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「――我と共に歩む、強き武士たちよ!」

『おおーッ!』

「――心に、予感はあるか!」

『おおーッッ!!』

「――身に、戦きはあるか!」

『おおーッッッ!!!』

「――ならば、唄い、踊り、呑んで、騒げ! さこそ享楽! さこそ宴よ!!」

『――淡那守兼義様と、我ら殿守に武運を!!』


「なんだこれ……」

 夕方。

 屋敷の庭は、随分と賑やか――を通り越し、騒がしいといえるほどだった。庭には筵が敷かれ、その上には料理が並べられ。そこに集った大勢の殿守たちが、酒の杯を交わしてめいめいに騒いでいる。

 宴だと言われたので来てみたが、むしろこれじゃお祭りだな……。

「何をしけた顔をしておるか、渉殿よ」

「むしろ宴の主役であろうぞ」

「さあさあ」

 ふいに声をかけられて振り向くと、いつの間にか殿守たちが俺を囲んでいた。そのまま、場の流れで連れて行かれ、彼らと共に筵の上に腰を下ろす。

「いやはや、昼間は凄かったのう」

「我らが束になっても蹴散らされるとは」

「この社でそのような立ち回りができるのは、兼義様を除けば祇鶴殿だけじゃの」

 そう言って口々に喋りだす殿守たち。

「……そういや兼義って、強いのか? あの爺さんが刀握ってるのは一度も見たことないが……」

「無論よ」

 隣に座っていた殿守は、何の迷いも無くそう答えた。

「なにせ、兼義様は祇鶴殿に戦の技を教えたお方であるのでな」

「祇鶴殿だけではないぞ」

「われら殿守は皆、兼義様に技を教わった者どもよ」

 殿守の中でも年配らしい男が、酒を呷りしみじみと語る。

「そうか。……一度、手合わせしてみたいものだな」

 あの祇鶴の師か。普段の様子からは想像もつかないが……言われてみれば、何か武術をやってそうな体型だった。あの爺さん、あれでかなり強いのかもな。

「しかし、祇鶴殿もご立派になられたわい。幼き頃は大層泣き虫でな」

「それが、剣を握ってから鬼のように恐ろしゅう……」

「名のことで馬鹿にされる度、立てんようになるまで叩きのめされたもんじゃ」

「名前のこと……?」

「そうじゃ、祇鶴という名がまるで女子おなごの――」

「――何の話をしている?」

「しっ――祇鶴殿!? いえ、特に他愛ない話でございます、あはははは……」

 殿守たちは、祇鶴が入れるよう席を詰めて隙間を作る。すると祇鶴は、ちょうど空いた俺の隣に腰かけてきた。

「……昼間の太刀合い、見事であったぞ」

 殿守たちから酒を注いでもらった祇鶴は、それを一気にあおる。

「だが……偏っているのもまた事実。受けの太刀は一流でも、攻めの太刀は凡庸の域を出んな」

「そりゃ、まあな……」

 祇鶴は、俺の気のない返事を特に気にした様子もなく、殿守たちから再び酒を注いでもらい、今度はそれをゆっくりと飲み始めた。

「そういや、随身ってさ……具体的に、何やるんだよ?」

「なんだ、巫女様から何も聞いていないのか」

「まぁな。巫女の護衛って言っても、お前とか殿守とかがいるだろ。別に、わざわざ随身なんてつける必要もないんじゃないのか?」

 俺の質問に対し、祇鶴は呆れるように息を吐いた後、

「巫女の随身は、普通の随身とはわけが違う。巫女様をお守りするというのも、もちろんそうだが……その責務の大半は、『月詠の儀』にあると言ってもいい」

「月詠の儀?」

「巫女様が、烏衣神様をお鎮めする儀だ」

「烏衣神……――」

「そうか、さすがに外の祓妖師は知らんか……。烏衣神様と言うのは、この世に存在する生きとし生けるものに、死の災いをもたらす神のことだ」

「それって…………」

 その説明で、ある一つの存在が、かつての記憶とともに想起される。

 ――死神。

 現代においても、これに関しての知識はそう多くない。わかっているのは、強力な霊感を持っていなければその存在すら認識できないこと。たとえ認識できたとしても、その姿は漠然とした黒い『何か』にしか見えないこと。

