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Ⅷ 月下の恍惚(後編)

 着物女は何を思ったのか、持っていた刀を手放した。


 当然重力に従って刀は地面に落ちる。

 これが降伏の印と言われればしっくりくるが、そんなはずはない。


「行くわよ」

 言うが早いか、今度は着物女が遊姫に向かって駆け出す。遊姫も剣を構えて迎え撃つ。

「っつぁ!」

 はずだった。


 何が起こったか、すぐには理解出来なかった。

 着物女は遊姫から再び飛び退き距離を取っている。相変わらず余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)といった風に。

 対する遊姫は若干表情を固くしている。顔を汗が伝い、目を僅かに細めて焦りを見せた。


 地面には、遊姫の血が滴っていた。


「あらあら、右手を狙ったのだけれど。うまく避けたわね」

 遊姫は腹部を斬られていた。

 服に僅かに滲む程度の出血量から見て、幸いにも傷は浅そうだ。が、実際の傷以上に痛手だったのが遊姫の顔からも分かる。


「今のをかわせたのは褒めてあげるけど、次はどうかしらね」

 再び着物女が駆けてくる。

 今度は遊姫も構えを変えて着物女を迎え撃つように剣を後ろに下げる。居合や抜刀術のような格好でカウンターを決めるつもりなのだろう。


「うぁっ!」

 だが、今度も悲鳴をあげたのは遊姫のほうだった。

 鮮血が飛び散り俺の血の気も一気に引いていく。


「このっ!」

 反撃で剣を振るうも、既に着物女はバックステップで距離を取り、一閃は大きく宙を()ぐ。

 余裕の着地を決める着物女、焦燥感を募らせる遊姫。

 立場はあっさりと逆転していた。


 二度の攻撃で俺にも少しだけ見えているものがあった。

 確かに着物女は刀らしきものを抜いて遊姫を攻撃していた。

 着物の袖に隠しているのだろう二本目の刀を、それこそ目にも止まらない速さで抜いて遊姫を斬り、凄まじいスピードでそれをしまってまた隠す。動作自体は非常に単純だ。


 だがその単純な動作が本当に素早い。ほとんど見えない。

 遊姫が血を流さなければ手を振っているだけにしか見えないだろう。それほどまでの速さ。


「あらあら、今度はちょっと深手のをもらっちゃったわね。どうする?」

 着物女は場違いなほど嬉しそうに笑う。遊姫をまるでからかうかのように。

 遊姫は右足の傷を抑えていた。太ももを斬られたらしい。

 抑えている右手の包帯が真っ赤に染まり、黒いハイソックスにシミが広がる。


「ゆ、遊姫っ!」

 たまらず俺は声を上げた。

 両者の戦いに気圧され続けていたが、遊姫の顔を汗が流れていくのを、その体が血を滴らせているのを見て気がつけば叫んでいた。

「大丈夫だゴロー。まだ負けてねえよ」

 遊姫はここで初めて笑顔を見せた。

 俺を落ち着かせるために余裕を出したつもりなのかもしれないが、その声も表情も明らかに追い詰められている者のそれだった。


 俺は後悔していた。


 あの遊姫なら絶対に負けることはないと何故たかをくくっていたのか。

 こうなった時、警備員を遠ざけた状態で俺一人で遊姫を救えるわけがないというのに。


