1
――風が吹いた。
雲が流れ、空を影が覆う。
雲間からぼんやりと漏れる仄かな光は、月明かりのものだろうか。
「ここは……」
気が付けば、仰向けに空を見上げていた。
降りしきるような満天の星空に、微かに聞こえるのは、虫の鳴き声と、草木のそよぎ。
少しばかり冷えた風が服の隙間から入り込み、肌の熱を徐々に奪っていく。
「俺は、一体――……」
意識はまだどこか不明瞭だ。前後の記憶が瞬時に思い出せない。どこか繋がりが曖昧で、いつどこでどう途切れたのか、その境界すら判然としない。
「……っと」
とりあえず、地面に寝転がったままというわけにもいかないので、体を起こし、周囲の状況を探ってみる。
「ここは……どこだ?」
見慣れない景色。どうやらそこは、開けた場所のようだった。暗がりにうすぼんやりと浮かび上がるのは、辺り一面の菜の花たち。その奥は……暗くてよくわからないが、森になっているのだろうか。
――キラッ。
その時、視界の端で何かが光った。
「なんだ……?」
振り向くと、そこにあったのは大きな樹。
この樹は……白椿、だろうか。鮮やかな緑の中、雪のように白い花たちが、濃紺の星空を彩っている。
そして、その樹の根元。そこに突き刺さっていたのは――一振りの刀だった。その白銀の刃からは、紛い物ではあり得ない光沢と重厚な雰囲気が感じられる。
「本物……だよな?」
それにしても、どうしてこんな所に日本刀が……?
もしかして、自分がここにいることと何か関係があるのだろうか。現代日本で所持を規制されるような刃物がこんな所に、しかも樹の根元に突き刺さっているという極めて妙な状態で放置されているとなれば、さすがに偶然とは考え難い。もちろん関係があるという確証もないわけだが、とりあえず調べてみる価値はありそうだ。
俺は、白椿の樹に突き刺さっているそれに歩み寄り、柄に手を掛けた。
そのまま、両手で引き抜こうとするが……
「……?」
……抜けない。
「くそっ……意外と固いな」
今度はもう少し力を入れてみる。
しかし、刀はびくともしなかった。まるで樹と一体化し、固化しているかのような。そんな手応え。
「なんか、そう来られると余計に抜きたくなってくるよな……」
そんなに深く刺さっているわけでもないのに、どういうことだろうか。地中で何か引っかかっているとか……?
そこまで考えて俺は、ある一つの可能性に思い至った。
「……ま、ダメ元で試してみるか」
俺は、右手でその柄を持ち直し、今度はそこに、
――『霊気』を流し込む。
すると……刀身の表面が僅かに揺らぎ、光を発したように見えた。
次の瞬間。
「――うおっ!?」
刀は一瞬、力強い鼓動のように、霊気の波を発し、周囲の空気を震わせる。それは、刀を中心とした同心円状に拡がり、瞬く間に森の奥へと消えていった。
「なんだ……今の?」
再び刀を手に取ってみる。すると今度は、先程までの手ごたえが嘘のように、ほとんど力を入れることなく引き抜くことができた。
――やはり、本物だ。
この重みと、刃の輝き。微妙に鍔や鎬の造りは違うが、道場で何回か握ったことはある。
しかし、なんだってこんなものが……?