 そして……命あるものに確実な死をもたらすこと。

 死神に触れられたものは魂を壊され、喰われるという。

 それゆえに――『死神』

 そもそもこの死神という存在は、悪霊や妖怪の退治を生業とする祓霊師の間でさえ、かつては都市伝説程度にしか扱われていなかった事柄だ。なぜなら、少なくとも現代において死神が出現する頻度はごく稀どころかほとんど皆無。現代における『死神』という呼称自体が、西洋の概念に使われるものを当てはめただけで。そう、昔の文献において、ごく僅かに出てくる本当の呼称は――

「それが――烏衣神、か……」

「なんだ、話くらいは聞いたことがあるか?」

 祇鶴は、俺の表情をどう読み取ったのか、そう言葉を続け、

「烏衣神様がお怒りになると、死の災いが訪れるのだ」

「それってまさか、しに――烏衣神が現れるってことか!?」

「そうだ。朔の日の夜、天を覆い尽くすほどの数がこの地に現れると言われている。我々はそれを『朔の禍刻』と称しているが」

「そんなことが起こったら、この土地は……」

 死神は一度現れれば、周りにある命を見境なく喰らってゆく。それは……俺が一番よく知ってることだ。だとしたら――

「だからこそ、巫女様がそのお怒りをお鎮めせねばならん。その儀こそが、月詠の儀。その時に巫女様の力となって差し上げることこそ、随身の真の務めだ。だからこそ、その任命権は巫女様に全て委ねられる」

「でも……そんな重要な役に、なんで俺が……?」

「そんなことは知らん。どこの馬の骨とも知れぬ、剣の腕だけが取り柄の世間知らずな貴様を、なぜ巫女様が選んだかなどわかるはずもなかろう」

 おい……。

「だがな……巫女様が今まで随身をお決めにならなかったこともまた事実だ。普通ならば、巫女様の随身は、殿守の長である私がなるはずだった。にもかかわらず、巫女様がなぜ貴様を選んだのか、それは巫女様にしかわかるまい」

 だとしたら……余計気になるよな。別になにもあいつだって、素性も怪しい出会って間もない俺なんかを選ばなくても……。

「それで……その月詠の儀ってのはいつあるんだよ?」

 俺の問いに祇鶴はしばらく何も答えず、静かに酒をあおる。

 そのまま少し間をおいてから、やがて、おもむろに口を開いた。

「…………昨日の魂鎮めの舞を覚えているか」

「餓舎髑髏を倒した時に踊ってたあれか?」

「そうだ。あの時、舞を終えられた直後、巫女様がふらつかれたであろう」

「そういやそうだったな……」

「いつもなら、多少お疲れはするものの、あれほどというわけではないのだ」

「そうだったのか。……というか、それと儀式に何の関係が?」

「魂鎮めの舞でいたずらに体力を消耗するというのは、朔の禍刻が訪れる前触れだ。なればこそ、早急に儀を執り行う必要がある」

「なんで、烏衣神の怒りがあいつの舞に影響するんだよ?」

「はっきりとしたことはわからん。だが、烏衣神様の邪気が悪霊の心を乱し、鎮魂めの舞が効きにくくなっているのではないかという話もある」

 死神の邪気、か……。漠然とした言葉だが、あり得ない話ではない。……だとしたら、死神の影響力で悪霊が凶暴化しているということだろうか?

「じゃあ……儀式は明日とかか?」

「痴れ者が。月詠の儀は、朔の日が始まる時――日の出前に執り行われるのだ」

 朔の日……つまり、新月の日の早朝か。


「…………巫女様の舞も、もうすぐ見納めだな」


「見納め……?」

「……いや。明日からは、月詠の儀の準備を始める。貴様も忙しくなるからな。覚悟しておけ」

 そう言い残すと祇鶴は立ちあがり、どこかへと去っていった。

 それにしても、さっきの祇鶴の言葉。あいつの舞が見納めって言ってたが、あれは一体、どういう意味なのだろうか……?