「あら、ゴローさん、といったわねあなた」

 着物女は俺の方を向いた。

 妖艶で怪しい微笑みは変わらないが、今は纏う雰囲気が違う。


 あの日土手で遊姫が見せた、獲物を狩る目をした肉食獣の顔が、そこにあった。


「確かセコンド代わりだったかしら? 彼女にタオルでも投げるつもり?」

 俺は恐怖に押しつぶされそうになりながらも、遊姫を守るためにありったけの勇気を振り絞った。

「ああ、そうだな。そうさせてもらえるか?」

 このままでは遊姫が殺されるかもしれないと思った俺は、弱気にもそう提案する。

 仮にこれでSAKの警備員が代わりに斬られようと、サーバーが全て破壊されることになろうとも、遊姫さえ守れればいいと半ば本気で思っていた。


 だが、そもそも俺は理解していなかった。


「ざーんねん、私結構楽しくなってきちゃったの。だからそんなことしたら先にあなたを殺しちゃうかも、ゴローさん」

「ッ!」

 相手は、俺で遊んでいるだけだということを。


 何故、これまで死者が出なかったからといって安心していたのだろうか。

 凶悪犯罪には違いなくとも、死ぬことはないとどうして思い込んでしまったのか。


 今回も彼女が遊姫を、そして俺を殺さないとどうして考えてしまったのだろうか。


「あら、近くで見るとそれなりにいい男ねあなた」

 一歩ずつ、ゆっくりと俺に向かって歩を進める着物女。

 俺の体は彼女の軽口を返すことも出来ないほどに震えていた。


「ふふ、最後に私を楽しませてくれたら、命だけは助けてあげようかしら?」

 美しく、そしてそれ以上に俺に恐怖心を抱かせる彼女の顔。

 うっとりとどこか上気した頬に愛おしいものを見るときの細められた目。近くで見ると長いまつげはより妖艶で、唇に穏やかな笑みを浮かべたその顔が、けれどどうしようもなく恐ろしい。


 確実に、確実に一歩一歩近づいてくる。

 汗が(にじ)み出て、心臓が警鐘を鳴らし続ける。

 似た感覚を最近味わった。圧倒的力による確実な未来。

 本能が既にそれを感じ取っているのだ。


 人の姿をした『死』が近づいてくると。


「てめえの相手はあたしだって言ってんだろバカ女!」

 鋭く、そして懐かしい怒鳴り声が響く。


 あの日俺を救ってくれた少女の声が、またしても俺を死の(ふち)から拾い上げる。


 額に脂汗を浮かべ、息も荒く、足もよろけておぼつかない。けれどその目は鋭く尖り、纏う雰囲気は気迫に満ちた、あの堂々とした姫山遊姫の姿がそこにあった。


「バカ女、はちょっとひどいんじゃない?」

 俺に向けていた視線を切り替え、着物女は再び遊姫に向き直る。

「それにさっきから着物女着物女って、私にも名前くらいあるわ」

「知るかバカ女。セコンドに手ぇ出すんじゃねえよ」

「あらあら、私はあなたのためを思って提案したのよ」

 着物女はニコニコしながら右袖を口元に当てて、乙女らしい仕草を取る。


「ええと、確かユウキちゃんって言ったかしら。あなたこのままだと彼の目の前で私になます切りにされるのよ。そんなのみっともなくて嫌でしょう? あなた程の相手に手加減なんて出来ないから、じっくり、じわじわ、時間をかけながらゆっくり切り刻んであげることになるわ。彼の前で血まみれになって泣き叫ぶのは屈辱でしょう?」