「――なに? それ」
「うおっ――?!」
突然だった。
振り返るとそこには、いつの間にか――少女の影が。
「?」
暗がりの中、少女は、小さく首を傾げる。
その時……
――空が開けた。
煌々と輝く満月が雲間から姿を現し、それまでの暗闇を眩い光で塗り替える。
瞬間、目の前に広がるのは、黄金色に煌く花の海。
――光の中に、少女はいた。
控えめな印象を与える、小さな口元。触れれば壊れそうなほどに、小柄で華奢な体躯。
腰のあたりまで伸びる柔らかな髪は、白く透き通った肌を引き立て。
それは、春の夜風に流されて、緩やかになびく。
少女の服は……巫女装束、なのだろうか。
晴れた夜空のような紫紺の袴に、満月の光を思わせる、鮮やかな黄金色を基調とした上着。衣の裏地や襟の隙間から僅かに覗く、雲霞の如き鉛白の布地は、装束全体の色を引き締め、不思議な調和をもたらしている。
光たゆたう世界の中。
少女はただ、静かにこっちを見つめていた。
「それ……」
少女は俺の方を指さす。
「あ、いや。この刀は……だな。さっきここで拾ったもので、樹の根元に刺さってたから気になっただけと言うか……」
……我ながら、もっとマシな言い訳はなかったのだろうか。こんなことならもう少し考えてから行動すべきだったと、今更ながらに後悔する。抜き身の日本刀を「その辺に落ちてました」なんて、「ゴミ箱から拾った白い粉のパッケージをつい靴下の中にねじ込んでしまいました」くらいの怪しさだ。
「そうじゃなくて……」
そう言って少女が指さすのは、俺の首元。そこに巻いてある空色の――
「え……? マ、マフラー……?」
「…………まふらー?」
「いや、こっちが訊いてるんだが……」
俺は、首に巻いていたそれを、少し指で摘まんで持ち上げてみせる。
すると……こくこく。少女は、マフラーに視線を合わせたまま、首を数回上下させた。
というか、刀の方はスルーなのだろうか? まあ、下手な言い訳を考えないで済む分、そっちのほうがありがたいんだが。
――じー…………っ。
微動だにしない少女の視線。無言の催促を肌に感じ、俺はそれを首から抜き取る。
少女の視線は……面白いほどに釘づけだった。
「…………ひょい」
試しに、マフラーを右に振ってみる。すると、少女の視線も――右に。左に振ってみると――今度は左に。
マフラーにつられて、少女の視線が左右に揺れる。
なんなんだ……こいつは。
「……ほれ」
試しにマフラーを上に掲げてみると、
「うぅ……」
何やら、そこはかとなく恨みがましい視線を向けてきた。あえてスルーし、しばらくそのまま放置してみる。すると……
「うぅぅ~……」
更に恨みがましい視線を向けてくる少女。その妙ちくりんな行動に、俺はついにやけてしまう。
……ヤバい。面白すぎるぞ、これ。
「はぁ……。わかったわかった……」
とはいっても。このままでは、巫女っぽい服を着たこの少女に呪われかねないので、俺は渋々マフラーを手渡す。こんなことで不幸に見舞われでもしたら、たまったもんじゃない。
すると少女は、俺からマフラーを受け取るなり、広げたり、丸めたり、折りたたんだりと、ひとしきりそれを堪能(?)した後、
「……ここが――」
――鮮やかな空色のそれを両手に掲げ、ぽつりと独り言のように呟いた。
「――ここが、空だったらいいのにな」
「…………はい?」
なんだその、突拍子もない夢みたいな発想は……。
…………まぁ、いい。
とりあえず、少女の言うとおり、この場所が空になった様子を想像してみる。
ぼんやりとその光景をイメージし、
「…………落ちるだけだろ、それ」
「?」
少女はちょこんと首を傾げ、
「風が、気持ちよさそうだよね」
「いやいやいや、そういう問題じゃないからなっ!」
「?」
なんなんだこいつは。全然、まともな会話が成り立たんぞ……。
「あ……」
その時。少女が袖にかけていたマフラーが、ぽとりと地面に落ちた。
「ったく、汚れるだろ」
足元に落ちたマフラーを拾い、軽く土を払う。それからまた首に巻こうとして、
――じー…………っ。
再び感じる、そこはかとなく恨みがましい少女の視線。
「はぁ……。……ったく」
俺は、半ば諦め状態で、再び少女にマフラーを手渡した。
マフラーを興味深げに眺めている少女は、すりすりと手で擦ってみたり、腰に巻いてみたりと……
「おい、それは首に巻くもの……」
俺の言葉に、少女は「?」と首を傾げ、そのまま両手でマフラーを抱え込む。
「……………………いや、もうどうでもいい」
まぁ、後で取り返せばいいか。ぬいぐるみのようにマフラーを抱きしめて至福の表情を浮かべている少女から、無理やり取り上げるというのも気が引ける。明らかに使い方が間違っているのは……気のせいということにでもしておこう。世界は広いのだ。マフラーをぬいぐるみのように抱きしめる文化があってもおかしくはない。
「……あ、そうだ」
それよりもだ。この妙ちくりんな少女のせいで完璧に忘れてしまっていたが、今の俺には、もっと重要な問題がある。
「お前、地図かなんか持ってないか?」
「……地図?」
「ああ、ちょっと……道に迷ってさ。ここらへんの地図が見たいんだが」
さすがに、気が付いたらこんなところにいた、なんて言うと、おかしなやつと思われかねないからな。まあ、俺のマフラーをさも大事そうに抱えているこいつになら、何を言っても大丈夫そうな気もするが……。
「う~ん……。地図なら、社に戻ればあるんだけど……」
「社……?」
「うん、月詠殿のお社」
聞き慣れない単語に少々戸惑う。つくよみでん……おでんか何かの一種だろうか?
