少年と地雷
「君は優しいな」
そう言って、先輩は黙り込んだ。
どう答えて良いのか分からない俺は、ただただ混乱するばかりである。
優しい。それは先輩が一番嫌う言葉だ。
それを人に向けるというのは、どういう気持ちなのだろう。
「彼女は、君と話していると楽しそうだ」
俺が何も言えずにいると、先輩は小さくそう口にした。
この前のような“中見沢さん”でもなく昔呼んでいたらしいあげは呼びでもない。
その“彼女”という呼び名は、先輩と中見沢の距離が大きく開いたように聞こえ、俺の心臓を痛めた。
「そんなことないですよ。アイツは先輩といるときのほうがきっと……」
それを縮めたくて、俺は先輩にそう伝える。
俺はただ単に、中見沢をからかって遊んでいるだけだ。
そして仕返しに睨まれているだけだ。
先輩が言っているような、奴との仲睦まじさなどひとかけらもない。
だが、俺の言葉に対して先輩はゆっくりと首を振る。
「君は、ただ彼女を甘やかすだけではない。時にからかい、突き放しながら、彼女を導いている」
そうして、彼女は過大評価だか妄想だか判別のつかない言葉を口にした。
「いや……導くって先輩。あれ導いてたらダメな方向ですよ」
あいつがオタク道まっしぐらなのはあいつ自身がダメダメオタクだからである。
俺が諸悪の根元扱いされるとは、ひどい濡れ衣だと言わざるをえない。
「それが、本当の優しさと言うものだ。私が求めるものだ」
だが、先輩は俺の抗議を聞く様子もない。
その代わりに彼女の目が、ぎょろりと俺を捉える。
視線は合っているのだがその瞳は木の虚のようで、俺の背筋を泡立たせた。
しかし、それでも。そんな幽鬼のような表情をしてすら、先輩は美しい。
「私は、君が欲しい」
その先輩が、情念のこもった口調でそんなことを言い出す。
これではただでさえ働きの悪くなっていた脳が操業を停止しても致し方あるまい。
「私は、君のような優しさが欲しい。人を癒し、導けるような」
そして更に先輩は立ち上がり、ずいと俺に体を寄せてきた。
本来ならこの時点で俺の野生が理性を凌駕し、先輩を抱きしめるはずだ。
だが今は、脳みその中にレゴブロックが一個挟まれたような違和感が先行し、そうはならない。
「い、いや、だから。そんな俺はそんな立派な人間じゃ……」
それはそうだろう。何故ならば先輩が誉め称えているのは俺ではない。
先輩が自分で用意した、理想の優しい誰かさんだ。
彼女は、俺を見ていない。
「先輩の方が凄いじゃないですか。美人だし、成績だって優秀だって聞きました。それに、剣……運動神経だって」
脳がじんじんと痺れる。
そうなりながらも、俺は先輩を励ます。もしくは彼女にそれをやめてもらおうとする。
「こんな物に、なんの価値もない」
だが、先輩はついに、そう口にしてしまった。
本来の俺はエロ心という、取り得とも言えない物しか持っておらず、中見沢を上手いこと慰めることも、先輩に生きる気力を取り戻させることも出来ない男だ。
だからこそ俺は、悪魔なんぞと契約した訳で……。
「だから私は、悪魔と契約してでも……」
「先輩」
その言葉を聞いた途端、俺は先輩の肩を握り、その体を引き破がしていた。
まるで錆びたドアを無理矢理開けたようなぎこちなさが、自らの腕から伝わる。
「俺と、勝負をしましょう」
「……勝負?」
つぶやいた俺の言葉を、目をしばたかせながら先輩が繰り返す。
もしかしたら彼女にとって、先ほどまでの言葉も行動も、無意識の物だったのかもしれない。
「そうです。もし俺が勝ったら、先輩には俺と付き合ってもらいます」
だとしたら非常に惜しいことをした。
そう思いながらも、俺は先輩に告げた。
「付き、合う?」
すると先輩が、未だにぼうっとしたようすのままあざとくも首を傾げる。
付き合う、という単語に対して先輩はまるでピンときていない様子だった。
どこへ。もしくは何に付き合えばいいのだろうなどと考えているのかもしれない。
「もし先輩が勝ったら、俺の優しさとやらを先輩にあげます」
しかしそれに構わず、俺は彼女に自分が負けたときの代償を告げた。
先輩の背後にいる悪魔が間抜けに口を開き、先輩の目に焦点が戻る。
「ほ、本当かっ!?」
そうして彼女は、今度は渦巻く炎のような瞳で俺に迫ってきた。
「本当です。約束します」
その勢いにたじろぎながらも、俺は首を縦に振った。
