少年と頼るべきもの
「うぅむ……」
先輩の家にお邪魔した翌日である。
昨日げーげーと吐いた反動か、何やら俺の体調は思わしくない。
鏡の前にある自らの冴えない顔を見て、俺は唸った。
「ヒラク様大丈夫ですか? ベテラン亡者のような顔をしていますが」
「よく分からん例えをするな」
背後にいる悪魔に答え、顔を洗い直す。
亡者がベテランになると、より顔色が悪くなるのかそれとも比較的良くなるのかなど、生きている俺には想像がつかない。
昨日試した魂は結局すべて外れ。
どれも先輩の心を動かすことはできなかった。
このままだと先輩は、あの死神メメントさんに魂を奪われてしまう。
後ろの悪魔が本格的にただの小ボケマシーンとなった今、こうなったら俺自身が何とかするしかない。
何とか。そう、何とかだ。
スケベ心しか突出した物がない俺が、何とか……。
「うぶぶぶぶぶ」
何やら空恐ろしくなって、俺は水滴のついた顔を左右に振った。
しぶきがかかった悪魔が眉を潜めたが、知ったことかである。
さて、道に迷ったとき、男が頼るものと言えば年上の女性である。
そういうときに頼るべきは自分自身だなどと見栄を張ってみせる男もいるだろうが、真の男は自分自身が如何にもきりと折れやすいかを分かっているものなのだ。
……別に、自分自身がやたら頼りないとか思ったわけではない。
頼るべき年上の女性。それは海のような懐の深さを持つ女性が良い。
ついでにと言うか一番重要なことだが、美人であれば美人であるほど良い。
と言うわけで俺は、我が母の妹。俺の永遠の憧れである、美鶴さんの家へと訪れていた。
訪れたと言っても徒歩五分。こんな近場に一軒家を確保させられ、しかも婿養子という我が父と叔父の苦労と夫婦間の力関係は気になるところだが、その辺りも今回は脇に置く。
俺は美鶴さんに会い、女性の時めくこととは何なのか。そして一人の女性を虜とするにはどうすれば良いのか。それを聞く腹積もりだった。
その予定だったのだが……。
「ヒラク兄。何その薬」
「胃薬だ。途中でどれだけノロケられても良いように用意してきた」
ジュースというかコップの底に残った水道水溶け水をすすりながら、夕が尋ねてくる。
それに対して俺は、銀の包装をされたそれをざらざらと振って見せた。
「へー、じゃぁ良かったね。お母さんいなくて」
「相談する相手がいないことを喜ぶ人間がいるか。胃に穴の一つや二つ、今日は覚悟してきたのだ」
場所は我がいとこの我門亭……ややこしいので美鶴亭で良いだろう。
書類上はどうかは分からないが、力関係としてはこれで合っているはずだ。
ともかく敬愛する美鶴さんのアドヴァイスを聞くべくそこへ訪れた俺は、しかし美鶴さんは同窓会へ行っているというハムレットばりの悲劇的なすれ違いを経、小学生のいとこである我門夕にもてなされていた。
「どっちかっていうと心臓に来る話だと思うよ。マッサージしとかないと止まっちゃうかも」
胃薬をしまい直した俺に対し、夕は手をわしわしと動かして意地悪く笑った。
「そんな風に揉めるような乳房は、俺には存在しない」
小学生がやってはいけないような、卑猥な動きである。確かこいつには同性愛の趣味はなかったはずだ。
「あはは。で、何の用事だったの?」
俺の呆れ顔に夕は誤魔化すように笑った後、ジュースをコースターの上に置いてから問いかけてきた。
いとこの将来を心配しつつも、俺はふむと考える。
美鶴さんに相談するつもりだったが、彼女の場合下手するとのろけで終わる可能性も多い。
「そういえば、お前も一応女だな」
「やだ……ヒラク兄ったら雄の顔になってる……」
俺の言葉にわざとらしく手を両頬に添え、わざとらしく赤面する夕。
演技で顔面の温度を変えられるとは大したものだ。
「なっとらん。まったくお前はどこでそういう言葉を覚えてくるんだ」
「お母さんが夜に……」
俺が年寄りめいた愚痴をこぼすと、夕は遠い目をしてあまり知りたくない情報をぽつりとつぶやく。
「やめて。今から胃薬飲むから唐突にそういうのやめて」
「で、どしたの?」
急いで胃薬の封を切りながら懇願すると、夕は仕方がないなぁとでも言いたげに、ふぃっと広角を上げながらため息をはいた。
その仕草にはむかつきは覚えたものの、しかしまぁこいつも美鶴さんの娘だけあって、かなりの耳年増であることは間違いない。