……待て。いつから地図はおでんの具になったんだ。阿呆か俺は。
「でも……」
少女は言葉を続ける。
「地図って言っても、この国全体の、淡那国図だけだから。このあたりの地図が見たいんだったら、下の村に行った方が――」
「――ちょっと待て」
「?」
「……わるい、今なんて言った?」
「このあたりの地図が見たいなら――」
「違う、その前だ」
……今こいつ、淡那――
「淡那国図?」
――淡那……だと?
俺は、この淡那と言う単語に聞き覚えがあった。
淡那国。それは、千年ほど前に一瞬だけ存在したとされる、今の琵琶湖南部に位置する国のこと。つまりは――旧国名。
それだけじゃない。少女の、この服装。なにとなくおかしいとは思ってたが、まさか、そんなことって……。
「……なぁ」
「?」
唐突に切り出した俺の言葉に、少女は再び小首を傾げる。
「もし……さ。もし俺が、千年後の未来から来たって言ったら……お前は信じるか?」
俺はなぜか目の前の、それも会ってまだ数分しかたっていない少女に、そんなことを訊いていた。
「う~ん……」
少女は、俺の目をじっと覗きこむ。そして――
こくん、と。
――ただ、静かに頷いた。
あっさりと――疑いなんて、最初から持ち合わせていないかのように。
「お前……なんでそんな簡単に、俺の言うこと信じられるんだよ?」
「う~ん……なんでだろ?」
「おい……」
「……でもね」
少女はそこで一呼吸置くと、こう告げた。
「わかるんだ。きみは、嘘をついたりしないって」
「どうして……そんなことが言える?」
「そんなの、なんとなくだよ」
なんとなくって……。
普通、もう少し理由とか何かあるだろう。人が良さそうだとか、嘘つく度胸もなさそうだとか……。それともなにか? マフラーなんていう、いかにもこの時代のものじゃなさそうな物を持っていたからだろうか。
いやいや、いくらなんでもまさかそんなことでは……
俺が視線を戻すと、そこにはマフラーを抱えながら「?」と首を傾げる一人の少女が。
……うん、あるかもしれない。
まあ、信じてくれるならこちらとしても好都合だが……。
――それにしても、どうしたものか。
帰る方法どころか、千年前なんかに来た理由すらわからないこの状況。もしかして、当分この森で野宿するしかないのだろうか。……というか、どうやって生活すればいいんだ?
あまりにも唐突な事態に、纏まらない考えを無理やりにでも纏めようとしていると……ふと、先程の少女に目が留まった。
「…………あのさ」
「?」
「お前の家に、その……人一人くらい余分に泊まる場所とか、あったりしないか?」
「月詠殿に?」
「いや、おでんではなく」
「?」
「……いや、気にするな。まあもちろん、無理にとは言わないが」
「う~ん……」
俺とマフラーとを交互に見つめる少女。もしや俺は、このマフラーと天秤に掛けられているのだろうか。まあ、マフラー一つで泊まる場所を確保できるなら安いものだが……。
少女は俺の顔をじっと見つめると……やがて、こくん、と頷いた。
「わかった。じゃあ――」
「――巫女様ッ!」
不意に男の声がした。見ると、森の方から一人の男が早足で歩いてくる。
「何処へ行かれていたのですかっ? 巫女様の身にもしものことあらばと、社殿の者ども皆、心配して――」
そこで男は、俺の存在に気が付いた。
「貴様、何者だ……?」
「いや、俺はその……」
男は長身の青年だった。歳は二十歳前後だろうか。長髪を無造作に後ろで束ね、和服――狩衣を身に纏い、腰には細身の太刀を携えている。
男の顔は彫が深く、美青年と呼んで差支えないほどに整っていた。だが、その雰囲気は物堅く、剣呑な表情を浮かべたその姿からは、武人独特といった緊張感が感じられる。
それにしてもこの少女……巫女っぽい服を着ているとは思ったが、本当に巫女だったのか。……って、今はそんなことを気にしている場合じゃない!