すると先輩は俺の目を見て正気に返ったのか。そんな自らの目を隠そうとするかのように頭を振り、前髪を顔に被せた。
「だがその、優しさを譲渡するというのは……どうやって」
しかし欲望は隠しきれないようで、一縷の希望に輝いた上目遣いが髪の間から覗いている。
「企業、機密です」
それだけで何もかもを彼女に預けたくなるが、俺はそれをぐっと堪えた。
先輩の顔が、「いけず」とでもいう風に子供っぽくゆがむ。
あぁ、やはり先輩は可愛らしい。ズルい。
今は童女のような先輩だが、こんな荒唐無稽な話を信じるだろうか。
「勝負というのは、何を使って……」
とりあえずその判断は保留にしたようだ。
先輩は若干気勢を弱め、そんな事を尋ねてくる。
「何をって……」
問われた俺の脳内に、一瞬ゲームで勝負だの手品で勝負だのという姑息な考えが浮かぶ。
「いつもやってる奴でいいでしょう。叩きのめされたら負けっていう」
だがそれを振り払った俺は、なるだけ男らしく見えるように先輩に告げた。
「それではその、君が……」
あまりにも不利すぎるのではないか。
そう言いかけて、先輩が言葉を濁す。
どうやら、俺は男らしいとか堂々としているとは見られなかったようだ。
それどころか二重に気を使われている。
完全に、舐められている。
これが先輩の、三年前から変わらぬ優しさだ。
「やるんですか? やらないんですか?」
頬が熱くなるのを感じる。
おそらく風邪のせいではあるまい。
その調子のまま問いかけると、喉がかすれ自分でも驚くほどぶっきらぼうな調子になった。
「や、やる」
すると先輩は、どもりながらも慌ててそう答えた。
威厳はともかく相手を脅迫するスキルに関しては、我ながら着々とした向上を感じる。
しかし、ここまでどさくさ紛れだと収まりが悪い。
俺がじっと見ると、先輩はその意味を察したようで、佇まいを直して言い直した。
「分かった。その勝負……受けよう」
こうして俺たちの賭は成立。
決戦は、先輩の魂が刈られる期限、そして悪魔の試用期間が終わる、一週間後の日曜となった。
◇◆◇◆◇
先輩が帰った後、冷水で心を鎮めた俺はリビングのソファーに腰を落とした。
「うぉぉ……やっちまった」
それから、頭を抱えて呻いた。
「……ヒラク様」
そんな俺に、悪魔が背後から声をかける。
「言うな。何も言うな」
熱が上がった気がする。先ほどまで無かった頭痛までしてきた気がする。
そんな状態で背中を丸くした俺は、悪魔の文言になど耳を貸すかとこめかみを押さえていた手を少し下にスライドさせた。
「そうも行きません。優しさを渡すとはどういう事でしょうか?」
しかし、その程度で人類有史から囁き続けている囁きのプロ、悪魔の声を遮断することは出来ない。
奴が俺に問いかけているのは、先ほど俺がかわした先輩との約束についてだろう。
「私の力をあてにされているのでしたらそれは不可能という物でございます。私の力はあくまでヒラク様に魂を試していただく為、もしくはヒラク様の身を守る為にしか使えません。第一ヒラク様はもちろん人類に優しさなどというステータスは存在せず、持っていないものを他人に与えることは不可能だとアメリカンジョークにも書いてあります」
まるで出された料理を食器ごと食った客に注意するような表情で、悪魔はくどくどと俺に説明する。
「阿呆か。お前の力なんぞ誰があてにするか」
肩越しにそれを見た俺は、そう吐き捨てた。
こいつが肝心なときに役に立たないのは分かっている。
ロリ魂があって優しさというステータスが存在しないという話には、いまだに悪魔側の審査基準を疑っている俺だ。
だが、それがあったとしても俺の魂には含まれていなかろう。
「と、言うことは?」
「……負けないようにする」
悪魔の追求に、俺はついにそう答えた。
優しさなんてものをつけはずしできる機能が、俺に備わっているはずがない。
「ヒラク様。悪魔でも契約は守るものですよ……」
呆れた目をする悪魔。
それから顔を逸らす形で、俺は可愛らしさ全開でぷいっと前を向いた。
「そもそも何故勝負など挑まれたのですか?」
それを見てか。より呆れた口調になって、悪魔が尋ねてくる。
「何故って……」
その問いに、俺はとっさに答えることができない。
何故なら俺自身、何故自分がこんな事をしたのか分からないからだ。
改めて俺は自らに尋ねてみる。
何故?