「渉ろの~。な~にをぼんやりしておられるか~」

 考えに耽っていると、横にいた殿守らが声をかけてくる。めいめい雑談に興じていた彼らは、祇鶴が去ったことにも特に気付いていないようだった。

「随身がおらんでは、はなひも盛り上がらぬわ」

「おぬひは今日の主役ぞ」

「とりあえずほれ、一杯飲んでみぃ」

 既に酒で顔を赤らめた中年の殿守から、酒杯を押し付けられる。

「いや、俺は酒は……」

「な~にを言っとるんじゃ。滅多にない機会ぞ、ほれほれ!」

 殿守に勧められ、酒を口に近づけかけて――

「――ごほっ?!」

 なんだ、この匂いは……。

「すまん……ちょっと風に当たってくる」

 そう言って立ち上がり、殿守の輪からそそくさと立ち去る。……今悟った。俺には酒宴なんぞ一生無理だ。

「なんじゃ、もう酔ったのか? つれない奴よのぉ……」

「なぁ~にを馬鹿を言っとるか。渉どのは一杯も呑んどらんわ!」

「おぬしこそ酔っとろうて! ははははは!」

 背中から聞こえてくる、殿守たちの談笑。それを後にして、俺は宴の場を離れた。



 宴の空気にあてられたせいもあってか、少し夜風に当たりたくなった俺は、月詠殿の中をぶらぶらと歩きまわることにした。それにしても……相変わらず広い屋敷だ。一つ一つの建物の大きさが、現代のものとはまるで違う。

 庭の隅を歩きながら何となく辺りを眺めていると、一際大きな建物が目に入った。あれは……月詠殿の本殿――あの少女の暮らしているところか。石造りの土台に立派な瓦葺きの、重厚な造りの建物だ。他の建物と比べても、特に本殿はその存在感が大きく、さすがに巫女の住まいとうだけのことはある。

 そう言えば、本殿の北側にも結構な広さの敷地があるみたいだったが……何の場所なのだろう。

 ――せっかくだし、この際行ってみるか。

 何となくの気分でそう決め、俺は屋敷の北へと足を向けた。本殿の脇から北へと入り、回廊のような渡り廊下を通り抜ける。

「これは……」

 ……目の前に広がったのは、不思議な空間だった。

 南を本殿、残る三方を回廊と塀で囲まれたそこはまるで――一つの異界。

 雲間から零れる、幾筋もの光がベールのようにその場を照らし。

 ぼんやりと光を映す玉砂利が、その場を白く清らかに彩る。

 屋敷の中にあって、この空間だけが。

 厳かで、神秘的で。どこまでも澄んだ、静謐な空気を纏っていた。

 ――『社殿』か。

 ここは――この場所だけは確かに……神社の中、みたいだ。

「月が……」

 遠い満月のような玉砂利の白さに、小さな影を映して佇み。

 銀の砂粒のような光を無数に映す、濃紺の星空を見上げて。

 月夜の衣を纏った少女は、そっと呟いた。

「月が、きれいだね」

 目には見えない何かを、掴もうとするように。夜空に向かってそっと差しのべられたその手は、月明かりを受けて淡く輝く。光の筋の中でたおやかに立つ、神秘的なまでに美しいその姿はまるで、月の光に祝福されて咲く一輪の花のようで――

「それに、おいしそう」

「――返せ! 俺の感動を今すぐ返せ!」

「?」

「…………いや、もういい」

 なんかこれ以上突っ込んだら、負けな気が――


「ずっと……このまま満月だったらいいのにな」


「――お前それ、絶対食べたいからだよな!」

「?」

「なぜそこで首を傾げる……」

 だめだ、突っ込みどころが多すぎてスルーできん……。神聖な巫女だろうが魂鎮めの力を持っていようが、やはりこの少女は、妙ちくりんで夢見がちなただの変な少女だ。こうして月を見ながら、今なお俺のマフラーをぬいぐるみのように抱えているのが、何よりの証拠である。