男は、俺が持っていた刀を一瞥した後、明らかに敵意を持った目で、その腰から太刀を引き抜いた。
「答えろッ! 巫女様を拐い、どうするつもりだった! 場合によってはここで――」
「――ちょ、ちょっと待て。俺は別に何も……」
どうやらこの男、俺がこの少女を誘拐したと勘違いしているらしい。探していた人が抜き身の刀を持った見知らぬ男と一緒にいるのだから、まぁ無理もないが……。
くそっ、なんだってこんな目に……。
「――祇鶴どの」
その時、凛とした声が響きわたった。
俺の知らない口調で放たれたその声は……だが紛れもなく、先程の少女のものだ。
「この方は、先ほどここで会ったばかりの者です。怪しい者ではありません」
「ですが、巫女様! 此奴は――」
少女は黙って、首を横に振る。その仕草を見て、祇鶴と呼ばれた男はゆっくりと、刀を鞘へと戻した。
「……其の者。無礼な真似をして申し訳ない。そうだな……何か詫びの品でも――」
「――それなら」
少女は、祇鶴の声に言葉を被せ、
「この方を一晩、社に泊めてやってください」
「――なッ!?」
祇鶴は目を剥き、驚愕の声を上げる。
確かに、それなら俺も大助かりだ。何か家の手伝いでもすれば、そのお礼にもなるしな。
俺は一歩前に出て、二人に向かって頭を下げた。
「神楽渉だ。よろしく頼――」
「――なりませんッ!」
だが、その言葉は、祇鶴によって言下に切り捨てられる。
「だめ……ですか?」
少女の問いに、祇鶴が返した言葉は、
「当然です。月詠殿は、巫女様や、それをお守りするマガタチが集う神聖な社。なにの力も持たぬ者が立ち入るような所ではない。怪我をしたくなければ、早急に失せろ!」
祇鶴は語気を強め、刺すような鋭い視線をこっちに向けてくる。
何なんだ……一体。
「…………悪かったな」
まあ、こんなところで言い争いをしても仕方ない。ここまで嫌がられるのはさすがに想定外だが、そう思われてまで無理に泊まることもないだろう。別に真冬というわけじゃないんだ。夜は少し冷えるが、凍死するほどでもないしな。
俺はとりあえず、この場から立ち去ろうと――
「――わかりました」
その時、凛とした少女の声が響いた。
「では、これより……この者を、わたしの随身とします!」
「――な……ッ?!」
祇鶴は目を見開き、泡を食って少女に詰め寄る。
「巫女様、正気ですか!?」
――随身? というと、昔、貴族なんかが護衛として従えたとかいうアレのことだろうか?
「もちろんです」
少女は、平静な声で言い切った。
「随身を決める権利はわたしにあるんですよね? わたしは、この者を――」
「――ちょっと待て」
少女が言いかけた言葉を、俺は遮る。というか……なんでこんな急に話が進んでるんだ。
「俺は……随身っていうのがどんなものかは知らないが、そんなものになるなんて一言も言ってないぞ。第一、邪魔だなんて言われてまで泊めてもらう気も――」
「――ごめんなさい」
少女は、俺の言葉に被せるようにして、
「わたし、すごくわがままなこと言ってるよね。それは、わかってる」
静かに――だが、はっきりと言葉を紡ぐ。
「……でもね。わたしはきみに、随身をお願いしたいなって思った。だから、言ったの」
「なんでだよ? 俺がどんな奴かなんて――」
「そんなの、なんとなくだよ」
「なんとなくって、お前なぁ!」
本当に……なんなのだ、この少女は。
「わたしはきみを見て、きみが随身になってくれたらいいのになって思った。それに……理由なんて必要なのかな?」
「っ、それは……」
「だからね、渉くん。随身……お願いしても、いいですか?」
そう訊ねる少女の瞳は――
湖水の明鏡のように、どこまでも透明で。
夜空の紺碧のように、どこまでも、深い。
ともすれば吸い込まれそうなそれに、俺は、我を忘れて頷きかけ――
「――巫女様?」
祇鶴のその声で、俺は、はたと我に返る。
「どうかされましたか?」
見ると、少女は真剣な面持ちで、その視線を森の奥へと向けており――
「……妖です」
静かに、そう呟いた。
しばしの沈黙。
その時――ごとり、と。何かが、森の方から投げ出される。
音を立てて地面に転がったのは――頭の人骨。
――ガシャガシャガシャガシャッッッ!!! と。
骨と骨がぶつかり合うような音が連続した。
髑髏の中から、どこからともなく現れる、骨、骨、――骨。それらは何もないはずの空洞から混沌と溢れ出し、一見乱雑に、しかし整然と組み上がってゆく。
「なっ……! これは……」
祇鶴が、呻き声を上げる。
目の前にいたのは、骸骨だった。人骨のようなそれは、所々が歪み、黒く焼け焦げている。それは、確かに――妖怪。悪霊と同様、死者の怨念が現世に留まり、カタチを成したもの。
「餓舎髑髏の封印が破れた、だと……? なぜだ……」
「……封印?」
「そうだ。以前、此奴が巫女様を襲ってきた時、結局倒すことができず、封印するしかなかったのだ。確か、白椿の根元に刀と共に――」
「白椿、って……まさか」
俺は、今だ右手に持っていた刀へと目をやった。
じゃあ、もしかしてこの刀が。……そうか。だからこいつ、霊気を込めないと抜けなかったわけか。
じゃあ、つまりなにか? この妖怪――餓舎髑髏が今ここにいるのは、俺が刀を抜いてその封印を解いたせい……ってことか?