「ヒラク様が先輩様に勝負を挑んでも、勝てる見込みはまるでございません。万が一勝って無理矢理付き合ったとしても、彼女に生きる気力が戻ることはないでしょう」
「だぁぁ! うるさい! うるさい!」
人がせっかく話を整理しようとしているのに失礼な事を言い連ねてくる悪魔。
ついに我慢できなくなった俺は、叫びながら奴の方へと振り返った。
すると奴はいつものどぶ色の目ではなく、妙に澄んだ、もしくはがらんどうな瞳でこちらを見つめている。
「先輩は俺を見てない」
その視線に折れる形で、俺はついそんな言葉を漏らしてしまった。
「西暮様は文武両道容姿端麗。控えめに言って高嶺の華でございます。崖上では谷底の雑草などアウト・オブ・ルックでしょう」
すると悪魔の奴は、先ほどの目は何だったのか。いつもの慇懃無礼な調子でそう言葉を返してくる。
「お前、人をディスるのに躊躇いが無くなってきたな」
誰が雑草だ。相変わらず、というか最近出番が少ないのを妬んでか、特に口の悪い悪魔を睨む俺。
「親愛の印でございます」
「気色悪いこと言うな。地獄の底の食虫植物め」
例え人類の底辺に落ちようとも、こいつと友情を育むことだけはすまい。
しかし、そう言い返してから俺は深くため息をついた。
「確かに、先輩にとって俺が眼中に無くても仕方ないと思う」
俺がそう言うと、悪魔が意外そうに目を見開く。
俺とて先輩が、自分より数段高い位置にいる人だとは分かっている。
一目見てそれを全身の細胞で知ったからこそ、彼女に求婚したのだ。
「先輩は確かに凄い。綺麗だし、おっぱい大きいし、強いし。中見沢が中学時代に……いや、今でも憧れてるってのも、よく分かる」
「乳に憧れているとは仰っていませんでしたが」
「いやあの貧乳は絶対羨ましがってる」
先輩は俺だけではなく、中見沢――俺の憧れている女の憧れだ。
その人が、そんな人が……。
「そういう人に憧れられる部分をたくさん持ってる先輩が、そんなもの全部いらないって言うのにこう……」
「ムカっ腹が立ったと」
どう表現しようと考えあぐねていた俺の語尾を、悪魔が勝手に引き継ぐ。
「……そういう言い方もあるが、他にもうちょっと無いか?」
俺が言い直しを要求すると、奴はふぅむと顎に手を当て考えるような仕草をした。
そうしてからポンと手を打って指を立てる。
「ムカついたんで一発殴ってスッキリしようと」
「もう良い……」
先ほどより幾分聞こえが悪くなった。
訂正させたいが、こいつに何を言っても無駄だろう。
諦めた俺は、三十七度の息を吐いて水分を補給した。
確かに、悪魔の言い分はそれなりに合っている。
俺は結局、先輩の言い様に腹が立って勝負をふっかけただけだ。
放置していればメメントさんに今すぐ魂を刈られてしまいそうだとか、先輩に生きる気力を取り戻そうだとか、そういう計算があの瞬間には吹っ飛んでいた。
「男性であれば当然の欲求でございます。恥じることはありません」
「先に一発殴って黙らせるぞお前!」
頭を垂れる俺に、悪魔が妙に悟った言い方で慰めてくる。
本気で先輩前の予行練習にしてやろうとする俺。
しかし視線を合わせた悪魔が、自然な笑みなどというこいつにしては非常に不自然なものを浮かべていたので思わず動きが止まってしまう。
「私は嬉しく思いますよ。ヒラク様」
「何が」
その上この台詞である。
しかも本当に嬉しそうに言うのだから、俺の視線が疑いに染まっても致し方あるまい。
そんな俺に、悪魔は目を閉じ語った。
「ヒラク様は今、遠い崖上の存在である西暮雷花様に対し、強くあって欲しいと願ったのです。そしてそんな彼女に自分を認めさせたいと、本気で思ったのです」
悪魔とは思えない。それは俺にそんな阿呆極まりない感想を抱かせるような口調だった。
「だから、そんな大したことじゃ……」
そんな事を考えてしまう己を振り払うように首を振りながら、俺は悪魔の解釈を否定する。
こいつといい先輩といい、ついでに夕や中見沢まで。最近は色んな人間が俺を過大評価しにくる。
その内高い壷でも売りつけられるのではないか。
「ていうか何でお前が嬉しがる。俺の母親にでもなったつもりか」
うちの母親なら今頃仕事場で無駄話でもしているはずである。
むず痒いわ胡散臭いわで俺が憎まれ口を叩くと、悪魔はいつも通りの淀んだ目でにんまりと笑った。
「ヒラク様が強い欲望を持てば持つほど、契約には近づきますからね。今なら魂全てと引き替えに、このバーゲン品魂10個セットを……」
「いらんわ! この商売下手め!」
そうして奴は懐から電子えんま帳を取り出すと、大バーゲンセールなどと書かれた広告を取り出す。
それをきっぱり拒絶してから、俺は額に手を当てた。
この調子では、こいつからは壷どころかポケットの中の糸くずですら騙し取られそうにない。
喜ぶべき事なのだが、何やら頭痛がしてきた。
「……もう寝る。これ以上おかしな事は言うなよ」
「はい。代わりに全力で看病させていただきます」
「おかしな真似も禁止だ!」
何故かゴム手袋をはめだす悪魔に指を突きつけてから、俺は目眩を覚えてよろめいた。
まったく。どうして誰も病人を労ってくれないのか。
そのまま悪化するかに思われた風邪だが、次の日にはケロっと直ったのであった。