「お前なら、男のどういうところにグッと来る?」
そう判断した俺は、ダメ元で奴に美鶴さんにするはずだった質問をしてみた。
「何ぃその質問?」
すると夕からは、答えの代わりにまるでモテない万年ダメ男をみるような視線が返ってくる。
「うるさい。とある女性の死活問題なのだ。ちゃきちゃき答えてみろ」
俺とて普段なら小学生にこんな事を尋ねたりはしない。
しかし今は先輩の命がかかった真剣な場面なのだ。
多少不格好でも、すべての手段を試すしかない。
何せ、俺自身には打つ手がまるでないのだ。
「ふぅん……」
そんな俺の顔を、夕はじっと見てくる。
その表情がなにやら不満げなのは何故だろうか。
「何か」
「何でも」
しばらく夕はそんな、西暮弟に比べたら一厘も迫力のないしかめ面で俺を見ていたが、不意に長いため息を吐くとぽつりと言った。
「そうだなぁ……物を無くしたとき、見つけてきてくれる人とか」
「なんだそれは」
いやに具体的なような、そうでもないような。
困惑した俺に対し、夕は顎を引くと、上目遣いでこちらを見た。
「覚えて、ないかな? ヒラク兄行方不明事件」
「そんなもんは記憶にない」
多少の幼児性愛趣味がある人間ならばコロっといきそうな仕草だが、そこから紡がれた単語はやや物騒である。
俺は麦茶を啜りながら、そっぽを向いて夕に答えた。
「ヒラク兄の足ドブの臭い事件」
すると夕が半眼になり、その事件の別名を呟く。
「アホめ! あんなもん忘れたいという男心が分からんのかお前は!?」
我慢できず、俺は奴の方を向いて大声で抗議する羽目になった。
あぁ、そんな名前の事件は忘れようもない。
その忌まわしい事件は約五年前。俺が小学生で夕が園児の頃に起こった出来事である。
その日、今日のように愛する美鶴に会いに行った俺は、そこでしぎゃぁしぎゃぁと怪獣のように泣きわめく夕に遭遇した。
困り顔の美鶴さんに理由を聞いてみると、何でも夕の奴はお気に入りの人形……についていたブローチを落としたということらしい。
なんだそんな物と、俺が小学生なりに形ある物の儚さについて語ったりをしてみたのだが、相手が園児だからなのか例えにその日落としたジャムパンの話をしたからなのか一向に泣き止まない。
そこで俺は、夕の落としたおもちゃのブローチを探してきてやることにした。
「結局、ヒラク兄が帰ってきたのって日付が変わってからだったよね」
「後三十分早かったら、警察に連絡が行かずに済んだんだがな」
意外と細部まで覚えているものである。
その後、俺は親とおまわりさんにしこたま怒られた訳だが、しかしその内容はすっぽり頭から抜けているので、記憶術等のスキルは与えられていないようだ。
「泥だらけのヒラク兄が私にブローチを渡してくれた時、すごく嬉しかった」
ついでに件のブローチがどこに落ちていたのかも、俺はきちんと記憶に留めてはいない。
ただ両足がひどいヘドロの臭いを発していたのは覚えているので、夕はおそらくそこらの汚濁にそれを落としていたのだろう。
そんな鼻の曲がるような思い出を、夕は嬉しそうに語る。
「……お前のためにやった訳じゃない。あれは美鶴さんに誉めてもらうためにやったんだ」
気恥ずかしくなったのと、更に少し後ろめたい気持ちが交錯し、俺は夕を突き放すようにそう答えた。
別にデレを隠すためにツンとしているわけではない。
俺が夕のブローチを賢明に探したのは、とにかく美鶴さんに喜んでもらうためだった。
もっと言うと俺が頼れる男だというところを彼女に見せつけ、美鶴さんがあの熊より俺が魅力的だと気づき、俺が十六歳になるのを待って再婚してもらう為の布石のつもりだった。
小学生の浅知恵である。美鶴さんは感謝を述べてはくれたけれど、同時に「ヒラクちゃん、くちゃい」という俺にとってのトラウマワードも生み出した。
閑話休題。つまり俺が足を臭くしたのは、微塵も、自分でも少し引くほど夕の為などではなかったのである。
「うん。分かってる。分かってた」
だというのに、夕はあっさりと俺の言を受け入れ、なおかつ微笑んで見せた。
「分かっているなら……」
奴の考えが読めない俺は、眉根を寄せながら夕を見る。
すると夕は、当時を思い出すかのように軽く目を閉じて呟いた。
「でも、好きな人のためにそこまで一生懸命になれるのって、すごいなって思ったの」