「……巫女様、私の後ろへ」
祇鶴は少女にそう告げると、腰から刀を引き抜く。それとともに、左手を前に突き出し――
直後――光が飛んだ。
群青色の輝きを放つ光弾のようなそれは――俺のよく知る技、霊気弾。祇鶴の放った拳ほどの大きさを持つそれは、餓舎髑髏の元へと一直線に飛んでいく。
だが、ちょうどその胸のあたりに着弾すると見えたその時――敵の姿がブレた。
餓舎髑髏は、一見その姿からは想像もできない敏捷さで霊気弾を回避すると、一足飛びに祇鶴の元へと突っ込む。
「く……ッ」
――ガリッ! と、硬いものがぶつかり合う音が響いた。骸骨の繰り出した右手を祇鶴は何とか刀で払い除け、その勢いで蹴りを繰り出す。
衝撃でよろけ、後ろに飛ばされた餓舎髑髏に対し、祇鶴はさらに踏み込んで追撃し――一閃。肩口から斬り下ろされた刃は、鎖骨から肋骨を一気に切り裂いた。
切り飛ばされた骨は片腕ごと消失し、直後――
――再生。
呼吸をするような容易さで半身を取り戻した餓舎髑髏は、身を翻し再び祇鶴へと襲いかかる。
「ちっ……」
祇鶴は舌打ちし、再び刀を構え直して骸骨と対峙した。
(どういう……ことだ?)
俺は、破損と再生を繰り返し、祇鶴の剣戟とぶつかり合う餓舎髑髏に目を疑う。
あれが妖怪だと言うのはいい。だが普通、あれだけの再生能力があるはずがない。祇鶴の攻撃を受けた餓舎髑髏は、何回も身体を壊されている。だが、その度に身体は再生され、これといったダメージは見られない。
おいおい……このままじゃ、ジリ貧だぞ。この様子――ただ攻撃しても意味はなさそうだ。何か、裏が――
と。そこまで考えて、俺は思考を中断した。
俺は、こういう妖怪とか、悪霊とか、そういうのとはもう関わらないと決めたんじゃなかったのか。そのために、祓霊師としての生き方を捨て、剣術の修業に励んだんじゃなかったのか。
だが、知らなかったとはいえ、俺がとった行動でこの妖怪の封印が解け、こいつらに迷惑が掛かっているというのも、また事実。
その時、ふと右手に重みを感じた。
先程、俺が白椿から抜いた刀。真剣を持ったことなど数えるほどしかないが、それでも、今の俺には戦う武器があり、戦うべき状況にあり、戦わなければならない責任がある。
それに何よりも、自分のせいで他人が傷つくのを見ているのは、我慢ならなかった。
……………………やるしかない、か。
「――はッ!」
祇鶴の声で、思考に耽っていた意識は現実へと引き戻される。
甲高い音が響き、首から切断された骸骨の頭が地面を転がった。祇鶴が続けざまに振り下ろした刀は骸骨の腕を斬り飛ばし、さらに、刃を切り返して下から擦り上げる一撃が骸骨の腰を狙う。
その瞬間、首と片腕を失ったはずの餓舎髑髏は、その欠損をまるで感じさせないような素早さで身を捻った。迫り来る刃に対し片脚の膝を蹴り上げ、その刀身を側面から叩く。勢いを逸らされた刀は骸骨の肋骨上端を切り飛ばし、さらにその身体を欠けさせる。
餓舎髑髏は、攻撃を逸らされ僅かに姿勢の崩れた隙を付き、跳躍して祇鶴から距離をとった。そして、その身体を僅かに震わせ――再生。
ほぼ一瞬で、切り飛ばされた三箇所全てを取り戻す。
(……?)