 着物女はそんなことをまるで日常会話のちょっとしたおしゃべりのように口にする。


「それとも体の中まで、それこそ血肉や内蔵までゴローさんに見られながら果てたいとか? だとしたらあなたよっぽどの好きモノね」

 クスクスと着物女は笑う。

 遊姫の体を()めるように見つめて熱い吐息を漏らし、何もない空間に指で線を入れていく様は、俺の背筋をぞくりとさせる。


 何をしているかが、分かってしまった。

 常人の発想ではない。


 こいつは今、自分の頭の中で遊姫を解体して遊んでいるのだ。


「そういうのがお望みなら、出来るだけ扇情的になるように斬り刻んで」

「うるせぇよヘンタイ女。お前の趣味に付き合わせんな」

 遊姫は冷静に着物女を一蹴した。劣勢にあるとは思えないほどの言葉の強さ。

 遊姫の意思の強さがそのまま伝わってくる。


「質問だ。お前、それほどの腕があるのに何で手加減しなかった」

「は?」

 着物女は呆気(あっけ)にとられていた。突然投げかけられた意味がよく分からない質問。

 そのままを解釈すれば、どうして自分を相手に手加減せず本気で戦ったのか、という意味である。


 だが俺は知っている。


 遊姫との会話はワンテンポクッションを挟まなければ成立しないことを。恐らく、この言葉には必要な目的語が欠けている。


「手加減って……、何? 今更そんな弱音を吐くの? 流石にちょっと興醒(きょうざ)めよ」

「何言ってんだ。あたしが言ったのはここの警備員のやつらにって意味だよ」

「……ああ、そう言う意味ね。でもそれもお門違いな質問よ」

 月明かりの中、着物女の声が静かに響く。


「拳銃や警棒で私を襲ってくる以上、手心を加えてもらえるなんて思わないでね。それが当たり前よ。それがこういう場に立つものの覚悟だもの。それくらい彼らだって」

「そういう話じゃねーよ。お前ほどの腕があれば、そんな奴らだって峰打ちにも出来ればぶん殴って気絶させるのも難しくねーだろ」

 遊姫は真っ直ぐにあの鋭い目で着物女を見つめる。着物女の一挙手一投足も見逃さないかのような強さで。


「お前、なんでその刀で余計に人を斬ったりした」

 遊姫は着物女の左袖口を見る。着物女の凶器が隠れているであろうその場所を。

「……ああ、なるほど。本当に、何を言われてるのかと思ってたらそういうことね」

 ようやく着物女は合点がいったという風に納得する。

「そうね、ユウキちゃんがどう思ってその鍵付きの刀を使ってるかは知らないけれど、私が刀を使う理由は単純よ」

 着物女は妖艶な表情を浮かべ、頬を染め恍惚(こうこつ)に染まりながらうっとりと囁く。


「殿方の肉を斬る感触ってね、病みつきになるのよ」

「……てめぇ」

「もう最高よ。(たくま)しい肉体にすぱっと斬りこみを入れて、そこから(ほとばし)る暖かい液体を浴びるの。殿方の熱い血潮を文字通り全身に受けると、心の底から女としての喜びを感じるのよ」

 着物女はどこまでも情欲的に、本気で己の言葉に酔っていた。

 体を小刻みに震わせて、体の底から喜びを感じているのだろう。


 本当に、イってしまっているこの女。


「そうね。これまでは実は殺しだけはするなって釘を刺されていたんだけど、もうそんなのどうでもいいわ。ユウキちゃんの手足をズタズタになるまで斬り刻んで、抵抗できなくなったところで目の前でゴローさんを殺してあげるわね」

「あんた、本気でイカれてるっ!」

 俺は恐怖で染まりながらも、遊姫をいたぶる算段を目の前で話すこの女に、本気の怒りを覚えて叫んだ。


「あらゴローさん、そんなこと言っちゃヤーよ。あなたにも楽しんでもらえるよう私の体を堪能させてあげるから」

「そんなものこっちから願いざけだっ! お前みたいなイカれた女なんて……」

「あっさり振られたな。着物女」

 そんな恐怖と緊張に染まった空気を割るように、まるで何でもないことのように遊姫は一歩前に進み出た。たったそれだけで、場を支配していた雰囲気ががらりと変わった。


「……遊姫?」

 目の前の、劣勢であるはずの少女は、しかしどこか余裕の笑みすら浮かべていた。

「ここらで終わりにしようぜ」

「あらユウキちゃん早計ね。たっぷり楽しんであげるから心配しないで」

「もうお前のタネはわれてるんだよ」

 遊姫は立ち止まり、構えた。


 剣を後ろに下げ、自分の体で隠すようにしながら腰を落とす。

 居合切りや抜刀術のそれと良く似た構えだ。

「いくぜ」

 そう言うといきなり遊姫は駆け出した。着物女まであっという間に距離を詰める。

「無駄なあがッ……!?」


 俺も着物女も(だま)されていた。

 遊姫は確かに(すさ)まじいスピードでかかっていったが、着物女がそれに対して反撃する直前に後ろへと飛び退いたのだ。結果、着物女の右腕が振られて獲物が何もない空間を斬る。

 ひゅい、とあまり聞きなれない音がした。

 そこに遊姫が手に持っていた何かを飛ばす。いつの間に拾ったのか先ほど飛び散ったゴミ箱のプラスチックの破片だ。

 咄嗟の二連続の奇襲を受けて着物女は思わずそれを切り伏せた。いや、切り伏せてしまったのだ。


 大げさに遊姫の攻撃を防いだ着物女。驚かされただけで被害は実際ゼロなはずだ。だが、その獲物は何故か月光の下に晒されていた。


「ようやく見せたな、その刀の秘密」

 遊姫の剣もまたとない変わった剣だが、着物女のそれも十分に奇抜な様相を呈していた。


 着物女はここで初めて、苦渋の表情を浮かべた。


これで連投はいったん終了です。

また土曜日から続けて投稿していくので、よろしくお願いします。


感想、意見はいつでもお待ちしています。

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