「てかお前……こんな所で、何やってるんだよ?」

「……渉くんは?」

「俺は……ちょっと風を浴びにな。酒はどうも、苦手なんだ」

 あの匂い、とても人間が飲むモノとは思えん……。

 少女は、そうなんだ、と頷き、

「――じゃあ、わたしも」

「じゃあって何だ、じゃあって!」

 思わず突っ込んでしまう。

 だめだ、こいつのペースに巻き込まれるな。とりあえずは、落ち着こう……。

「……そういやここ、どういう場所なんだ? やけにだだっ広いところだが……」

「ここは――」

 少女は、何か言いかけて、一旦言葉を呑み、

「渉くんは、月……好き?」

「いや、まあとりたてては……」

 ……というか。どうしてこうも、こいつの言動は突発的なのだろうか。あまりに脈絡がないせいで、まるで話が見えん……。

「そっか」

 少女はそう呟くと、

「ここはね……ほら。――月が、よく見えるんだ」

 そう言って両手を広げ、空を見上げる。確かに、周りに明かりがないこともあってか、ここからは空がよく見えた。

 なるほどな、それでさっき月の話を……。

 …………いや待て。というか、今のはどう考えても答えになってないだろ……。

 やがて少女は、くるりと背中を向けると、小走りに塀の方へと向かっていく。

「……どこ行くんだ?」

 俺の問いには言葉を返さず、一度振り返って笑顔を見せると、少女は塀にある梯子を登り始めた。

「おい、危ないぞ」

 慌てて俺も、後を追いかける。梯子と言っても、簡単な造りの縄梯子だ。とても安定しているものじゃない。あんな服装で登るなんて……

「大丈夫だよ、慣れてるから」

 だが……確かに、少女の言葉通りのようだった。動きにくい着物をきたはずの少女はするすると梯子を登っていき――

「――わっ?!」

 ずるっ、と足を滑らせた。

「おいっ!?」

 反射的に梯子の下で身構え、落ちてきても受け止められるように腕を広げたが――幸い、少女はもう片方の足と両腕で踏みとどまった。

「……ほら、言わんこっちゃない」

「うぅ……」

 言いながらも少女は、塀の上まで登りきる。

 月詠殿の塀は、通常のそれよりも遥かに高く、広く作られていた。塀は建物の屋根のように高く、中は回廊のように人が通れるほどの広さがある。そして上にも、人が一人歩けるだけの、幅と足場が確保されているのだ。屋敷に妖怪が襲撃してきた時なんかは、ここから弓矢を放つらしい。そういう意味でも、この屋敷は実質的に城や要塞に近いのかもしれない。

「渉くんも、ほら」

 塀の上で、少女は無邪気に手を振っている。

「ったく……」

 言いながらも、縄梯子に手をかける。まあ、たまにはこういうのも……いいか。

 上までたどり着くと、少女は手を差し伸べてきた。一瞬迷った後、俺はその手を取って塀を登りきり、少女の隣に立つ。

「ほら、見て」

 まゆの指さす先――南の方を振り返る。足元には、さっきまで俺たちのいた、白い玉砂利の敷かれた場所。それを挟んで、目の前には本殿が見える。南側から何度も目にしていたはずのその建物は、ここから見ると、何となく雰囲気が違うように感じた。

 そして、本殿の向こうには――夜空が。

 どこまでも続く、吸い込まれそうな無限の紺碧が。砂粒のように散りばめられた星々の輝きが。そして、そんな夜空を優しく彩る、月の光が。

 ――色鮮やかに、夜を包み込む。

「ここはね。いつも立っている場所よりも、ほんの少し――空に近い気がするんだ」

 少女は、月明かりに掌を透かして見るように、そっと。その手を、夜空へとかざした。

「こうして手を伸ばせば、とっても近く感じるの。この手を握って開いたら、そこにある星や月を掴んでるんじゃないかって。ここで空を見上げたら、そんな風に思えて」

 その瞳に映るのは、夜空に瞬く星であり。夜空に輝く月であり。そして――無辺の広がりをみせる、夜空そのものであって。

 この景色は――少女そのものなんだと。

 なぜだか、そんな感覚に囚われた。

「わたしね……」

 少女は、差し伸べていた手を下ろし、誰に言うとでもなく、静かに語り始める。

「この空を見る度、思うんだ。この空の向こうには、一体何があるんだろう。この森の先には、一体何が広がっているんだろう、って」

 月詠殿から見る景色は、空を除けば、ただ周りを囲う森だけ。麓の村も、向こうの山も、この山の頂上でさえ。ここからは、何も見えなかった。

「わたしは、巫女だから。月詠殿からは、一度も出たことがなくて。物心がついた時から、ずっとこの中で過ごしてきたの」

「一度もって、なんで――」

「それが……しきたりだから」

 少女は、当然のように。

「巫女は、決して月詠殿から出てはならない。それは、自分の身と、そして周りの人たちの身を妖から守るための、大切な決まりごとだって。兼義さまが、そう教えてくれた」

 そういや、昨日祇鶴がそんなことを言ってた気がする。神聖な巫女は、妖たちから狙われやすいって。

「でも……そんなの、退屈だろ」

 俺だったら、そんな生活に嫌気が差して、間違いなく外に飛び出しているだろう。

「だからね。兼義さまが、祇鶴どのが、殿守の人たちが。わたしに色んな話をしてくれるの。兼義さまは、京に行くたびにお土産を持ってきてくれて、祇鶴どのは、東の国に伝わる昔話を教えてくれて、それから……」

 そう語る少女の横顔は、本当に楽しそうで。でも、どこか切なげで。

「でもね。やっぱり、言葉だけではわからなくて。実際に、この目で見てみたいって。そう思って。だから、少しでも空に――外に近づきたくて。気が付いたら……わたしはここにいた。毎日、ここから空を見て。月を、星を眺めて。確かに、空しか見えないけれど。それでもここは、わたしにとって一番、外に近い場所だって。そう、思うから」