その行動に感じたのは、一つの違和感。だがそれは、すぐに明確な形となり、同時に一つの仮説が頭によぎる。
切っても切っても瞬時に再生する無限に近い再生能力。にもかかわらず、さっきの行動――
「なるほど、な……」
なんとなく、この妖怪の性質が分かった気がする。だが、まだあやふやな推測でしかない。決定打が不足している現状では、迂闊な行動をとるべきではないだろう。
――ならば……確かめてみるか。
抜き身の刀を、水平に構える。重心を低く前に傾け、地面を蹴ると同時、足裏に大量の霊気を放出、爆発させた。
――石火抄。
実体化した霊気の爆発力で身体を急激に加速させる技。やることは単なる放出、起こす現象は単なる加速だが、それにより、爆発的な加速力を生み出すことができる。
石火抄によって、俺は一気に前へと跳躍。狙いはもちろん、骸骨の妖怪――餓舎髑髏だ。
ほとんど地面と並行に跳び、その勢いを刀に乗せ袈裟斬りに打ちかかる。攻撃の気配を感じたのか、祇鶴からこちらへと首を回した骸骨の肩口を狙って。
このタイミングで回避は不可能。餓舎髑髏は俺の攻撃を両腕で受け止める。石火抄で強引に加速をかけたことによって僅かに重心のブレが生じ、威力は減衰――刀の刃は骨を叩き斬るには至らない。
骨と刃がぶつかり、そのまま押し合う形になる。さながら鍔迫り合いのような状態から、俺は刀に力を込めた。
「……邪魔だ! 余計な手出しはするな」
祇鶴が、こちらを睨み付ける。だが……その肩が僅かに上下しているのを、俺は見逃さなかった。当然だ。斬っても斬っても再生する敵にひたすら攻撃し続けていては、いたずらに体力を消耗するに決まっている。
勝算のない戦いはしても意味が無い。だが、いちいち説明している暇もなかった。
だから俺は、祇鶴に一言だけ告げる。
「これは俺の責任だろ。始末は――俺がつける!」
言葉と同時に右足を引き、刀を押し込む反発力で刀身ごと身体を回転させ――転閃。
切っ先が螺旋を描くように回転した刀を、骸骨の腰へ。それに対し餓舎髑髏は、横薙ぎに迫る刀身に、無造作に腕を振り下ろした。
骨と刃がぶつかり、側面から叩かれた一撃は下へと逸れる。逸らされた一撃は、その勢いで大腿骨を一気に両断。
刃に斬り裂かれ胴体から離れた脚は、地面に転がる前に掻き消える。宙に取り残されたはずの胴体は、一息で取り戻した脚で地を蹴り、後ろへ跳躍した。
(やはり、な)
この餓舎髑髏の動きを見て、俺は確信する。鍵となるのは、最後の二度の攻撃。一撃目は祇鶴が、二撃目は俺が。それぞれ両方の刃が骸骨の腰を狙い――そして、逸らされた。
斬られても一瞬で再生するはずの餓舎髑髏。それが、腰に対する攻撃にのみ、防御を行ったのだ。
つまり……――
――無限再生能力の例外は腰にある。
その場所こそ、餓舎髑髏の弱点――霊力の供給源たる、その『本体』。そう考えれば、あの異常な再生能力にも説明はつく。……あくまで骸骨は、本体の『影』にすぎないわけだ。
両手で刀を持ち、突きの構え。腰を落とし、地面と水平に寝かせた刀身を、低い位置まで下げる。
大きく開けた脇は、意図的に作った隙だ。太刀合いの呼吸が読める相手なら、まず間違いなく、仕掛けてくる。
狙うは……。
ギシ……、と、骨の擦れる音が響く。餓舎髑髏は首を巡らせ、俺の姿を注視した。その身体が、僅かに震える。
――その、『本体』を除いて。
考えてみれば当たり前のことだ。腰の中心にあれば、身体のどこの部位にでも容易く霊力を供給できる。そして何より……攻撃を受けにくい。
餓舎髑髏の身体が、前へと傾ぎ、
――ガッッッ!!! と。骨だけの足が、地面を蹴る。
一瞬の交叉。長い腕を振るい拳を飛ばしてくる、その直前。俺は、右足を踏込み――
――絶閃。
それは、防御を行わない特殊なカウンター。敵の攻撃に対し回避や受けを行わず、敵の攻撃に先んじて攻撃を当てる技だ。
「ふ――ッ」