それは、例えるなら美鶴さんのような、少し大人びて優しい声色だった。
「園児がか?」
「園児だって、それぐらいのこと思うよ」
内心狼狽えた俺が茶々を入れると、夕はいつもの幼子顔になって唇を尖らせる。
夕の言葉に、それもそうかと俺は考えを改めた。
俺とて園児辺りの頃から美鶴さんに対しては真剣な思いを抱き、彼女の気を引かんと権謀術数を張り巡らせてきた。もちろん園児なりの。
園児だからといって考えが浅いと侮るのは、そちらの方が浅慮というものだ。
佇まいを直した俺に対し、夕は照れくさそうに身をよじる。
それから、自らも姿勢を正して俺に言った。
「だから、ヒラク兄はそのまま頑張ればいいんじゃないかな? そういう一生懸命さが……ヒラク兄の良いところなんだから」
「お、ぅ……」
その言葉を聞いて、俺は「そうか」と理解した。
俺は、怖じ気づいていたのだ。
先輩の死という重大事を前に。
そして、そんな時に何もできない自分を直視する事に。
夕はそれを見抜き、俺にこんな話をしたのだ。
何故ここまで俺の事が分かるのだろう。末恐ろしいお子さまである。
「俺の良いところ、か」
昔原田にそんな事を尋ねた記憶があるが、よもやこんな所で答えが返ってくるとは。
あれからまだ三週間程度しか経っていないのに、妙に懐かしく感じる。
俺は爺様のように両手で器を持つと、遠い目をして麦茶を飲み干した。
「しかしお前、手詰まりになったから相談しにきた相手に対して、一生懸命がんばれはどうなんだ」
「あはは。それもそうだね」
だが、そんな綺麗事で誤魔化される俺ではない。
大体一生懸命がんばって何とかなるのなら、俺は今頃もてもてとモテてハーレムを築いているところだろう。
笑って誤魔化す夕を呆れつつ見た後、俺は麦茶を置いて首を回した。
「ま、ある程度の気休めにはなった」
小学生に励まされるというのもなんだが、瓢箪から駒という言葉も世の中にはある。
最後に肩を竦めて自らに乗っていた重みを振り払った俺は、短い息と共に立ち上がった。
「とにかくもう少し、押して押して押しまくってみる。それで良いんだろう?」
「うん、それでこそヒラク兄」
俺が半ばやけくそになってそう言うと、夕は幸せそうにほくほくと笑った。
何が嬉しいのやら。年頃前の童女が考えることはさっぱり分からん。
「だからお前を喜ばす為にやってる訳ではない」
「うん、知ってる」
再度そう言ってやったが、夕の笑顔はまるで揺らぐ様子がない。
「大丈夫だよ。目に見えなくったって、ヒラク兄の凄いところは私が知ってるんだから」
それどころかお前は俺の母ちゃんかと言いたくなるようなセリフで、俺を更に励まそうとしてくる。
「生意気なやつめ」
「どうもどうも」
そんな生意気娘に見送られ、俺は奴の家を後にした。
家についてから、美鶴さんの顔ぐらい見てきても良かったなと後悔したが、もはやすごすごと戻れるような段階ではない。
男の子にはプライドというものがあるのだ。小学生に指摘されてから気づくようなちっぽけな物だろうと。
「ロリコンレベルは上がりませんでしたね」
「何を期待しているんだお前は」
俺がそんな事を考えていると、夕と会っている間はずっと黙っていた悪魔が不意にそんなくだらないことを言い出した。
腹を立てるのも馬鹿馬鹿しくそれを適当に流す俺だが、その中でふと気になって奴に尋ねてみた。
「夕の話。お前には都合が悪いのではないか?」
俺にはえんま帳にも表示されないような長所がある。
そんな話を俺が信じてしまっては、悪魔との取引に応じなくなるかもしれない。
奴にとってそれはまずいことではないのか。
そう思って悪魔の顔をちらりと窺ってみるも、奴はいつも通りの涼しい顔をしたままだった。
「数値化できない価値がある。というのは弊社でも認めるところですので。例えば特定分野での才能や、一般的に異性に好かれるために重要と言われる、優しさと呼ばれるものもここには表示されません」
そうして奴は、そんなある意味ポーカーフェイスのまま、そんな風につらつらと言い連ねる。
悪魔の発言は夕の言葉を肯定したものだが、しかし奴はそれをまるで問題にはしていないようだった。
例えそうであっても、お前は必ず取引に応じる。
そんな風に言われたような気がして、俺はぶるりと身震いをした。
それが風邪の悪寒であったことに気づいたのは、翌日のことである。