 ……だから、なのか。この少女がいつも、こうして空を見上げているのは。

「でも……出たことあるだろ。俺と初めて会った夜。お前は、この中じゃなく。外に居た」

「……そうだね」

 ほんの僅かだけその輪郭を欠けさせた月を見つめ、少女は柔らかく微笑む。

「あの日は……どうしても、そうしたかったんだ。ただ、月が見たくて。もしかしたら、外から見ると――何か変わるのかも知れないって……」

「――外から見ると……変わる?」

「ううん。何でもない」

 少女は、身体ごとくるっと回り、

「おい、危ないぞ。こんな高いところで」

「大丈夫だよ。慣れて……るから」

「おいっ?! 今一瞬バランスを崩しかけたよな?!」

 「?」と首を傾げる少女は、今の一瞬がすごく危なかったことに自覚があるのやらないのやら……。

「でも……月って、不思議だよね」

 少女は、また語り始める。

「一日、また一日と過ぎる度に、少しずつ形を変えていく。この月も……だんだん、細くなって。最後には、見えなくなるんだよね」

 そう呟いた少女の横顔は、ほんの少しだけ、寂しそうで。どこか切なくも、見えた。

「……でもさ。そのあと、また見え始めるだろ」

「……うん、そうだね。欠けた月は、また、満ちていく……。満ちては欠け、欠けては満ちて……」

 少女は、俺の言葉を噛みしめるように呟いて、

「今度の満月も……こうして一緒に見れたらいいな」

 なぜだろう。そう言う少女の瞳は、どこか遠くを見つめているような――そんな気がした。

「……見ればいいだろ。また、こうやって」

 月が南に登る時、晴れてさえいれば。何度だって、見られるはずだ。

「その時は、渉くんも一緒にいてくれる?」

「ああ、俺はお前の随身だしな。……約束だ」

「……こんなときが、ずっとずっと続けばいいのにね」

 そう言って、少女は笑顔を浮かべる。

 俺たちはこうして、しばらくの間、夜空に浮かぶ月をただ静かに眺めていた。

 不思議だった。こうして並んで空を眺めていると、まるで今までずっとこの少女と過ごしてきたかのように、妙に心が落ち着くのを感じる。だけど実際は、昨日知り合ったばかりで、俺はこいつの名前すら――

 …………名前?

「あのさ――」

「渉く――」

 それを訊こうとした矢先。互いの声が重なり、ぶつかって宙に消える。

 しばしの沈黙。

「……どうした?」

「ううん。……渉くんは?」

「あ、いや。俺のは別に大したことじゃないんだけどさ。……お前、名前なんていうんだよ?」

「名前?」

「ああ。みんなが巫女様巫女様って言うから、すっかり聞きそびれてたけど」

「名前……か。う~ん、なんだろ?」

「はい?」

「村のみんなは、『玉響の巫女』って呼んでるかな」

「玉響の巫女?」

「うん。……わたしね、小さいときにここに連れてこられて、それからずっと巫女様って呼ばれてきたから。自分の名前……知らないんだ」

 小さいころに連れてこられたってことは……。もしかして、両親のことも知らないのだろうか?

 …………いや、この話はやめておこう。こいつにだって触れられたくないことくらい――


「渉くんは、お父さんとお母さん、元気?」


「――お前、人がせっかく気を使ってやったのによ!」

「?」

 少女は首を傾げる。その仕草は、呆れるほどにいつも通りで。

「はぁ……お前、ほんとに悩みとかなさそうだよな」

「そうかな?」

 少女はやはり、さも不思議そうに首を傾げる。たぶん、世の人間がみんなこんな性格なら、世界はさぞ平和なことだろう。

「……両親と……弟は、俺が小さい頃に死んだよ。残された肉親と言えば姉くらいのもんだが……それも、そんなに会ってるわけじゃない」

「仲、悪いの?」

「いや、そういうわけではないが……。八年前、俺は取り返しのつかない過ちを犯したんだ。一生かけても償えないような、本当にどうしようもない……過ちを。だから俺は……あの家を出たんだ。もう……何も失わないためにな」

 樹を死なせ、霊気弾も撃てなくなった俺にとって、もうあの家に居場所はなかった。祓霊師――悪霊を倒す霊術師を数多く輩出している名門、神楽家。ただ力に依って立ち、出した結果のみで全てが決まるあの場所では、俺はもう不要の存在で。だからこそ、俺は祓霊師としての生き方を捨て、神楽家を出た。