真正面から迫り来る右拳から目を逸らさず、意識は広く、攻撃そのものに集中。そして――一閃。
空を奔った刃は、その『本体』――腰の部分を、正面から真っ直ぐ貫く。
――瞬間。
餓舎髑髏の動きが、ピタリと止まった。拳を繰り出そうと中途半端に曲げられた腕が、だらりと垂れ下がり――
――ピシリ。
何かが、ひび割れる音が聞こえた。それと同時……直立した骸骨の全身に亀裂が走り――崩壊。
音もなく崩れ落ちた全身の骨は、地面に落ちる前にほとんどが消え去る。
カラン、と。乾いた音を立てて、何かが地面に落ちた。
それは、骨。どこの部位のものかもわからない骨片が――真っ二つになって、地面に転がっている。
「これが妖怪の『本体』、か……」
呆気ないものだ。こんな小さな欠片によってあんな化け物が生まれ、こんな小さな欠片を壊すだけで――全てが壊れる。
そして――
「あとは、わたしに」
いつの間にか、少女が俺の目の前に立っていた。
「おい、何を……」
――しゃらん。
少女が奏でたのは、水を打つように涼やかな鈴の音。
その右手には――いつの間にか、不思議なカタチの杖が握られていた。
先端には、幾つもの鈴が並び、その頂点には一際大きな鈴が。並んだ鈴の下には、幾つかの輪環が。
錫杖にも神楽鈴にも見えるそれを、少女は右に――真横に振り切る。
――しゃらん。
透き通った鈴の音とともに、少女は身を翻した。
それは――舞。
風を受けて水面のように揺らぐ、菜の花の海の中。
白く花を咲かせる白椿の下で、月明かりに照らされ、少女は舞う。
身体は、優美な曲線を描き。
杖は、鋭い直線で空を切り。
少女は強く、清らかに舞う。
それはまるで、この場にある全ての自然から祝福を受けているようで。
その姿は、どこまでも気高く、美しく。
月明かりに淡く輝くその景色の中、少女の舞だけが、どこまでも色鮮やかに世界を彩った。
そして、儚くも美しく、厳かにも優しい、円舞の最中――信じがたい光景を目にする。
「妖怪が……」
――しゃらん、と。
少女が鈴を鳴らすたびに、二つに割れた小さな骨から、僅かずつ黒い靄のようなものが抜け出てゆく。ゆっくりと宙に浮かび上がり徐々に形を成すそれらは、先程の妖怪――餓舎髑髏の魂の残り香。
こんなこと……普通、起こる筈がない。
殺された妖怪は、核となるその魂を失い、ただ、その霊体を散らすだけのはずだ。
一体、何がどうなって……?
――しゃらん。
そして、鈴の音に合わせて。胸の心央――心臓の真上に、灼けつくような痛みが走る。
――死神の刻印。
八年前のあの日――あの森で、俺は何物にも代えがたい大切なモノを二つ失った。代わりに得たのは、他者の魂の動きを感じる――呪い。
幽霊や妖怪が成仏する時や、消滅する時にのみ、この感覚は反応する。死神によって刻み付けられた刻印が熱と痛みを伴って疼き、意識の深奥に、痛みのようなざわめきのような、独特の感覚が走る。
だが、それがどうして今――
「あれは……魂鎮めの舞と言ってな」
いつの間にか、祇鶴と呼ばれた男は、俺の横に立っていた。
「巫女様は、怨念に囚われ、現世に留まって妖となった者たちの魂を慰撫し、成仏させているのだ」
……そうか。あの妖怪……本当に、成仏しようとしてるのか。
だから、刻印の疼きが……。
「あいつに、そんな力があったなんてな」
巫女とは言っても、霊感すらろくに持たない飾りだけの巫女なんて大勢いる。それでも、修業を積み、高い霊感を持った巫女でさえ、この世に未練がある幽霊の話を聞いてやり、成仏の手助けをするというのがやっとだ。
ましてや、強い怨念によってこの世に留まっている妖怪を成仏させる巫女など聞いたことがない。だからこそ、霊気弾などの霊術を駆使することで、これらを強制的に葬ることのできる祓霊師と言う仕事が成り立つのだ。
「巫女の随身というのは、神聖な力を持つ巫女様を、妖からお守りする役目のこと。それ故に危険な職務であり、責任も重い。あれは、並みのマガタチ程度では務まらんものだ」
