巫女だからって、あんなところにずっと閉じ込められてたら、退屈もするだろ」

 俺は、悪びれもせずにそう答えた。まゆを市に連れて来たことに対する罪悪感はない。そうしたい、そうすべきと思ったからしたまでのことだ。

 俺の言葉を受け、今までこちらに背を向けていた祇鶴は、静かに振り返った。

「――貴様の責務は何だ」

「何……?」

「言ったはずだ。随身の責務は月詠の儀――明日の朝、巫女様が最期の舞を舞い終えたその時にこそあると。……それ以上、余計なことは考えるな」

 ――まただ。

 兼義も言っていた、『最期の舞』と言う言葉。聞き間違いなんかじゃない。確かに今、祇鶴も『最期の舞』と言った。

「……『最期の舞』って、どういうことだよ?」

「何……?」

「まさか……あいつが――」

 俺は、そこで一瞬言葉に詰まり。しかし、覚悟を決めて、祇鶴に問う。


「――儀式で死ぬとか言うんじゃないだろうな」


 ――巫女様が死ぬ? そんなことあるはずがないだろ。

 俺は、祇鶴がそう言うのを期待していた。これは、単なる俺の思い過ごしで、まゆはやはり、明日も明後日も玉響の巫女であり続けて。俺は、あいつの随身なんかやりながら、何の変化もないまま、あの月詠殿で毎日が過ぎていくものだと。

 もちろん薄々は気付いていたのだろう。だが、それを認めてしまうのがたまらなく怖かったのだ。だから、次に祇鶴が発した言葉を聞いても、俺はそこまで驚かなかった。

「そうだ。巫女様は死ぬ。月詠の儀で――」

 そう、この言葉を聞くまでは……。


「――貴様が、巫女様を『殺める』のだ」


 ………………………………え?

「どういう、ことだよ……それ」

 ……わからない。

 意味が……わからない。

 自分の声が、どうしようもなく震えているのを自覚する。

 それなのに、祇鶴は。

 顔色一つ変えず、眉一つ動かさず。

 淡々と、機械的に言葉を紡ぐ。

「巫女様の随身として、最も重要な責務。それは、月詠の儀で巫女様を『殺める』ことだ。だからこそ、随身の任命権は、巫女様にすべて委ねられる。それにしても……まさか今まで何も聞かされていなかったとはな」

 ……そういえば、あの宴の時。

 

 ――『あのね、随身のことなんだけど――』


 ……市で、踊り念仏を見ていた時も。


 ――『渉くんに、大切なお話しがあるの』


 まゆは……何かを言いかけていた。なのに、その度にあいつの話の腰を折って……。

「つまり……なにか? あいつは……俺に殺されるために、俺を随身に選んだって言うのか!?」

「そうだ」

 はは、なんだよ、それ……。随身の役目は……巫女を殺すこと? そんなもの……俺は知らない。そんなもの、俺は――


 ――『俺が、お前を守ってやる』


「…………できるわけ、ないだろ……」

「何?」

 俯けた顔から、無意識の内に言葉が漏れる。

「そんなこと……できるわけないだろっ! なんでだよ! なんでッ! なんで俺が、そんなこと――ッ!?」

 気が付けば、俺は。

 祇鶴の胸倉を掴み、ギリギリとその襟首を締め上げていた。

 だが、祇鶴は、顔色一つ変えることなく。無表情のまま、冷酷に告げる。

「そうしなければ、烏衣神様の怒りを鎮めることができず、多くの人間が死ぬからだ。貴様もその意味は分かっていると思っていたが」

「ふざけるな! そんなの……ただの人柱じゃないか! 多くの人間を助けるためだからって、あいつを殺せって言うのか!?」

「これは、巫女様本人の意志でもある。それとも貴様は、その多くの人間の命を犠牲にしてでも、巫女様を殺さないと言うのか?」


 ――『わたしはね、大切な人を守りたいから』


 じゃあ……まゆは。

「でも、だからって……」

 最初からそのつもりで、

「何かほかに、方法があるだろ!」

 俺を……随身に――

「殺すだとか殺さないだとか、そういうの以外にも――」

「では訊くが、貴様一人に一体何ができるというのだ」

「…………それは――」

 死神という存在は。

 霊術なんかでどうにかなるものじゃなくて。そんなことでどうこうできるようなヤツじゃなくて。

 そんなものは――俺が。一番、よくわかっていて……

「これは、巫女様の力をもってでしか鎮められないことだ。霊術すらろくに使えない、なんの力も持たない貴様に何ができる」

 だからといって、そんな。そんなふざけた話――

「だいたい……」

「……なんだ?」

「だいたい、朔の禍刻が起きるなんてどうしてわかるんだよ!? 前に起きたことがあったとしても、そんなの、ただの偶然かもしれないだろ! そんな、本当に起こるかわかりもしないもののために……あいつは――」

「ならば貴様は、本当に朔の禍刻が起きた時、どう責任を取るというのだ。それに、何もこれは一度や二度起きたことではない。我々がこの世に生を受ける遥か以前より、この連鎖は延々と続いてきたのだ」

「…………っ、だからって……」

 言葉が出てこない。胸倉を握りしめていたはずの指から力が抜け落ち、だらりと腕が垂れ下がった。

 祇鶴の言葉が全て真実だとするならば。俺にできることは、何も……ない。

 死神なんて、どうにもできるはずがなく。だからといって、まゆに手をかけるなんて許せるはずもなく。俺は、ただ無力で。

 ……わかっていた。

 刀を振って祓妖師の振りをしたところで、所詮……俺はこの程度の存在で。

 随身を務める資格なんて……最初から、無かったのだ。

 だからだろう。祇鶴は、そんな俺を見て、ゆっくりと口を開いた。

「そうか。ならば貴様は、もう二度と社殿には近づくな。随身が貴様のような奴では、巫女様にとってもいい迷惑だ」

 祇鶴はそう告げ、踵を返す。――貴様に言うことなどもう無い、とでも言うように。

「――その刀はくれてやる。売れば、少しは旅の足しになるだろう。それでどこへなりとも行くがいい」

 背を向けた祇鶴は、静かに歩き出す。

 今の俺には、刀すら握れないと。無言でそう告げて。

 俺は、それを止めようと手を伸ばすが……

 ――…………待てよ……

 その言葉は、声になることはなく。

 ポツリ、と。小さな水滴が、伸ばされた手の甲を叩く。

 空を見ると、太陽の姿はすでに無く。

 あれだけ赤かった空は、分厚い雲に覆われて、深い灰色の闇を落としていた。

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