 もちろん、家を出たことについては色々と言われた。責任放棄だとか、現実逃避だとか。だが……他にどんな選択肢があったというのだろう。今の俺に、祓霊師として――神楽家の人間として、一体何ができるというのだろうか。

「……だめだよ」

 少女は、そんな俺に対してなのか、ポツリとそう呟いた。

 ……この少女も、同じことを思っているのだろうか。責任放棄。巫女としての責任をただ一人で背負っているこの少女から見れば、やはり俺はそう見えるのだろうか。

 だが――


「――ひとりは……だめだよ」


「え……?」

 少女の言葉は、俺の想像とは全く違うものだった。

「辛いとき。苦しいとき。悲しいとき。寂しいとき。ひとりだと、余計につらくなるだけだよ」

 静かに、だがはっきりと、少女は言葉を突き刺してくる。

「なにもしてくれなくてもいい。たったひとりでも、そばにいてくれるだけで、心が救われることだって、きっとある。わたしは……そう思うな」

 その言葉に俺は、心のどこか柔らかい部分を抉られたような痛みを覚え。

 その狼狽を誤魔化すように、言葉を紡ぐ。

「そりゃまあ、人によってはならそういう事もあるかもしれんが……。少なくとも、俺の場合は――違う」

 俺が生まれた場所、神楽家は……少女の育った、この月詠殿の温かさとは、全く違う。

 現に俺は、今日一日この月詠殿で過ごして。このままこの時代に留まり続けて、こいつの随身として暮らすのも悪くないな、と。そんなことを思い始めていた。

 だけど――


「――それは、違うよ」


 少女は、きっぱりと。しかし穏やかな声で、そう言い切る。

「居場所っていうのはね。そこにあるものじゃなくて、自分で作るものなの。そこが、自分の居場所じゃないって思うのは、渉くんがそう思ってるから」

 聞き分けのない幼子を、優しく諭すように。

「時には、喧嘩してもいい。わがままを言ってもいい。きちんと自分の意見をぶつけて、そうしてきちんと人の話に向き合えば。そこはもう、その人の居場所になるんだよ」

 それはたぶん……どうしようもないほど正論なのだろう。だが、世の中は正論だけでは動かせなくて。綺麗ごとだけではまかり通らないことだって、うんざりするくらい沢山あって。だから……

「あっ……」

 俺は、肯定も否定もできず……無言で少女のマフラーを取り上げた。

「うぅ~……」

 恨めしそうな視線を向けてくる少女は、あの妙ちくりんで夢見がちないつもの少女で。

 だから俺は……その姿に、なんとなく自分の頬が緩むのを感じる。

「……ま、巫女としての才能や、殿守たちからの愛情に恵まれたお前には一生分からないだろうな」

 誰にともなく呟き、俺は少女にマフラーを差し出す。

 こんな話をしても堂々巡りになるだけだ。人によって、状況によって結論が異なるものになるのは、当たり前のことなのだから。

「……でさ。お前の方の話ってなんなんだよ?」

 俺の問いに、少女はすぐには答えず……その様子は、何かに迷っているようにも見え。

 やがて少女は、意を決するように口を開いた。

「あのね、随身のことなんだけど――」

 ――その時。

 空から、光が消える。

「あ……」

 辺りを照らしていた月明かりは、夜の闇に包まれて。

 空を見上げると、そこに月の姿はなく。

 光の残滓もやがて、雲間へと姿を消す。

「……一雨、来そうだな」

「そうだね……戻ろっか」

「さっきの話は――」

「ううん、いいの」

 そう言って、少女はくるりと身を翻し――塀の下へと姿を消した。

「宴も、もう終わりか……」

 いつの間にか、殿守たちの騒がしい声は止み。

 耳に入るのは、微かな風の音と虫の鳴き声だけ。

 空を覆う雲は、音も無く、揺らぎも無く、その速さを変えず。

 ただ静かに天を滑り――流れ続ける。


「――行こっ」


 下に視線を戻すと、少女がこちらを向き、手を差し伸べているのが見え。

 もう片方の手には、やはりマフラーを大事そうに抱え。

 ああ、俺は――この少女の随身なんだな、と。

 何の脈絡もなく、ふとそんなことを思って。

「ああ……今行く」

 ――賑やかだった夜は、再び静けさを取り戻していた。


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