「マガタチ……ってなんだ?」
「知らんのか? 先程の餓舎髑髏との戦い、貴様もマガタチかと思ったが」
「もしかして、祓霊師のことか?」
「フツリョウシ……?」
祇鶴は首を傾げ、
「マガタチとは、妖を祓うことを生業とする者のことだ。普通はどこぞの国や朝廷に仕え、仕事をするものだが、稀に旅をして回る者もいる。貴様もその類かと思ったのだがな」
なるほど……。妖を祓う者――つまりは、祓妖師といったところか。
――しゃらん。
一際大きな鈴の音が響き、俺は舞を終えようとしている少女の方に向き直った。
見ると……骨に残っていたはずの妖怪の魂はすべて抜け出し、宙に浮かんでいる。
少女は、右手に持った金色の杖を、緩やかに振り上げた。
杖の石突が――地面を打つ。
――しゃらん。
玉を弾くような響きの余韻が、菜の花畑の夜空を満たし。
宙に並ぶ妖怪の魂を通り過ぎるように。微かに見えたのは――一筋の銀色。
鳥の飛跡のようなそれが、刹那のうちだけ虹の残像のように浮かび上がり。
徐々に分解し、宙へと溶け始めていた妖怪の魂は、一気に爆ぜる。
死者の――花が咲く。
風に吹かれた花弁のように呆気なく。妖怪は散り、空へと還る。
その光景は、美しくも哀しく、そして残酷で。
何よりも……壊れそうなほど、儚なかった。
舞を終えた少女は、静かに杖を下す。そして、ゆっくりと俺の方に歩み寄り――
「……わっ?!」
「おい!?」
「巫女様!?」
……コケた。
何もない地面に躓き、姿勢を崩して片膝を付く。
「あはは……。ちょっと気が緩んだから、かな」
何事もなかったかのように身を起こし、少女は照れくさそうに笑う。
「巫女様、お怪我は……?」
「大丈夫だよ」
そう言って少女は、俺たちに微笑みかけた。
「ったく……。妙ちくりんで夢見がちな上に、今度はドジときたか……」
「うぅ……。これ、結構疲れるんだよ?」
「ああ、はいはい。そういうことにしといてやる」
「本当なのに……」
そう言って頬を膨らませる少女。いやまあ、考えれば確かに体力使いそうではあるんだが、見てるぶんにはそう見えないんだよな。
「……渉くん」
少女は、改めて俺の方に向き直る。そして――
「改めてお願いします。わたしの――随身になってくれませんか?」
そう、頭を下げた。
その時――頭をよぎったのは、失ったモノの大きさと、失った者への心の痛み。
俺には、誰か守る資格なんてない。自分がそうやって関わったところで、それは結局、誰かを不幸にするものでしかなくて。
だが、理由もわからないまま過去の時代に飛ばされ。目の前には、自分を必要としてくれる少女がいて。これは単なる偶然などではなく、もう一度俺に与えられたチャンスなのかもしれないと、そんな風にも思えてしまう。
それに、ここでこの話を断って、目の前の少女を傷つけてしまうのも気が引けて……。
「…………わかった」
だから、だろう。気がつくと俺は、そう返事をしていた。
瞬間。少女の顔がパッと明るくなる。
「でも……いいのか?」
俺は、少女の後ろで不愛想に腕を組む祇鶴にそう訊ねた。
「まあ、巫女様がそこまで言われるなら……致し方あるまい」
そう、渋々といった様子で頷く祇鶴。それを聞き、少女は安堵の表情を浮かべる。
それに、何もずっとというわけではない。このまま何の当てもないままいるよりかは、随身として仕事をこなしていた方が、現代に帰る手がかりが掴めるかもしれないというだけだ。当分の間は寝場所も確保できるわけだしな。
「これから……よろしくお願いします」
少女はそう言って、嬉しそうに頭を下げた。
だが……その時の俺には、知る由もなかった。
少女の言葉が、何を示すのか。少女は俺に、何を頼んだのか。
何一つ知りもせず、俺は頷いた。
それが――俺とこの少女にとってあまりにも大きな、運命の岐路であったと知りもせずに。